04 本音とアトリエ
掃除も三日め、最終日。
お楽しみください。
土曜日の朝。休日の早すぎる時間に駅前を歩くのが、なんだか場違いに思えた。
それでも足は自然とあのタワーマンションへ向かっている。
「……休日に掃除って、俺も物好きだよな」
ぼやきながらも、手には軍手とタオルが詰まった袋。約束してしまった以上逃げ道はない。今日はあの音羽をして大一番というほどなのだ。
♢
エントランスのインターホンを押すと、すぐに応答があった。
『はい、成島くん? おはよう』
「おはようございます、成島お掃除サービスです。今日はよろしくお願いします」
『ふふ、何度も申し訳ないわね。入って』
ガラス扉が静かに開き、俺はエレベーターに乗り込む。最上階の数字が光るのを見上げながら、胸の奥が妙にざわつく。
別に大したことじゃない。掃除を手伝うだけだ。そう言い聞かせても、足取りは少し落ち着かない。
扉が開くと、玄関先で音羽が待っていた。気合が入ってるな。綺麗な白いシャツにジーンズ姿。長身の彼女によく似合う、大人っぽくも動きやすそうなファッションだ。
「可愛いシャツを着ているな、音羽さん。それ、オシャレ着洗いしないとダメなやつだから洗濯気を付けてね」
「ご忠告ありがとう、成島くん。貴方が洗濯機を回すのだから大丈夫よ」
彼女はにっこりと笑いかけた。その自然な仕草に、なぜか言い返す言葉が出てこない。俺は慌ててスニーカーを脱いだ。
♢
リビングを抜け、音羽に案内されて奥の扉を開ける。
そこは……まるで別世界だった。
「……うわ」
思わず声が漏れる。天窓と繋がった大きな窓から朝の光が差し込み、広い床には絵の具の跡、砕けた石膏、散らばった紙くずや木くず。壁には無造作にキャンバスやスケッチが立てかけられ、隅にはパソコンと何枚ものディスプレイ、一通り揃った楽器とスピーカー、さらにマイクスタンドまで並んでいる。
高層階からの絶景を堪能し、夜には夜景と共に音楽を奏でるパーティー会場のような部屋が、もはや制作の混沌に飲み込まれてしまっている。
「これが……音羽さんのアトリエ?」
「そう。元からスピーカーがついててステージがあって便利だったのよ。どうせならまとめてしまおうと思ってね」
音羽は窓際に歩き、埃を払うようにカーテンを少し開いた。光が差し込むと、床に積もった粉塵がふわりと舞い上がる。
「……見ての通り、散らかし放題になってしまって。怪我をしかねないし、考えを纏められないのよね」
「いや……これは確かに、これまでの部屋ともまた違う難しさを感じるな」
俺は持ってきた軍手を取り出しながら、足元の石膏片をつま先で避けた。どこから手を付けるべきか、正直見当もつかない。
「作品をしまって、床を綺麗にしないとダメだな。絵の具と紙くず、それに石膏」
「じゃあ運んでしまいましょう、これでも力には自信があるわ」
「俺も別に力がないわけじゃないんだけど!」
冗談めかした彼女の声に、少しだけ肩の力が抜けた。
「よし、色々複雑だが……掃除するか」
「ええ、よろしくね、成島くん」
軍手をはめ、雑巾を構えていざ取り掛かる。まずは床に散らばった石膏片を拾い集め、バケツに放り込む。かがんでは立ち、またかがんでは立ちを繰り返すだけで、思った以上に腰にきた。
「うわ、これ全部石膏?」
「そう。先月、塑像を作ろうと思ったんだけど芯が弱くて崩れてしまって」
「どうして未だに破片が?」
「崩れかたが面白くて絵のモデルにしてたの」
天才の考えはわからん。
ひとまず俺は音羽にほうきを渡し、紙くずや布切れを集めてもらった。
俺は作業台の下に潜り込み、転がった絵の具のチューブや筆を拾い集める。ベタついた絵の具が軍手にくっつき、思わず顔をしかめる。窓から差し込む光に、舞い上がった埃がきらめいていた。今くらい現実逃避も許されるよな。
床の邪魔になるものがなくなったところで、陽は高くなり、気づけばもう汗だくで腕もだるい。
「……午前だけで、結構くたびれたな」
「でも、だいぶ片付いたでしょう? あと半分は午後ね」
音羽は額の汗をハンカチで拭いながら、どこか楽しそうに言った。
「いい時間だし、お昼にしましょう?」
その言葉に返答をする前に腹が鳴り、二人はリビングへ向かった。
♢
音羽がエプロンを付けてキッチンに消える。
いつもの調理風景とは違い、鍋が振るわれる音、おたまが勢いよく鍋をかき混ぜる音、そして何より調味料が急激に熱せられる独特の香りがこちらまで伝わってくる。音羽の動きは明らかに急いでいた。
「できたわよ」
掃除の時は余裕があった音羽が少し息を整えてから配膳をしてきた。海老とアスパラの塩炒めは鮮やかな緑と赤が皿に映え、しらすと菜の花の和え物はほのかな香りがする。筍入りのチャーハンは金色に輝き、卵と春キャベツのスープが優しく湯気を揺らしている。
「……すご。これ本当に、今の時間だけで作ったのか」
「中華の炒め物は大火力で素早くが鉄則よ、香りが逃げないうちにいただきましょう」
彼女はさらりと答えた。
「いただきます!」
まず箸を伸ばしたのは塩炒め。海老のプリッとした弾力と、アスパラの瑞々しい歯ごたえが一口で弾けた。
「……うまい!海老とアスパラの食感がいい、家のアスパラより青臭くなくて柔らかいな」
「単純に柔らかい部分を使ってるし、油通しした後に生姜と紹興酒を使って炒めてるからね」
涼しい顔で説明する音羽に、俺はただ頷くしかなかった。菜の花の和え物は、しらすの旨味がほろ苦さを優しく包み込む。春らしい香りが鼻に抜け、思わず肩の力が抜けていく。
「4月も終わりかけなのに菜の花ってあるんだな」
「寒い地域の物よ、それももう終わりかけね。食べたかったから無理言って探したの」
「へぇ、好きなんだな菜の花」
次にチャーハンを口に入れると、筍の歯ごたえが小気味よく響いた。パラパラの香ばしい米粒の中に、春の瑞々しい筍の食感がよく合う。
「チャーハンもうまいな、俺も家でチャーハン作るけど、こんなご馳走にならないよ……筍のおかげか?」
「筍も喜んでるわね、下処理は大変だけどその甲斐があったわ」
そしてスープを啜る。卵のふわりとした舌触りに、春キャベツの甘みが溶けていた。塩気は控えめで、ほっと胸がゆるむ味だ。
「……なんか落ち着くな。優しい味だ」
「そうね、思ったより掃除って大変だったから体に沁みるわね」
俺は思わず笑ってしまった。
「いや、ほんと……このために掃除を頑張ってる気がする」
「もっと頑張ってもらうために、にんにくをしっかり効かせたメニューにしたほうが良かったかしら?」
音羽は冗談めかしてそう言いながらも、箸を運ぶ俺を静かに見ていた。
午後の掃除は拭き掃除から始めよう。舞い上がった埃も落ち着いただろう。
「俺は床拭いていくからそっちは道具の手入れ任せたぞ!後、戸棚も!」
「任せて、私こう見えて手先は器用なの」
「知ってるよ!自分の受賞歴考えてみなよ!」
音羽の冗談なのか本気なのかわからない一言にツッコミつつ、新兵器を構える。昼飯終わりにワンタッチで水を絞れるモップを掃除道具入れから発見したのだ。
「シンナーや溶剤は絶対に流さないで。業者さん呼んでね!」
「私、絵もそれなりに評価されてる人間なんだけど」
信用ができない……このお嬢様は面倒になると途端に思考を止める癖がある。
「音羽さん、俺ちゃんと見てるからね?視野広いタイプのイケメンだから」
雑巾でテーブルや床の細かい部分を拭きつつ、音羽へ視線を送る。
「パソコン電源抜いていいか? 配線ぐちゃぐちゃだしまとめちゃうぞ」
「好きにしてちょうだい」
コンセントやケーブルを抜き、長さ順でまとめる。ミキサーやキーボードも拭き上げていく。これらを見るに音羽は作曲もするらしい。
横目で音羽を見ると、机の引き出しを開け、乾いた筆や鉛筆を仕分けている。汚れたパレットはヘラで削り取り、アルコールを含ませた布で拭いている。やはり掃除ができないわけではなく、思考の中に入っていないだけなのかもしれない。
やることは地味だが進むごとに部屋が静かに整っていく。午後の光が傾き始める頃には、作業ができるアトリエに戻ったと言える状態になった。細々したゴミ袋をまとめて廊下に出し、最後にため息まじりに二人で部屋を見回す。
「見違えたわね」
「あー!やり切ったぁ!音羽さんお疲れ様!」
音羽がちらりとこちらを見る。笑いかける顔に、俺はつい胸を張った。今日の俺は、まあ、悪くない。
♢
俺は壁に背を預けて息をついた。窓の外では、沈みかけの太陽が町の影を長く伸ばしている。
隣で同じように腰を下ろした音羽が、膝の上に手を置いたまま、視線を窓の向こうに流していた。横顔がやけに静かで、普段の澄ました調子よりも、ずっと弱く見えた。
「……成島くん」
ぽつりと呼ばれて、俺は首を傾げる。
「その……三日も手伝わせて、ごめんなさい」
謝罪の言葉だった。俺は思わず目を瞬いた。
「なんだよ、急に」
音羽は唇を結んで、少し間を置いた。
「あなたのなんでもするって言葉に、冗談半分でこんな面倒ごとを頼んでしまったの。……助けてもらったばかりの恩人に対して、酷いことをしたわ」
その声音は、まるで自分を責めるようだった。
俺はしばらく言葉を探して、そして小さく笑った。
「いやいや。むしろ、助かってんのは俺の方だぞ」
音羽が怪訝そうにこちらを見る。
「助かってる……?」
「クラスじゃさ、俺、ずっとピエロみたいなもんだろ。何のために自分がいるかわからなくなってたし、ちょっと疲れてた。でも、この三日間は……なんか、素のままでいられたんだ」
思ってもみなかった言葉が自分の口から出て、少し照れくさくなる。
だが音羽は、驚いたように目を瞬かせ、それからふっと視線を落とした。窓の外では、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
音羽は小さく息を吐き、囁くように言った。
「……成島くんって、変な人ね」
「おい、心の内をさらしたクラスメイトにかける言葉か?」
「私は好きよ?そういうの」
夕陽が照らす彼女の口元にかすかな笑みが浮かび、俺の心拍数を上げる。
「晩御飯食べて帰るでしょ?」
「え?あっ、そんな時間だよな!ご馳走になっちゃおうかな!うん!」
唐突な音羽の言葉に声が上ずってしまった。
「お昼は中華だったし、イタリアンでも食べる?」
「いいね」
俺の今年一番忙しい三日間はこうして終わりを告げた。今日はぐっすり眠れそうだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
たった三日でちょっとお互い意識する関係にしたかったんです。
読んでいただいた皆さんに感謝。




