第1章・パート1・目覚め
目を覚ました時、少年は――自分の名前さえ思い出せなかった。
未知の世界。封じられた力。
光に包まれた男に救われた少年は、
人と魔獣の絆がすべてを決める世界で、静かに歩き出す。
戦火と契約、隠された真実の狭間で、
少年はやがて、自らの存在意義を問うことになる。
これは、名前のない少年の物語。
そして、すべてを変える“遺志”の物語――。
目を開けようとした。
だが、開いたのは片方だけだった。
彼は地面に倒れていた。
周囲は……血の海だった。
左目から血が流れている。だが、その理由は思い出せなかった。
頭を持ち上げた瞬間――視界に広がったのは、死体の山だった。
人間のものも、獣のものもある。
戦士たちと魔獣たち。
まるで異世界の戦場の跡のようだった。
立ち上がろうとする。だが、体が思うように動かない。
小さい。弱い。壊れそうなほど脆い。
――それでも、動かなければ。
何度か失敗を繰り返し、やっとのことで立ち上がった。
だが、何をすればいいのかも、どこへ向かえばいいのかも分からない。
「この体は……? この化け物たちは……?」
問いかけても、返ってくる答えはない。
顔に触れる。
指先が震えた。
額から頬にかけて、長く深い傷。まだ温かい血が流れていた。
肌は蒼白で、灰のような白髪が目に入る。
腕は細く、弱々しく、埃と乾いた血で覆われていた。
顔を上げると、遠くに人影が見えた。
人間のように見える。
必死に叫んだ。
「助けてええええっ!」
その声さえも、自分のものとは思えなかった。
高くて、不自然だ。
手を上げる。見つけてもらいたかった。
その人影は動き出した。
歩いてはいない。地面から数センチ浮かび、まるで何かに引き寄せられるように進んでくる。
途中で止まり、遠くからこちらをじっと見つめた。
そして――一気に加速した。
ズズズッ……
地面が割れる。
何かが地中を泳ぐように動いている。
近づいたその瞬間、巨大な芋虫のような化け物が地面を突き破って現れた。
――食われる!
だが、そのとき。
稲妻のように、誰かが割り込んできた。
男が怪物の突進を受け流し、少年を抱えて一気にその場を離れた。
木の下に少年を降ろし、男は振り返ってこう言った。
「ヒカリ、見つけろ」
その瞬間、天から稲光が落ちた。
直前まで二人がいた場所に、雷鳴と共に閃光が走る。
ドゴォォン!!
少年は耳を塞ぎ、顔を背けた。
煙の中に立っていたのは――
猫に似た、だが明らかに異質な獣。
ヒカリと呼ばれたその存在は、狩人のように獲物の匂いを嗅ぎ、ゆっくりと前に進んだ。
ピタリと止まり、森の方を見て短く咆哮した。
男はそれを見て言う。
「仕留めろ」
その言葉と共に、ヒカリは風のように姿を消した。
「……覚悟しとけよ、坊主。来るぞ」
森の奥で、光の残滓がちらつく。
そして、それに続く木々の崩壊。
芋虫の怪物が追われている。
後ろから、ヒカリが操っているように。
男は剣を抜いた。
その刃は雷のように光っていた。
怪物が跳ぶ――!
男は動いた。
稲妻のような動きで、怪物の全身を一瞬で斬り裂いた。
彼の方が先に地に足をつける。
空中の怪物は、無数の斬撃により細かく砕け、断片となって落ちてきた。
だが、その破片一つとして少年には届かない。
男は剣を一振りで納めた。
金属はまだ、ビリビリと震えていた。
ゆっくりと振り返り、少年のもとへ歩いてきた。
そして膝をつき、目線を合わせた。
白い戦衣には戦いの痕が残るが、その姿勢は崩れていない。
金色の髪が太陽の光を浴びて輝いていた。
目も同じく金色で、静かな強さを湛えていた。
「大丈夫か?」
その声は、厳しさの中に優しさを含んでいた。
「その顔の傷、深そうだな」
少年は首を振った。
自分の声が信じられなかった。
何もかもが、分からなかった。
「喋れるか?」
迷いながらも、少年は唾を飲み込む。
声を出そうとして、かすれた声で言った。
「わかんない……僕、誰なのかも……」
男は数秒黙ったまま少年を見つめた。
その目に驚きも同情もない。ただ、静かな理解があった。
「そうか」
視線を遠くへ向けながら、呟いた。
少年は不安と恐怖でいっぱいだった。
「ここはどこ? あの化け物は何? あなたは……誰?」
すぐには答えなかった男は、立ち上がって空を見上げた。
言葉を探しているようだった。
やがて、彼は少年を見下ろし、名乗った。
「俺の名は、蒼夜アキハル。アルビリア王国のアルモニストだ」
「アルモニスト……?」
「知らないのか?」
少年は目を伏せた。
頭の中は疑問だらけだが、どれも答えが見つからない。
アキハルはもう一度しゃがみ、少年の目をまっすぐに見て、微笑んだ。
「何があったか知らないが――お前は生き残ったんだ」
少年は顔を上げる。
「名前も、分からないんだ……」
アキハルは少年を見つめ、頷いた。
「なら……今日から、お前の名は『アラタ』だ。
本当の名前を思い出すまで、そう名乗れ」
「アラタ……?」
少年はその名を口にし、静かに笑って頷いた。
アキハルは立ち上がり、手を差し伸べる。
「行こう。ここは戦場だ。一人では危険すぎる」
少年――アラタは、その手を見つめてから……しっかりと握り返した。