とかげ
ある日突然、とかげになりたいと思った。
眠る前に何気なく手の甲を眺めていたら、皮膚の模様が爬虫類の鱗に見えた。けれどもその手は決して硬くはなく、むしろやわらかな、うら若き女子高生の皮膚だ。このアンバランスさと言ったら!
進化してきたはずの人間の身体には、あちこちに原始生物の名残がある。
私は短いため息を何度もくりかえした。目の前で低めのポニーテールの毛先が、嘲笑うようにひるがえる。
人類が何千年も昔の姿を忘れられないのだ。十七年しか生きていない私が過去を振り切れないのも無理はない。
高校二年の春、北村紗江が陸上部に入った。そうして一気に、私から顧問や部員の期待を奪っていった。努力していなかったわけでも、天狗になっていたわけでもない。私は実力で負けた。真剣に挑んでも、いくら努力しても敵わなかった。おっとりとした紗江の細い身体に、長距離を走り切るスタミナがあるのが不思議だった。
赤茶の毛先が左右へ揺れて、追いついてごらんと私を誘う。
グラウンドを残り何周すればいいのか、そんなことは考えなくていい。ただ前を進む紗江の背を目指して走ればいい。毎日同じように走るうち、いつしか紗江の背を見るのが習慣になった。嫌な習慣だ。
夏のじりじりと焼ける暑さは走るうちに忘れてしまった。生ぬるかったはずの風が冷たい。行き場のなくなった熱が身体の中で渦巻くのを、短い呼吸で逃がす。
角を曲がると校門が見えた。竹刀を持った陸上部の部長は連帯感を愛する熱血少女で、全員が全力で取り組むようにと見張っている。じん帯を切って走れなくなった鬱憤を晴らすような怒声が、足の止まりかけた後輩に飛ぶ。部長が怒っても、走れない者は走れない。走らない者ならもっと走らない。黙ってても走れる奴だけが可能性を手に入れられる。怒鳴るだけ無駄だと内心思うけれど、敵を作るのは嫌だから言わない。私には切り捨てられる尻尾がない。
進化なんてウソっぱちだ。人間は嫌なことから尻尾を切って逃げられない。もしも私に尻尾があればどうするだろう。紗江に負けたことを忘れる? それとも過去の栄光を忘れる? 尻尾を切るタイミングを間違う、マヌケなとかげになるような気がしてならない。
鱗模様の手の甲に視線を落とす。まだ、あきらめたわけじゃない。
とかげのように、不格好に、日常のすべてと過去を断ち切るように、ただ一つの思いだけを胸に。
それがきっと、私には似合っている。
……でもどうせなるのなら、背中のきらきらしたとかげになりたい。
校門前にたどり着いて、徐々に減速する。すぐに止まらない足はままならぬ現実のようだ。マネージャーが頭にかけてくれたタオルの影で、唇の端に流れたよだれを拭いた。肩にかろうじて届かない長さの髪が、汗まみれになって頬にはりついた。邪魔くさい。なのに、二年もずっと同じ髪型をしてる。
気管を駆け上がる血の匂いは癖になる。飲み込んで、顔を上げた。赤茶のポニーテールが小刻みに揺れる。丸いアーモンド型の瞳が細くなって、笑い声が転がる。前を走っていた紗江が部員たちとにこやかに談笑しているのを目の端で認めた瞬間、私はどっと地面に倒れこんだ。
***
「練習で倒れるなんて馬鹿じゃねぇの」
目が開いてからも、しばらく朦朧としていた。強めの冷房がカーテンを揺らす。白い部屋と消毒液の匂いに涙がにじんだ。身体が重くてうまく動かない。
「寝すぎ」
医務室のベッドの横に、教室で見知った顔が一つ。垂れ気味の涼やかな目が、じとっとこちらを見つめている。バスケ部員の藤堂正史だ。他には誰の気配もなかった。
今日も途中から、紗江の背中ばかり見て走っていた。勝てるはずがないのはわかっていた。
「なんで藤堂がいんの?」
「うっわ、かわいくねぇ。一人で帰るの可哀相だから、待っててやったのに」
放課後の練習でこもった熱が、まだ身体から抜けない。吐く息が熱いのはきっとそのせいだ。
みぞおちの辺りが震えて、唇がわなないた。
「泣き虫」
魔女のようなわし鼻の頭をかいて背を向けた藤堂の呟きが聞こえて、私は寝返りを打った。藤堂はそれ以上は何も言わなかった。背中にときどき身じろぎする気配だけが伝わった。
目元を腕で覆うと、汗と太陽の匂いがした。じきに匂いがわからなくなって、もう一度大きく息を吸った。
「泣いてない」
声が震えたのに無性に腹が立った。
「外で待ってるから、帰る支度しろ」
私の嘘を信じてくれなかったらしい藤堂の台詞に、さらに腹が立った。
医務室のベッドから跳ね起きると、既に藤堂はカーテンの奥へ姿を消していた。八つ当たりでもしてやりたかったのに、うまく逃げられてしまった。のろのろとユニフォームを脱いで、医務室の先生が外したらしいブラジャーのホックを直した。ブラウスのボタンをとめていくと、しゃくりあげた拍子に指先が震えた。
前を走る紗江の顔が見られるのは、一体いつだ?
潤む両目をぬぐってボタンをとめる。しゃっくりが出るたびに手が滑って、スカートに履き替えるのに苦労した。
カーテンを開けると詰襟姿の藤堂は私のカバンを持ったまま、張り紙を眺めていた。人間の脳の大きさについて。藤堂が頬杖をつきながら口を開ける程度には、つまらなさそうだ。
「おせェ」
藤堂の頭が前のめりになって、私の隣に長い影ができた。
「だったら先に帰ればよかったのに」
医務室の扉はやけに軽い。アルミのレールを転がる音が癇に障った。
遠くでひぐらしが鳴いている。世界は夕暮れの紫色に染まっているけれど、わざわざ見上げる気にはならなかった。夕暮れ時の校舎は黒々とそびえたって、魔城のよう。なるほど、魔城、その通りかもしれない。私はこの城が見せる幻に囚われている。
模試にテストに進学問題。内申書対策のために先生に媚を売る。ただでさえ女子の少ない理数コースにいる私は、友達の輪から外れないことに必死で、休み時間のたびにトイレについて行く。
そのくせ、部活では紗江と同じかそれ以上の評価が欲しくて、なりふり構わず走り続ける。
同化と異化、私は一体どちらを望んでいるのだろう?
自問自答して悩んだって、何も変えられない。私には尻尾を切り捨てるタイミングがわからない。
「ばか。ばか。ばか。ばか」
一歩進むごとに呟いた。月なんて見なかった。少し先を歩く藤堂は振り返らなかった。
「紗江の後ろ姿なんて、もう見たくない」
倒れるまで走っても、紗江のライバルにすらなれないことが呪わしい。
とかげになりたい。背中のきれいなとかげでなくてもいい。色々なことを切り捨てられる尻尾を持ったとかげになりたい。
***
ユニフォームに着替えてグラウンドへ向かう。途中で靴紐が緩んでいる気がして屈んだ。後ろを通り過ぎていく後輩におざなりなあいさつをして、すっかりくすんだ紐を結び直す。
顔を上げると、校舎の影に紗江と藤堂がいるのが見えた。二人は指を絡めて、ぶらぶらさせる。
今度藤堂と話すことがあったら、おめでとうを言ってやろう。
紗江が藤堂に顔を寄せて、短くキスしたのが見えた。
見なかったふりをして小走りに小さな階段を下りた。グラウンドに下りると、紗江がまだ来ていないのに練習が始まった。準備運動が終わっても、紗江はまだ来ない。
口うるさい家庭科教師みたいに、恋愛にうつつを抜かして、なんて言うつもりはない。私だって花も恥らう年頃の乙女なのだし、恋愛にだって憧れる。でも練習をサボるのはどうかと思う。
紗江が前を走ってくれなきゃ、追い抜くこともできないじゃないか。
スタートの合図と共にマネージャーがストップウォッチを押す。土を蹴って前へ進むと心臓が早いリズムに変わっていく。
……ああ、紗江が真剣にグラウンドを走ってなきゃ自分も走る気にならないだなんて、馬鹿げてる。そんな私に、紗江が抜けるはずはない。
走ってさえいれば、とかげに近付ける。だから走らなきゃ。走ってさえいれば、進化の過程を逆行して動物に戻ることができる。余計なことは何一つ考えなくていい。走らなきゃ。
背後から軽やかな足音がして、肌に感じる風の流れが変わった。後ろを見なくてもわかる。紗江が来た。
身体を前へ押し出して、とにかく足を動かす。負けない。負けるものか。負けてたまるか。
タイムがどうとか、順位がどうとかそんなことはどうでもいい。紗江にさえ勝てればいい。
だらしなく口が開いて、弾む呼吸が身体中の熱を吐き出そうとするけれどもう手遅れだ。どんどん熱が蓄積されて、意識がふくらんでいく。徐々に自分と世界の境目がわからなくなる。それでも紗江のことはわかる。
足音が近付いて、ふっと空気の流れが変わった。サッカー部のゴールポストの後ろを通った一瞬、太陽に意識を奪われる。気付いた時にはもう遅い。今日もまた、紗江の後ろ姿を見ることになった。
あまりに無様だ。もう足を止めてしまいたい。けれども私の足は止まることはない。あきらめたらそれで終わりだということをよく知っているから、気力だけで食い下がる。
膝に力が入らない。自主練習を繰り返しても、真剣に走っても、紗江には追いつけない。
努力しても追いつけない理由は、自分で一番よくわかっている。
私はとかげになれないからだ。ただ走る為に走ることができないからだ。生き残る為に尻尾を切り捨てられないからだ。
大きく息を吸い込んで、悔し涙をこらえる。まだだ。まだ終わってない。泣くのはできることをすべて終えてからでいい。
金属バットがボールを打ち返す小気味いい音がする。野球部のバックネット裏を走り抜けて、バスケ部のドリブル練習の横を通りぬける。
走れ。ただひたすら、走れ!
呼吸に合わせて歩幅が大きくなる。土を蹴って前へ進む。次第に紗江との距離が詰まっていく。並ぶ。
ただ避けるべき障害物として認識した紗江の顔は、ひどく歪んでいた。目は険しくとがり、眉間は深くしわを刻む。食いしばった口元からのぞく歯は、今にも噛み付こうとしている猛獣の牙を思わせた。日頃のおっとりとした姿から想像もつかない。けれども怖いとは思わなかった。憎悪の視線をかいくぐって前へ。ただ前へ進むことだけ、走ることだけを考えた。
一歩前へ踏み出したとき、私の肩に紗江の力強い手が触れた。そのまま後ろに引き剥がされる。負けるものか。私はとかげだ。紗江の前へへばりつく。憎悪と憤怒に満ちた、地獄の亡者のような紗江の両手が伸びてくる。払いのけるでもなく振り切る。
絶対に譲らない!
ここはずっと望んだ場所だ。辛酸と努力の末に手に入れるための場所だ。誰にも譲らない。
前へ押し出した足が土を蹴る。肌が風の流れの変わったことを感じる。紗江の隣を通りぬける。
まだだ、まだたどりついてない!
加速した足は止まらない。大きな歩幅で通り過ぎて、さらに前へと向かう。
私の行きつく先はゴールだ! 紗江の前じゃない!
進もうとした足に、紗江の足が絡みつく。あっという間に視界がぐらついて、身体のバランスが崩れた。足首が悲鳴をあげ、膝小僧がこすれて痛みを訴えた。
何が起こったのかわからなかった。顔を上げた横を、紗江が残酷な笑顔で通り過ぎて行く。ポニーテールの毛先が揺れる。また背中だ。
まだゴールしていない。立ち上がろうと腕に力を込めたところで、足首にずきりと痛みが走った。
ダンッ。
青ざめた私の目の前で、何かが紗江に直撃した。てんてんとバスケットボールが転がっていく。倒れ込んだ紗江を無視して藤堂が私に駆け寄る。なんだ。一体何が起こった?
「大丈夫か?」
声をかけられても、私はまったく状況を理解できなかった。
***
医務室の黒い丸椅子に座って、脚を見せる。藤堂はピンセットを使って不慣れな手つきで脱脂綿をつまみ、消毒液を染みこませた。
脱脂綿が傷の上をなぞるたびにじくじくと染みる。私の身体に力が入るたびにピンセットの動きが止まった。
「……ありがと。でも彼女にあんなことしていいの?」
「彼女? 誰が?」
一瞬あっけにとられて、鼻で笑った藤堂の様子に戸惑った。藤堂が紗江にボールをぶつけた。さっき校舎の裏でキスしたばかりの恋人に向けて、思い切り。校舎裏の出来事は、見間違いでもなんでもない。
「紗江と付き合ってるんじゃないの? おめでとうって言おうと思ってたのに」
脱脂綿で丁寧に汚れを拭って絆創膏を構えた藤堂は、傷のすべてを覆う大きさを確かめながらしれっと答えた。
「まさか……前から付き合ってくれってうるさかったんだよ」
脱脂綿が足元のごみ箱に捨てられて、ピンセットが金属の筒に放り込まれる。冷ややかな金属音が耳に残った。傷の上に被せられた絆創膏を、藤堂が上からそっと押さえた。その指があまりに優しいのに、思わず身を引く。肌に伝わる感触は、予感に近い。
「じゃあなんで……」
藤堂の黒い影が白いカーテンに映っている。医務室の冷房の風に揺れた。額にかかった黒髪が、蛍光灯の光を反射する。
「わかんない? お前の為だよ」
涼やかな藤堂の視線がこちらを正確に射る。予感が確信に変わってあとずさった。
「お前、あいつに勝ちたいって言っただろ?」
頬に伸びた手が触れる。汗ばんだ手のひらが熱い。分厚い皮の指先が、耳をかすめて首の後ろへまわる。
「散々思わせぶりな態度とっといて走る直前にフったら走れなくなるかと思ったんだけど、予想と違った」
藤堂の黒目は丸く、時折蛍光灯の光を受けて輝く。夜をすべて飲み込む不気味な赤い月のようだ。逃げようにも逃れられない。怖いと思う暇もなく、唇が重なった。やわらかな感触よりも、歯の硬さばかりが伝わった。跳ねのけようとする両手を簡単に一まとめにされる。椅子から落ちないように脚を伸ばしてバランスを取れば、その上に藤堂がのしかかる。
「でも勝てただろ?」
背中に添えられた左手は力強く、抗い切れない。藤堂の腕の中へ抱き寄せられて、私は息を震わせた。
「そんなこと、私は頼んでない!」
突き飛ばそうとしても押さえ込まれる。これほど力が強いなんて思ってもみなかった。敵わない。どうすることもできない。怖い。怖い。
白いカーテンに映った不格好な影が妖しく揺れる。もがけど、びくともしない藤堂の拘束に、全身が総毛だった。
「もう気付いてんだろ。俺、お前がつらい顔してんの見たくねぇんだよ。お前も手段なんか選んでられるかって考えてただろ? それってこういうことじゃねぇの? 違う?」
両手を捕えたままの藤堂の指が、私の鎖骨をなぞる。絆創膏の上を撫でた指と同じ動きに息が詰まった。
とかげ。
とかげになることがどういうことなのか、私にはわかっていなかった。人間はもう他の動物に戻ることはできない。自ら望んだ古い細胞の破壊。古い細胞は糧にされ、効率的な細胞の自死を受け入れる。手足の生えた蛙の尻尾のように、消えていった細胞は二度と取り戻せない。アポトーシス。
私は、なんてものになろうとしていたのだろう!
呼吸がうまくできない。吸い込むばかりで落ち着いて息を吐き出すことができない。苦しい。怖い。苦しい。
大きく見開いた目に浮かんでいた涙がこぼれ落ちた瞬間、両手を戒める力が緩んだ。
「泣き虫」
私が座りなおすのを待ってから、藤堂は両手を離した。そうしていつかのように視線をあわせずに鼻の頭をかいて、背を向けた。
「ごめん」
一言だけ言い残してカーテンの奥へと姿を消すと、医務室の扉が開く音がした。いつも通りの癇に障る音に、心が乱される。
とかげ。とかげ。とかげ。
もう二度と、とかげになりたいだなんて思わない。
全てを切り離して得られるものとは一体どれだけ誇れるものだ? 誰も彼も踏みにじって、ただ目的の為だけに進めば、本当に欲しいものが手に入る?
藤堂だって、私と同じだ。紗江に気のあるふりをしていた藤堂が本当に欲しかったのは私だった。私が欲しかったのは紗江のポジションだった。そして紗江は、きっと私の持つものを欲しがった。
涙を拭った手の甲に、爬虫類の鱗みたいな皮膚の模様が見えた。とかげの名残。
いらない。こんなものいらない。とかげになんてなりたくない。
オキシドールの瓶や、丸い脱脂綿や、ピンセット入れの並ぶ金属のトレイを漁る。ハサミを取り出して突き立てると、血管の上に鈍い重さが圧し掛かる。先の丸いハサミは、手の甲には刺さらない。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
ハサミを放り投げて手の甲をかきむしる。
とかげなんて嫌だ。とかげになんてなりたくない。こんな鱗模様なんていらない。
爪がひっかかって皮膚の表面に赤い斑点ができる。ところどころに血がにじんだ。まだ足りない。
手の甲に噛み付いて肉をひっぱる。食い千切れない。人間はもう牙でさえ持っていない。それなのにどうしてとかげの皮膚だけは残っているのか!
床に転がったハサミを逆手に握って、高く掲げる。白い蛍光灯の光に反射して銀色が眩しく光った。
私は弱肉強食の世界で生き残ることのできない、愚かなとかげなのだろう。傷つき傷つけることを恐れ、失うことにおびえて尻尾を切るタイミングを間違う、マヌケなとかげでいい。尻尾を切り捨てるということが藤堂のように誰かを踏みにじることなら、尻尾なんていらない。私は人間だ!
「何してんの!」
勢いよく開いたカーテンの間で、低いポニーテールが揺れる。
グラウンドで憤怒と憎悪の表情で私を見下ろしていた紗江は、ハサミを振り下ろそうとした私の手を上から握りしめた。
***
私は部活を引退した。
足首のリハビリを終える頃には、私と同じ三年生はもう誰もいなくなっている。走ることさえやめれば心を乱されることもない。何も考えずに走ることのできた時間は、数字と記号とアルファベットと暗記のために割かれ、私はシャーペンを何度もノックしては、出すぎた芯をひっこめた。
欲しいものが手に入らないことに慣れた私は、藤堂とも紗江とも距離を置いた。勉強するときにだけ、かけていた眼鏡を、学校でほとんど外さなくなった。赤本をカバンに、単語帳を制服のポケットに入れた。体操服やユニフォームを入れていた袋を毎日ぶらさげることもなくなり、夏が終わると共に制汗剤のスプレーを持ち歩くことさえ忘れた。
どうも私は器用な性質ではないらしい。暑苦しい冬服を着込む頃には、グラウンドを走る後輩の姿も無関心に眺められた。大学受験に失敗しても、今の私なら動じないのじゃないか。誰だって、本当に欲しいものは手に入らないものだ。
紗江は相変わらず陸上部の面々とつるんでいる。藤堂は十月の試合を最後にバスケ部を引退したらしい。二人がその後どうなったのか知らない。紗江が持ち前の要領のよさで近所の短大に推薦を決めても、藤堂が第一志望の大学の一次試験に落ちても、私は黙々と自分の勉強を続けた。
自分を見つめる時間すらないからはっきりとはわからないけれど、彼らと距離をとったのはちょっとした意地悪と仕返しなのかもしれない。紗江と藤堂が、それぞれ本当に欲しいものを手に入れられないままあきらめてしまえばいい。私は彼らに巻き込まれた被害者だ。そうでも思わなければ、前に進もうとする足が止まってしまう。
受験当日、帰りの電車で藤堂と会った。試験が難しかったとか、次はどこを受験するつもりだとか、合格するといいね、なんていう、当たりさわりのない話をした。車窓の雪景色は次々と通り過ぎ、雪はやがて雨になった。
「もう走らねぇの?」
降りる客と乗る客が騒がしく入れ替わる車内で、喧騒に紛れるように藤堂が聞いた。線路沿いの家には椿が植えられている。私は聞こえないふりをした。きっと花は線路に落ちて、無惨にひかれて朽ち果てるのに違いない。次の駅で乗り換えるまで、私は「寒いね」と繰り返した。
「あんま無理すんなよ」
藤堂の別れの言葉に、私は「ありがとう」とだけ返した。
もしかしたら、私こそが、切り捨てられた尻尾だったのかもしれない。
身体だけでなく心まで蝕んだ苦痛も、努力をミルフィーユのように重ねて走った時間も、部活の中での名誉も、走ることにかけた情熱も、すべてが消えてなくなってしまった。走るために走ることができなかった私にとって、陸上部で過ごした時間はあまり有意義なものではなくなっていた。
私に残ったのは、手の皮を噛んで引っ張る癖だけだった。
この、けだもの。