目的は
目的は 3
びったんびったんと何度も床に叩きつけられる。
「中々折れませんね」
「痛みに慣れてんな。最近の浮浪児はそんなにボコられてんのか?」
何度も何度も何度も。
床に叩きつけられる内に、何となくコツが分かって来た。
力任せに振り回されて、床に叩きつけられる。
再び放り投げられる。
そう思ったが、宙を舞う感覚が来ない。
見上げれば、コウケンはその黒い顔に珠のような汗を浮かべていた。
なるほど。攻撃する側も、当然疲れるらしい。
とはいえ、こちらが無事なわけではない。
何度も何度も床に叩きつけられて全身が痺れているし、立ち上がろうとした膝は笑ってしまって上手に立てない。
パンッと頬がなる。
コウケンは力の必要ないビンタを再度俺に加えた。
足に力が入らない俺はアッサリと倒れる。
しかし、それがどうした。
「へっ」
嘲笑って見せると、コウケンは歯を剥き出しにしてコメカミに血管を浮かべた。
「歯は……白いんだな」
俺の頬を、再び巨大な手が張る音だけが部屋に何度も何度も響き渡る。
これも、何となく分かってきた。
次第に、コウケンは痺れを切らせたのだろう。
無理矢理に俺を立たせると、腹を持ち上げるように拳をめりこませてきた。
「ぐっ」
歯を食い縛る。
呼吸が止まり、舌が飛び出して来ようとする。
全身の血の流れが止まったかのような錯覚。
「あ……ぐぶっ」
もう一度。もう一度。
今まで何度も殴られた。
謝ろうが懇願しようが吹き止まぬ暴力の嵐に見舞われた。
どれもこれも、痛いだけだった。
でも、この腹への衝撃は違う。
「がっ! ぐうっ!!?」
ともすれば、もう辞めてくれ、許してくれと懇願してしまいそうになるほどに、苦しい。
息が、出来ない。
四つん這いになって、胃液を吐き出す。
呼吸が上手に出来ず、血の泡混じり。
「小僧、泣いて謝ったら解放されるぞ?」
爺さんの舐めた声。
うるせぇ。
「や、だね」
へっと笑い飛ばす。
「……」
コウケンは首を振って、俺の右手小指を掴む。
折る気だ。
「泣いて謝るなら今の内だぞ小僧」
「……」
コウケンの目に俺が写っている。
青紫の顔色をした、酷いツラの子供。
ボギッと指が鳴った。
一瞬の刺さるような痛み。
遅れて、ジクジクと苛むような激痛が指先から登ってくる。
「マジか。歯を食い縛って耐えてやがる」
「い、たみなんかに、負けねぇ」
右手の小指が解放され、薬指が握られる。
とにかく、全力で歯を食い縛る。
顎が鳴り、歯が砕けそうになるのも構わず。
「ぐぅっ!!!」
食い縛った歯の間から泡が漏れる。
痛みに頭が下がり、涙が滲む。
だが、それでも泣いて謝るなんて真似はしない。
コウケンの手が指から離れる。
次は中指が握られるかと思ったが、来ない。
顔を上げる。
様子を伺うコウケンの顔。
まるで、もう終わったと言わんばかりの。
ゴチャっと額から音がして、血が爆ぜた。
「っ?!」
俺のじゃない。
油断したコウケンの鼻頭に頭突きをかましてやった。
『弱いからだよ』
散々、散々言われた。
一度言われただけの言葉は、千も万も頭の中で再生されて、俺は朝から晩までその言葉を言われ続けている。
弱いままは辞めたと決めた。
だから。
「痛みなんかに、負けるわけ、ねぇえだろうがぁ!!」
背筋を引き絞り、もう1度、全力で頭をコウケンの顔に叩きつける。
鼻を抑えて目を白黒させるコウケン。
「ざまーみ……」
どんなに痛くても負けないと思っていたのに。
顎先を軽く叩かれて、意識が遠のいていくのを感じた。
「ぶわっはっはっは。なんっちゅー小僧だ!」
「最近のガキは、どいつもこんな根性あるんですかね……」
「んなわけねーだろ! コウケン、北門に捨ててこい!」
目を覚ました時、世界は既に夕暮れだった。
いつも殴られた後は顔中に刺すような痛みがあるのだが、今日は全身が重たくて力が入らない。
銭貨10枚を払って、ぼこぼこにされただけ、とも言える。
学べる事もあったが……。
ふと思い出して手を見れば、青黒く腫れあがった小指と薬指。目に写したら痛みが沸いてくる。
動かすと痛い。
動かさなくても空気に触れているだけで痛い。
呼吸に合わせて痛みが走り、じっとしていても痺れる。
道の端、どこかの石壁に背を預けて、手首を押さえて痛みに耐えている時だった。
「君、怪我してる?」
蹲る俺を見下ろすように、1人の女性が立っていた。
長い亜麻色の髪をした、優しそうな雰囲気の女性。
金属製の胸当てをして、白いマントを羽織った姿は、話に聞く騎士というものかと思ったが、この街に騎士や衛兵はいない事を思い出す。
「喧嘩に負けちゃった? 男の子だから仕方ないかも知れないけど、あんまり無茶しちゃダメだよ」
普通の事を言っているのだろうが、ひと月ほどまともな人間と接していなかったせいか、その言葉は、あまりに新鮮だった。
「……ちょっとその指、もしかして折れてるんじゃないの? ちょっと見せなさい。こらっ、抵抗しない!」
痛いから触るなよ! と抵抗を試みるが、無理矢理に右手を引き寄せられた。
「なんでこんな事になってるのよ。喧嘩じゃなくて、拷問を受けたみたいな……」
女性は真剣な表情で俺を上から下まで観察する。
「喧嘩、なわけないか。君、お父さんとお母さんは?」
黙って首を振って返す。
いいから手を放してほしい。とても痛い。
「孤児院の子?」
孤児院なんてこの街にあるのだろうか?
奴隷商ならあるが……。
「……君、どこで生活してるの?」
東の馬車道からスラムの方に入る裏路地の陰を何と説明したら良いのだろうか。
あえて言うなら街自体で生活しているとも言える。
「とりあえず、怪我は治してあげる。誰にも言ってはダメよ」
女性が指を握り、激痛が全身を走り思わず身を捩る。
「じっとして、これくらいならすぐ終わるから」
握られた部分が熱い! 痛い!
全力で抵抗するのだが、思いの外、女性の力は強く、足も左手も自由なのに右手だけが頑なに動かない。
成す術も無く痛みに耐える事暫し。
「痛みが……」
収まって来た。
「第三系統 生命術……いわゆる十系統の魔術の1つね」
女性が手を離すと、もう痛みはなかった。
青黒く膨れ上がった指は元の肌色に戻っているし、握ったり開いたりしても問題ない。
「すっげ……」
こんな現象が世の中にある事を初めて知って、思わず何度も手を握ったり閉じたりを繰り返す。
そんな俺の肩を、女性は膝をついて両手で掴んだ。
「もし、君が望むなら、私は君を、隣のクルン王国の孤児院に連れて行く事も出来る」
真剣な眼差しだ。
これで人攫いだったら、この世界は救いが無いな、と思う。
「そこに行けば、少なくとも君が12才になるまで、食べ物は貰えるし、雨を凌ぐ屋根の下で眠る事が出来る。服だって……汚れてない物を着れる。どうかな」
本気で、俺の事を思って言ってくれているのだろう。
今、偶然、たまたま見掛けただけの俺を。
けれど。
「そこに行ったら、俺は強くなれるのか?」
「……え?」
「孤児院とやらに行ったら、俺は強くなれるのかと聞いてる」
女性は目を見開いて、暫し呆然とした。
俺は言葉が通じていないのかと、口をもごもごさせる。
叩かれすぎて変な風になったのだろうか。
「子供が……、君が強くなる必要なんてないのよ? 子供は守られるべき存在なんだから、だから」
「そうか。じゃあ、俺には必要ないかな」
女性の言葉を遮って立ち上がり、尻についた砂を払う。
俺と目線を合わせてくれていた女性を、見下ろすような恰好になる。
「魔術? だっけ。ありがとう。便利だなそれ。俺でも使えたりする?」
「え? 魔術は誰でも覚える事が出来るけど」
怪我を治せるのは非常に大きなアドバンテージだと思う。
出来るなら、是非習得したい。
「それ、教えてくれ」
「あ、いや、魔術? ごめんね。私には資格がないのよ」
この世界はちょいちょい資格とやらが俺の邪魔をしてくる。
とはいえ、ダメな物を恩人に無理強いしても仕方ない。
「ふうん。じゃあ、俺は行くよ。本当にありがとうな」
「行くって……君、どこに」
「路地裏」
女性の戸惑う言葉も置き去りに、俺は走り出した。
今ならまだ、露店商のパン屋がカビパンをゴミ箱に捨てるのを回収できるはずだ、と。