プロローグ 少年だった日
プロローグ 少年だった日 2
気が付くと、僕は両手を縄に縛られて、開拓村東側の畑にある畦道の広いところに転がされていた。
もうすぐ日が昇るようだ。
周囲を見渡すと、僕と同じように縛られたヴィーネが隣に倒れている。よく見れば、その頬は紫に腫れ上がっていた。
「なんで、何も悪くないヴィーネが殴られてるんだ」
ふざけるな! と怒鳴りつけてやりたい。
ヴィーネは可愛い妹分で、こんな風にして殴られる筋合いなど一片だって無いはずなのに。
せめて、その両手を縛る縄だけでも解いてやろう思うのだが、こちらも縛られていて思うようにいかない。
それでも何とかならないか。そうこうしている内に、朝靄の向こうから、隣の畑を管理するおじさんが歩いて来た。
「……」
陰鬱な目で、僕を見下ろしてくる。
動いたら、危ない。そんな気がして、一旦動きを止めて、相手の発言を待った。
「ステインくん、……おじさんの家族は、昨晩の内にクルンへ逃げさせて貰ったよ」
何を言っているんだと思う。
ファナティが何をしたと、何をするというのか。
あんな少女に怯えて逃げるって、意味が分からない。
「クルンまでは、大人が急いで夜通し歩けば丸1日で何とか着くだろう。でもな、獣人族は、それぐらいの距離、ものの2時間で走り抜けてしまうらしい」
僕たち人族が、他の種族を恐れる最たる理由の一つ。
それが、持って生まれた種族としての、圧倒的な力の差だ。
「速さにおいて、この世界に獣人族より優れた種族はいないというからね。当然、逃げ切るための時間を稼がなくてはならない。そうだろう?」
そんな必要はない。
力が優れていようが、足が速かろうが、それは相手の本質とは関係ないただの身体能力だ。
『だっめー! 尻尾は大事な所なんだから! 簡単には触らせてあげないよ!』
あんな少女の、一体何が恐いというのだ。
「時間を稼ぐために、私たち東側の畑の男は、ここに居残りって決まったんだ。女子供は先に逃したけど、けど、ステインくんの家族は別だ。最後まで、ここに残って責任を取るべきだ、と村長役が言ったからね」
まるで、ここで死ぬみたいな。
そんな事に、なるわけがないのに。
「おじさんところはね、もうすぐ子供が生まれる予定なんだ。子供の顔が見たかった。息子なのか、娘なのか。分からない。二度と、会うことも出来ない。本当に、悔しくて悔しくて、仕方がないんだ」
乾いて腫れた目は、一晩泣き明かしたかのかもしれない。
せめて、その気持ちに安堵を。
「大丈夫だよ、おじさん。ファナティ――獣人族の女の子は、可愛くて、優しくて、誰かを傷つけたり、殺したりするような子じゃないんだ――」
だから、元気だして。必ず、また会えるから。
そう、続けようとした口が、蹴り飛ばされた。
「なんでお前みたいな分かってないガキが! この開拓村に混ざってるんだ!!!」
手を縛られていて、顔を守る事も出来ない僕の顔を、おじさんは何度も何度も足の裏で踏みつけにする。
こいつもだ。
こいつも分かってない。
獣人族に、どれだけ悪い奴が、危ない奴がいるのかは知らない。
けれど、それは人族だって一緒だ。
人を殺す人族だっているし、人を助ける人族だっている。
ファナティは、こいつらが思っているような、危ない獣人族じゃないんだ。
顔を見れば分かるだろう。
あんな可愛らしい子供に、一体どんな悪事が行えるというのだ。
だから村の人たちもみな、ファナティを見れば分かるだろう。もっとも、今日はファナティは狩りの練習だから、村のみんながファナティの事を分かるのは、明日か明後日か。
それまで、この暴力は続くのだろうか。
みんなは獣人族を恐れているみたいだけど、僕にとっては、ファナティよりも、変貌してしまった村のみんなの方が、恐ろしかった。
度重なる暴力に心がささくれ立ってくる。
開拓村のみんなは獣人族が大層恐ろしいらしい。
見たことも、会ったことも、喋ったこともないくせに。
僕に言わせれば、ただ聞いただけの話で、子供をこんなにも殴りつけられる大人たちの方が、よっぽど恐ろしい。
何も知らないガキ? 違うだろ。何も知らないのはあいつらの方だ。一体、あいつらにファナティの何が分かるというのだ
ふざけやがって。ふざけやがって。ふざけやがって!
口の中で恨みを吐き、心の中に憎しみを積み上げているうちに、暴力の雨は止んでいたらしい。
瞼が腫れあがって、前も上手に見えないが、作りかけの防壁と反対側、畑の向こうに大人たちが並んでいるのが見える。
「ステイン」
いつの間にか、隣にいた父さん。
眼の縁は落ち窪み、髪はボサボサで、肌は青黒い。
酷い顔。一気に何十歳も歳を重ねたかのよう。
「獣人族が現れたら、俺たちは、みんな死ぬ」
隣から、ひっ!と短い声が上がる。
ヴィーネもいつの間にか目を覚ましていたようだ。
「ほとんどはクルンに向かって逃げたが、ここには100人以上の人が残っている。時間稼ぎのためだ。みんな、家族を逃すために死ぬんだ」
座り込み、俺の頭に伸ばされる手。
また殴られるのか、と条件反射で首が竦む。
「すまない。すまないステイン」
「え……?」
「ちゃんと、教えてやらなかった、俺のせいだ」
泣いていた。
勝手放題に殴りまくって、僕の話も聞かないでいたくせに。
どうして、今頃そっちが泣くんだ。
「よく聞きなさい。ステイン。いいか……。
獣人族と、人族は、違う生き物なんだ」
……。
…………。
…………なにも、なにも分かってない。
『ねぇねぇステイン! 聞いてよー。今日お母さんに怒られたんだけど、理由がねー?』
違う、生き物? 違うだろ。そんな事ない。
『ステインこれ上げる! タプタプベリーの実。さっき採って来たんだ。え? 知らない? 美味しいよ? 食べると口の周りが真っ赤になるけどね!』
ちょっと、耳と尾があって、人より運動神経が良いだけの、ただの可愛らしい女の子だ。
「……違う」
「獣人族も鬼人族も精霊人族も、もちろん魔人族も、全部、俺たち人族とは違う生き物なんだ」
「ちがう!! ちがう生き物なんかじゃない!!」
ファナティの笑顔を知っている。
母親に怒られて沈み込む姿を知っている。
友達に楽しみを分け与えようとする、その気持ちを知っている。
「ファナティは普通の女の子だ!ヴィーネと何も変わらない! 怒られれば悲しんで、お喋りすれば笑う! 一緒だよ!」
「……」
分かろうともしないで、勝手に判断して!
いったい、ファナティの何を知っているって言うんだ!
「この開拓村の入植に参加する前に、お前ともっと話し合うべきだった。……すまない。父さんは向こうで、村のみんなの前に立たなくてはいかないから、……もう行く」
立ち上がる父さんを、歯を食い縛り睨み上げる。
どうして、分かってくれないんだ、と。
「もし、もしも……」
父さんは、振り返らずにボソリと。
「本当に、普通の女の子なら……ステイン。お前が言葉で止めてくれ。そして、お前とヴィーネだけでも生き残るんだ」