1話『デパートにアイドル』
その日は一般学生には関係のない、夏休み序盤の祝日だった。
村川晴太は自宅を出た。住宅街を少し歩くこと約三分。大通りに出た晴太は丁度良く到着した市営バスを捉えた。行き先を示す電光掲示板には晴太が行こうとしている場所が表示されていた。少し歩くペースを上げ、最終的には走り駆け込んだ。晴太の住む地域はこれと言って賑やかではない閑静な住宅街。
晴太は息を整えつつ、空いている席を捉えるがどうやら優先席らしい。仕方なく立つことにした。バスは右折。当然大きく揺られる。晴太はバランスを崩しつつも平静を装う。
そして都会との境目にある駅に降ろされた。都会との境界ということもあり喧騒に包まれている。
晴太は賑わう平和の象徴を横目にバトルするでもなく歩いた。向かう先はデパート。やや古びた印象を受けるデパート一階には大手カフェ店がある。近くの大学生がたむろしているのをよく見かける。そんな雰囲気にひとり飛び込む勇気などなく一度も行ったことがない。
エスカレーター横の地図を確認。そして五階へと向かう。晴太は右を向いた。そこには眠たそうな顔をする自分の顔がある。鏡になっている理由がよくわからない、晴太は迷惑している。わざわざ自分の顔など見たくない。
目的地の五階になると喧騒はより一層濃いものとなった。大人の低めの声と、若々しい女の子の声。何かのイベントだろうなと気になり晴太はちらっと、興味本位に周囲を見渡した。すると少し開けたスペースに人がたむろしていた。
辛うじて晴太の身長で見ることが出来た。けれどどうやら運悪く、晴太が来たのは既に解散間際だったらしく、それっぽい締め括りの挨拶が始まっていた。
「みんなー! ありがとー! 今度会うのは――」
メンバーと思われる一人が何か言った瞬間、空気が揺れる様なそんな轟音に満ちた。「あれがオタクというやつか」と晴太は遠巻きに思う。『あれら』と同じだと思われたくなくて晴太は背を向け、去ろうとした。けれど足が止まった。晴太とは反対に帰っていくアイドル達に晴太は顔を向ける。
「……人違いだよな」
息を吐いて目的の場所へと向かう。もちろん、このような催物を見物するために来たわけではない。
晴太はきょろきょろと右左を確認しながら歩く。フロアは間違っていない。ここであっている。しばらく歩きやっと見つけた文房具売り場。
晴太はおもむろにポケットからスマホを出し、立ち上げたトークアプリを見つめる。
「メールなし」
晴太は過去に送られてきた写真と陳列された文具を照らし合わせる。
「これだな……」
その『メールの相手』というのはもちろん恋人。などという甘いものではなく、近くて遠い妹様だ。妹様から直々にお使いを仰せつかった内容は『シャーペン買ってきて』だ。ご丁寧に写真付きで。在庫確認も済んでいるようで「無かった」というのは通用しない。
晴太はそれを手に持ち、会計に向かった。
晴太は足を止めて視線をゆっくり上げて顔を合わせる。晴太は「あ」という口を開ける。
向かったらクラスの不登校児とばったり出会ったりした。
晴太のクラスにはひとり、不登校児がいる、その女子生徒。名前は……。
磐木樟葉。
六月の終わり辺りからぱっと姿を見せなくなった彼女。そんな唐突さ故に悪い噂が好き放題無責任に交わされていたりした。『良くしてもらっていたにもかかわらず』もとからそういうことは言われていたけれど、本人がいなくなってからの二週間はそんな会話が主立っていた。当然のように今その話題はなく、収束していた。
それと彼女は『優しい』。
磐木は扇情的に動く胸に手を添えて、呼吸を整えてから親し気な声で言う。
「あの、村川くん、だよね……」
水を打ったような静けさに、綺麗な声が晴太の苗字を言い当てる……というか、名前を憶えられていなかったら悲しい。
実は晴太と磐木はまぁまぁ仲が良かったりするのだ。
けれど晴太はそんな彼女に違和感を抱いた。内側にふわり柔らかく向いた毛先とか、同世代の女子とは別段の化粧とか、緊張気な表情とかが晴太の記憶と五割ほどしか一致していない。
最後に見た雰囲気とは全く違っていた。
晴太は恐る恐る目の前の可愛い彼女に名前を問う。
「えっと、磐木。だよね?」
「あ。う……うん、そう……おぼえててくれたんだぁ」
磐木はほっと息を吐き、肩の力を抜いた。
「まぁ……もちろん」
「あ! あの……えっとさぁ? さっきの、見てたよね」
「さっきのって……?」
晴太はアイドル達を眺めていたところを見られたのかと一瞬だけ焦った。けれどそれは自然と収まっていき、代わりに疑問の顔を向けた。脳内で勝手に合成されていく顔。そして十割結びついた晴太は思わず「あ」と声を漏らした。
「私、アイドルやってるんだ」
完全一致と同時に磐木は、にへらと恥ずかしそうながら誇ったように笑った。
「マジか……アイドルなのか」
「まじまじ、アイドルなの」
「……じゃぁ、学校来てない理由って?」
「……それは、そうそう、ちょっと忙しくてさぁ」
晴太はそんな磐木を見て、今の姿をクラスの連中に見せたら告白の連鎖が起こりそうだと思った。それくらいの変貌を遂げていた。
磐木は唖然とする晴太の顔を見て再び恥ずかしそうに微笑んだ。
じかんー――とたぶん磐木に向けられた声がするので晴太は思わずその方も見る、これまたアイドル然とかわいい顔をした少女が……ニコッ。
「あ、そろそろ行かないと。村川くん。このことはぜーったいに! 内緒にしてね。じゃ」
磐木はアイドルっぽく、白い歯を見せて笑った。少なくとも晴太は、磐木と友達として過ごした日々の一日にも見たことがない笑顔だった。ちょっと惚気そうになったのを誤魔化すように口元に手をあてた。同時に遠い場所に行ってしまったのかと、少し寂しく思った。
「よし、さっさと買って帰ろう」
なんだか不思議と元気をもらった。オタクになって全国各地に引っ付く理由がわからなくもない。
お会計一二〇〇円。晴太の懐だけは悲しかった。
家に帰ると『男性アイドルグループ』の嫌に爽やかな歌唱が聞こえてくる。自宅前ですでにうっすらと聞こえていた。近所迷惑もいいところだと晴太は思いながら階段を上る。わざと足音を立ててやっても音量を下げる気配はない。ドアを開けることすら躊躇う。当然女の子の部屋だからという理由ではない。このドアを開けた瞬間、未曾有の大音量が押し寄せる。
だから躊躇うのは人間として当然のこと。晴太は深呼吸して覚悟を決めた――
「よし」
――ガチャとドアが開く。とんでもない音が鼓膜を殴打する。
軽くぐわんと視界が歪んだ晴太はドア横にあるコンポに即座に手を伸ばし、安物のプラグを差し込んでやると沈黙する。晴太はひと仕事終えたと息を吐く。
するとムスッとかわいくない顔をする妹の村川春乃。中学三年生。見た目はほとんど同級生と変わらない立派なもので、顔だっていい。けれどなぜだろうか、妹だからだろうか、よこしまな気持ちは沸きあがらない。ちなみに絶賛反抗期中。
口を開いたら負けだと眼で語る春乃に晴太はビニール袋を投げつけた。
「ほらよ、ご所望の物だぞ?」
「はいはい、ありがとうございます」
晴太はこめかみに筋を浮かべる。春乃の「わざわざ感謝してあげている」という態度はさながら悪役令嬢、春乃は足で晴太を追い払うようにする。買ってこさせたシャーペンは後回しとばかりにスマホを弄る姿。ぱたぱたと宙を泳ぐ足をくすぐってやりたくなる。
「あんなぁ? 春乃。早く金を寄越せ」
晴太がため息を吐き、呆れ口調にそう言うと春乃はバサッと体を起こし、ビシッと指さす。
「なに? 恐喝? 妹から金を取ろうって? 最低だね。これが兄なんてサイアク」
思わず鼻から息が漏れた。鼻で笑って蔑み、ではなくて、ショックで。体の空気が抜けた気がした。思わず壁に手を突いた。
これ以上春乃に抗議するのは体力のムダ。晴太はコンポの音量を標準値にもどしてプラグを抜いた。再び癪に障る男の歌声が渡る。そして音楽に合わせて頭を上下させる春乃。
「とりあえず、あとでそのシャーペン代返せよ」
「あー、ごめん、丁度いま課金しちゃって金欠だからー」
晴太はスマホを握った。このスマホに大して大事なものなど無い。だから投げて仮に壊れたとしても気にしない。けれど家族関係が壊れるからやめておいた。それと、春乃のせっかくの頭が台無しになったら可哀想だ……。