コールド・ミー
登場人物名が無いのは、私の短編作品ではいつものことなので、気にしないでください。
彼女は体温が低かった。
生まれつきそういうものらしい。私は体温が比較的高い方であったから、初めてその手に触れた瞬間の衝撃が忘れられなかった。
自分の体温というのは、自分ではわからないことだろう。だから、彼女が自分の体温がとても低いことなど、気にしていないのだ。気にするようなことでもないのだと思う。
駅のホームには人が溢れていた。雪が降っていたから、電車が少し遅れていたのだ。電光掲示板に赤く時間が光っていて、憂鬱な帰宅を怠惰にさせた。
列に並ばなければ電車に乗ることさえできない。待合室はもう席がなかった。このホームにおいて、自分がいることのできる快適な場所など存在しないのだ。
ポケットに入れていたスマホが揺れる。いつもマナーモードにしているものだから、このスマホの着信音は忘れてしまった。ほんとは音なんて出ないのかもしれない。それほど聞いたことがなかった。
メッセージが画面に映し出される。
『今日は寒いわね』
簡単な文章だった。彼女からのメッセージはいつも短い。また、文面をそのままに受け取ってはいけないことも、いい加減理解していた。
別に彼女は事実確認がしたいわけではないのだろう。寒いことなど私は分かっているし、そんなことを一々話してくるほど、彼女は喋りたがりでもなかった。
『ありがとう』
そう返事を送ると、数秒後に
『どういたしまして』
と返ってきた。どうやら返事は間違っていなかったらしい。
会話が終わり、かじかみ始めた手のひらを温めるためにポケットに手を入れた。あまりスマホを普段使わないものだから、体温より暖かいのは違和感がある。
朝から入れていたカイロは、すでに冷えてしまっていた。思い土嚢のような塊が、ポケットの底でざわめいていた。
遅れていた電車がホームにやってくる。既に電車の中は人がいっぱいだった。これでは一本見送るしかないだろう。
十数人がどうにか体を押し込んで、ガタガタと扉が閉まる。
私の番は随分前になったが、それでも次の列車までは待たなくてはいけない。彼女に連絡をすることも考えたが、そもそも連絡をする意味もないことに気づき、スマホから手を離した。
吐いた息がタバコの煙のように揺蕩う。子供の頃はこの吐息が好きだった。なんとなく見ていて飽きなくて、いつまででも遊んでいられる気がした。息を吐きすぎて苦しくなっても、それよりもたくさんの楽しさが冬には溢れていたのだ。
あの頃から時間は経ったが、それでも吐息を見るたびにあの感覚が蘇る。
ただ、あの頃のように自分の吐息に美しさに似た魅力は、もう感じなくなった。
ため息ばかりだからだろうか。
今日も陰鬱な一日だった。
なにか特別失敗したわけではない。ただ、自分が何かしたわけではないこと、何もできていないことに対しての自己嫌悪である。自己嫌悪とはタチが悪いもので、一度現れるといつまででも頭の片隅にその残像を焼き付ける。
肌の冷たさに、ヒリヒリと火傷の跡を残していく。
二本目の電車がやってくる。先ほどの電車よりは人が少ない。だが、私の後ろに待っている人のことを考えると、この電車もいっぱいになるだろう。
イヤホンを耳にかける。スマホから音楽をかけた。お気に入りのメロディーが鼓膜を震わせる。自分の脳みその中心でアーティストが歌っているような感覚。それも、疲れからかどこか声が遠い。
景色が横に流れていく。詰め込まれた車内で、一人だけの世界に入る。揺られる体も、リズムをとるようでどこか心地がいい。その振動で、私はスマホがバイブしたことをすっかりと忘れていた。
「おかえりなさい」
玄関の扉を開けると、一人の女性が顔を出した。一瞬驚いて、それから彼女に合鍵を渡したのだと思い出した。渡したときのことは、あまり覚えていない。勝手に彼女が持っていったような気もする。そうでないことは普通ならばすぐにわかることだったが、そんなことにも気づかないほど、私は疲労していた。
「ただいま」
ふらふらと靴を脱ぐ。綺麗に置かれていないが、それを直す気力はない。玄関のカーペットにつんのめってこけそうになるのをこらえる方が、どちらかといえば重要だった。
「来てたんだ」
「バスが止まって帰れなくなったの。メール見なかった?」
「ごめん、忘れてた」
電車の中では眠っていたものだから、私はスマホの画面を見ることはしなかった。
上着を脱いでハンガーにかけ、スーツから部屋着に着替える。彼女はテレビで冬の特番を見ていた。知らない芸人の話題で盛り上がっているが、彼女は決して笑ったりしない。
冷たい、と言えばそうかもしれない。以前彼女に言ったことがあった。
『君は冷たいね』
なんて酷い言葉なのだろう。ただ、彼女との会話には取り繕うほどの隙間はなかったのだ。
『そうかしら。私は情熱的な方よ』
そう言って、彼女は少しだけ笑った。そうだった。
あの日、彼女はこの部屋の合鍵を持って行ったのだ。
夕飯を作らなければならないことに気がついて、前のめりになって冷蔵庫を開いた。サランラップに包まれた皿が、一つ中央に居座っていた。
「これは?」
「暇だから作ったの」
「…そう、ありがとう」
彼女は嘘をつかない。暇だから作ったと言われれば、それは本当に暇だから作ったのだろう。
一本電車を送っていたから、彼女はいつもなら私が帰ってくるだろう時間よりも、随分待っていたのだ。
皿を電子レンジで温めて、それを彼女が座っているテーブルに置いた。彼女の向かい側に座ると、小さく手を合わせる。
どうぞ、と彼女が促した。
「これ何?」
私は料理に疎かった。ついでに言えば会話も苦手だった。もう少し気の利いた言葉で尋ねればよかったかもしれないが、そんなことは口にしてから思っても意味がない。
弁明は彼女に対してなんの意味もないのだ。
「ラザニア」
「美味しい」
フォークで切りながら、ほどほどに温まったラザニアを口に運ぶ。伸びる柔らなチーズとトマトソースが口の中で絡まる。
「ありがと」
テレビの方を見たまま、彼女は礼を言った。頬杖をついている手のひらを、少し突っつく。ラザニアを食べて少しは温まった私の手よりも、彼女の手のひらは冷たかった。
手を離した瞬間、驚いたように彼女はこちらを向いた。
「…どうしたの?」
「あなた…」
言って、彼女は人差し指を半開きだった私の口の中に突っ込んだ。チーズとトマトソースと、ついでに彼女の指で口の中がしっちゃかめっちゃかになった。
「…?」
噛むわけにもいかないので、仕方なくそのままでいたが、やがて彼女の方から指を引き抜いた。意識してはいけないのだろうが、指についている唾液が、非常に申し訳なくなる。舐めていたわけではないのだけれど。
「寝てなさい」
「え?」
フォークをラザニアに突き刺した私を横目に、彼女はそれを私から奪い取った。
サランラップを掛け直し、冷蔵庫に入れると、代わりに飲み物を差し出す。
「熱があるのよ」
「…気づかなかった」
舌の上に彼女の指の冷たさが残る。天使がいるのなら、その指はこんな風に冷たいのだろうと、そんなことを考えた。
「何にも気づかないのね」
「そうかも」
ベッドに横になると、すぐに眠気が襲って来た。歯磨きをしていないが、どちらにせよ今はうまくできないだろう。もしかしたら彼女に笑われるかもしれない。
風邪を引いた日に、虫歯にもなるなんて。
昔のことを、ボンヤリと思い出す。
彼女は名前で呼ばれるのを嫌った。彼女は自身の瞳のような綺麗な宝石の名前をしていたけれど、それが自分の名前であることがひどく嫌っているようで、私が名前を呼ぼうとした時、彼女は出会ってから初めて私に怒ったのだった。
それ以来、彼女のことを名前で呼ぶことはない。
彼女の名前を呼んだことは結局一度もなかったし、もしかしたら本当は名前なんてないのかもしれない。そう思うほど、彼女と名前が私の中で結びつくことはなかった。
「手を貸して」
私の火照ったおでこに彼女の手のひらが乗る。彼女の手のひらは冷たくて気持ちがいい。それを口にしたことはなかった。
「冷たくて気持ちいい」
「あなたは冷たいのが好きなのかしら」
それは違うと思う。
冷たいのが好きなわけではない。冬が好きなのは、別に寒いからとか、腰掛けたベンチが冷たいからとか、そういうことではない。
昔はそうだったかもしれないけれど。
『冷えるわね』
雪の降る夜の日。
凍えながら坂を上っていたあの時、私に話しかけてくれた瞬間から、冬は彼女の季節になったのだ。
冷たいものが何であれ好きならば、この街の何の関心も持っていないような人々も、手が震える駅のホームも好きになれると思う。
「君、なんて名前だったっけ」
「…おやすみなさい」
彼女だから冬は好きだ。冷たい手のひらも、言葉足らずな話し方も、暇だからと言ってご飯を用意してくれる優しさも。
彼女は冷たくなんかない。
合鍵を持っていったあの日もそうだった。彼女の言葉は本当に情熱的だ。
短い言葉の一つ一つにも確かに熱がこもっている。それはメールでさえ機械を熱くさせる。
私はせっかく買った、カバンに入れているもののことを、忘れてしまっていた。
「…ん」
冬の朝は好きではない。借りている部屋には雨戸がついておらず、朝の日差しが入ってきて明るいが、代わりに酷く冷え込んだ。
彼女はもういなかった。彼女は彼女自身の都合で動く。私と一緒に話したりするのは、たまたまのその横にいた時だけだ。
机の上の書き置きに気づいたのは、朝の歯磨きが終わってからだった。
『ありがとう、名前』
見つけて、ぽりぽりと頬をかく。私が眠ってから、荷物を覗いたらしい。カバンを開けてみると、昨日買ってきた指輪のケースが綺麗に片方無くなっていた。
冷蔵庫から昨日のラザニアの残りを取り出す。冷たい容器が、指の先に張り付いた。
瞬間、昨日の夜の彼女の指を思い出す。あの指にはまっているのかもしれない指輪のことを思って、思わず笑いそうになった。
真っ白なケースを開ける。ケースにはお金をかけられなかったから、ただの紙の箱だった。満員電車のせいで、ところどころが凹んでいる。彼女のケースもこうだったら、私は恥ずかしくて泣いてしまいそうだった。
スマホが揺れる。彼女のメッセージが画面に映る。写真には、雪が積もった街の様子が映っていた。画面の端、ガラスのショーケースに映る、彼女の指も見える。
「名前、呼んであげれば良かった」
ケースを開ける。
シルバーのリングにはめられた、小さな宝石が光る。それを彼女がはめていた指と同じ場所にはめる。
彼女のように綺麗には見えない。彼女の天使のような、端麗な美しさを持つ指先と、私の仕事に疲れたささくれのある指は比べ物にならない。それでも、私が買ってきた彼女に渡したかったものが、彼女の指にはまっていることが嬉しい。
彼女の体温で、冷やされているのだろうシルバーのリングが羨ましかった。
リングの裏に刻み込んだ、彼女と私のイニシャル。二人にしか見えない彼女の名前が、私の心の中で渦巻いていた。
冷たい私に
私を呼んだ
風邪を引いた私に