003 魔力欠乏症
「ここは?」
まだはっきりとしない寝ぼけた頭で、そうつぶやいた時だった。
ガタタッと大きな音が耳に届いた。
反射的に……とはいえ、ままならない体なので、大分ゆっくりだけど、音のした方に視線を向ければ、全身黒づくめの見知らぬ男性……いや、お屋敷の司祭である、アレク様が目を丸くして私を身をロしていた。
普段は冷静沈着で、お屋敷の使用人からも一目置かれている、アレク様にしては珍しい反応だと思いながら、私は彼の後ろに倒れた椅子を見て、何かに驚いて立ち上がったのだろうことを察した。
そこで、はて?と、頭が疑問をくみ上げる。
あのアレク様ほどの人がそんなに慌てるなんて何事だろうかと。
そんな私の思考を止めたのはアレク様だった。
「お、お気づきになられたのですか?」
恐る恐るというのが一番似合う様子で、私にそう尋ねてきたアレク様は、普段は首から下げられている女神アシェリー様の聖印を、指が白くなるほど強く握りしめていた。
「アレク……様、そんなに………握りしめては、お手を怪我してしまいますよ?」
思わずそんな言葉が出ると、アレク様はハッとされて、聖印をお放しになる。その上で、改めて私に尋ねてきた。
「ミシェル様、本当に、ミシェル様なのですね?」
そう尋ねられて、私はそこでハタと思考が止まった。
ミシェル?
いや、私はそんな名前だったろうか?
もっとこう、日本的な……。
そう!
そうだ、日本!
私の中で、なぜか朧になっていた記憶がむくむくと起き上がる。
いや、起き上がったのだ、確かに……。
けど、同時に、私は自分が、ミシェル・エリザベス・ウェーディアだということも、思い出した。
これは……どういうこと?
錯綜する二つの記憶が、私に混乱を呼び込む。
まるで違う生い立ちの記憶、それなのに、どちらも事実だとわかってしまう。
「ああ……」
何が正しいのか、どう知ればいいのか、どういう状況なのか、訳も分からずに声が漏れる。
すると、私の声にいち早く反応したアレク様が、起き上がろうとした私の肩にそっと手を置いて、ベッドの中へと押し戻した。
「大丈夫ですか? まだ、無理に起き上がってはいけません」
目と声ではっきりと自覚した、アレク様は確かに私を心配してくださっているのだ。
そして、同時に、アレク様と知己があるのが、ミシェルだということも、はっきりと思い出した。
「ショックかもしれませんが……ミシェル様は、魔力欠乏症だったのです。安静にしていてください。人を呼んでまいります」
とても穏やかな口調で、諭すように言ったアレク様は、そのまま私の寝かされた貴族ではなく、庶民向けの客間の扉から廊下に歩み出ると、普段からはまるで想像できない慌ただしい足音を残して去っていった。
何をそんなに……と、思ったところで、アレク様の仰っていた『魔力欠乏症』という言葉が、ズンと私の中に大きく沈み込んでくる。
「ま……魔力、欠乏……症?」
呆然とする私の唇が震え、途切れ途切れの声が零れ落ちる。
だけど、そんなことよりも、私が『魔力欠乏症』だというアレク様のお話の方がショックで、うまく頭が回らない。
なぜなら『魔力欠乏症』は、誰もが知る幼い子供が掛かる不治の病だ……そして、死亡率は100%、発症すれば例外なく死ぬ。ある日突然、体から魔力が失われはじめ、最後には生命を維持する魔力すらも消え去って死に至る。原因もわからなければ、当然治療法もない。
そこで、ようやく私は思い至った。
なぜ、薬師であり医師でもあるルーヴェンスも、私付きのメイドであるアンもそばにいず、かわりにお屋敷の司祭様がおられたのか……。
「私は……死んでしまうのですね……」