桜
年が明けて仕事が始まり、日常が戻ってきた。水野さんとはあの夜から会っていない。昼休みにも顔を出さなくなっていた。同僚の人から聞いた話では大阪へ長期出張に行っているとのことだった。
いろいろと大丈夫かな。ご飯ちゃんと食べているかな、お酒飲みすぎてないかな。
顔を見ていないぶん、気がかりだった。
離れて暮らす子どもに「ご飯ちゃんと食べているの?」と母親が尋ねる意味がなんとなくわかった気がした。心も体も大丈夫ではない時はちゃんとご飯を食べられない。大切な人を想うとき、自然と「ご飯ちゃんと食べてるかな」という思考になるのだろう。
“I love you”を「月が綺麗ですね」と訳したのは夏目漱石だったっけ。私だったら「ご飯ちゃんと食べてますか」と訳すだろう。漱石のようにロマンチックではないけれど、これがストレートな私の想い。
水野さんに会うことがないまま、冬が終わろうとしていた。今年は桜の開花が早いらしい。
そんなある日、突然水野さんがお店に顔を出した。閉店間際、売り場には私ひとり。久しぶりの二人の時間。
水野さんは元気そうだった。大阪では実家から通っていたらしい。オカンの飯食べすぎて太った、と笑った顔を見て安心した。
近況を一通り聞いた後、久しぶりすぎてを話したらいいかわからず一瞬の沈黙があった。
「あんな、」
さっきまでとは少しトーンの違う声色が沈黙を破る。
「大阪、帰んねん。」
どういうことかすぐに理解できなかった。
「大阪本社に転勤になってん。」
やっと理解ができた。
「いつ、ですか。」
「4月。引っ越しもあるからこっちにおるのは今週までやな。」
予想外の展開に私の心は混乱していた。しかしそんな心とは裏腹に出てきた言葉はあまりに月並みで社交辞令っぽい言葉だった。
「そうなんですか。寂しくなりますね。」
無機質な言葉が響く。心の混乱を隠すようにあえて無機質に言ったのだ。会えなくなるのは嫌だと素直に言えたならどんなにか楽なんだろう。残念ながら私は、そんなに素直で可愛げのある女の子ではないのだ。
「ゆかりちゃんには言わなあかんと思て。また、心配かけてまうやろ。」
泣きそうになった。ああ、なんてこの人は優しいんだろう。優しすぎて辛くなる。
「今までありがとう。元気でな。」
水野さんは今までで一番優しい声でそう言った。
回らない頭で閉店作業を済ませ、何だか歩きたい気分になってあの時の公園に向かった。もう桜が咲いているかもしれない。できることなら水野さんと桜を見たかったな。
桜は五分咲きで夜の闇と絶妙なコントラストを描いていた。まだ満開ではないところが、春のプロローグのようで発展性のある美しさがそこにあった。
その桜の木の下に水野さんがいた。
「桜、咲きましたね。」
「せやな。」
二人で桜を見上げた。たった今願った私の願い事が叶っている。今なら私の想いを伝えられるかもしれない。叶わない恋だとわかっている。でも今叶った願いのようにもしかしたら叶うかもしれない。叶わなくても桜のように綺麗に散るならそれでもいい。
「水野さんと咲いている桜が見ることができてよかったです。」
「前は冬やったもんな。あん時は情けない姿でゴメンな。ゆかりちゃんには本当にいろいろ世話になったなぁ。こんなおっちゃんに優しくしてくれてありがとう。」
「水野さんはおっちゃんじゃないですよ。いつも優しくて素敵な人です。」
風がざあっと吹いて頭上の花が揺れた。
「いつの間にかお店に来てくれるのが待ち遠しくなって。仕事帰りに寄ってくれてお喋りする時間はすごく幸せな時間でした。叶わないってわかってても好きになってしまって。水野さんの笑った顔みると元気になれるんです。辛そうな時には力になりたいって思うんです。会えなくても考えてしまうんです。離れてしまっても、ずっと水野さんのこと好きでいていいですか?」
ずっと言えなかった想いが溢れた。声が震えたのは夜の寒さのせいではない。
長い沈黙の後、水野さんがゆっくりと口を開いた。
「あかんよ。」
また風が吹き、花びらがひとひら舞い落ちた。
「気持ちは本当に嬉しいけど、あかんよ。ずっと俺のこと好きでおったら。ゆかりちゃんは可愛くてホンマに優しくてええ子で俺のことずっと好きでおるなんてもったいないわ。これからいろんな人と出会っていろんなチャンスあるんやで。そういうこと大事にして欲しい思うねん。」
水野さんは優しく、小さな子どもをあやすように話した。
「こんな俺のこと、そんなにも想ってくれてありがとう。」
そう言って優しく私を抱きしめた。
水野さんの体温、心臓の鼓動。そして肩越しに見た夜桜。私はきっと、一生忘れないだろう。