夜に
一週空いてしまいました。書くエネルギーを切らさないよう頑張ります。
「昨日の夜、水野さん見たよ。」
水野さんが夜に来なくなってから一ヶ月が経った頃、同僚の麻衣が何気なくこう言った。その言葉は私にとってとても意味のある言葉だが、水野さんへの想いは誰にも言っていなかったので平静を装った。
「へー、そうなんだ。どこで?」
「駅前のカフェで見たんだけどさ、私が入ったときにもう座ってて。私は買ってすぐ出たんだけど、帰りに通りかかったらまだ居てさ。4時間くらい経ってたし一人だったし、パソコンや読書してるわけでもなかったから何してたんだろ。」
水野さんは何をしていたんだろう。待ち合わせ?誰と?もしかして家に帰りたくないのかな。
顔を出さなくなった手がかりも掴めず、不可解なことが増えただけだった。
街に冬の気配が目立つようになってきた。水野さんとお喋りしていた時間がずいぶん昔のことのようだ。
最近は昼に来ても元気がないように見える。心配する資格が私にないとしても、心配だった。
ある日意を決して、なぜ夜来なくなったか訊いてみた。
「ここんとこずっと、いろいろあって忙しくてな。心配してくれてありがとう。大丈夫やから。」
ふんわりと大人の対応ではぐらかされてしまった。
大丈夫やから、と言った水野さんは全然大丈夫そうではなく、無理をして笑っていることが明らかだった。そんな水野さんを見るのは辛くて、私はそれ以上何も訊けなかった。
それにしても今年の冬は暗い。灰色の雲がずっと空を覆っている。
毎年こうだっけ、私の心が晴れないからそう感じるのかな。そう思いながら日々過ごしていた。
オフィス街の仕事納めに合わせて、わが家も今年最後の営業を終えた。閉店後、なじみの居酒屋で忘年会というのが恒例になっている。今年ももうすぐ終わる。
忘年会が終わり皆と別れ、駅へと歩く。冷たい夜風は酔いを一気に覚ました。駅へ続く道はオフィス街を通る。見慣れた場所だが、休暇に入った夜のオフィス街は人気がなく別の場所のようだった。その一角に小さな公園があり、公園の前に誰かが立っているのが見えた。
公園の前を通る予定だった私は警戒したが、それが誰かわかったので近づいて声を掛けた。
「水野さん、こんなところで何してるんですか?」
公園の前の歩道に立っていた水野さんはゆっくりと私の方を見た。その目は相当酔っている人の目だった。
「桜、見ててん。」
この公園をぐるりと囲むように桜の木が植えられている。水野さんはその桜を見ていた。当然ながら花は咲いていない。
「春になるときれいですよね、ここ。でもここにずっといたら風邪引きますよ。」
「せやな。」
そう言って歩こうとしたものの、足元がおぼつかずふらついていた。私はとっさに肩を支えた。
コート越しにもわかるがっしりした肩の感触、今までで一番近い距離。酔いは覚めかけていたが私の頬は熱くなった。
「そこ、座ります?」
私はベンチを指さした。
「せやな。」
水野さんはベンチに座り込み、うなだれるような姿勢でしばらく黙っていた。お酒はあまり飲まないと言っていたが、今夜は相当飲んだのだろう。
「情けないな。」
水野さんがつぶやく。
「仕事がらみだと飲まされますよね。仕方ないですよ。」
「ちゃうねん。一人で飲んでてん。」
付き合いのお酒しか飲まない水野さんがどうして、と言おうとしたが、被せるように水野さんがぽつりぽつりと呟いた。
「今日、離婚届出してん。」
私は何も言えず、水野さんをじっと見た。独り言のように水野さんは続けた。
「子どものこととか、将来のこととか、気付いたらもうどうしようもないくらいすれ違っててな。いや、言い訳やな。気付くんが遅すぎたんやな。そして目を背けてずっと逃げてたんやな。アホやなぁ、俺は。」
「アホやなぁ」という言葉が夜の冷たい空気の中で響いた。
こういう場面で何という言葉をかけるのが正解なのか。苦しんでいる大切な人に何かしてあげたいが、私の乏しい経験値では名案が浮かぶはずもなくただ隣に座って話を聞くことしかできなかった。
「酒飲んだらごまかせるかな思うたけど全然やな。飲んで全てを忘れられる人がうらやましいわ、ホンマ
。あー、また逃げてるわ、俺。嫁と息子が出て行ってからはな、家帰るんが嫌でずっと外で時間潰しててん。一緒に住んでる時から嫁も息子も家空けてることが多かったけど、荷物がなくなってがらんとした家に帰るんは辛かったんや。もう無理やっていう現実突きつけられたような。」
気持ちを吐き出すように水野さんは一気に喋った。
「夜、弁当買いに行かへんようになったんはそういうことや。ごめんな、ゆかりちゃん。」
ふんわりとした大人の対応の裏で水野さんはどんなに苦しんでいたことだろう。
「ごめんなさい、私…ごめんなさい…」
後悔と自分の無力さでそういうのがやっとだった。
「俺はホンマにアホやなぁ。ごめんな、ごめん…」
水野さんは何度も何度もごめんと言った。目の前にいる私に。そしてその「ごめん」は別れた奥さんと息子さんにも言っているようだった。
随分長い間そうしていた。真冬の夜にも関わらず、放っておくと水野さんは一晩中そこに座っていそうだった。
大丈夫やから、という水野さんの手を取った。初めて触れる水野さんの手。大きな手は冷え切っていた。
大通りまで歩いてタクシーを拾うと言い、心配だったので私も一緒に歩いた。何も喋らず、ゆっくりと。
タクシーに乗る直前、水野さんが言った。
「ゆかりちゃん、ごめんな。ありがとう。」
大好きな独特のイントネーションで。