チラシとおにぎり
私がイラストを描いたチラシは無事完成し、通勤時間帯にオフィス街の最寄り駅前で配ることになった。
自分が描いたものが形になることはうれしい。私は配布役を自ら買って出た。
配布日は朝から暑い日だった。朝のニュースで今日は最高気温が35℃を超えると言っていた。暑さの中私はチラシを配り始めたが、なかなか受け取ってもらえない。会社へ向かう人々は皆不機嫌そうで足早に通り過ぎていく。
受け取ってもらえないチラシを抱え、それでも私は配布作業を続けた。街路樹に止まっているセミの声が余計に疲労感を煽ってくるようだ。まだ予定の半分以下しか配っていない。その時、声を掛けられた。
「ゆかりちゃん、こんなとこで何してんの?」
出勤途中の水野さんが不思議そうな顔で立っていた。私が手にチラシを持っていることを見るとそういうことか、と納得した顔で言った。
「あぁ、この前言うてたチラシできたんやね。もらっていい?」
「はい。なかなか受け取ってもらえなくて困ってたところです。」
「ようできてるやん!たいしたもんやな、ゆかりちゃん。あと何枚くらい残ってんの?」
褒めてくれたが、チラシはあと50枚ほど残っていた。そしてもうすぐ店に戻って仕込みを手伝わなくてはならない。そのことを告げると水野さんは予想外のことを言った。
「そのチラシ、全部もらっていい?」
「え…そんなにたくさんどうするんですか?」
困惑しながら尋ねると、水野さんはニッと笑ってこう言った。
「今日の朝礼で部署の皆に配るわ。人数ぎょうさんいてるからな。」
申し訳ないと思っているとさらにこう続けた。
「せっかくゆかりちゃんが作ったんや。わが家の弁当もうまいし、広めたいやん。俺らはうまい弁当食べられるし、ゆかりちゃんのチラシは無駄にならんし、きっとお店も儲かるで。ええことずくめやん。」
そう言って豪快に笑った。水野さんの気遣いがうれしかった。行きつけの店の店員でしかない私に、ここまで優しくしてくれる。大人の余裕というかスマートさというか、こういうことをさらりとやってのける水野さん。期待しない、と決めていた私の心は揺さぶられていた。叶わぬ恋とわかっていても気持ちは止まらなかった。
夏もそろそろ終わる。チラシの件以来、より一層水野さんを意識するようになっていた。遅番の時のお喋りが何よりも大切な時間だった。カウンターを挟んだ他愛ないお喋り。このカウンターがなければもっと近づけるのかな、なんて考えていた。
「近くのコンビニでおにぎり100円セールをやっているからおにぎりが売れないです。」
売れ残ったおにぎりを袋詰めしながらぼやいた。
「そうやんなぁ。ゆかりちゃんはコンビニのおにぎりで何が一番好き?」
「鮭ですかね。やっぱ定番が好きです。」
「ゆかりちゃん、信用できる人やわ。」
笑いながら、妙なことを言う水野さん。
「どういうことですか?」
「俺の中の変な法則やねんけど、おにぎりの具で定番かつ和風なもんを選ぶ人って信用できる気がすんねん。」
無茶苦茶な理屈に思わず吹き出してしまう。
「なんですか。そのヘンテコな法則。」
「だってな、一番好きなおにぎりの具はオムライスです!って言うてる奴、なんか信用できひんやん。」
「気持ちはわかりますけど、オムライスってそもそも具じゃないですよね。」
「せやな。」
突っ込まれ笑う水野さん。豪快な笑顔は私に元気をくれる。その笑顔を眺めながら、一番近くでこの笑顔を見ている奥さんのことをふと考えた。うらやましさと決して自分はそのポジションにはなれないという現実はモヤモヤした煙のように私にまとわりついた。
モヤモヤを払いのけるように私は明るい声を出した。
「もう閉店なんで、この鮭おにぎりおまけしておきますね!」
秋が深まった頃から水野さんは夜来なくなった。今まで週の半分以上は来ていたがここ半月は一度も来ていない。
水野さんの来ない遅番は時間が経つのが遅い。今日は来てくれるかな、と淡い期待をしながら店に立つ。その淡い期待が裏切られ、今日も話せなかったと落胆しながらレジを閉める。忙しいのかな、それとも私が何かしたのだろうか。昼は相変わらず毎日来てくれるが、客数の多い昼の時間はほとんど話ができない。それに夜来ない原因が私だとしたら、と思うと話しかけられなかった。