遅番
関西出身者の多くは他所に移り住んでも関西弁が抜けないらしい。標準語で話しているつもりでもイントネーションで関西出身だとわかるのだ。
私は関西弁が好きだ。あの独特のイントネーションがたまらなく好きだ。特にあの人が私の名前を呼ぶときのイントネーションが。ゆかりちゃん、と呼ぶその声は「ゆかり」の部分の音程が標準語に比べやや高い。あの人が呼ぶと平凡なこの名前も特別な名前のように聞こえるのが不思議だ。
あの人は私が働いているお弁当屋にお弁当を買いに来る。オフィス街にある小さなお店。「わが家」という屋号の通り、気取らない家庭の味をコンセプトにしたお弁当やお総菜を作っている。私はこの職場が気に入っている。専門学校を出てなんとなく進路を決めかね、ここで働き始めて1年になるが、屋号の通りアットホームなよい職場だ。
昼の12時をまわり、オフィス街で働く人がお弁当を買いに来る。お店が忙しくなり始めた。あの人もそろそろやってくる時間だ。
「ほー。今日は日替わり酢豚と白身フライか。めっちゃ迷うなー。ゆかりちゃん、どっちが売れてんの?」
あの人はやって来るなり私の名前を呼んでくれた。優しく、まっすぐな声で。
「今日は酢豚のほうが売れてますね。黒酢が入ってリニューアルしたんでおすすめですよ。」
「ゆかりちゃんのおすすめやったら間違いないな。ほんなら酢豚で。」
「ありがとうございます!」
「ありがとう。」
いつもこれくらいのことしか話せない。でもこの時間を毎日心待ちにしていた。
隣では同僚の夏美さんがテキパキと動きながらよく通る声で別のお客さんと話している。
「あ、中山さん。髪切ったんだ!似合うー!!春らしくてカワイイ!私も短くしようかな。はい、白身フライね。いつもありがとう!今度どこの美容院か教えて。」
夏美さんみたいに気さくに話しかけられたら、もっとあの人といろいろ話せるのかな。
私はあの人のことをほとんど知らない。この近くのオフィスビルで働いていること。名字は水野ということ。そして、左手の薬指に指輪をしていること。
わが家は夜も営業している。客数の集中する昼と比べ、夜はゆったりとしている。それにしても今日は特に暇だ。ぼんやりしていると水野さんがやって来た。
「ここ、夜もやってるんやね。帰りはこの道通らへんから知らんかったわ。」
「水野さん!びっくりした!そうなんですよ。夜はお総菜も売ってるんです。今日はどうしてここに?」
「今から会社の飲み会やねん。ほんでこの道通ったらやってるから。夜もやってんねやったら助かるな。ちょいちょい来るわ。」
既婚者にもかかわらず夜もお弁当を買って帰る、ということに違和感を覚えさりげなく尋ねた。
「水野さん、一人暮らしなんですか?」
「ちゃうよ。嫁と息子がおんねんけど、晩飯はひとりのことが多いねん。息子がな、体操やってて、週3で練習行ってんねん。嫁が元体操選手でえらい力入れて練習にも付いて行ってて。他にも英会話やら塾やら。せやから大体別々。」
「大変ですね。」
私の言葉を「習い事をたくさんやっている息子が大変」と受け取った水野さんはこう続けた。
「うーん。俺はもっと友達と遊んだりのびのびやったらええ思うんやけどな。」
その言葉がいつもの水野さんらしくなく重く響いたので慌てて私は話題を変えた。
「そういえば今日飲み会でしたね。お酒好きなんですか?」
「そうでもないな。普段は飲まんし。今日は仕事の付き合いやからしゃーなしや。あ、そろそろ行かんと。」
「また寄って下さいね。」
「うん。また来るわ。おつかれ!」
おつかれ、と言ったその声はいつもの明るくて人懐っこい水野さんだった。
訊いてはいけないことを訊いてしまったかも、という気まずさはあったけれどいつも以上に話せたことがうれしかった。そして夜に来てくれたらもっといろいろ話せるかもと無邪気に喜んだ。
それから水野さんは宣言通り夜もお弁当を買いに来るようになった。夜の売り子は私一人のことが多いので自然とちょっとしたお喋りをするようになっていた。
「今、クーポン付きのチラシ作ってるんですよ。」
「そうなん!キャンペーンか何かあんの?」
「そうなんですよ。お弁当100円引きキャンペーンをやるんです。私、そのイラスト書いてるんです。」
「ゆかりちゃん、すごいな!絵、得意なんやね。」
「一応、デザイン系の学校行ってたんですよ。そっちの道には進んでないですけど。」
「若いんやし、今から何でもできるやろ。おっちゃん、うらやましいわ。」
「おっちゃんって。水野さんも若いじゃないですか。」
「ゆかりちゃんからしたら35歳なんかおっちゃんやろ。俺もゆかりちゃんくらいの時はそう思てたで。」
「水野さんはおじさんって感じしませんよ。」
「はは。ありがとう。イラストの完成楽しみやね。」
水野さんはいわゆる「人たらし」だ。誰にでも優しく、人懐っこい。その人柄とニコニコと愛想の良い笑顔、若干お喋りだと感じるほどの親しみやすい関西弁でどんな人とも仲良くなれる。普段は寡黙で厨房にこもっている大将も水野さんとは世間話をしているほどだ。
だから少し優しくされても、期待しすぎないようにと私は心にブレーキをかける。第一、水野さんは既婚者で私とは違うしっかりした大人だ。私のような小娘なんか相手にしないだろう。
でもいつか水野さんの隣を並んで歩けたらな、なんてそんな夢を見ていた。