弐幕 仮初の日常 下
ゆっくりと目を開く。薬品の特有の香り。ああ、夢から現実に戻ってきたのだな。そう感じる。
「遠坂さん、夕飯の時間ですよ」
看護師さんがベッドの横でそう告げている。ああ、そんな時間なのか……。
「どうもありがとうございます」
「どういたしまして。病院食ですから味が薄いかもしれませんが」
「健康のためには塩分の取りすぎなどが良くないのも事実。仕方ありませんね。でも、何でもかんでも減塩すればいいものではないと思うのは僕だけでしょうか?」
僕がそう言うと、看護師さんはクスリと笑った。
「私もたまにそう思いますよ。梅干しとか、たくあんとか……そう言う、本来ならばしっかりと塩味のきいているものはそのままの方がいいと思います」
「ですよね! 昔ながらの製法の梅干しやたくあん……一回食べてみたいなぁ」
うん、この看護師さんとは仲良くできそうな気がしてきた。
「では、他の患者さんにも食事を運ばなければいけないので、これで」
「はい。頑張ってください」
軽く会釈をして部屋を出ていく看護師さん。さて、ご飯の時間か……病院食って味はどうなんだろう……入院なんてしたことないから、想像もできない。まあ、まずは一口食べてみよう。
ん……悪くないかな。食事くらいは楽しみにできるような物であってほしいという意見があるのかもしれない。食欲は人間の三大欲求の一つだし。
ただ、しいて言うなら量が少ないのと、ちょっと味が薄いのが残念だ。まあ、健康面を考えるとどうしてもこうなってしまうのかもしれないけど。
贅沢なことに個室の病室だから、他に人はいない。なので、特に何事も無く食事を進めていく。
今、愛紗ちゃんはどこで何をしているのだろう。父さんと母さんに連れられて家にいるのかな……。
愛紗ちゃんの近くにいてあげるためにも早く退院したいな。こんな傷くらいでいつまでも入院しているわけにはいかない。そういえば、痛みが少し引いた気もするな……寝てる間に何かしてくれたのかもしれないけど、この調子なら退院もそう遠くないかも。
そんなことを考えつつも箸を進め、完食。えっと、食べ終わったお皿ってどうすればいいんだろう……回収に来てくれるのかな?
まあ、体がどれくらい動くのかを知るためにもナースセンターにでも行ってどうすればいいか聞いてこよう。
「そうと決まれば、よいしょ、っと……」
ベッドに座り、病院内用のスリッパをはく。そして立ち上がる……うん、特に支障はないね。その足で食器をもってナースセンターへと向かう。
「すいませーん。食べ終わった食器ってどうすればいいですか?」
「あら、わざわざ持ってきてくれたのですか。ありがとうございま……って、ひょっとして遠坂さんですか? 病院中で噂になってますよ! かわいい顔の男の子が小さな子を守るために刺されて入院してるって! 噂通り、かわいい顔つきねぇ!」
「あ、あはは…知らぬ間にすごいことに……」
「そりゃ、病院なんて言ったら一種の閉鎖空間だもの! そこで起きた変化はあっという間に広まるわ! と、とりあえず握手……」
そう言って看護師さんは僕に手を伸ばしてきた。まあ、応えても大丈夫……だよね? 若干ためらいつつも看護師さんの手を取る。
「わぁ、ありがとうございます! ヒーローと握手したって、担当している子供たちに自慢しちゃおうかしら」
「やめてください。顔から火が出そうです……それに、ヒーローの割にはちょっと情けないですし」
助けたはいいけど、刺されて気絶しちゃってるもんなぁ…それに、何をしたのか覚えてないし……話を聞きたいって人が来たらどうしよう。まあ、病室特定まではされていないようだし、大丈夫……だよね?
「それでは、これで失礼します。えっと、この後は何がありますか?」
「自由時間があって、後は就寝ですね。しっかり眠って体力を回復させてください」
やっぱり、そんな感じか。本の一冊でもあれば暇つぶしになっただろうけど……そう言えば、僕はどんな状況で愛紗ちゃんを助けたのだろう。オープンキャンパスが終わって家に帰ろうとしたところまでは覚えているんだけど。その後どうやって……いたた。考えると頭が痛くなるな。
まあ、無理に思い出す必要もないか。僕は愛紗ちゃんを助けた。その過程で胸元をナイフで刺された。それだけだ。
さて、後は寝るぐらいしかないのか……もうたっぷり寝ちゃったもんなあ。眠れるかどうか不安……と思いつつも、たぶん眠れるだろう。僕はどちらかというといくらでも眠れるタイプだし。
とりあえず、病室に戻ろう。ここにいつまでもいてもしょうがない。
「ん~……いてて……のびをすると痛いな……」
ぶつぶつ言いながら病室にたどり着き、ベッドに再び座る。
「僕の荷物はこれだな……面白い本が入ってればいいんだけど……」
ごそごそと鞄の中をさばくる。えーっと……教科書ばかりで面白そうな本はないなぁ……ん? こんな本、入れてたっけ?
そう思いながらその本を取り出す。その表紙には聖女と害虫という聞き覚えのあるタイトルが書いてあった。これ……今朝里奈さんが読んでいた物じゃないか?
表紙をめくると、ひらりと一枚の紙が落ちた。何か書かれているようだけど、っと……。
「えーと、なになに…」
そこには見覚えのある四種類の筆跡でこう書かれていた。
“心配かけんなよな、シン”
“お前らしいけど、自分の体や命を大切にしろよ”
“先輩からは一言。よく頑張ったね!”
“命が助かってよかったです。次があったら、その時は私にも手伝わせてくださいね”
「……そっか。みんなにも心配かけちゃったんだな」
紙を見てそう悟る。里奈さんを通じて伝わったのだろう。それでわざわざこの病院まで来て、メッセージを残して帰っていった。うれしいことだね。そして、この本は入院中の暇つぶしには十分だろう。ゆっくり、しっかり読ませてもらおう。
「退院したら、お礼を言わないとな……」
つぶやいてベッドに横たわる。とりあえず、少しだけ聖女と害虫を読んでみようかな。
横になったまま聖女と害虫を開く。えーと、なになに…“これは、ニンゲンと、バケモノの物語。”か。里奈さんの言っていた通りだな。禁断の恋の行方はいったいどうなるのだろう……。
そんな感じで読書に没頭する。なかなか面白く、時間を忘れて読んでいると、扉をノックする音が響いた。
「はい、どうぞ」
入ってきたのは看護師さんだった。僕が本を読んでいるとみると少し申し訳なさそうな顔をした。
「すいません、消灯時間なので……」
「あ、そうなんですか。わざわざありがとうございます」
聖女と害虫についている栞代わりのひもを挟んで、机の上に置く。続きはまた明日だ。なかなか長い話だから、まだ数日は楽しめそうだな。
「それでは、おやすみなさい」
「はい。お仕事ご苦労様です」
挨拶を済ませると看護師さんは部屋を後にした。やることもないし歯を磨いたら眠ってしまおうかな……って、歯ブラシあったっけ……。
ベッドから起き上がり、机の棚の中などを探してみる。お、よかった。父さんたちが持ってきてくれていたようだ。スーパーのビニール袋の中に一式用意されていた。着替えやタオルも入っている。汗を拭くくらいはしておこう。できればお風呂に入りたいけど……。
とりあえず、患者服を脱いで体をタオルで拭く。そしてビニール袋に入っていた下着とパジャマに着替える。うん、着慣れている方がいいね。気分が楽だ。
月明かりを頼りに病室の中を歩き、簡易洗面台にたどり着く。歯ブラシを濡らして、歯磨き粉をつける。そしてやや強めに歯を磨く。もちろん、歯茎の方は優しくマッサージするようにするけど、なんか強くやると汚れが取れそうな気がするんだよね。
まあ、そんな感じで歯を磨き、口をすすぐ。さて、後はベッドに入って休むだけだ。
もっとも、ここ最近の夢見の悪さから考えて、ゆっくり熟睡できるかどうかは不安だけど……。
‡ ‡
「……で、結局こうなるのか」
ふと気が付くと夕方ごろにも見た映画館にいた。さすがに夢だという事はもうわかりきっている。
「さてと……夢だとわかっているけど、目覚めることはできない……僕の心理状態の表れを見るしかないかぁ」
とりあえず、座っている席から立ち上がる。さて、今度は何だ? 予言者気取りの仮面に僕の分身。これだけいろいろなことが起こると、もう何が起きてもおかしくないだろう。
「そうですね、あなたがそう考えるのも無理はない」
その声に右を向く。そこには、白服の僕が立っていた。喋っていないけど、黒服の僕も立っている。二人の僕は僕を中心として立っている。
「……ああ、また分身系? まあ、もう好きにしゃべってよ。聞き流しておくから」
やれやれだ。そんな気分で座席に座り直す。
「なら、好きにしゃべらせてもらうとするか」
立ち上がり、僕の方へと歩み寄りながら黒服が喋り出す。
「ところで、分かってるんだろうな? 俺たちの使命」
「あなたは出しゃばらないでください。ですが、我々に使命があるというのは事実です。あなたはどう考えているのですか」
黒服を一瞥した後に僕の方を見てそういう白服。使命か。今思い浮かぶのは一つだけだな。
「愛紗ちゃんを守る、ってことだろ。当然果たすさ。はい、これで満足?」
決意の再確認のためにこの夢を見ているのだろうか。だとしたら返しが適当すぎかな。まあいいか。愛紗ちゃんを守る。それは僕の中で確かな決意として存在するのだから。
「分かってるねぇ。えらいえらい。ははっ!」
僕の肩を叩きながらそう言う黒服。結構強くたたかれているから痛い……ん? 痛い? 夢の中なのに?
「彼女は我々が何としても守らねばならない存在です。最優先防衛対象と呼んでもいいでしょう。彼女無しでは、我々どころか、あなたの存在すら危ぶまれる」
……? 愛紗ちゃん無しでは僕の存在が危ぶまれる? どういう意味だ?
「今の、どういう意味? 愛紗ちゃんがいないと僕もいなくなる……? そうとっていいの?」
「ええ。彼女が居なければ我々は存在してはいないでしょう」
「同感だな。ま、いろいろあるのさ」
どすん、と僕の隣の席に座る黒服。それを見て白服も静かに僕の隣に座る。
「さて。どうなさるおつもりで? 我々は、そこを考えるべきだと思うのです」
「そうだな。俺たちが存在できるかどうかの瀬戸際だからな」
「さっきからそう言ってるけど……愛紗ちゃんに何があるっていうんだ? 話が見えないよ」
どうして愛紗ちゃんがいないと僕もいなくなるんだ? そこが分からない。
「ま、隠せるようなことじゃねーけどよ……今は教えらんねー。だろ? 白いの」
「あなたの言う通りですね。今はまだです。教えるには早い。私もそう思います」
二人そろってそれか……まあ、愛紗ちゃん云々は守り切れないと自責の念に押しつぶされるという事だろう。たぶんそれくらいの事だ。
「まあいいや。所詮夢なんだ。意味が分からない夢なんていくらでもある」
そう言って目を閉じる。白服と黒服の言葉に興味を失ったからだ。
……それにしても、この夢からはいつ覚めるんだ? そろそろ目覚めたいのだけど。こんな夢、いつまでも見ている気にはならない。
「……夢、ですか。あなたがそう思っているうちは、私の伝えたい言葉は伝わりそうにありませんね」
そう言ったのは白服だろう。落胆した様子だけど、知るものか。夢の登場人物がどうなろうと興味はない…そりゃ、化け物に殺されるところを見れば夢見が悪いくらいには思うけれど。
「とりあえず、これだけは覚えとけ。神野愛紗には気をつけろ。あいつは……お前が知らなくていいことまで知っている」
「は?」
その言葉に思わず目を開く。しかし、僕の隣にいたはずの黒服は姿を消していた。そうだ、白服の方は? そう思って反対側を向く。
しかし。
「白服もいなくなっている…?」
視線の先には……いや、違う。劇場の中には、もう僕しかいなかった。
「……さすが夢。人が消えるのもありってわけだね」
それにしても、黒服は何が言いたかったのだろう。夢とはいえ、いや。夢だからこそ気になる。夢は、記憶の整理をするための脳の働きだという説があるのだ。それが事実だとしたら、僕が忘れてしまっている何かを思い出そうとしている……とか。黒服と白服は僕の潜在意識の表れで、その何かを思い出そうと必死になっている……とか。
所詮夢だ。そう断じるのは簡単だけど、何かが僕の中で引っかかっている。
「夢……本当にこれは、夢……?」
そう思い悩んでいると、上映のブザーが鳴りだした。しかし、前と同じく何か映画が始まるわけではない。徐々にブザーの音が大きくなり、そして……真っ暗になった。
‡ ‡
「……またこのオチか」
目覚めると同時にポツリとつぶやく。何度同じ終わり方をするんだ、この夢は……。
「……はぁ。でも、肩を叩かれた時、確かに痛かったんだよな……どういう、ことなんだろう……」
ぶつぶつと呟きながら起き上る。そう、夢の中なのに痛かった。痛覚のある夢……それはありえるものなのだろうか。
って、何を悩んでいるんだ。ここは病院じゃないか。スペシャリストの集まりの中にいるんだ。ここで聞かずしてどこで聞くのか。
「おはようございます、遠坂さん。早起きなんですね。朝食の時間ですよ」
そう思っているところに昨日と同じ看護師さんが朝食と薬をのせたおぼんを持って入ってくる。よし、少し聞いてみよう。
「ええ、生活習慣を正すのは大切なことですから。ところで、ちょっと聞きたいことがあるのですが……看護師さんは痛覚のある夢がありえるかどうか知っていますか?」
「痛覚のある夢、ですか…その部位によっては危険かもしれません。まだ自覚症状すらない臓器の悲鳴だという説もあるので……どこなんですか?」
臓器の悲鳴……そういう感じではなかったな。
「夢の中で肩を強く叩かれて……そこが痛くなりました」
「肩を……ですか。分かりました。夢に詳しい先生がいるので、話を通しておきますね」
「すいません……助かります」
「いえいえ。看護師として当然ですよ。それでは、私はこれで……おっと、忘れるところでした。その薬、食後にちゃんと飲んでくださいね。鎮痛剤なので、ないと大変なことになりますよ」
そう言って看護師さんは病室を後にした。とりあえず、これで夢の話は何とかできるだろう。さて、後は何があるか……せっかく入院したんだ。不安なことは片っ端から聞いておこう。
でも、今一番不安なのは僕自身の事じゃない。
「愛紗ちゃん……」
僕にできた、大事な妹。彼女の精神状態が何より心配だ。家族が皆殺しにされてしまった。それを聞かされて、あの年頃の女の子がまともでいられるのだろうか?
そう考えると、こうして入院していられるか、という思いも浮かぶ。早く退院して、彼女の近くにいてあげたい。どうにか退院できないものか。
そういえば、胸の傷はどんな状態になっているのだろう。小町さんはグロイ物を見たくないなら見るなと言っていたけど……それほど痛みもないし、深いけど大した傷じゃないかもしれない。まあ、痛みを感じないのは鎮痛剤のおかげなのかもしれないけど。
ちょっとだけ見てみようか。そんな考えも浮かぶけど、しっかりと包帯が巻かれているのだから下手に取るのはまずいだろう。厚いガーゼまでつけられているのだ。命に別条はなくとも、それなりの傷だという事だろう。
「小町さんが来たら聞いてみようかな…そうだ、薬を飲まなきゃ」
薬が切れた時の事を思うとちょっと怖いものがある。急いで食べて、急いで飲もう。
今日の食事は……ご飯に煮魚に……つまるところ、和食か。まあ、低カロリーで栄養バランスもいいし、当然かもしれない。僕は好きだからいいけどね。
「はぁ……ケガしただけなんだから、もうちょっと量がほしいなぁ……」
おかわりとか……出来ないよね。病院食も悪くはないけど、早く家の食事に戻りたい……。
男子大学生にとっては少ない量の食事を済ませ、おぼんの上に乗せられた薬を水と共に飲み込む。よし、これでしばらく普通に活動できる……はず。
「……病院、抜け出しちゃおうかなぁ」
思わずそんな言葉をつぶやく。鎮痛剤が切れる前に戻ってくれば僕には問題ない。でも、そんなことしたら病院は大騒ぎだよなぁ……。
「おいこら、なに呟いてんだよ」
そんな僕の呟きに思わぬ返事が返ってくる。というか、この声は聞き覚えがあるぞ?
「礼尾……どうしてここに?」
「礼尾だけじゃねーぞー」
「先輩もいるよ~っと」
礼尾の後ろから双葉と先輩も顔を出す。
「え? みんな……来てくれたの?」
「そうですよ。慎一さんが心配でしたから」
二人のさらに後ろから里奈さんが歩み出てくる。
「昨日も来てたんだけどよ、シンは疲れて眠っちまった、っつーから本だけ渡して帰ったんだよ。命に別条はねーって院長も言ってたし……」
「ま、そういう事。あたしたちの事、ダチが入院するようなケガさせられたって聞いて見舞いもしないような奴だとでも思ったのか?」
「先輩も後輩の事が心配でね~? 勉強どころじゃないよ~って思って、学校前の空き時間に来ちゃった~」
皆が口々に言う。その言葉は間違いなく僕を心配するものだ。こんなにいい友達と先輩を持てて良かったと思える。
「みんな……ありがとう。でも、学校に遅刻しないようにね。それと、早起きもしただろうから授業中に寝ないように……」
「ふふ、慎一さんったら、先生みたいですね。大丈夫ですよ、そのあたりは気を付けています」
「俺は寝るかもな」
「そしたらあたしが張り倒して起こしてやるから安心しな」
「それは別の意味で寝ないかにゃ~?」
みんなと談笑を楽しむ。それは入院という普段と違う状況で楽しむいつも通りの日常のように感じられて。
「それにしても、皆ずいぶん早くに来てくれたね。面会時間ってそんな早くからだっけ?」
「入り口で偶然院長にあってさ。あたしたちが昨日も来たこと知ってたから、特別に入れてくれたんだよ」
「友を想う心…それが伝わったってわけだ」
そう言って本人はかっこいいと思っているであろう表情を浮かべる礼尾。
「決め顔乙。そんなことより……みんな、ありがとう。さて、退院はいつになるのかな……小町さん、何か言ってなかった?」
「すみませんが、そこまでは聞いていなかったです。ですが、元気そうだから検査終ったら退院でいいんじゃないか、みたいなことは言っていました」
「そっか。それじゃあ、戻れるのは割とすぐかも。さあ、授業に遅刻するといけない。そろそろ学校行きなよ。学校からここまで、二駅くらいはあったでしょう?」
「そだなー。ま、元気そうで安心したわ。長引くようならまた来るからよ。じゃあな!」
「病院抜け出そうなんてするんじゃねぇぞ、慎一」
「学校の先輩はク~ルに去るよ~」
口々に別れの挨拶をしながら病室を後にしていく面々。
「……あの、慎一さん」
その後姿を見送っていると、里奈さんが振り返り、こちらに戻ってきた。どうかしたのかな?
「その……昨日はすいませんでした。暴漢の相手なら、私が行くべきだったんです。武器を持った相手との戦闘術も習っていましたから……そうしたら、慎一さんがこんな傷を負う事は……」
胸に手を当て、沈痛な面持ちでそう口にする里奈さん。
「確かにそうかもね。でも、そうしたらケガをしていたのは里奈さんだったかもしれない。仲のいい友達がケガするくらいなら、自分がケガしたほうがいい。僕はそう思うよ」
「慎一さんなら、そうおっしゃるだろうと思っていました……でも、私もそれと同じことを思っていると分かってください。大切な人が傷を負うくらいなら……」
胸に当てていた手をぎゅっと握ると、里奈さんは病室を駆けだしていってしまった。うーん、僕の事を大切に思ってくれているのはうれしいけど、あそこまで行くと思い詰めている、って感じだな……何かしなければいいんだけど。
その後、少し時間があく。愛紗ちゃんだけでなく、里奈さんの事も心配になってきたから、その事を考えながら過ごす。
でも、今の僕にできることはほとんどない。早く退院しなきゃ、という結論に落ち着いた。
さて、それが済んだところで朝のニュース番組でも見たいところだけど……病院のテレビってたしか専用のカードが必要だったよね。買ってこなくちゃ。カードを売っているのがどこかは……まあ、例の看護師さんにでも聞いてみようかな。
そう考えてベッドから出て靴を履く。鞄から財布を取り出し、ナースセンターへと歩みを進める。
「あの、すいません。テレビを見るためのカードを買いたいんですけど、どこで売っていますか?」
「あら、遠坂さん。それだったら、病院の出入り口のあたりにありますよ。案内しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと迷うかもしれませんけど、動きたい気分なのでそれでちょうどいいんです」
「そうですか。では、お気をつけて」
病院の出入り口のあたりか……途中で傷が痛みださなければどうとでもなる距離だな。のんびり歩こう。
病院のロビーまでやってきた。そこでふと、一人の男性の存在に気が付く。大柄な体にまとわれた衣服は黒に統一されていて、喪服を、そうでなければ影を思い起こさせるものだ。
だけど、僕が興味を惹かれた理由はそれだけではない。鍛え抜かれた肉体、そして顔に走る一筋の大きな傷跡に鋭い目つき。只者ではないだろう、と直感する。
そして、もう一つ興味を惹かれた理由がある。それは――こちらを、じっと見ているから。
おかしいな……あんな人、一旦関係を持ったら忘れるわけが無い。誰かと間違えているのかな?
そう思っていると、男の人はこちらへと歩み寄ってくる。それと同時に、違和感を覚える。
僕はこの人を知っている……?
分からない。一切交流なんてないはずなのに、なぜかこの人との間には何かがあった、そういう気がするのだ。いったいなぜ……?
「……胸の傷の経過は、どうだ」
近くまでやってきた男の人は、ぼそりとつぶやくようにそう言った。僕が入院している理由が胸の傷のせいだと知っている? おかしいな、服の上からではそんなことは分からないはずなのに……。
「良好ですが……あなたは、誰ですか?」
そういうと、男の人は口の端をゆがめた。
「さすがはイナリココ……といったところか」
男の人がそう呟く。その直後、突如激しい頭痛に襲われる。
イナリココ。イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ イナリココ――激しい頭痛の中、その言葉だけが頭の中で繰り返される。
イナリココ? なにそれ? 人? 物? それとも、それ以外の何か? あまりの痛みに床に崩れ落ちながらも、必死に考える。
だって、僕はその言葉を知っている気がするのだから。
「慎一お兄ちゃん!」
頭痛に苦しんでいると、聞き覚えのある声が病院のロビーに響いた。
「愛紗……ちゃん……?」
「そうです。慎一お兄ちゃん、大丈夫ですか……?」
僕をあんじてくれているのだろう。肩に手を触れ、じっと僕の方を見ている。
「……うん、平気。大丈夫だよ」
頭が割れそうな頭痛に耐えながらそう答える。
僕の言葉を聞くと、愛紗ちゃんは男の人の方に向き直った。
「……お兄ちゃんから離れてください」
「…………」
後ろからだから、愛紗ちゃんの表情は分からない。だけど、その声は非常に険しいものだった。
「……失礼した」
そう言い残して男の人は病院の外へと歩いていった。でも、頭痛はやまない。なぜ? 僕は鎮痛剤を飲んでいるのになぜこんな痛みを感じているんだ…!?
「……慎一お兄ちゃん、これから私が言う事をよく聞いてください」
僕の事をそっと抱きしめ、愛紗ちゃんは耳元でささやく。
「慎一お兄ちゃんは何も知らない。何も覚えてない。そして、何も思い出す必要はない……ゆっくり平和な日々を過ごせばいいのです。分かりましたか?」
愛紗ちゃんの言葉を聞いていくうちに、頭痛は和らいでいった。男の人の言った言葉に対する関心も薄まっていって……って、あれ? あの人、僕になんていったんだっけ……?
「お兄ちゃん、もう平気ですよね?」
「え……あ、うん。すごく楽になったよ」
僕がそういうと、愛紗ちゃんは安心したように微笑みながら離れていった。あれ? なんて言われたんだっけ……なんか、すごく大人っぽい声で言われた気がしたんだけど……。
まあいいや。考える必要はないよね。そんなことより、テレビのカードだ。
「そういえば、愛紗ちゃんはどうしてここに?」
立ち上がってふと気が付く。どうしてこの病院に愛紗ちゃんだけが来たのだろう。あたりを見渡してみても、父さんや母さんの姿は見えない。
「ゆきえさんに頼まれて、しんいちおにーちゃんの様子を見に来ましたです」
「母さんに? あ、そうか。二人とも新婚旅行から帰って来たから、いろいろやることがあるのかな」
「はいです。ゆきえさんも、えいじさんも、とても忙しそうでした」
父さんたちは新婚旅行から帰るとその旨を会社に報告したり、仕事先にのろけたり、お土産の整理をしたり、親戚にのろけたりしている。あと、旅行先であったことをネタにいちゃついたりする。こういうと恋愛自慢をしているだけのように聞こえるかもしれないけど、実際は旅行のための有休をとった間にたまった仕事をやったりするからそれなりに忙しいらしい。
「まったく、あの二人は……まあ、僕は見ての通りだよ。さっきはちょっと頭が痛かったけど、今は平気。今すぐ退院したいくらいだよ」
そう言ってほほえむ。愛紗ちゃんに心配はかけられない。
「むりしちゃだめですよ? ケガだって、まだ治りきってないはずです」
「ん~……でも、傷口が開かないようにしてくれてると思うから、退院できるのもそう遠くないと思うんだけどな。痛みもないし」
昨日の夕方ごろに寝るまでは確かに痛かったけど、そこから後は痛んだ記憶が無い。寝てる間に鎮痛剤の投与だとか、何かしてくれていたのかもしれない。
「とりあえず、立ち話もなんだから、病室まで行こうか。あそこには椅子もあったことだし……っと、その前にテレビ用のカードを買わなきゃ」
病院の出入り口に置いてある自販機のところまで歩いていき、テレビ用のカードを買う。よし、これでようやくニュースが見られる。
「お待たせ、それじゃあ行こうか」
「はいです!」
僕を先導するかのように前を歩く愛紗ちゃん。こうして見ていると元気そうだけど、実際のところはどうなのだろう。少なくとも、平気なわけが無い。家族がみんな殺されてしまったなんて言われたら、僕だって衝撃を受ける。それが事実だとわかれば、心に深い傷を負う事だろう。それが、愛紗ちゃんくらい幼い女の子だったら? もっとひどくなることは間違いない。
きっと、無理をして明るくふるまっているのだろう。そう思いながら病室にたどり着き、愛紗ちゃんと共に中に入る。
さて、ついてきてもらったはいいけど何を話そう。父さんからは傷心を癒してあげてほしいと言われているけれど……僕なんかに何ができるのだろう。いきなり天涯孤独になってしまった少女の傷心なんて、凄腕のカウンセラーレベルじゃないと癒せない気がするのだけど。
でも、何とかしてあげたいのも事実……うーん……どうしたら……。
「さてと、テレビでも見ようか。でも、この時間帯だとニュースぐらいしかやってないかな?」
とりあえずは薬にも毒にもなりそうにない話題から始めよう。そう考えて口に出す。
「そうですね。でも、いろんなことを知れるのでいいと思いますです」
「やっぱり、愛紗ちゃんは勉強熱心だね。学校の勉強もそんなふうに取り組めているのかな?」
「はいです……楽しくなくてもいつかは役に立つからって、お母さんに言われていましたから」
そういう愛紗ちゃんの顔は悲しげだ。まずい、地雷を踏んだ。何とかしなくては……!
「そうだね。僕も母さんによく言われていたよ。将来のためになるからって」
とりあえず、何か話さなくては。その一心で話を進めていく。
「入試ではたしかに役に立った。でも、社会に出てからはどうなのか…それは僕にもまだわからないや。でも、いい学校に入っておいた方が社会に出る時に役立つっていうのも、事実なんだよね」
「……そうですね」
だめだ、自分でも何を言えばいいのかわからない。ええい、とりあえずここは……!
「だから、これからも頑張ろう? 大丈夫、分からないところは僕が――ううん、お兄ちゃんが教えてあげるから」
そう言って微笑みかけ、頭をそっとなでる。僕の事をある程度信頼してくれているのなら、少しは元気になってくれると思うんだけど……。
「……おにーちゃん……!」
そう思っていると、ふいに愛紗ちゃんが抱き付いてくる。
「お母さんたち、ほんとうに…死んでしまったですか? お母さん、もう、わたしに勉強しなさいって……いってくれないのですか? よくがんばったねって、あたまをなでてくれないのですか?」
ああ……やっぱり、嘘だと思って何とか自分を保っていたんだな。
でも、母さんがそんな嘘をつく理由はない。それが事実なのだろう。
「愛紗ちゃん……」
でも、なんて言えばいい? 本当の事だって分からせて、絶望させろとでも? 嘘だと思わせて、事実から目を背けさせる? でも、そんなこと永遠にはできない。
……結局、僕は無力だ。
「……愛紗ちゃん。いや、愛紗。愛紗は、僕の妹だ。何かつらいことがあったら、一緒に背負う。だから、はっきり言うね……愛紗の本当の家族は、もうみんなこの世にいないんだ」
「……っ! う……ぐすっ……」
「僕なんかの胸でよければ、愛紗が落ち着くまでずっと貸す。だから……後を追うだとか、そんなことはしないで。愛紗は生き延びてしまったんじゃない。生き残らせてもらったんだ。愛紗が死んだりしたら……天国の家族まで泣いてしまうよ」
「うん……うん……っ!」
そっと抱き返し、頭をなでる。
その時、何か変だ、そう感じた。
なんて言えばいいのかわからない。頭の上に、常識ではありえないような何かが、あった、ような……。
いや、今はそんなことを思っている場合じゃないな。愛紗が泣き止むまでそっと抱きしめていてあげよう。
しばらくして、愛紗は僕から離れていった。
「もう大丈夫?」
僕がそう聞くと、愛紗はそっと頷いた。
でも、それは表面上に過ぎないだろう。家族の死なんて、こんな簡単に乗り越えられるものじゃない。僕だって……いや、僕なんかと比べてはいけない。失った時の年齢も、人数も違うのだから。
「そうだ…おにーちゃん、いっしょに来てほしい所がありますです。来てくれますか…?」
「もちろんいいよ。あ、でも外出許可とか取らなきゃダメなのかな……まあ、そんなことはどうでもいいや。それで、どこに行きたいの?」
愛紗ちゃんくらいの女の子が行きたい場所か……うーん……どこだろう。
「……わたしの、おうちです」
その声は震えていた。言葉の意味を理解して、僕も動揺する。
愛紗の家。つまり、家族が殺された現場へと行くという事。そこに行けば、家族が皆殺しにされたという事をいやでも認めなくてはいけない何かを目にするかもしれない。
たしかに、母さんや僕から家族は皆殺しにされたと聞かされてはいる。でも、今の愛紗はそれだけだ。確証を得るような何かは目にしていない。そして、そんなものを見てしまったら? ひょっとしたら、心が壊れてしまうかもしれない。
愛紗はそれを理解しているのだろうか? 理解したうえでそう言っているのだろうか?
「……愛紗、どうして家に行きたいの?」
「おとーさんや、おかーさんにもらった大事なものが、いっぱいあるからです。おとーさんもおかーさんもいなくなってしまったなら……せめて、それぐらいもっておきたいです」
遺品、という事だろうか。たしかに、それを持っておきたいと思う気持ちは分かる。でも……。
「愛紗が見たくないものをたくさん見る事になるかもしれないよ? それでもいいの?」
最悪を考えると、どうしても止めたくなる。だから何度も確認してしまう。
「……わたしがよわいことは、よくわかってますです。だから、おにーちゃんにいっしょに来てほしいです。そうすれば、わたしがおかしくなってしまってもおにーちゃんが助けてくれますから……おにーちゃんにはめいわくだってわかってます。でも……」
愛紗は、僕が思っているよりずっと大人で、しっかりしているのかもしれない。愛紗の言葉を聞いてそう思った。自分がおかしくなってしまうかもしれない物を見に行く覚悟…僕が持っていない物を持っている。だめだな、僕は。こんなんじゃあ、愛紗を支えることができるかどうか……。
「……分かった。そこまで覚悟ができているのなら、一緒に行こう。愛紗がどうなっても、僕が支えてみせるから」
愛紗の方へと手を伸ばし、そう告げる。
「はい……! ありがとうございますです!」
そう言って愛紗は僕の手を取った。
「さて……あとは病院を出られるかどうかなんだけど……」
コンコン。そう口に出したとき、ノックの音が響いた。
「はい、どうぞ」
返事を返すと、扉が開かれる。
「はい、どーも。院長先生の回診の時間だよ」
「なんだ、小町さんでしたか」
「なんだとはなにさね。なにかい? 私以外に見られたらまずいようなことをその子にしていたのかい?」
「どういう意味ですか、それは……僕たちは愛紗の家に大事なものを取りに行くという話をしていただけです。なので、さっさと退院したいんですけど。あるいは外出許可をください」
僕がそういうと、小町さんはこらえきれないといった様子で笑った。
「何も、そんなむきになるこたぁないじゃないか。なるほどなるほど。まあ、そんだけ元気なら退院してもいいかもしれないねぇ。もともと様子見のためだったし……うん、とりあえず傷口見せな。鎮痛剤だけで大丈夫そうだと思ったら許可出してやるよ。と、いうわけだから脱ぎな」
言われたとおりに服を上だけ脱ぐ。包帯とガーゼで保護された傷口……うう、どれくらいの傷なんだろう。見ようと思いはしたけど、ちょっと怖いな……。
「どれどれ……ふーん。痛みとかはどうだい?」
「無いですね。鎮痛剤のおかげかもしれませんが……」
なんとなく傷口を見ないようにしながら小町さんと話す。
「そうかい。なら、もう大丈夫かもしれないね。分かった、退院手続きをするように幸衛たちに言っておくよ。ただし、薬だけは忘れずに飲むんだよ? 鎮痛剤がきれてものすごく痛いです、って言われても困るからね」
「分かってます。精神の薬と一緒に飲みますから、忘れたりしませんよ」
「それならいいんだけどね…そういえば、妙な夢を見たって? 何でも、痛みを感じる夢だとか」
その言葉にうなずくと、手を引かれるのを感じた。
「愛紗? どうかした?」
もちろん、僕の手を引くのは愛紗しかいない。愛紗の方を見てそう尋ねる。
「おにーちゃん……せいしんのお薬って、なんですか? おにーちゃん、心がつらいのですか……?」
不安げで、心配そうな視線。それを受けて失敗したかもしれないと気付く。
「昔、ちょっと辛いことがあってね…それがトラウマになっちゃってるんだ。でも、最近はそれを思い出すことも少なくなってきたから、薬は念のために飲んでいるだけ。だから、大丈夫だよ。心配するようなことじゃないからね」
軽く微笑み、頭をなでながらそう告げる。愛紗に余計な心配をかけるわけにはいかない。
「ま、そういう事さね。さて、痛覚のある夢の話だね……相談を受けた看護師も言ってたと思うけど、その部位が病気という可能性がある。まあ、根拠はまだ見つかってないけどね。いわゆるオカルトの分野ってわけさ……オカルトと言えば、他にも可能性があったねぇ。まあ、これは言うのもばかばかしいね」
他の可能性? ばかばかしいという事は、相当現実離れした話なのだろうけど……少し気になるな。考世学の人間としては知っておいた方がいい気がする。
「小町さん、念のためそのばかばかしい話を聞かせてはもらえませんか?」
「別にだめとは言わないさ……けど、本当にばかばかしいよ? まあ、聞きたいってなら話すけどさ……」
そう前置きをすると、小町さんはため息をついて話し出した。
「夢のようで、夢でない場所。精神世界とかいうらしいんだけどね……その世界では、自分の良心と悪心……漫画であるだろう? 自分の中の天使と悪魔が言い争うようなシーン。ああいうのがあったり、自分の中に秘められた別の人格がそれに応じた姿をとって現われたりするそうなんだよ。ね? ばかばかしい話だろう?」
くだらない、と思っているのが口調からもわかる。たしかに、普通ならあり得ない。普通なら。
なのに……なんで? どうして僕はそれが妥当だ、なんていうふうに感じてしまったんだ?
「慎一? どうかしたのかい?」
「あ、いえ。何でもありません。そんな話もあるんですね。都市伝説か何かですか?」
「ん~、だと思うんだけど……うちの患者の中にいるんだよね、それらしき場所に行ったことがあるってやつ。いったい何でそんなことを言い出したのかわからないけど……」
そう言って小町さんはため息をついた。やれやれ、といった感じだ。
「っと、もうこんな時間か……悪いけど、他の患者もいるんでね。私はこれで失礼するよ。まあ、傷が開かない程度にいろんなものを持ってきてやるといい」
「はい、そのつもりです。それでは、ありがとうございました」
小町さんが部屋を出て、再び愛紗と二人きりになる。
「さて、これで外に出ても大丈夫になったし……さっそく行くための準備をしようか。愛紗の大事なものがどれくらいあるかわからないけど、詰めるためのカバンとかは持って行った方がいいでしょう?」
「はいです。お洋服もけっこうありますです……ごめんなさいです」
「謝る必要なんてないよ。僕は愛紗のためならなんだってできるからね」
にっこりと笑って靴を履く。さて、まずは愛紗の大事なものを入れる物を取りに家に帰らないとな……。
「さ、行こうか」
「はいです」
病室を出て出入り口へと歩いていく。その途中で例の看護師さんと偶然出会った。
「あら、ヒーローさん。どちらへ?」
「退院して大丈夫とのことなので、ちょっと家に」
「ええっ!?」
僕の言葉に看護師さんは驚きを浮かべた。なんだろう、おかしなことは言ってないはずなんだけど……。
「運び込まれた時見ましたが、結構大きな傷でしたよ……? 本当に退院して大丈夫なんですか? でも院長先生が大丈夫だと判断したのなら……? うーん……」
ぶつぶつ言いながら看護師さんは歩いていってしまった。なんだろう……僕の怪我って、そんなひどいものなのだろうか。それなりにひどい傷なのだろうとは思っていたけど……でも、退院許可が下りたんだから、大丈夫……だよね?
うーん……ちょっと気になる。でも、包帯の下の傷口を見る勇気もなし……まあいいや。そんなことより、愛紗のために行動しなくちゃね。
「……まあ、気にせず行こうか、愛紗」
「はいです!」
愛紗と並んで歩いていき、病院の外に出る。うーん。日差しが心地よい……けど寒い。
「愛紗は、ここに来るまでなにで来たの? 歩いてくるには距離があるはずだけど…」
「幸衛さんが電車のおかねをくれました。なので、電車と歩きできました」
「そっか。それじゃ帰りもそうしよう。じゃあ、まずは駅まで歩こうね」
そう言って歩き出そうとすると、服の裾をクイクイと引っ張られた。なんだろう?
「あの……おにーちゃん。その……あのぅ……」
もじもじとした様子で僕の方に手を差し出している愛紗。ああ、そういう事ね。
その意味を察した僕は、その伸ばされている小さな手をそっと握った。
「これでよかった?」
「は、はいです」
顔を赤くして頷く愛紗。手をつなぎたいなら素直にそう言ってくれればいいのに。かわいいなぁ。
「……おにーちゃんは、本当にやさしいですね」
「そうかなぁ? 僕は当たり前のことをしてるだけのつもりなんだけど……」
「やさしいです。そうでないと、私の事を助けてくれたりしないです」
うーん、面と向かって優しいって言われると少し照れるな……あ、そうだ。
「いやなことを思い出させてしまって悪いけど、愛紗を襲ったやつってどんな奴だったの? 本当に、何も覚えてなくてさ……学校から友達と一緒に家に帰りだした、ってところまでは覚えてるんだけど」
警戒するためにも、これだけは聞いておかないと。
「そうなんですか? えっと……おっきいひとでした。おにーちゃんよりおっきいです。それで、オオカミさんみたいにこわい目をしていて……それで、顔におっきい傷がありました」
僕より大きくて、オオカミみたいに怖い目をしていて、顔に大きな傷…それって、もしかして……!?
「もしかして、愛紗が病院に来た時にいた、あの人……?」
「……はいです」
「…………!」
なんてことだ……あの人が愛紗を襲った男だなんて……!
「そんな危ない人から、僕を守ってくれたんだね……愛紗。ありがとう」
「でも、本当だったらおまわりさんを呼んだ方が良かったかもしれません……でも、おにーちゃんがあの人の前でうずくまってるのを見て、あの人に何かされたんじゃないかと思ったら、それどころじゃなくなって……」
「そっか。本当にありがとう。でも、そんな危ないこと、できるだけしないでほしいかな。僕だって、自分を守るくらいのことはできるから……ね?」
印象に残る顔だったから、覚えることはできた。これで、次があったら警察に通報とか、そういう事ができる。
「おにーちゃん……自分でつかまえたりしようと思っちゃだめですよ? あの人は……本当に危ない人ですから」
うつむき加減でそういう愛紗。たしかに、それを一番よく知っているのは愛紗だろう。
「分かってる。僕に万が一のことがあったら、愛紗、きっと悲しむでしょう? 大事な妹を悲しませるようなお兄ちゃんにはならないよ」
「なら、いいのです。おにーちゃんまで、いなくなってほしくないですから……」
はかなげな笑顔を浮かべながら、愛紗は言った。
「大丈夫だよ。僕はいなくなったりしないから」
その笑顔があまりにももろくて、今にも崩れ落ちてしまいそうなものだったから、思わずそう口にする。
「とーぜんです。おにーちゃんにはゆきえさんもえいじさんもいるんですから……おとーさん、言ってました。いちばんのおやふこうは、おやより先にしぬことだって。だから、おにーちゃんはしんだり、いなくなったりしちゃだめなんです」
「うん、そうだね……でも、愛紗もだよ? 今はまだ心の整理がつけられないだろうけど、新しいお父さんとお母さん……衛二父さんと幸衛母さんがいるんだから。ね?」
「そう……ですね。今はまだ、べつの人をおとーさん、おかーさんだと思えませんです……。でも、いつか……ほんとうに家族になれたらいいなと思います」
「そうだね。ちゃんとそうなれるように、僕もできる事ならなんだってするよ」
握っていた手をいったん離し、優しく頭をなでる。サラサラの髪は、ずっと触っていても飽きないような気さえする。
「さて、やっと駅に着いたね。まずは愛紗の切符を買わないと」
愛紗の身長では自動券売機は操作しにくいだろう。僕が代わりにやってあげないとな。
「えっと、ここを出発の、遠坂町まで、と……愛紗、切符のお金は持ってる?」
「はいです。これです」
愛紗からお金を受け取り、券売機に入れていく。そして決められた金額まで入れると、それを示す音が鳴り、切符が出てきた。
「それじゃ、これ持って。改札通っちゃおう」
「そうですね、電車のなかでゆっくり座ってましょうです」
そんな会話をして、昨日も同じような会話を里奈さんと双葉でしたな、と思った。さて、これで家までは一直線だから、のんびりできる。
さあ、午後は大変だな…どうなる事か。愛紗の事、しっかり支えてあげないとな。
弐幕 了