弐幕 仮初の日常 上
ふと気が付くと、僕は誰かに手を握られていた。片方は、とても小さな手だ。まだ小さな子なのだろう。とても暖かい。
もう片方の手は……あれ? この感触は、覚えがあるな。たしか、母さんの手もこんな感じで……。
そこでようやく目を開かなくては、という考えに至る。
「しんちゃん……良かった、気が付いたのね~?」
目を覚まして最初に聞こえたのはそんな声。この声音は、間違いなく母さんだ。
「母さん……どうしてここに? 新婚旅行、行ってたんじゃあ…」
「何を言っているの! 実の息子が刺されたと聞いて、そのまま旅行を続けられるわけないでしょう?」
刺された……? 僕が? そういえば、胸が痛い。ここを刺されたという事なのだろう。と、いう事は、ここは八重坂市立病院か。このあたりで病院と言ったら、そこのはずだ。
そうだ、母さんの方にすっかり意識を持ってかれていたけど、もう片方の手を握ってくれている人は誰なんだろう? ふと思って反対側を見る。
「しんいちおにーちゃん、だいじょうぶですか……?」
そこには見覚えのない女の子がいた。だけど、すごくかわいい女の子だな、と感じた。長い黒髪は一本一本が絹のようにサラサラで、キラキラと輝いているし、顔だって、かわいいとしか言いようがない。
「えっと……ごめん。君、誰だっけ……?」
「……おぼえて、ないですか…?」
しまった、失言だったみたいだ。僕の言葉に女の子のかわいい顔がゆがむ。瞳には今にも零れ落ちそうなほど涙がたまってきている。あわわ……どうしよう……。
「愛紗ちゃん、院長先生が言っていたでしょう? 刺されたショックでいろんなことを忘れてしまっているかもしれないって。だから、泣かないで? しんちゃん、この子は神野愛紗ちゃん。しんちゃんが助けた女の子よ。でも、名前を覚えてないってことは、そうしたことも忘れてしまっているのかしら……」
助けた……? どういう事だろう。
「ごめんね、愛紗ちゃん。僕と愛紗ちゃんの間に、何があったのか話してもらっていいかな?」
「……しんいちおにーちゃんは、こわい人に追いかけられているわたしを助けてくれました。で、でも、そのせいでしんいちおにーちゃんはこわい人にナイフで、刺されて……ぐすっ」
話の後半でたまっていた涙がとうとうあふれてしまった。涙声で語る愛紗ちゃん。
「そっか……愛紗ちゃんは、ケガしてないかな?」
「ぐすっ……はいです。しんいちおにーちゃんが助けてくれたので、どこもケガしてないです」
「そっか……ならよかった」
そう言って愛紗ちゃんの頭に手を伸ばそうとする。
「ちっともよくないです! わたしのせいで、しんいちおにーちゃんはケガをしたんです! だから、ちょっともよくなんかないんです!」
そう叫ぶ愛紗ちゃん。その叫びに思わず手を引く。たしかに、その通りかもしれない。でも、それでも。
「これでよかったんだよ。誰も死んでない。それに愛紗ちゃんはケガをしていない。それだけで十分さ」
そう、僕が覚えていないとはいえ、僕の選んだ道なのだ。その結果がどうなろうと、責任は僕が負うべきだ。それに、人が死んでいないのだから、紫織の時と比べれば……。
「でも……でも!」
「大丈夫。だって、僕がケガをしたのはこわい人のせいだもん。愛紗ちゃんが責任を感じる必要はかけらほどもない。ね、母さん」
「そうね~。しんちゃんの言う通りよ、愛紗ちゃん。愛紗ちゃんは何も悪くないの」
僕と母さんの言葉に愛紗ちゃんは戸惑っているようだった。何と答えればいいのか分からない、そんな表情で僕の手をぎゅっと握っている。
「あら、いけない。しんちゃんの意識が戻ったら衛二さんと小町を呼びにいかないといけないんだったわ~。ちょっと待っててね~」
そう言って母さんは病室を後にした。後には僕と愛紗ちゃんだけが残される。
「…………」
「…………」
二人そろって沈黙。うぅ、とても気まずい……何か話題を出さないと。
「愛紗ちゃんは、今いくつなの?」
「えっと……はっさい、です」
「八歳か。小学校二年生か三年生かな? 学校は楽しい?」
適当に話題を出して場を何とか和ませられないか試みる。
「はいです。おともだちとあそんだりします。おべんきょうは嫌いですけど……でも、知らないことを知れるのはとても楽しいです」
「そっか。それは良かったね。その年で知識欲があるのはいい傾向だと思うよ」
「ちしきよく?」
「あー……知らないことを知りたい、って思う心のこと。知らないことを知ることが楽しいのなら、十分あると思うんだ」
「知識欲……そういう意味なのですね。教えてくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。ちなみに、知識といえば孔子っていう人の言葉にこんなのがある。いろんないい方があるけど……是を知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。是知る也。つまり、分かることは分かる、分からないことは分からないと知っている。それが本当に知るという事なのだ。っていう意味。ちょっと難しかったかな?」
「無知の知と同じような意味ですか?」
「え、無知の知なんて言葉知ってるんだ……そうだね、似通った部分はあるかも」
ご両親にでも教わったのだろうか……小学生で無知の知を知っているって…ちょっと恐ろしいものすらあるな……。
そんなことを思っていると、再びドアが開かれた。
「ただいま、慎一。小町さんに聞いたが、あと数ミリずれていれば危なかったそうだよ。本当に幸運だったとしか言いようがない……」
そう言って入ってくる父さんと母さん。しかし、二人とも年の割には外見が若いよなぁ。
「こらこら衛二。そんな話より先にすることがあるだろうに」
そしてその後について入ってくるのは院長の江頭小町さん。院長先生がわざわざ僕の病室に来てくれるのは、両親と長い付き合いがあるからだろう。
「そうですね。慎一、大丈夫かい?」
父さんがそう口にすると同時に小町さんが父さんの頭をはたく。
「アホか。刺されている時点で大丈夫ではないに決まっているだろう?」
「いつつ……それもそうだ。慎一、生きていてくれて本当によかった。愛紗ちゃんを命がけで守ったこと、本当に素晴らしい行為だと思うよ。親として誇りに思うくらいにね」
「まあ、何をしたのか全く覚えてないけどね……」
苦笑しながらそう答えると、父さんはそうなのか、と言いたげにため息を一つついた。
「さて、意識も戻ったことだし、少し検査を受けてもらおうかね。なに、簡単な検査さ。手、だしな」
「……? はい」
小町さんの言うとおりに手を差し出す。すると、小町さんは白衣から何かを取り出し、僕の指にあてた。そして、その何かについているボタンを押し……って、痛い!?
「小町さん、今のはいったい……ちょっと痛かったですけど」
「ああ、血液検査用にね。ちょっとだけで十分だからこれで血を取ったってわけさ」
そう言う事だったのか……でも、それなら先に何をするのか言ってほしかったな…ちょっととはいえ、痛かったし……。
「ふぅん……で、何の血液検査なんですか?」
「まあ、いたって普通の検査だよ。せっかく入院してんだ、健康状態ぐらい調べていきな」
「そうですね……それもありかもしれません」
しかし、入院するほどひどい傷なのだろうか。今のところ、ちょっと痛いだけなんだけど……もしかして、鎮痛剤が効いているからこの程度で済んでいるとか? だとしたら、恐ろしい。
「ところで、入院ってどれくらい……?」
「ま、今日一日は様子見だね。それなりに傷はデカいから、鎮痛剤なしってのは厳しいかもしれないよ」
その言葉で、ふと傷はどれくらいなのかと思って胸元を見る。しかし、そこは包帯とガーゼが巻かれていて見る事ができない。
「それは取らないようにね。縫合はしてあるけど、グロいものを見たくないだろ?」
「……では、やめておきます」
こんなことを言うという事はそれなりの傷なのだろう。はあ、それじゃあ治るまではお風呂に入ることもできないのか……タオルで体を拭くのが限度だろうな。
「さて、それじゃ私は早速検査してくるとするよ。後はあんたたちでのんびりしてくんな」
そう言って小町さんは病室を後にした。
「さて……幸衛、あの事を話したいんだが……どうする?」
「私に言われても……でも、隠せるようなことじゃない以上、早い段階で教えた方がいいかもしれないわ~」
「そうだな……」
ん、何やらシリアスな空気。何の話だろう……。
「愛紗ちゃん、よく聞いてくれ。君は、今日から僕たちの家族だ」
「「……え?」」
僕と愛紗ちゃんの声が重なる。愛紗ちゃんが僕たちの家族に? それって、どういうこと?
「えっと……でも、わたし、おとーさんと、おかーさんのところに帰らないと……」
「……つらい話だけど、聞いてくれるかな?」
「……? はい」
父さんの真剣な表情……なんとなく察しがついた気がする。
「愛紗ちゃん、君のご家族は……もう、この世にいないんだ」
父さんが絞り出すようにその言葉を発する。ああ、やっぱりそういう事か……。
「……どういう、こと?」
「警察の人伝いに聞いた話だから、詳しいことは分からない。でも、君を狙って家に侵入した男によって、君以外の神野家の人々は…殺されてしまったそうだ」
「……!」
ずっと握っていた僕の手を放す愛紗ちゃん。
「……嘘。皆、強かった……そんなはずは……」
そう呟くように言う愛紗ちゃん。その目は驚愕に見開かれている。
「……ちょっと、一人になりたいです…」
そういうと、フラフラとした足取りで病室の外に出ていってしまった。これは、まずいかもしれない。
「母さん、後を追ってあげて。大丈夫だと思うけど、もしも後追い自殺でもしたら……」
「ええ。分かってるわ。それじゃあ、衛二さん。詳しいこと、しんちゃんに話してあげて」
「ああ、分かったよ」
母さんも出ていき、病室には僕と父さんだけになった。
「……さて、何か聞きたいことはあるかい?」
「なんで僕たちの家族になるのか、ってところは気になるかな。親戚の人とかはいないの?」
「残念ながら。で、施設に入れるくらいならば命の危ない所を助けてくれたお兄ちゃんの居るところの方がいいだろうと思ってね。信頼できる相手の有無。これはかなり大きいからね」
「そっか……だとしたら、最低だな。僕は」
もしも僕の事を信頼してくれていたのなら、僕はその信頼を裏切ってしまった。君は誰? と聞かれた時、どうしてあんなに動揺していたのか。それが今になってよく分かる。
「何があったのか知らないけど、自分を責める暇があるのならこれから愛紗ちゃんにどう接するかを考えた方がいいと思う。それは僕も同じだけど、ね」
そう言って視線を落とす父さん。愛紗ちゃんに自分は何ができるのだろう……そんな表情だ。
そんなの、僕が聞きたいくらいだ。いきなり家族がみんな殺されてしまったと聞かされた少女に対する接し方なんて、まるで分からない。
「まあ、できることをするまでだね。慎一、今あの子が一番信用しているのは、きっと君だ。優しくして、少しでも彼女の傷心をいやしてあげてほしい」
「うん……それにしても、義理の妹、か……僕なんかでいいのかな。だって……」
「慎一。いいんだ。あれは君のせいではないよ」
「…………」
だめだとわかっている。それでも、“妹”という存在は、紫織の事を思い出させる。
そう、僕の目の前で死んでいった、妹の事を。
紫織と愛紗ちゃんを重ねるなんて、してはならないことだ。それでも……どうしても、重ね合わせてしまいそうになる。
「まあ、今日はゆっくり休むといい。傷はそこそこ深いらしい。休んだ方がいいと思うよ」
「分かった。それじゃあ、おとなしく横になっているよ」
まあ、最初からずっと横になっていたわけだけど。そこは置いておこう。
とりあえず、入院するとなると時間はたっぷりできる。その間、一生懸命考えよう。愛紗ちゃんに笑ってもらうには、どうすればいいかを。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。愛紗ちゃんたちが何をしているのかも気になるからね。それじゃあ、また。連絡してくれれば必要なものを届けに来るから」
「うん、ありがとう。それじゃあ、また」
父さんも病室を出て、僕は病室に一人になる。
「……っ! 少し、痛くなってきたな…」
それと同時に、疲労感も感じる。話すだけでこれとは、傷は確かに深いらしい。
とりあえずは、寝てしまおうか。疲れた時には寝るのが一番だ。こんな痛みを感じながら眠れるかは、疑問だけど。
まあいい。疑問に感じる暇があったら行動してみよう。そう考えて、とにかく目を閉じて眠ろうとする。
それが結果をもたらすのには若干時間がかかった。でも、確かに眠気が押し寄せてきて……やがて僕は眠りに落ちていった。
‡ ‡
気が付くと、僕は椅子に座っていた。ここは……映画館? おかしいな、僕は病院にいたはず……そうか、これも夢か。最近、よく明晰夢を見るなぁ……。
「やあ、お疲れ様」
その男にも女にも聞こえる声に振り向く。そこには、あの仮面をつけた人物が座っていた。
「お疲れ様って何が?」
「それはもちろん、彼女を助けた事さ。ボクも彼女を助けてほしいと思っていたものでね」
「ああ、そう」
夢の中の登場人物と真面目に会話をするのもばかばかしいので、適当に流す。同じ人物が出てくるっていうのには何か意味があるのだろうか。
「本当だよ? そうでなければ、夢の中で練習なんてさせやしない」
「……そう言えば、そんな夢も見たっけ。そこにも君は出てきていたね」
「まあ、ボクもできることは可能な範囲でやっておかないといけないからね。そのためなら、予知夢くらいどうという事はないさ」
予知夢? まさかね。あの夢は荒唐無稽な、意味なんてないものだ。たまたま愛紗ちゃんを助けることに夢の内容がダブっただけで、予知夢なんかではない。
「ところでだ。君はプラスとマイナス、どっちが好きだい?」
突然話の内容が変わる。ああ、夢らしいな。話の筋がめちゃくちゃだ。
「プラス。もらうとか、得るとか……そっちの方がいいに決まってるじゃないか」
「かもね。でも、マイナスも悪い事ばかりじゃないんじゃないかな? たとえば、人に何かを与える。これは自分にとっては何かを失うというマイナスだけど、そのもらった人にとってはプラスだ。そこに喜びを感じる人もいるだろう。それに、世界を成り立たせるにはマイナスも必要だ。例えば、生物の死。これが無くては、世界は食糧危機か何かで滅びてしまう……いや、死なないんだから餓死しそうという苦しみを一生感じ続けるだけかもね」
「どうでもいいよ、そんなこと。まったく、自分の夢なのに訳が分からない……」
僕がそういうと仮面の人物は笑い出した。何がおかしいっていうんだ?
「集合的無意識って知ってるかい? 夢の世界がそこにつながっているとしたら、この夢は君だけの夢ではないかもしれないよ?」
「……だからなんだっていうだよ。何が言いたいのか理解できない」
「ふふふ、さぁて、何が言いたいのかな……君の想像に任せるよ」
ばかばかしいと言いつつも結構しっかり話してるな…まあ、別にいいか。どうせ夢なんだし。
「さて、そろそろおいとまするよ。君の中のプラスとマイナスがうるさいことだし」
そういうと、仮面の人物は陽炎のようにその姿を揺らめかせ、ゆっくりと消えていった。まったく、なんだったんだ……。
そう思っていると、今度はドアが開け放たれる音がした。なんだ? また誰か出てくるのか?
そう思ってしばし身構える。今度はまともな話をする人ならいいんだけど。あんまり訳の分からない話をするような人ばかり出てくると、自分の精神状態が不安になってくる。
どうやら出入り口へとつながる道は二つあるらしい。現実でも見られる、人の出入りをスムーズにするための工夫だね。夢でそんなものを見るのは、現実で見ていたからだろうか。
コツリ、コツリ。誰もいない、何も上映されていないうえに絨毯も敷かれていない劇場の中では足音がよく響く。その音は両側から聞こえ、徐々に近づいてきている。
コツリ。足音が止まる。
「「こっちへ」」
両方の通路からその声は聞こえる。その声の方を順番に見る。
そして、ここが夢の世界だという事を一層強く感じた。
その両方が、僕だった。片方は白い服を、もう片方は黒い服を着ている。遠目でわかるのはその程度だ。
二人とも右手をこちらに伸ばしてきている。こっちに来い、という事だろうか?
そう思った直後、ブザーが鳴り響いた。映画が上映される……?
しかし、スクリーンには何も映し出されない。ただ、ブザー音だけが鳴り続ける。その音は徐々に大きくなっていく。あまりの音量に、思わず耳をふさぐ。
だけど、そのブザーの中には声が混ざっているようにも感じて……。
そこで僕の意識は闇へと落ちた。