壱幕 異常な世界のカケラと日常の断片 下
暗い道、それは今朝も見たものだ。
「また……この夢?」
夢の中でつぶやくことができることに驚きながら、おそらく明晰夢だろうと結論付ける。
そして、暗い道を今朝見た夢と同じように少女と影のような化け物が走っている。
「……このままだと、今朝と同じかな」
頭がつぶされた少女の肉体は妙にリアルだった。まるで現実の様で…あんなものをもう一度見るのは嫌だ。
何とか助けることはできないだろうか……そう思っていると、体を動かせることに気が付く。よし、これなら何とかできるんじゃないか?
道の始まりに立っている僕は、急いで駆け出す。間に合ってくれよ……夢とはいえ、人が死ぬところなんて見たくない!
少女たちが行き止まりまでたどり着く。急げ……でないと、また頭の潰れた少女を見る羽目になる!
化け物がその体の一部を少女に伸ばしたところで、僕も行き止まりにたどり着く。
「させるか!」
影のような化け物にこぶしを繰り出す。走って生まれた勢いと、技術によって威力の高められたこぶしが化け物に命中する。よし……触れられるのならなんとでもなる!
そのまま何度も殴り、蹴る。一撃ごとに化け物は弱っていく様子を見せた。
「はあ……はあ……これで、終わりか?」
やがて化け物は動かなくなった。影の塊のようなその体が徐々に崩れていく。
パチ、パチ、パチ、パチ……突如、拍手の音が響いた。
「お見事だったよ。遠坂慎一君」
その男にも女にも聞こえる声は頭上から聞こえた。反射的に声の方を見る。
「本番でもそれくらいの事をしてくれるよね? 期待しているよ」
そこには、仮面で顔を、マントで体を隠した人間がいた。マント越しで分かる体格は、声と同様男にも女にも見えるものだった。
「本番って……何の?」
夢だというのに、こんなことを尋ねるのも奇妙な気がする。でも、何かが引っ掛かったのだ。
「もちろん、本番はこんなものではないけれど……おっと、時間だ。お仲間が起こしているようだよ」
そう言うと、男にも女にも見える何者かの姿が、世界が、崩れていった。そして――後に残るのは、僕と真っ暗な世界だった。
‡ ‡
「――さん、慎一さん! 起きてください!」
その声で目を開く。うぅん……まぶしい……。
「大丈夫ですか? 何か、うなされていたようですが……」
「うなされ……? あ、そうなんだ…ちょっと変な夢見てたから、そのせいかも。ごめんね、ありがとう」
夢の内容ははっきり覚えている。いったい、なんでこんな夢ばかり見るんだろう……次に病院に行ったときはこの事を話した方がよさそうだ。
大丈夫だとは思うけれど、懐から今朝も飲んだ錠剤……精神安定剤を取り出して、飲み込む。水なしで薬を飲むのにもずいぶん慣れてしまった……。
「慎一さん…本当に大丈夫ですか? つらいなら、もう帰った方が…」
「いや、万が一の事を考えて飲んだだけだから心配はいらないよ。今朝も変な夢見たから今日は二回目……でもまあ、まだ薬はあるし、大丈夫でしょ」
起き抜けでボーっとした頭でそう答える。
「薬を飲む時点で大丈夫とは思えないのですが……」
「ん~……まあ、何とかなるよ。そうだ、書類整理は終わったの?」
里奈さんと話をしながらみんなが座っていた場所を見る。そこにはまだたっぷり書類が残っていた。
「まだ慎一さんが休みだしてから三十分くらいしかたっていませんよ?」
「そっか。でもまあ、疲れは取れたし、手伝いをするよ」
「そうですか……あの、無理はしないでくださいね?」
「大丈夫、分かってるよ」
そう言って椅子の簡易ベッドを元通りにして、皆のほうに歩いていく。
「おう、シン。もう大丈夫なのか?」
「うん、問題ないよ」
さて、資料整理って言ってたけど……どこから手を付けたものか。
「先輩、今はどういう状況ですか?」
「ん~? とりあえず、資料を種類別に分けているところだよ~。それが終わったら、五十音順なり、アルファベット順なりに並べていくってところかにゃ~」
「わかりました。それじゃあ、僕も参加しますね」
「慎一も参加してくれるんなら、もうちょっと早く終わりそうだな。あたしも、もう一頑張りといきますか」
とりあえず、資料の山から適当に一枚抜き出す。えーっと、これは実験結果。次のは……その実験に参照した資料かな?
そんな感じで、資料を分けていく。やれやれ、これは夕方くらいまでかかるな……。
‡ ‡
そして数時間後。僕たちは昼休憩をとっていた。教授直々の指示とはいえ、お昼ご飯くらいは食べないといけないからね。仕方ないね。
僕と里奈さんは作ってきた弁当を、礼尾と双葉は学食のテイクアウトを食べている。ちなみに先輩はカフェテラスにサンドイッチを食べに行った。学食とカフェテラス。どちらもあるって、無駄にかぶっているだけのような気が。購買も当然のようにあるし…。
「はぁ……まだ山の様だぜ。今日中に終わるのか? これ。俺、ちょっと不安になって来たぜ」
「さすがにそこまではかからないでしょ。それに、最初と比べればだいぶ減ってるし。今日中なら余裕だって」
「そうですよ。それに、礼尾さんは内容まで見て判断しているではないですか。タイトルだけで判断するようにすれば、一枚につき数秒ですが短縮が可能ですよ」
「理論上の話だろ、それ……里奈ぐらいの頭脳の持ち主だったら可能かもしれねーけど、あたしたちじゃ無理があるって」
食事をしながらかわすのは書類整理に関する話題だ。よくもまあ、あんな量をため込んでいたものだと思う。普通、もうちょっと早いタイミングで整理するだろうに……頼んできた学部にはものぐさな人しかいなかったのか?
「そうでしょうか…タイトルだけでも十分分類できると思うのですが…」
「まあ、ややこしいのはあるよね。そういうのは内容にちょっと目を通して分類するようにしてるよ」
「まったく、これだからお前らは……しっかし、俺に事務仕事は向いてねーわ。体動かしたくなってきたぜ……」
ぽつりとそんな言葉を放つ礼尾。その言葉に、一つの考えが浮かぶ。
「それじゃあ、久しぶりに手合わせ願おうかな。僕もなまってないかどうか、不安なんだよね」
あんな夢を見たから、ちょっと不安になってたりするんだよね。予知夢とは言わないけど……まあ、不安をかきたてるような夢だというのは確かだと思う。
「おぉ? いいぜぇ? シンの方からそういう話題を出してくれるとは、うれしいぜ!」
「ケンカ好きめ……しかし、慎一とやりあうなんざ、ここ最近なかったな。あたしもやりてぇ……」
「ん? 二人まとめてきてもいいんだよ? 僕の腕がなまってなければ可能でしょ」
「なめんなよ? 男だったらスデゴロでタイマンだろ」
そう言って椅子から立ち上がる礼尾。うん、まずは食事を終えようか。
「あたしは女だけどな……ほら、座れ礼尾。まだ飯食い終ってねーだろ」
「飯ィ? 知るかバカ! そんなことよりバトルだ!」
「知れバカ。慎一も飯の途中だから戸惑ってるじゃねーか」
「チッ……」
しぶしぶといった様子で座り直す礼尾。そんなに僕とケンカがしたいのか……。
まあ、そんな会話を里奈さんは不安げな様子で眺めているわけで。ケガするほど熱くはならないだろうけど、里奈さんは殴り合いを始めるって会話を無視できるような人じゃないからね。
「ムグムグ……そうと決まれば、さっさと飯食うか。シンもさっさと食ってくれよ!」
「はいはい。慌ててのどに詰まらせないように気を付けてよ、礼尾」
礼尾を適当にいなしながら食事を進める。もちろん、急ぐことは無くしっかり噛んで。うん、米の甘みがなんとも言えないね。
「慎一さん……なんでいきなりケンカの練習なんて? 最近は毎朝礼尾さんから逃れるため以外には暴力的なことはしないでいたのに……」
ゆっくりご飯を食べていると隣から里奈さんの言葉。たしかに、最近はこういうことはしてこなかった。でも、あんな夢を見るとなぁ……。
「んー……そういう気分になった、ってだけじゃダメ?」
はにかみながら、そう答える。夢の内容を話すのは、何かはばかれるような気がするからだ。
「……なるほど。珍しいこともあるものですね」
「だね。自分でもそう思う」
苦笑しながら最後の一口を運ぶ。さて、礼尾の方はとっくに準備完了、ってところだね。
「さて、腹ごなしの運動だね」
「さっさとやるぞ!」
「あんま長引かせんじゃねーぞ。後がつかえてんだ」
「わーってるって! さ、はじめようぜ、シン!」
「わかってる。でも、まずはやりやすいように広くしようか」
周りのいすや机をどかしていく。さて、ケンカなんて久しぶりにやるな……礼尾に負けるようだと、ちょっとまずいかもしれない。
「さーってと、そんじゃあ……いっくぜぇぇぇぇ!」
片付けを終えるなり、礼尾はこちらに駆けだして来た。スタイルは昔と変わってないみたいだ。近寄ってラッシュで一気に決める。単純明快で嫌いじゃない。
でも、当たらなければ意味はない。スウェーや力をそらすような防御をすれば痛くもかゆくもない。ラッシュにしては一撃一撃が結構な重さがあるからちょっと怖いけど。
「進化した俺を見ろ!」
そして、射程圏内まで礼尾はたどり着く。さあ、ここからが勝負だ。
「だららららららららららららららららぁっ!」
叫びながら礼尾は次々に突きを繰り出してくる。僕は冷静に、それらを見てスウェーしたり、受け流したりする。
「相変わらずだね。隙あり」
上・中段突きばかりで足元がお留守になっている。何ら迷うことなく足払いをする。
「と、思うだろ?」
「!?」
前の礼尾なら、これで転んで僕の勝ちで終わるところ。でも、礼尾はその場で飛ぶという行為で僕の足払いをかわしたのだ。
「少しとは言え、成長してるじゃん……」
「そりゃどー…もっ!」
足払いをかわされて隙だらけの僕に空中から蹴りを放つ礼尾。僕はとっさにわざと体のバランスを崩し、転ぶような形でそれを避ける。
礼尾が着地。僕は体勢を立て直し、次の攻撃を警戒する。
「さてと……次はお前の方からも手、出してもらうぜ? いつも通りの倒し方で何とかなると思っていたから手を出さなかったんだろうが…本気出さねーと勝てねぇぞ?」
「らしいね……分かった。手加減はなしだ」
やれやれ……けがをさせないように気を付けないとな。前言撤回、ちょっと熱くなってきた。
「もういっちょ、行くぜぇ!」
先ほどの動きでできた空間に駆けこむ礼尾。それはつまり、互いの射程圏内に入るという事だ。
「いざ尋常にぃ! 勝負!」
そう叫ぶ礼尾。いいね……盛り上がってきた。
礼尾は先程までと同様、ラッシュを繰り出してくる。僕も同様に、スウェーでかわす。
だけど、先ほどまでとは違う点がある。僕が力を逸らす形での防御をしていないことだ。これには、もちろん目的がある。
そして、突きの速さがわずかに遅くなったところで、初めて僕は手をだす。
礼尾が繰り出す突きの一発。それをつかみ、こちらに引き寄せる。
「うおっ!?」
礼尾がバランスを崩したところに、みぞおちに一撃を叩きこむ。もちろん、後で作業に支障が出ない程度の軽い一撃だ。
「お疲れ様」
「本気だったら動けなくなってるとこだな……参ったぜ。しばらくぶりだが、腕はなまってねぇようだな」
そう言ってこぶしを上げ、僕に向ける礼尾。それを見て僕もこぶしを作り、礼尾のこぶしに軽くあてる。
「腕がなまってないと聞いて安心するあたり、あたしもケンカ好きだよなぁ……さて、次はあたしだな!」
そう言って椅子から立ち上がる双葉。連戦はちょっと辛いけど、双葉の戦闘スタイルは礼尾とは真逆と言ってもいいから、楽と言えば楽かな。
「それじゃあ、始めようか」
「おうよ。どこからでもかかってこい!」
そう言って双葉は特有の構えをとった。
礼尾のスタイルが先の先、攻撃的なものなら、双葉は後の先のスタイルをとる。つまり、防御主体で相手の一撃を待ち、それを防御し、カウンターを決める。つまり、礼尾との戦いの中で僕がやったようなことだね。
さて、双葉はカウンターか、隙をついた一撃を放つ以外の攻撃はあまりしてこない。礼尾とまとめてこいと言ったけど、今になって考えると恐ろしい事を言っていたな。礼尾の対処をしている隙に双葉が一撃を出してきたら……まあ、何とかしのげると思っていたから言ったんだけど。前より成長しているみたいだから実際にやられたら厳しかったかもしれない。
まあ、そんなことは置いておこう。今は双葉の防御をどう崩すかだ。うーん、あえて隙を作って、そこに来た一撃をしのいで、っていうのが一番手っ取り早いのだけど……。
「どうしたよ? 慎一……ビビってんのか?」
「双葉の方こそ。後の先ばっかやってないで、たまには先の先やってみたら?」
互いに挑発しあい、相手の一撃を待つ。僕は先の先もできるけど、双葉の後の先を崩せるほどかと言われたら怪しい。いくら模擬戦とはいえ負けるのは嫌だからね。そんな怪しい手段を使うわけにはいかない。
「…やれやれ、慎一とケンカするときはいつもこうだな。互いに睨み合って終わっちまう」
「まあ……そうだね。それじゃあ、今回はこれくらいにしておく?」
そう言って僕は構えを解く。
「んなわけねぇだろ!」
そこを狙って双葉が一撃を繰り出す。
「だよねぇ……」
警戒までは解いていなかった僕は、その一撃を難なく受け止め、腕をつかむ。
その拘束から逃れようともがく双葉。でも、その程度じゃあだめだ。振りほどくことはできないよ。
「くっ……こりゃ詰んだか?」
「お互い、まだ片手は空いてるでしょ……っ!」
あきらめかけた双葉に適当に一撃を繰り出す。しかし、それは当たらない。
「まったくだな、っとぉ!」
僕の牽制をかわした双葉は空いている方の手で突きを繰り出す。
狙い通りだ。
「甘いよ、双葉」
拘束していた腕を離し、双葉が出した突きをつかむ。
「な……っ!?」
「それじゃあ、今朝みたいに行かせてもらおうかな……よいしょっとぉ!」
双葉の胸元に手を伸ばし、服だけをつかみ、軽く投げる。
「こんなもんでどうかな?」
「本気だったら投げ飛ばされてたか……ああ、負けたよ」
双葉が体勢を元に戻すまで手伝い、手を放す。
「さすがシンだな。一対一じゃあ俺たちにゃどうしようもねぇ」
「いっぺん里奈ともやりあってみてほしいんだよなー、あたしとしては。武術対ケンカ殺法。どっちが勝るのか……なんてな」
そう言って里奈さんの方を見る双葉。確かに…里奈さんほどの武術使いとは戦ったことが無い。どいつもこいつもケンカ殺法ばかりだったもんなぁ……。
「私が慎一さんと、ですか……」
そう言って顎に手を当て考え出す里奈さん。え、もしかして本気になってる……? 冗談、だよね……? 里奈さんに手をあげる気には、たとえ模擬戦でもなれないよ?
「今まで見てきた慎一さんの戦い方から考えると、勝率は五分五分という所ですかね。武術という型にはまった戦闘術の私をうまく崩すことができれば慎一さんが勝つでしょうし、その逆もまたありです。崩されさえしなければたぶん、関節技に持って行けるでしょうから」
そう言う里奈さんはあくまでにこやかで。それが何というか、次元の違いを感じるというか……たぶん実際にやったら負けるなぁ……。
「慎一も里奈には勝てねぇか…ま、そりゃそうだろうな」
「ああ。勝てたら本気ですげぇ」
真顔でそう話す二人。
「そんなことより! 体は動かしたんですから、今度は書類整理ですよ! 先輩が帰ってくる前に少しでも進めないと……それにしても、BLTサンドのトマト抜きを食べてくるだけと言っていた割には、帰りが遅いですね……」
そう言って首をかしげる里奈さん。
「まあ、そのうち帰ってくるでしょ。書類、やっちゃおう?」
「そうですね。うん、頑張りましょう」
模擬戦をやって分かったことは、僕のケンカの腕はなまっていないという事。これなら、相手が武道の達人だとしても、少しは時間を稼げる。
あの仮面の人物が実在するのなら、言ってやりたい。これで満足か、と。
‡ ‡
そして、夕方。オープンキャンパスももうすぐ終わるという時間になった。
「よし、こっちはこれで終わり……みんなは?」
資料整理もようやく終わり、これで帰れるという喜びに浸る。
「あたしも終わり」
「あとちょっとだぜ、シン」
「ちょっと待っていてくださいね、先輩のお手伝いしてますから」
「うう……かたじけないね~、りなちん」
先輩はなぜか帰りが遅かった。だから人数分に分けられた書類が少し残っているようだね。僕も手伝おうかな……。
そう思った直後、教室の扉が開く。
「えー、みなさん。お疲れ様です」
そこには須藤教授がいた。
「出たな諸悪の根源!」
「ひどい言われようですね。だますつもりはなかったのですが……」
礼尾の言葉に須藤教授は頬をかいた。いや、だますつもりが無かったっていうのはさすがに信じられないなぁ……それなら、最初から台車の分も教室内にいれてただろうし。
「まあ、それは置いておくとして。それが終わったら帰っていいですよ。うちは特に何もやっていませんし、手伝いが必要なところも他には特にないそうですから」
「よっし! 久しぶりにゲーセンでも行くかなー……」
「お、それいいな。俺もさっさと終わらせるぜ」
「みんなのためにも急がなきゃだね~。ごめんね~先輩遅くて……」
「そんなことは無いですよ。あとちょっとですから一緒に頑張りましょう!」
四者四様の反応。うーん、僕も早く家に帰りたいな。夢の事も、紙の事も忘れたいし…。
「それじゃあ、僕は礼尾の方を手伝っておくね。双葉は先輩たちを手伝ってあげて」
「ん、了解。さっさと終わらせてゲーセンだ!」
ゲーセンねぇ……僕は最近行ってないな。音ゲーぐらいしかやってこなかったけど……まあ、極めようと思うと奥が深いよね。
そんなことを思いながら作業を進めていく。
そして、数分後……。
「よし、全部終わり! みんな、お疲れ様!」
「おつっしたー。さて、ゲーセンだ」
「俺も行くぜぇ……格ゲーに音ゲーにシューティング……たのしみだねぇ」
「いやぁ……りなちんが手伝ってくれて助かったよ~。先輩感謝~」
「いえいえ、あれくらい気にしないでください」
雑談をしながら帰り支度を始める僕たち。
「さて、私は資料整理が終わった旨を伝えに行くので、一足先に失礼します。あ、整理した資料は向こうがとりに来るそうですので、そのままで構いませんよ」
「了解」
「うっす」
「わかりました~」
僕と里奈さんもうなずいて了解の意を示す。それを見ると教授は満足げにうなずき、教室を後にした。
「れおぽんとふたばんがゲームセンターで~、イッチーとりなちんが直帰? 先輩は寂しく一人で帰ることになるかにゃ~」
「駅とは方角が違いますからね……すいませんが、ちょっと早く帰りたいので」
「あ~、い~よい~よ。そういう意味で言ったわけじゃないからさ~」
笑いながら手をひらひらと動かす先輩。
「さて、それでは解散ですね。皆さん、今日はお疲れ様でした!」
「「「お疲れ様でした!」」」
里奈さんの声で僕たちはそれぞれの行動を取り出す。礼尾と双葉はゲーセンへ走り、僕と里奈さんは駅へとゆっくり歩みだす。先輩も一緒にいる間くらいは話がしたいらしく、僕たちの後ろを歩いてくる。
そして先輩と別れ、僕と里奈さん、二人きりになる。
「いやぁ、まさかあんなにどっさり書類が来るとは思わなかったね。もうちょっと小出しにしてほしかったよ」
「そうですね。もうちょっと早い段階で片付けをしようと決意してほしかったです」
そう言って笑う里奈さん。それに合わせて、胸元のロザリオが揺れる。もちろん、胸も一緒に……って、落ち着け僕。その思考は変態のするものだ。
でもまあ、僕だって健全な男子大学生だからね。性欲ぐらいある。聖人じゃないんだから仕方ないと思ってほしい。
「慎一さん? どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもないよ……あ、あはは……」
困ったときは笑ってごまかす。僕の鉄板だ。
「う~ん……今日の慎一さん、何か妙なんですよね……なぜそう感じるのでしょう……」
そう言って考え出す里奈さん。たぶんあの夢と、ユキちゃんの手紙のせいだろうな……どこかで妙に感じさせるような言動をしてしまったのかな。
「慎一さん、なんでだと思いますか?」
「え? さあ……僕に聞かれても……」
「ふふ、ですよね。では……そうですね。何か妙なことはありませんでしたか? そう言えば、妙な夢を見た、と言っていましたよね?」
じっと僕の瞳を見つめてそういう里奈さん。うーん…さっきはためらったけど、別に話してもいい気がしてきた。まあ、問題にはならないだろうし、里奈さんは信用できるし……。
「実はさ……」
夢の内容をざっくりと話す。
「そんな夢を見たのですか……」
「うん。だから、里奈さんが感じた妙なところはそれを気にしていたからだと思うよ」
「そのようですね。次の病院の時、ちゃんと話してくださいね?」
「うん。そのつもり」
僕が妙だった、という話はそれで終わり、里奈さんの好きな本の話に移っていった。僕も読書は嫌いじゃない。本格文学からライトノベルまで何でも来い、だ。
「里奈さんは前に人間でない者と人間の恋物語が好きだって言ってたよね。それはなんで?」
「うーん……やっぱり、種族の違いという厚く、高い壁を乗り越えるところに魅力を感じるからでしょうか。慎一さんは、恋愛物はお嫌いですか?」
「そんなことは無いよ。僕も素敵な恋愛作品を読むと、ああ、こんな恋してみたいなって思うし」
「ふふ、なんだか乙女チックですね」
そんな感じで談笑をしながら歩いていく。駅から大学までの間にはバスはない。かなり近いからね。
そして、マフィン・プランカまであと少しというところまでやってきた。あたりに人はいない。車もそういう時間なのか、一台も走っていない。この世界には僕と里奈さんしかいないんじゃないか、とすら思えるほど静かだ。
もちろん、実際にはそんなことは無い。マフィン・プランカの少し向こうの曲がり角から二人の人影が走ってきた。
一人はかわいらしい女の子、もう一人は大柄で、黒で統一された服装で大柄な男の人……ん? この組み合わせ、まさか……!?
「里奈さん、あれってもしかして今朝ニュースでやってた……!」
ただ走っているだけだったらそうは思わなかったかもしれない。でも、ただ走っているだけというには、少女の表情が真剣すぎる!
「あ……! 人さらい!」
「助けないと……!」
思わず駆けだす。里奈さんもそれに少し遅れて駆けだす。
「ちょっと! そこの人たち!」
僕が声を上げる。すると、女の子ははっとした様子でこちらを見ると、マフィン・プランカの横の路地へと駆けこんでいった。なんで!? こっちに来てくれれば助けてあげられるのに……!
男もその後を追って路地の中へと入っていった。まずい……この路地の奥は行き止まりだったはず!
「里奈さんは駅前の交番まで行っておまわりさんを呼んできて! 僕は何とかできないか追いかけてみる! 荷物は任せたよ!」
里奈さんに荷物を預けて本気で走る。急がないと……また現実で人が死ぬところを見るのは嫌だ!
路地の奥までの距離は大したことは無い。すぐに追いつけるはずだ!
「暗い道、か……」
本当に予知夢だったのかもしれない。こんな状況なのに、そんなことを考えてしまう。あの影のような化け物が男で、少女はそのまま。そして僕がいて……僕が助ける。なんとしても現実にしなくては!
路地はカフェを囲むような形になっている。つまり、曲がり角を一回曲がる必要がある。駆ける勢いを殺さないようにしながらその奥を曲がる。
そして、そこで僕はありえない物を見た。
男の全身が影のようになっている。右腕らしき部分は鋭くとがっていて、殺傷力が高そうだと思えた。その姿は、夢の中に出てきた化物にそっくりで。
……いや、違う。こんなことを考えている場合じゃない。でも、あれはいったい? あんなもの、ありえない。ありえない!
「……っ! こっちに来るでない! 今すぐ逃げよ!」
僕に気が付いたらしい女の子がそう叫びを上げる。それでようやく正気に戻れた。そうだ、あれがどういうことなのかなんてどうでもいい。あの子を助けるのが先だ!
「…………」
影がゆっくりと振り向こうとしている。後ろからというのは卑怯だけど……こんな、夢で見た化物のような奴にそんなことを気にする必要はない!
一気に駆けだし、こぶしを振りかざし、全力で放つ。振り向こうとしていた男らしきなにかの顔面に全力の一撃を叩きこむことができた。
「大丈夫!? 早く逃げよう!」
ひるんだ男の横を通って少女の手を取る。
「……っ! 頼む! 助けてくれ!」
「もちろんだよ! ……って、え?」
胸元に突然の衝撃。思わず胸元を見る。
真っ黒な影の杭が、僕の胸元から生えていた。それは僕の胸元からあふれる血を地面へと垂らしていた。
「……は?」
僕が状況を認識しきれず、そんな声を漏らすと同時に、影が僕の胸から抜けていった。それと同時に僕の胸から血が噴き出す。
そして、僕は地面に倒れる。それと同時に死体へと自分が変わっていくのを感じた。
そのまま、僕は――
壱幕 了