漆幕 かくて戦いは始まる 上
「それでは、また明日お会いしましょう。その時、あなたがいるかどうかは別としますね、愛紗さん」
僕の家の前。電車の中、ここまでの道。ずっと黒いオーラを出して狐子を見ていた里奈さんは、そう言うと僕たちの前から立ち去っていった。
「じ、地獄だった…」
その姿が見えなくなってから、しゃがみこみ、頭を抱えてつぶやいた。つらかった…あの空気の中心にいるのは、本当につらかった…遠くの方で見ている女の子たちには“うわー、あれ修羅場じゃね? そうじゃね? てかロリコンじゃね?”とか指さされて言われるし…学生服を着ていたという事は、あの子たちの顔をまた見る事もあるのだろう。
「ふふ…よもや、あれほどまで噛みついてくるとはのぅ。なかなか楽しい時間じゃったが、ぬしにはつらかったか?」
「当たり前だよ…あんな里奈さん見るの、初めてだし…」
怒ると怖いことは知っていたけど、僕のことを好いている相手に対してもあんなに恐ろしい一面を見せるなんて…もしかして、里奈さんは本当に僕が好きなのか…?
「まあ、やがて楽しめる時も来ようて。若い時の苦労は買ってでもせよ、ともいう。将来、役に立つやもしれぬぞ?」
「あんな状況でどうすればいいか、なんてことが役立つ将来に歩む予定はないよ」
「まあ、普通ならそうじゃろうな。ははは…」
笑う狐子。僕はあきれるしかない。まったくもう…。
「まあ、あの娘の感情はいたって真剣。ぬしも正面から向き合ってやるがよい」
「んー…里奈さんって僕のこと、その、なんていうか…好き…なの?」
「ちょっとからかってやっただけであれじゃぞ? あれでぬしのことを想うておらぬのなら、驚愕に値する」
「そ、っかぁ…」
顔が熱くなるのを感じながら頬をかく。
里奈さんに好かれている。それはうれしいんだけど…なんていうか…言い表しにくい感情もあって、自分でも整理できないんだけど…うーん…。
「自分でもよくわからぬか?」
「うん…なんか、整理つかないんだよね…そりゃ、思春期の頃はちょっとエッチな目で見たりもしたけど、あんなきれいでスタイル良くて、性格…は、黒い時があるからちょっと難アリかもしれないけど、基本的に完璧超人っていうか…そんな人に好かれてるって言われても、信じられない気分もあるし…」
「完璧超人、か…」
狐子は少し笑ったようだった。
「まあ、ぬしはそう言うが、どんな存在であっても、欠点の一つや二つ、あるものじゃからな。そこも含めて好きになってやると良い」
「…うん。そうしてみる」
その言葉で若干の整理がついたように感じながら、立ち上がる。
その時だった。
『キャーー!』
そんな叫び声が響いた。それは、遊びか何かであげたとはとても思えないもの…そして、何よりも、僕が反応するのに足る理由があった。
「里奈さんの声…!?」
聞こえてきた方向は先程里奈さんが歩んでいった方角、要するに里奈さんの家の方。いったい何が…!? 思わず走り出す。
「…っ! これは…!」
後ろで狐子が呟いた声が聞こえた。
「よせ! 罠じゃ!」
「え…?」
その声に振り向いたときはもう遅かった。
ガン! ガン! ガン! ガン! 僕の四方を囲むように突き刺さる何かの柱のような物。それを視認した直後、僕の視界は闇に閉ざされた。
「な、なにこれ…!? 狐子!? くそっ、なんなんだよこれ…!」
たしかに、日は沈みつつあった。でも、こんなふうにいきなり真っ暗になるわけが無い。ここは町の真ん中なのだから、たとえ月が出なくとも、周りの家々から漏れる光や、点在する街灯の光で照らされる。だとしたら、これはいったい…?
「どこを見ているのですか」
そんな戸惑いは、その声で解消される。ああ、そうか…こんな闇を操れる存在が二人いた。
「やあ、雪慈ちゃん。昨日ぶりだね。こんなに頻繁に僕の前に現れるなんて…そんなに僕と会いたかったの?」
「…この状況でそんな軽口を叩けるお兄さんにいらつきを感じます。私がお兄さんに向けている感情を知っているのなら、余計に」
発光しているわけではない。ただ、何も見えない闇の中に、ユキちゃんが浮かび上がっている。そんな状況に戸惑ってはいるけれど、それを察せられるのは何かまずい気がする。
「雪慈ちゃんが僕に向けている感情? 男女間で、頻繁に会いに来るとあれば、答えは一つでしょう?」
僕がそう言い終えるか否かのタイミングで、正面から何かが来るのを第六感的なもので感じた。とっさにその場から横に飛ぶ。
「…殺しますよ」
「有言実行というか、実行後の報告って感じだね。まあ、死んではないけどさ」
先ほど僕の横を飛んでいった何かが戻ってくる。原理は分からないけど、やはり感じたとしか言いようがないだろう。このぶんじゃあ、何度避けてもくるくると僕の周りをまわって飛んできそうだな…マダチをできる限り分厚くして、手で持ち、その何かが飛んでくるであろう場所に突き出す。
すさまじい衝撃が僕の両腕を駆け抜ける。でも、それは飛び回っていた何かを止めることができた証拠。そのままマダチの形を変え、その何かの表面を覆う。これでしっかり握っていれば動き出すタイミングもわかる。
「…ずいぶん、人間離れしたものです。あなたも、私も」
「僕はまだ人間でいるつもりだし、君のことを人外と見る気もないよ。まだ、戻れるんじゃないかって思ってる」
「……」
少しの沈黙。しかし、それは僕の言葉から何かを考えているわけではないのは、手中の何かの動きからして明らかだった。
「無駄だよ。一回動き出せばすごい速さみたいだけど、こうして止めてしまえばどうという事はないようだからね。急加速させることができるんだったら、とっくにやっている。違うかな?」
「…分析も少しはできるようで。ですが、分からないこともあるでしょう? 例えば、わざわざこんなことをしに来た理由、だとか」
「そうだね。説明してもらえるなら、してもらおうかな」
言いながら、軽く体を後ろにそらし、右から飛んできていた何かをかわす。
「とりあえず、何かが来る、ってのは分かるから、不意打ちは無理だって思ってもらえないかな? 落ち着いて話をしたいし」
「そうさせていただきます」
ユキちゃんが言い終えると同時に、その姿が見えなくなる。たぶん、僕からの攻撃をさせないためだろう。
『理由は単純。宣戦布告はすでに済ませていましたが、いつから開戦かは言っていなかったと思ったものですから。開始時刻は、今晩二時より』
「丑の刻、ってわけだ。場所は? 結界がある以上、僕の家に突撃してくるわけにもいかないんでしょう?」
『宣戦布告を済ませた、あの場所。廃ビルの屋上です。万全の支度をしてお待ちしております』
「分かった…でも、分からないこともあるな」
『……?』
少し間を開けて、その疑問を口に出す。
「どうして、君はあいつに味方しているの?」
『…来ていただけたら、お話ししましょう。それでは、今晩二時。違わぬよう、肝に銘じてください』
その声が聞こえると、周囲の闇が晴れていった。そこには柱のような物も無くて、夕闇のかすかな眩しさと、いつも見る光景だけがあった。
「ぬし! 無事か!?」
背後から狐子の声が聞こえる。
「ん、まあ、何とかね…マダチが無ければちょっとばかり厄介だったかもしれないけど」
手中のマダチを見せるも、その中にはもう何もなかった。
「そうか…それにしても、結界の上から結界を張るとは…そうそうできぬ真似をしてきたな。そこまでしてぬしをわしから隔離した理由はいったい…?」
「正式な形での宣戦布告だってさ。狐子にしない理由は分からないけど」
そう言いながら振り返る。
「今晩二時から。最初に会った廃ビルの屋上で、万全の支度をして待ってくれているそうだよ」
「それは…ずいぶん、手荒い歓迎をしてくれそうじゃな」
例の木刀を片手に笑う狐子。どうやら、外側からあの闇…結界? を壊そうとしてくれていたようだ。
「まあ、ちょっとばかり危害を加えられそうにもなったけど、見てのとおり無傷。心配しないでいいよ」
「なら良かった…と言っておく。そうじゃ、これだけは伝えておかねばな。先ほどの里奈の悲鳴は、作られた物じゃ。悲鳴であろうとなんであろうと、音は所詮空気の振動。うまく振動を操ってやれば、あのような迫真の悲鳴を作ることもできる」
「そっか。なら、一安心かな」
「やれやれ…安心するには早いぞ。今晩、もう一戦じゃ」
その言葉に気を引き締める。けれど、そのすこしあとに僕も戦力として数えられていることに安心する。
「それにしても、相手が準備万端のところに飛び込んでいく必要はあるの?」
「ああ、それに関しては理由がある。彼奴が…影の輩が出張ってきおってな。宣戦布告に応じねば、町の住人を巻き込むそうじゃ」
影の輩…それって、あいつのこと!?
「ケガはない…どころか、服の乱れもないから心配はしないでいいのかな?」
「うむ。少し、その事を話しに来ただけじゃったからな。まあ、彼奴が町を巻き込むというのであれば、地図に変化が起きる程度の規模は覚悟せねばならぬじゃろう。それと比べれば、ちょっと力を授けられただけの人間が準備をして待っているところに飛び込む方がマシじゃ」
なるほど…それはそれでいくつか疑問も浮かぶけど、そこはおそらくあいつが戦闘狂だから、ですむのだろう。
「さて、それまでどうすればいいのかな? やっぱり、日常生活?」
「うむ。訓練は、体力を使う。短時間で見につくかわからぬような少しばかりの実力のために命を危険にさらすのは、愚かと言わざるをえんじゃろう」
その言葉にうなずく。たしかに、そのとおりだ。訓練で疲れて、本番で戦えません。そんなのはバカのすることだ。
「それじゃあ、普通に家に入る?」
「うむ。心配をかけぬよう普通に入り、普通に生活をし、そして…異常の中へと飛び込んでいく。わしが止めても、ぬしはそれを望むのじゃろう?」
「そうだね。何度も言うけど、一度守りたいと思った人の危機を知らん顔してああ、今日も平和だな、なんて顔したくない。そんなことしたら、おてんとうさまが許そうと、僕が僕自身を許せない。だから…喜んで異常の中に飛び込ませてもらうよ」
「どうしようもない阿呆じゃな、ぬしは」
苦笑いをする狐子。それを見て僕は、わざと満面の笑みを返す。
「そんな阿呆でも、ちゃんと助けてくれるんでしょ?」
「当然じゃ。ぬしを死なせては、ご両親に顔向けができぬ」
僕の腰のあたりをポン、と軽くたたきながらいう狐子。
「ありがとう。おかげで、危険な戦いの前だっていうのにこれっぽっちも死ぬ気がしない」
そのお返しに、狐子の頭を軽くなでる。
「…ふん。自滅行為までされては責任を持てぬからな。そこは覚えておいてくれ」
軽く照れた様子の狐子。ふふ、かわいいなぁ…。
「さっさと家に入って休憩するぞ。少しでも体を休めておかねば、な…」
「そうだね。えっと、鍵は…」
「ズボンの左後ろのポケット。今朝の事くらい覚えておけ」
「そうだった。にしても、よく見てくれてるんだね」
「これくらいは覚えておかぬか…」
あきれた様子で言う狐子だけど、僕の意識はあの修羅場の如き空気に向けられたから覚えてなくても仕方ないと思うんだ、うん。
鍵を取り出し、家の扉を開ける。
「ただいま」
「です!」
「はぁい、お帰りなさい~」
ちょうど二階から降りてきたところらしい母さん。その両手には洗濯物が抱えられている。
「大変そうだね。持とうか?」
「大丈夫よ~。これくらいなら、いつも持ってくるもの~」
「いいからいいから。ほら、かして」
母さんの持っている洗濯物をいくつか持つ。
「あらあら~…こんなことされたら、二人の不貞行為の証拠を探していた身としては気まずいわ~」
「存在しないものを探すとは、随分とまぁ…お疲れ様としか」
「一つの布団で一夜を共にしたことは不貞行為にカウントされないのかしら~?」
「妹と一緒に寝ることのどこが不貞行為なのか聞きたいんだけど…」
まったく、母さんは…狐子がいる間、こういう発言を続けるんだろうな。うざったくないわけじゃない。でも、できれば、これが続いてほしいと思う自分もいる…不思議なものだ。
そして、これが続くかどうかは今晩二時に決する。覇王や影の男がいる以上、本田は中ボスみたいなものだろうけど…それでも、僕にとっては十分な決戦だ。
「母さん」
「なぁに?」
「もしも、僕が大切な誰かを守るために命をかけて戦う…って言ったら、どうする?」
なんとなく、そんなことを聞いてみる。決意は、固まっている。でも、それをさらに固める何かがほしいのだろう。我ながら、貧弱な精神力だ。
「あら~、ずいぶん、変わった話をするのね~…そうね~…」
少し考える様子を見せると、母さんはこちらを向いた。
「笑顔で送り出してあげるわ~。このバカ息子~、って言いながらも、無事に帰ってくることを祈るの~。今の私には、それが精いっぱいだもの~」
「止めようとか、思わない?」
「命をかけるほどの決意、言葉の一つや二つじゃ揺るがないわ~。だから、笑顔で見送るの。あなたの帰ってくる場所は、ここにあるのよ~、って」
母さんは、にこにこと笑いながら口にする。
「あ、でも、もちろん生きて帰ってくるならよ~? 死ぬってわかっている戦いに赴くのなら、私も、衛二さんもどれだけ無理やりだろうと止めようとするわ~」
「そっか。ありがとう」
あたたかい気持ちになる。何としても生きて帰ろうというふうに、決意が固まったようにも感じる。
「まぁ、戦うなら勝ちなさいね~。私も、衛二さんも応援するから~」
「わかった」
洗濯物をリビングのカーペットの上に下ろし、母さんの方を見る。
「夕飯まで、ちょっと寝るね。学校でいろいろあって、ちょっと疲れちゃって」
「あら、そうなの~? 分かったわ~。そっとしておくわね~」
体力を少しでも回復させよう。そう思っての発言。狐子の方を見ても肯定するような目をしている。このぶんだと、狐子も一緒に寝るとか言うのかな?
「愛紗ちゃん、洗濯物をたたむのを手伝ってもらってもいいかしら~? 服のたたみ方は、お嫁さんとして覚えておいて損はしないから~」
「はいです!」
そう思ったけど、母さんの言葉に元気良く返事を返す狐子。
「愛紗は大丈夫? 里奈さんとちょっとケンカ気味だったけど…疲れてない?」
母さんに悪く思われたくないのかもしれないと思って、僕は狐子にそう尋ねる。これでやらせるほど母さんは無理をさせる人じゃない。
「あら~、そうなの? 里奈ちゃん、子供相手でも容赦はしないのねぇ…疲れてるなら、後にしましょうか~?」
やっぱりね。そう言ってくれると思っていた。
「だいじょーぶです! 疲れてないので、おにーちゃんのお嫁さんになった時にやくだつことをおしえてもらいたいです!」
だけど、狐子が返す言葉はそんな言葉だった。疲れていないのならいいのだけど…あ、そうか。僕は気苦労したけど、狐子は楽しんでたんだっけ。だったら、まあ…精神的な疲労が無いのはうなずける。かな?
「無理はしちゃだめよ~? 本当に疲れていないのね~?」
「はいです!」
「そう…なら、手伝ってもらうわね~。しんちゃんは、ゆっくり疲れを取るといいわ~。晩ご飯になったら、呼びに行くわね~」
「うん。それじゃ、またあとで」
言い残し、自室へと向かう。まあ、疲れていたなら母さんの申し出を受けていただろうから、狐子の疲労を心配するのはやめておこう。
自室に入り、荷物を床に投げ出し、ベッドに横たわ…っと、里奈さんに作ってもらったコートだけはちゃんとハンガーにかけておかないとな。型崩れなどがないようにきっちりとかけておいてから、ベッドに飛び込む。ぼふん、と音を立てて僕の体を受け止めてくれるベッド。
「…寝るとは言ったけど、寝れるかな…」
一応、人並みに緊張はしている…つもりだ。なんか、異常事態すぎて感覚がマヒしているのかな…何か、こういう事態に慣れているような感覚すらしてきた。
まあ、ケンカなら昔からしているし、相手がナイフを持ちだしたときもあった。この妙な感覚は、得物持ちとの戦いは経験しているからかな…。
とはいえ、今回の相手の得物は影のような不定形の何か。だいぶ勝手は違う事だろう。とりあえず、触れたら死ぬ水を全方位から飛ばしてきている、とでも考えておこうかな…。
「…マダチ」
ぽつりとつぶやいて、霊弓の形を具現化させる。
「そんな事よりも…大きな問題があったな」
本田の奴はどうなってもいい。でも…ユキちゃんは助けたい。
だって、ユキちゃんが本心から本田の味方をするわけが無い。紫織が死ぬ原因を作った僕を憎むのは分かる。でも、紫織を殺した相手の味方をしてまで僕を殺したいと思うか? そんな思いが浮かぶ。
これは何度も考えてみたことだ。そのたびに僕の中での結論は出ている。答えはノーだ。僕の中では、ユキちゃんから奴以上に憎まれる理由がない。
でも、理由を聞くことは…今晩、戦いの中でしかできないのだろう。だったら、とにかく傷つけないように戦って、理由を聞きだすことに専念してみよう。どこまで語ってくれるかわからないけど…どうしようもないのなら、せめてこの手で…?
「…自分の中の力を感じる。そして、それを操り…手の上に具現化させる」
一度しか試したことのない霊矢の作り方を口にだしながら実行する。
自分の中の力は、手のひらの上にごくごく小さな球として確かな形になる。それをマダチにつがえる。
マダチが未熟な使い手をサポートし、球を矢へと変え、その身も弦を伸ばし始める。
弦を軽く引き、離すことなく元の位置に戻す。マダチが今のは使う時が来た時の為の確認をしたかっただけだというのを察してくれたのか、霊力の形も矢から球へと戻っていった。
「……」
その霊力を自身の胸にあてる。軽い熱と共に、力が自分の中に戻っていくのを感じる。
これが誰かに当たれば、どれだけの威力を持つのだろう。小夏さんの放った霊矢はその威力で雲に大穴をあけていた。僕の物はそれだけの威力は持たないだろう。でも、誰かを傷つけ、何かを壊すに足る威力はあるはずなのだ。それをユキちゃんに放てるのか?
死んだ者は生き返らない。壊れた物は元に戻らない。覆水盆に返らず…一度やってしまえば取り返しのつかないことを…僕は、できるのか?
神の奇跡ならば、死者を起き上がらせ、壊れた物を完璧に修復し、時すら戻して覆水を盆に返すこともできるのかもしれない。でも、それだけの余裕が狐子にも小夏さんにもないことを、僕は知っている。
だったら、責任を持たねばならない。たった一度のチャンスを、活かさねばならない。
――お前にそれができるのか?
僕の中の不安がそんな言葉を口にする。それに何と答えればいい?
――できるできないじゃない。やるんだ。
そんな言葉も浮かんでくる。そうだな…どちらにせよ、やるしかないんだ。だったら、やってやる。これを、不安への答えとしよう。
そんな吹っ切れたような感情と共に、目を閉じる。眠ることはできないにしても、気を楽にするくらいはできるだろう。
目を閉じていると、過去の思い出が去来する。紫織がまだ生きていたころ、僕がケンカに明け暮れていたころ。そして…僕が、“ユキちゃん”と彼女のことを呼んでいたころ。
あの頃の方が良かった? でも、あの死別があったから今の僕がいるわけだし、狐子や小夏さんとも出会えた。どちらが良かったか…まだ比べることはできないけど、二人との関係が続いていけば、もっと多くの神様と出会う事もあるかもしれない。そうしたら…幽霊の紫織に、お礼を言う事すらあるのかもしれない。
‡ ‡
一~二時間ほど経っただろうか。結局眠れなかったから、礼尾から借りた(押し付けられたともいう)マンガを読んでいた。動物の耳を生やしたかわいい女の子たちがわきゃわきゃする俗にいうケモミミ萌漫画。いや、凄く身近にそういう神様がいるわけだけども。
『しんちゃ~ん、ご飯よ~』
ベッドの上でゴロゴロしながら、その言葉を聞く。
「はーい、今行くー」
起き上がり、マンガを本棚に戻して部屋を後にする。
階段をおり、リビングへと入る。
「おかえり、父さん。仕事お疲れ様」
「ああ、ただいま。慎一も、学校でいろいろあったそうだね。どうだい? 二人の女性が自分を巡って争うさまを目撃するのは」
にやにやしながら尋ねてくる父さん。
「その言い方は違うと思うけど…なんか、気苦労が絶えなかった」
とりあえずそう返しておく。こうしてくだらない事で話すことがまた出来るように、生き残ろう。それだけでも、十分な戦う理由になるはずだから。
「贅沢な悩みだね。僕はそんな経験ないよ。まあ、僕には幸衛のような素敵な女性がいるのだから、大勢の女性から好かれることなんて必要ないけどね」
「も~、衛二さんったら…」
料理をはこびながら頬を赤らめる母さん。はいはい、仲が良くて何よりですね、と。こんなのろけも、大事な日々の一部なんだから、おとなしく見ておきますよ。
「私だって、衛二さん以外の男性からの好意なんてどうでもいいわ~。衛二さんただ一人から、女と見てもらえていれば、それで十分だもの~」
…見ておきますよ? 見てるこっちが恥ずかしくなるくらい浮いた言葉を言ってるけど、見ておきますよ?
「そうかい…僕にとって幸衛は、生涯大切な、自分だけの女の人だよ。幸衛にとって、僕はどうだい?」
「もちろん、生涯大切な自分だけの男の人よ~。一生、想い続けるわ~」
…いや、見てるんだよ? 僕も、狐子も見ているんだよ? でも、これだけいちゃつくの。今朝は無視する僕に対して抗議のためにやったと考えてもいいだろうけど、今これだけいちゃつくのはおかしくないかな? 愛紗としての狐子は小学生なんだよ? その前でこれだけいちゃつくのはやっぱりおかしいよね?
「幸衛…おいで」
「はい、ストーップ。それ以上は愛紗にはまだ早い」
大きく手を広げた父さんを見てさすがにこれ以上は見ていられないと判断する。やりすぎやりすぎ。
「分からないわよ~? 最近の女の子って、ませてるから~」
「そういう問題じゃない。じゃあ、僕がこれ以上は見ていられないほど恥ずかしくなるからやめて」
「いやだと言ったら?」
「大分怒る」
今朝身に着け、学校で里奈さんがたっぷりと見せてくれた笑顔の圧力を発揮する。
「じゃあ、しょうがない…」
「怒られるのは、大変そうね~」
良かった。言葉で理解してくれるなら、それで一番だからね。
「それじゃあ、準備も済んだようだし、ご飯にしようよ。いただきます」
僕が言うと、母さんも席につき、皆が手を合わせた。
こうして食卓を囲むのも、下手をすれば最後なのだ。そう考えると、マヒした感覚でも緊張を感じる。
でも、狐子が一緒にいてくれる。金色の戦姫。その本当の力を僕は知らない。でも、その本気は小夏さんを上回る。雲に大穴を開けるような力を使える小夏さんの力を。できれば、これ以上その手を汚させる真似はしたくないけど、今は狐子に頼るしかないだろう。
お茶をすする。里奈さんのたててくれる抹茶とは当然、味も違う。
もう一度。考えていけば、いくらでももう一度が浮かんでくる。
里奈さんともう一度会いたい。
双葉ともう一度会いたい。
先輩ともう一度会いたい。
礼尾ともう一度バカをやりたい。
与一君ともう一度弓道の練習をしたい。
有手さんにもう一度稽古をつけてもらいたい。
里奈さんの抹茶をもう一度飲みたい。
武術を身に着けて、まだ強くなるであろう礼尾と、双葉。二人と訓練をもう一度してみたい。
先輩の作る何かの実験台になるのはまっぴらだけど、作り上げた時の満足げな顔は、もう一度見たい。
もう一度、
もう一度。
もう一度――
これは、戦いに赴くことへのためらい? それとも、生きて帰るための未練?
刃を鋭くするものなのか、鈍くするものなのか。それすら分からない感情に襲われる。
「慎一、どうかしたのかい?」
そんなものが表情に出ていたのか、父さんに聞かれる。
「いや…ちょっと、ね」
呟くように言って、帰ってきた時に母さんにした質問を思い出す。
「父さんは、僕が大切な誰かを守るために命をかけて戦う…って言ったら、どうする?」
「もちろん、応援するよ。僕にできる事なら、何でもやると思う。慎一は僕にとって幸衛の次に大切な存在なんだからね」
「そっか…ありがとう」
こんな質問をしてもなおのろける父さんにあきれを感じるけれど、それ以上にうれしさを感じる。僕は、良い両親の元に生まれた。
「まあ、僕のことだから、いざその場面になったら何とかして止めようとするかもしれないね。最後には死ぬんじゃないぞ、って送り出すかもしれないけど…」
「命をかけて戦うわけだからね。生死がどうなるかはわからないよ」
「こらこら。仮定の話をそこまで膨らませてどうするんだい。あまり心配はさせないでくれよ」
笑う父さん。母さんも笑っている。とりあえず、本当に命がけで戦う、というのはばれていないようだ。
「まあ、僕も何となく言っただけだからさ。そんなに気にしないで」
できる限りの笑顔でそう言う。
白米を口の中へと運ぶ。ほのかな甘み。この味も、戦いの後にもう一度味わいたいものだ。
そのまましばらく食事をする。テレビ番組では人気の芸人がMCをやっている。それを見ながら笑ったり、つっこんだりして日常を堪能する。
そして、食事を終える。
「ごちそうさまでした。さてと、お風呂入ろうかな…」
「あら~、傷は大丈夫なの~?」
「ああ、そうだった…体拭いてくるよ」
リビングを出て、脱衣所に向かう。みそぎと言うか、なんとなく体を清めておきたかった。
脱衣所で服を脱ぎ、タオルをもって浴室に入る。お湯にタオルを浸し、全身を拭いていく。本当ならゆっくり入りたいけど、そうしたら傷のことを話に出さなきゃいけなくなりそうだからね。
「……」
手早く体を拭き、浴室を後にする。バスタオルで全身の水気を拭き取り、とりあえずパジャマを着る。もちろん、後で動きやすい服装に着替えるけれど。
「おさきにー」
いつもどおり、父さんたちにそう言ってから自室に上がる。さて、これから二時まで何をしようか…。
とりあえず、霊力を操る練習をする。手のひらに出しては、握って消す。かすかな熱と、力が流れ込んでくる感覚。それらを感じながら、ぼんやりと時間を過ごす。
何度か繰り返していると、ドアのノック音が響いた。慌てて霊力を消そうとすると、線香花火のようにバチバチッ! と小さな音を立てて霊力が飛び散っていった。
「そんなに慌てずともよいぞ、ぬしよ」
返事も待たず、パジャマ姿の狐子が部屋に入ってくる。なんだ、びっくりした…とりあえず、コントロールできなくなると今みたいになるのか。常に冷静でいなければ…。
「霊力のかすかな揺らぎが感じられると思ったら…今から訓練をしても疲労するだけ、と言ったじゃろう」
「そうだけど…いざ本番で霊力を操れなかったらどうしよう、って不安になってさ。ちょっとだけ、ね」
「なんじゃ、家に入る前に自分が言うたことも忘れたか? 心配するな。ぬしは死なぬよ。わしが、この命に代えても守るからの」
「それが怖いから練習するんだよ。守りたい人に守られて、その人を喪うなんて、絶対に嫌だ」
こればかりは真剣な顔で言わせてもらう。もしも、狐子が僕を守って死んだら…たとえ僕に責がなくとも、苦しむ。死にたいほどの苦しみを抱えながらも、狐子に守られた命を無為に散らしてはならないという責任感、義務感で一生を安穏と過ごすのだ。
狐子を死なせたくないという感情と比べれば、そんな十字架を背負った人生、過ごしたくないという思いは些末な事だ。でも、そう思っている自分がいるという事も確かで。
「…ふん。しかし、いまだにわしを守りたいなどと言う言葉がよく吐けるものじゃ。本当に、一度決めたことを通すことにかけては一人前じゃな」
「これでも、結構揺れてるんだよ? 術をかけてもらって、全部知らないうちに終わらせてほしいな、なんて思ったし」
そんな自分がいたことも確かだから、認めておく。
「それはそれで正解じゃ。普通の人間としては、な」
「なにさ。僕を変人呼ばわりしたいの?」
「揺れる感情を抱えるあたりは普通の人間といえよう。じゃが、それでもなお神を己が手で守りたいと思うなど、変人という言葉では足りんじゃろう?」
「…そうかな?」
狐子の言葉は理解できるし、そのとおりだとも思う。でも、あえてそうは返さない。
「まあ、小夏のようにはならんでくれよ。同性だからこそ冗談で済むが、異性であれは、ただの変態じゃぞ」
「知ってる。ところで、眼球ひっかくのは冗談で済むの?」
「まあ…そのあたりは気を付けよう」
ばつが悪そうに片目を閉じる狐子。小夏さんは治せるからギリギリいいものの、普通なら失明するからね。やりすぎには気を付けてほしい。
「さて…寝るか。今は夜十時くらい。二時間くらいならば寝ても大丈夫じゃろう」
「十二時まで寝て、そのあとは…体慣らしの運動でもするの?」
「うむ、疲労しないようなものをな。柔軟体操でもしておくか」
そう言ってこちらに歩み寄ってくる狐子。ああ、やっぱり?
「一緒のベッドで寝るの?」
「ぬしがまた床で寝たいというのなら止めはせぬが?」
「一緒のベッドで寝ようか」
この寒い中床で寝たら風邪をひく。それはさすがに…だからと言って、狐子を床で寝させるわけにはいかない。予備の布団なりベッドなりがあればいいのだけど…。
「雄が雌を己の寝床に誘うとは…な。身の危険を感じるわい」
「僕はなんて言えば正解なのかな?」
「冗談冗談。ぬしにそんな度胸はないことは知っておる…が、寝ている間にわしの顔を見るでないぞ?」
寝顔を見られるのが恥ずかしいのかな? そう思いながら狐子の言葉を聞く。
ベッドにそっと潜り込んでくる狐子。シングルベッドだから二人で寝るには狭いけど、できる限りの空間を作るために端に寄る。
「とりあえず、わしは寝る。おやすみ」
ベッドにもぐったままで狐子が言う。そんなに寝ている顔を見られたくないのかな? 一度見ているうえに、つついたりしたのに…。
見るなと言われた物を無理に見る気はない…けど、狐子の寝顔かわいかったなぁ。
でも、自分から寝るといいだしたという事はやっぱり疲労があるのだろう。僕も寝ておこう…主に精神的疲労が激しいし。
明かりを消すために一旦ベッドを出て、電灯のスイッチを切り、ベッドに戻る。狐子のぬくもりを感じるなぁ。あたたかい…。
‡ ‡
「やぁ」
その声に目を開く。そこは、例の映画館だった。僕はスクリーン側最前列の椅子に座っている。声の元は、スクリーンの前に立っていた。
「またか…はぁ」
「またかとはひどいなぁ。ボクは君と話がしたくて仕方なかったというのに」
そう言うのは仮面にマントという格好の人物。最初に精神世界を見た時にいた人物だ。
「決戦前なんだよ。僕の中の善意なのか悪意なのかそれ以外の何かなのか…どうでもいいけど、こんなことしないでほしいな。疲れてるんだよ…僕の中の何かならわかるでしょ? あんな状況で精神的に何も感じないほど、僕は修羅場慣れしてないんだよ」
僕の言葉に仮面の人物は肩を震わせた。苦笑しているらしい。
「そうだね。君はそういうやつだ。でも、君にはしたいことがあるだろう?」
「なんのことやら」
「おや? ユキちゃんを助けたくないのかい?」
…まあ、僕の中の何かなら、これくらい知っていてもおかしくないか。
「そうだね。助けたい。でも、君が何をしてくれるのかな?」
「ここで訓練に付き合う事ができる。精神疲労はとれないどころかかえってたまるだろうけど、肉体が動くならどうとでもなる。そうだろう? いくら堕ちた者の力を使えるとはいえ、少女相手に殴り負けるほど君は弱くない」
その言葉に疑問を覚える。僕が知らない単語が入っている?
「堕ちた者の力…あの影の事?」
「そのとおり。まあ、ボクが勝手にそう呼んでいるだけなんだけど。悪魔は天使が堕ちた姿だし、悪魔の力をそう呼んだら、それっぽいだろう?」
「あー、そうかもねー」
「…興味無さげだね。まあ、そこはどうでもいいや。ボクが訓練をつけてあげようって言ってるんだよ? そっちには興味持たないの?」
「僕自身に稽古をつけてもらって、どうなるの? マンガやラノベでは“僕は僕自身を超える!”ってなるところだろうけど、僕の中に僕以上にケンカの仕方や霊力の扱いを知っている存在がいるわけが無い。そんな存在がいたら、いろいろおかしい。違う?」
僕の強さや知識を百とする。僕の中の存在もまた僕なのだから、ゼロより大きい数字はありえても、百より大きい数字はありえない。これを覆せるとしたら、そもそも僕と比較する相手が僕じゃないか、僕に認識できない僕が居ることになる。前者はありえるかもしれないけど、後者だったら僕は多重人格者か何かだ。それだったら今までにも何か起こっていないとおかしい。僕の中に記憶が無い何かが僕自身によってどうにかなった、とか。
「そう言わずに。君は自主訓練をしたところで上達するわけが無い、と言いたいのかい? それじゃあ、師匠はどうやって他人に訓練をつけてあげられるほどの腕を身に着けたのか、って話になるだろう?」
「費用対効果が薄いって言いたいの。コストパフォーマンスが悪いって言った方がいい? 疲労に比べて得るものが小さすぎる。得る物が何も無いとまでは言わないけど、それを得るための訓練でたまる疲労の方が大きい。それをわかっているから狐子も訓練はするな、って言ったんだろうし…分かったら、さっさとこの世界から解放してくれない? この世界で眠ることもできるかもしれないけど、君にその気はなさそうだし」
大仰な身振りでやれやれ、と表現する仮面。どうしても僕に訓練をつけたいらしい。
「つまり、ボクが君以上の戦闘能力を持っていて、それを得るための疲労と比べても魅力的だと証明すればボクの訓練を受けてくれるのかい?」
「ま、そうなるかな。できるなら、やってみせてよ」
鼻で笑うような感じで言い放つ。
ドス。その直後、何かが突き刺さるような音が右の耳元でした。
反射的にその方を見ると、ほぼ透明で、かすかに青みがかっている何か…つまり、マダチとよく似たものが、スローナイフの形で突き刺さっていた。
「ナイフ投げ。君にはできたっけ?」
仮面の声に向き直る。仮面は、あまたのスローナイフをジャグリングしていた。
「さて…今のは、次は耳だ。ってやつかな?」
その言葉が発せられると同時に、先とは逆、左側から突き刺さる音。それについてきたかのように、左耳に痛みが走る。
「ああ、ごめんごめん。次は耳だってのは…本気だから」
左耳にそっと触れて、その手を見る。
赤く、生ぬるい液体がほんの少しついていた。
「さて、次はどこがいい? 眉間? 眼球? 心臓? 手や足の腱? 体の輪郭を添うように投げて、恐怖感をあおるってのもありかな?」
ジャグリングしているナイフを一つ一つ手に持ち直す仮面。これは…まずい!
とっさに立ち上がり、その場から走り去る。席を足場に席の裏側に回り込み、盾にする。それらをしているさなかも背後からドス、ドスという突き刺さる音は続く。でも、遮蔽物ができたのだからこれ以上は問題ない――
「あははっ、甘いよ!」
その声は上から聞こえた。見上げると、そこには降り注ぐナイフの群れがいた。
「マダチっ!」
とっさにマダチで薄い膜を作り、盾にする。キン、コンと金属音が無数に鳴り響く。
「どうだい? 今の跳躍をどうやったか知るだけでも、少し狐子に近づくことができると思わないかい?」
その声は劇場の後ろの方から聞こえた。そちらにマダチの盾をかざしながら向き直る。
ギィン! とひときわ強烈な金属音が響き、ナイフが一本クルクルと宙を舞う。マダチの盾があまりにも薄すぎたのか、ひびが入っている…ナイフ投げで金属にひびを入れるなんてこと、できるのか?
「いい判断力だね。ま、ボクにはまだ及ばないだろうけど」
「お前は…本当に僕なのか?」
思わずそんな言葉を漏らす。おかしい。僕はナイフ投げなんてできないし、廃ビル前で見たような跳躍力を発揮することもできない。それなのに、仮面はどうしてそれができるんだ?
「ボクは君の中の存在ではあるけれど、君とイコールというわけじゃない。だから、こんなこともできる」
そう言うと、仮面は霊弓の形にマダチを作り替えた。右手の中には既に霊力の球が作り始められている。
「君もやってみるといい。僕以上の霊力をコントロールできるなら、だけど」
そう言っている間にも、霊力の球は大きくなっていく。そして、それは実際にやって比べるまでもなく、僕が作り出したことのある霊力の球よりはるかに大きくなっていた。下手をすれば、雲に大穴を開けた小夏さんの霊力の球ほどの大きさがあるかもしれない。
「さて、着弾点で爆発するけど…ちゃんと、よけてよ?」
そう言って霊弓に霊力の球をつがえる仮面。その射線は…紛れも無く、僕を貫くように向けられている。
「…霊力を足に集中。そして、動かすんだ」
ぼそりと仮面が呟く。爆発する、という言葉が事実なら…狐子のように、さっきの仮面のように高く跳ぶか、狙いがつけられないような速さで走るしかない。
一か八か。足に霊力を集中させるようにイメージする。
「生か死か。君の可能性を、ボクに見せて!」
霊弓の弦から、手が離される。それがやけにゆっくりに見える。
そして、すさまじい速さで“死”が迫り来る…。
それから逃げるように、地面を蹴る。その程度では垂直に六十センチ程度しか跳べないのだから意味がない――はずだった。
僕の体は、宙を舞う。何メートルもの高さに、僕の体がある。そして、それは爆風を受けて吹き飛んだからではない。紛れも無く。僕自身の足が。その高さまで。僕の体を飛翔させたのだ。
「やればできるじゃないか! 着地するまで気を抜かずに!」
仮面の賞賛するかのような声。僕の直下は爆発でえぐれている。もしも巻き込まれていたら、死んでいただろう。この世界での死に意味があるのか、なんてわからないけど。
着地と共に、足にすさまじい衝撃が走る。それを逃すためにわざと地面を転がる。
「今のは…いったい…」
「霊力は、君の肉体を強化する。霊体ほど直接効果が出る訳じゃないけど…今ぐらいの跳躍はできるだろうね」
ふと気が付くと、仮面は霊弓を消し、手ぶらで拍手をしていた。
「次は…目に集中してみるといい」
それもつかの間、再び仮面の手にスローナイフが握られる。
今の跳躍のような何かがおきる。奇妙な確信と共に目に霊力を集中する。
「まずは…これくらいだ」
仮面から放たれるナイフは一直線に僕へと飛んでくる。だけど…先ほどまでと違い、その姿を、はっきりと認識することができる。
その飛ぶ速さから逆算し、拳をふる。それはあっさりと、高速で飛んでくるナイフの横側をとらえ、ナイフの軌道をそらす。
「いいね。でも、まだ終わらないよ?」
その言葉とともに、今のナイフより若干早く二本のナイフが飛んでくる。
一本目を右手で、二本目を左手で払い、軌道をそらす。それと同時に、二本目と同じ軌道で三本目のナイフが飛んできていたことを視認する。とっさに地面を霊力を込めた足で蹴り、横に飛び退く。
「飲み込みが早い。君は天から才を授かったようだね。まさに天才だ」
水平に数メートル跳んだ僕を見て、やはり仮面は嬉しそうにする。
「それはどうも…この数秒で、ずいぶん人間から離れたように感じるよ」
「気のせいさ。そういえば、霊力は氣とも呼ばれている。自在に使いこなせる人間は仙人とも呼ばれているね。仙人なら、これくらいできて当然さ」
「仙人…? 僕が…?」
仮面の言葉に困惑する。僕が仙人? 今だって里奈さんや双葉、礼尾に先輩と一緒に過ごしている、何の修行もしていない僕が?
「まあ、今の君は狐子の式神だ。自分の才能のみで仙人になっているわけじゃないから…憑神、とでも呼んであげようか?」
つきがみ。耳慣れぬ言葉に首をかしげる。
「神に憑かれた存在。神憑きとか、神がかりって言った方がいいかもしれないけど、あえてこういうよ。だって、君は神になるにふさわしい。神に憑かれた神って意味合いでボクは言わせてもらうよ。憑神、ってね」
神に憑かれた神…憑神…いや、それ以前に仮面は何を言っているんだ? 僕が神になるにふさわしい? 煩悩に満ち満ちた僕が?
「…混乱しているね。今度は脳に霊力を集中するかい? 思考能力が上がるかもしれないよ?」
からかい半分で言っているのが明らかだから、その言葉は無視する。それに、思考能力が上がったところで、この疑問は解けないだろう。
僕は、仙人でも何でもない、ただの人間なのだから。
「さて、跳躍術と認識術を教えたわけだし、今度の戦いには十分かな? まあ、強化したい部分に霊力を集中させればいい、って思ってもらってもいいかな。それじゃ、ボクはこれで」
そう言って仮面は劇場の最後部にある扉に歩んでいく。
「ま、待て!」
「待たないよ」
こちらを一瞥する仮面。それと同時に、体がすくむ。震えて、思うように動かせない。
「な、にを…?」
「…また会おうね」
その間に仮面は劇場を後にし――世界は、歪みだした。




