陸幕 少しばかり長い”日常” 中
「…慎一。先、入っていいぜ」
「双葉、遠慮しないでいいんだよ。廊下は寒いし、レディーファーストっていうじゃないか」
「いや、あたしはレディー、淑女って感じじゃねーし、優先しなくていい。だから、さっさと入れよ男だろ…!」
僕たちは考世学部の教室の前でそんな言い争いを小声でしていた。理由? そんなもの一つしかない。引き戸に付いた、赤い…血のように赤い何か。これを見たうえで平気な顔をして里奈さんに会える人間がいるだろうか。
「…よし、一、二の三で開けよう。入るのは安全だとわかってからで。それならいいでしょ?」
「…しゃーねーな。それで妥協しとく。それじゃあ、合図はお前に任せるぜ。あたしは愛紗を守っとく」
「いやいや。兄として愛紗を守る役は譲れないよ。双葉こそ、開けなよ」
「いやいや」
「いやいや…」
「……」
「………」
「やんのかてめぇ!?」
「いいよ、だったらジャンケンだ!」
胸ぐらをつかんでくる双葉に、思わずそう返す。
「…一旦落ち着くか。争うべきはあたしたちじゃない」
「…そうだね。問題はどっちが扉を開けるかだよ」
狐子はそんな僕らの様子を双葉の後ろからおかしげに眺めている。僕以外に見られてないと思って…!
「ふぁ~…ありゃりゃ? イッチーにふたばんだ~。教室の前で何してるのかにゃ?」
救世主降臨。かもしれない。
「いえいえ、何でもないですよ。さ、先輩、お先にどうぞ」
「そうそう。ちょっとだべってただけっすよ。ささ…」
「ん~? まあ、そういうならそうさせてもらうよ~」
疑問気に首をかしげながら扉を開ける先輩。反射的に身構える自分がいる。
「あ、凛香先輩。おはようございます」
「ん~、おはよ~。イッチーとふたばんもいるんだけど、今日は別行動だったのかにゃ~?」
よかった…冷静さを取り戻しているようだ。よかった…本当によかった…!
「いえ、いつも通り三人で登校していたのですが、途中で礼尾さんにその…妙な事を言われた物ですから。それに怒って追いかけて、私だけ別行動という事になったんです」
「ふぅ~ん…あれ? それじゃあれおぽんは? ここにいないみたいだけど~…?」
先輩の言葉で教室内を見渡すと、確かに礼尾がいない。
「それが…よっぽど私が怖い顔をしていたのか、途中で転んでしまったのです。今は、保健室で手当てを受けているところかと」
手当てで済むようなことで済ませたのだろうか…。
「…慎一」
「うん…双葉」
「「無茶しやがって…」」
転んだ程度で小さいとはいえあの跡ができてたまるか。
「あの…先ほどはお見苦しい所をお見せしました。すいませんでした」
そう言って頭を下げる里奈さん。
「気にしないで。小学校からの付き合いじゃないか」
「そ、そうそう! 今更っつーか、なんつーか…!」
下手な事を言えば礼尾と同じ目にあいそうな気がする。双葉もそう感じたのだろう。
「そう言っていただけるとありがたいです…もう、礼尾さんったら、いつも変な事を言うんですから…」
「本当だよ。まったく、礼尾のやつは…」
こんな朝早くから死線をさまようとは…バカな奴。
「そ~いえば~。そこの美少女ちゃんはチャットで言ってた妹さんかな~?」
今更感があるけど、質問には答えないとね。まるまるうまうま。
「にゃるにゃる~。いやぁ~、イッチー、愛されててるねぇ~。花が両手でも足りないよ~」
「いや、義理とは言え妹を花と数えるのはどうなんですか…」
「むふふ~。ゲームなんかじゃよくあるルートじゃないの~。自分を異性として愛してくれている義妹でチェリー卒業なんて、世の男に刺されそうなくらいうらやましいシチュじゃんか~。しかも美少女~。特にここ重要かな~?」
「ゲームと現実を混ぜるのはいかがなものかと…」
「ゲーム脳ではないから安心していいよ~」
そう話していると、教室の引き戸が開いた。
「お、おう…みんな、そろってるな…」
「皆さん、おはようございます」
そこには額にガーゼをあてた礼尾と須藤教授が立っていた。
「れおぽん…大丈夫? 転んだにしては重傷っぽくな~い~?」
「転んだ…? 何言ってんすか、これは里奈に投げ飛ばされ」
「転んだんですよね? 礼尾さん?」
「あ、はい。転びました。盛大に転んで頭うちました。サーセンっした」
コンクリの上でケガするような強さで投げるって…里奈さん、そこまで怒る理由は分からないけど、いくら何でもやりすぎだよ…あと、怖い。笑顔だけど般若が浮かんで見える。
「まあ、私が見た限りでは軽傷なので、大丈夫でしょう。記憶障害などもないようですからね」
「礼尾の場合ちょっとくらい打った方がいいんじゃねーか? 古い家電の要領で」
「あー。あるある。昔の家電って叩くと故障直ったりするよな…って、俺の頭がおかしいと言いたいのか?」
「ったりめーだろ。まあ、何とかは死んでも直らねーっていうけどな」
「ほっとけ!」
礼尾は少し心配だけど…まあ、あんな大声出すだけの元気があるなら大丈夫だろう。
「では授業を始めます…と、言いたいところですが。その前に、慎一君の陰にいる女の子は誰でしょう?」
あ、そういえば教授には何も言ってなかったっけ。それじゃあ、ちょっと詳しく…いあいあくとぅ――
「はっ!?」
「ふたばん、どうしたの~?」
「いえ…なんか窓の方から妙な気配を感じて…気のせいかなー」
何はともあれ、説明を終える。そういえば、礼尾にも詳しいことは話していなかったっけ。
「なるほど。そういう事情なら仕方ありませんね。まあ、面倒を避けるなら私以外に見つからない方が良いかもしれませんが」
「ありがとうございますです」
「いえいえ。あなたのような利発そうな子は大歓迎ですよ。ここに入るのでしたら、考世学部にスカウトしたいくらいです。でも、授業の妨げにならないように、静かにしていてくださいね?」
「はいです。静かにしてますです」
良かった。思っていたよりあっさり受け入れてくれた。これなら、しばらく一緒に学校に来ることもできそうだ。
「……」
ただ、気になるのは礼尾が狐子の方をじっと見ていることだ。
「礼尾? どうかした?」
「…いや、かわいいなーって思ってよ」
「…ロリは二次専門って言ってなかったっけ?」
「前言撤回。こういう素直そうな子だったらやっぱロリは天使だわ」
どうしよう。叩けば直るかな? 傷口を狙って殴ればいいのかな?
「…おにーちゃん。このバカの人、なんか怖いです…」
「はいぃ! 舌っ足らずな感じのお兄ちゃんいただきましたぁ! ついでにいわれなき罵倒もいただきましたぁ!」
「いや、いわれはあるよ」
「愛紗、バカの人の言う事は無視していいからな。あと、変な目で見てきたらあたしに言え。すぐ助けに行くから」
「愛紗ちゃんは私から見ればある意味敵ですが、友人を…バカの人を犯罪者にするのも心苦しいですね。仕方ないですから、私も助けてあげましょう」
「お前ら…泣いていいか?」
「まあ、落ち着きなよ~。れおぽ…バカの人」
「わざわざ言い直すんすか!?」
「教授、バカの人は放っておいて授業を始めましょう」
このままだと礼尾いじりが延々と続きそうなので教授にそういう。
「いえ、そういうわけにはいきません」
「教授…! もはや俺の味方は教授だけ!」
「バカの人だって私の大事な生徒です。バカの人がどれだけバカであろうと、大事な生徒である以上、私には教える責務があります」
「四面楚歌…俺に味方なんていなかった…!」
悲しげな背中で席へと向かう礼尾。というか、教授、バカの人って二回言ったよね。
「まあ、冗談ですよ。礼尾君。では、授業を始めます」
フォロー…のつもりなのだろうか。いや、僕たちがさんざん言ったのも悪いんだけどさ。
「では、まずは神話学をやります。皆さん、教科書の東洋の神話部分を開いてください。ページ数で言うと…百四十八ページですね」
今日も授業が始まる。なんともまあ、今までと変わらない日常だね。
‡ ‡
授業は一コマ分やるたびに休憩をはさみながら続いた。そして、昼食の時間。
「おにーちゃん、あーんです」
「ありがとう、愛紗。あーん」
僕は狐子にあーんをされていた。みんなの見ている前でこういうことをするのは抵抗があるけれど、断ったら泣き真似でもしてきそうだから、仕方ない…仕方ないんだってば。
誰かに言い訳をしながらあーんをされていると、双葉と里奈さんが何かをひそひそと話しているのが見えた。
「二人とも、どうかしたの?」
「ふぇっ!? い、いえ、なななな何でも…」
あからさまに動揺している里奈さん。そしてその背中を軽くたたく双葉。何をしているんだ…?
「う、ううっ…! し、慎一さん!」
「な、なに?」
意を決した、という感じで、里奈さんは自分の弁当箱の中の卵焼きを箸でつまんで、こちらに差し出してきた。
「そ、そのっ、わ、私からも、そのっ…!」
えっと…あーんってこと?
「あ、あ、あああ…あーんなんてできません! 双葉ちゃん!」
「んだよー、惜しいとこまで行っといてよー。あとは慎一にパクリと行ってもらうだけだったじゃねえか」
「それが難しいんじゃないですか! わ、私、もう口をつけてしまいましたから、か、間接的なアレになってしまって…!」
里奈さん…なんで狐子に対抗しているんだろう。
「里奈さん、よく分からないけど…別に愛紗の真似をする必要は」
「おにーちゃん、あーんです」
「あーん…ムグムグ…ないと思うよ」
そもそも、里奈さんがそんなことする必要性も必然性もないし。
「べ、別にそういうわけでは…ただ、双葉ちゃんがやれという物ですから、断り切れず…」
狐子の事をにらむようにしながらそういう里奈さん。うーん…なんで狐子の事をこんな目で見るんだ?
「簡単な事だし、別にいいじゃねぇか。ほれ、慎一。あーん」
僕の弁当から豆を箸でつまみ、差し出してくる双葉。
「どうして双葉までそういうことするかなぁ…」
「あぁ? あたしのあーんじゃ飯は食えねぇってか?」
「別にそんなこと言ってないじゃないか…食べればいいんでしょ、食べれば」
双葉の差し出してきている豆を食べる。母さんの味付けだけあって、実に僕好みの味だった。
「な? お前は間チューだなんだって気にしすぎなんだよ」
「双葉ちゃんが気にしすぎていないだけです! だ、第一、男女の仲でもないし、介護とかが必要になっているわけでもないのにそんなことするなんて…は、ハレンチです!」
「男女のなか…だったら、わたしとおにーちゃんはだいじょーぶですね! いっしょのお布団でねましたし、おにーちゃんにおとなの女にしてもらうんですから!」
ちょ、そのネタをここで使ったら…!
「…エ? シンイチ、ソッチノヒトデスカ?」
「ち、違うからね!? 一緒の布団で寝たのは愛紗が一人じゃ寝れないっていうからで! 大人の女っていうのは愛紗が勝手に言っているだけだし…!」
「いっぱいデートしてくれるってやくそくです! おとなのデートだって、してもらうんですから!」
「…一緒の布団で寝るのは弟妹のいるあたしは理解できますけど、大人にしてもらうとか大人のデートだとかはさすがに擁護しきれませんよ、慎一さん」
「やめて、双葉! 敬語を使って僕を遠ざけないで!」
なに!? 狐子は友達と僕の距離を遠ざけるためについてきたの!?
「…ブツブツ…ペドフィリア…原因…成人女性に対する恐怖感など…ブツブツ…」
「里奈さんも変な事を呟くのはやめて!」
ガラッ。教室の扉が開く。
「僕は普通に里奈さんみたいに同年代の女性が好きだから!」
それと同時にそう叫ぶ。出入り口に立つ凛香先輩と礼尾と目が合う。
「…邪魔したな。食堂で食ってくるわ」
「たまにはみんなと食べようと思ったけど…やっぱり、カフェテリアで食べてくるよ~」
「わ、私みたいな女性が…好き…!?」
「おー、いきなりの告白とは…あたしも席外すわ」
「え…? …っ!? い、いや、今のはあくまで例として里奈さんの名前を出しただけで…っ!」
まずい。新たなネタを提供してしまった。
「うふふふふ…うふふふふ…」
「り、里奈さん?」
ふと気が付いたら里奈さんが自身の頬を引きちぎらんばかりに引っ張っていた。何事!?
「やべ、遊びすぎた…里奈ー。大丈夫だ、ちゃんと現実だから」
「うふ、うふふ…慎一さんの好みは私みたいな女性…うふふふふふふ…」
なんだろう、里奈さんがだいぶ怖い。
「里奈、真っ赤になるからもうやめとけって…だめだ、完璧に壊れてる。慎一、責任取って何とかしろ」
「なんとかって言われても…里奈さん? もうつねるのはやめた方が…痛いだろうし…」
「…はっ!? わ、私は何を…」
良かった。案外あっさり正気に戻ったね。
「あれ? どうしてこんなに頬が痛いのでしょう?」
「もういいんだ、里奈。告白しよう。な?」
「え? 何の話ですか? え?」
里奈さん…本気で壊れてたんだな…。
「とりま、飯買ってきた。しかし、帰ってくるなり慎一の告白シーンに出会うとは…」
「右に同じく~」
「いや、だからあくまで例えだってば…」
「慎一さんの告白!? いったい誰に!?」
「もういいから。里奈。一旦何もかも忘れよう。心配しなくても、お前の考えているようなことは起きてないから」
そんな僕たちを見て、さすがの狐子もあきれたような笑みを浮かべている…いや、狐子のせいでこうなったんだからね!? なに自分は関係ありません、的な笑みを浮かべてるのさ!
「えー…皆さん。楽しむのはいいですが、早くしなくては昼休憩が終わってしまいますよ?」
「教授居たんですか」
「ええ。最初から」
そう言いながらコーヒーを飲む教授の表情は、とても切なげに見えた。
‡ ‡
ドタバタの昼食と、午後の授業を終える。さて、サークルに行くかな。
「それじゃあ、皆。またあとで」
「おう。さて…殴りあうぜぇー!」
「落着け、バカの人。でないとボクシングバカの人にあだ名が進化するぞ」
「んだよ、んなこと言ったらおめーは合気道部の格闘バカじゃねーか!」
「ふっふっふー…先輩はバリバリ発明しちゃおうかな~。今日も頑張るよ~」
「終わったら茶室に来てくださいね。お茶点てますから」
「うん、いつもありがとう」
荷物をまとめ、教室から出てみんなと分かれる。さて、これからは戦いの中でも弓を使うんだ。実戦訓練のつもりで練習をしないとな。
八大の敷地内の端の方にある教室から、反対側の方にある弓道場へと移動するのには少し時間がかかる。その間狐子と雑談をしてみようかな…。
「まったく、昼は変な事ばかり言うから気が気じゃなかったよ…」
「ちょっとしたいたずらじゃ。許せ」
「狐子の言うちょっとしたいたずらは友達に僕が鬼畜兄だという事を植え付ける事なの…?」
「ふふ。さてのぅ? まあ、里奈があまりにも真面目ゆえ、からかうのが止まらなんだのじゃ」
「あー…朝もなんか花言葉使ってケンカしてたよね。あれ、どういう意味なの?」
「深く知ることはない。ただ、あの娘の思いは本物じゃのぅ…ラズベリーの花言葉を知っているか?」
その言葉に首を横に振る。
「…“深い絶望”じゃ。恋敵に対する明確な敵意とわしは受け取った」
「え、あの優しい里奈さんがそんなことを…!? って、恋敵って、どういう意味さ」
「そのままの意味じゃ。それが演技であることには気づいておらぬようじゃったが、わしが妹としてではなく、一人の娘としてぬしに思いを寄せていることを察するやいなや、あの反応…いやぁ、実にからかいがいがあるというもの。まあ、ぬしとてあのように容姿端麗、内面も悪くはない娘に思いを寄せられているのはまんざらでもあるまい?」
「いやいやいやいや! ちょっと待ってよ! あの、ミスキャンパスになってもおかしくない里奈さんが? 僕に対して好意を抱いている? ないないないない! いくら何でも、不釣合いだって! 僕は個性らしい個性もない、マンガとかだったらモブキャラになってそうな男だよ? ヒロインでもおかしくない里奈さんがモブキャラに恋をするって…おかしいでしょ!」
「そうかのぅ? ぬしはそう言うが、ぬしとて眉目秀麗、優しい性格。その他大勢にしておくにはもったいないと思うがのぅ。まあ、これと言って個性が見いだせぬのは事実やもしれぬが」
狐子はそういうけれど、やっぱり不釣合いだ。もしも本当だとしたら、もっといい人を探しなよ、と里奈さんに言いたくなる程度には。
あ、そうか。またからかってるんだな? そうだ、たぶんそう言う事だ。
「個性がない時点でその他大勢だよ。僕以外でも、僕の位置に立てる人はいると思う」
「ふむ…たしかに霊感はないわ、霊力もあまりないわ…こちら側でも無個性じゃのう。まあ、霊力の扱いには妙に長けておったが」
「一芸があるならよかったよ」
「一芸というても、基礎中の基礎じゃがな…まあ、それでも人間としては十分異端の存在じゃが」
異端の存在、か…それって、ある意味個性だよな…あくまで人間としてはだけど。
「む、あれが弓道場か?」
「ああ、うん。そうだよ。結構立派でしょ?」
そうしている間に弓道場にたどり着く。
「まあ、ゆっくり見ていってよ」
「うむ。後ろの方でお兄ちゃんかっこいい、とでも言っておこう」
「他のみんなが集中できるようにしてね…」
僕の言葉に狐子はにやにやと笑った。違うんだ、笑顔が見たいと思ったけど、そういう笑顔じゃないんだよ…。
若干ため息をつきたい気分になりながら弓道場の中に入る。
「あ、先輩! おはようございまっす…って、その女の子、誰っすか?」
弓道場の中には与一君を初めとして、何人かがいた。口々に“遠坂だ”とか、“ロリっ子だ”とかいっている。
「妹だよ」
「え、先輩に、妹さんっていましたっけ?」
「ま、いろいろあってね。正確には義妹だよ」
「義妹、っすか…何やら、複雑そうっすね」
「まあ、実際のところは複雑ってほど複雑ではないのだけど…事情を話すのはまた今度にさせてほしいな」
今日だけで三回ほど話しているから、ちょっと面倒くさくなってきているというのは秘密だ。
「了解っす」
なぜか敬礼しながらそう答えてくれる与一君。ふと狐子の方を見ると、先ほど“ロリっ子”だなどと言っていた連中に囲まれていた。あらかじめ言っておこう。妙な気を起こしたら殴り倒す。
「何やら騒がしいな。何かあったのか?」
こぶしを作りながら狐子たちの方を見ていると、そんな声がかけられた。
「有手さん! いや、見てくださいよこの子! めっちゃ可愛くないですか!?」
囲んでいた連中の一人がそう有手さんに言う。
「…ほう。たしかに、愛らしいな。人形のようだ。だが、いくつか聞きたいことがある…君、名前は? どこから来た? 学校はどうした? なぜ大学に来ている? まさかとは思うが、入部希望者か?」
やつぎばやに質問を繰り出す有手さん。それに狐子は対処しきれない、といった様子を見せた。
「え、えっと…名前は、じんのあいしゃ…あ、でも、おにーちゃんの妹なので、とおさかあいしゃ…? うーん…よく分からないです…」
「トオサカ…うちの部にいるトオサカとなると、君だな? 遠坂慎一」
「あ、はい。そうです。有手さん」
この人は百舌谷有手さん。弓道部の現部長で、与一君のお姉さん。弓の腕は、与一君もすごいけど、有手さんはもっとすごい。百発百中の弓の名手と言っても過言ではないどころか足りないくらいだ。ギリシア神話のアルテミスから名前を取られたらしいけど、その名に恥じぬ腕前。ちなみに、オープンキャンパスの日はどうしても外せない用事が入っていたそうだ。
「なんでも、遠坂先輩の義妹らしいっす」
「君には聞いていないよ、与一。さて、それでは、答えてもらおうか、遠坂慎一? 愛紗君は、学校はどうした? なぜここに来ている?」
あと、神様から名前を取られただけあってか、威圧感がすごい。クールに質問をしているだけなのだろうけど、思わず言いよどんでしまいそうなほどだ…もっとも、無表情、無感情の時の狐子や小夏さんには及ばないけど。
「えっと…本人の前だとちょっと説明しにくいのですが…」
さっきは面倒だと思ったけど、有手さんにここまで聞かれたら、答えないと怖い。
「そうか。ならばこっちに来たまえ。与一、愛紗君の相手をしておいてくれ」
「了解っす」
そういうと、有手さんは弓道場の隅の方へと歩いていった。僕もその後についていく。
「ここなら他の連中にも話を聞かれることはないだろう…さあ、洗いざらい吐いてもらおうか」
冷静な瞳でこちらを見据える有手さん。うう…やっぱりちょっと怖いよ…。
でも、別にあせるようなことはないのだから、こちらも冷静になって事情を話す。
「ほう…このあたりで人さらいが続いていたこと、その被害に遭いかけていた少女を助けた青年がいたという事は新聞などで目にしていたが、まさか君と愛紗君がその本人たちだとはね」
「まあ、その関係で一人になるのが怖いらしくて…転校の手続きも済んでいないので、僕と一緒に行動しても問題ないと判断したのです」
「ふむ。たしかに、そういう事情ならば共に行動しない方が、問題があるな。得心がいったよ。手間をかけさせたな」
「いえ、お気になさらず」
「ところで、遠坂慎一。彼女は弓道に興味を持っていたりはしないか?」
どうやら、どうして狐子がいるのかなどという事に対する関心は失せたらしい。自分と同じ道に引きずり込もうとする欲求が高まってきたようだ。
「いやぁ…いくら妹と言っても、さすがにそんなことは話題にしませんよ」
「そんな事…だと?」
あ、逆鱗に触れたっぽい。
「遠坂慎一…君はどこの部活に所属している…?」
「…弓道部です」
「ならば、聞こう。弓道に対してどうしてそこまで無関心でいられる? 新たな人間関係ができればまず弓道に興味があるか聞く。常識だろう!?」
いつもクールな有手さんだけど、弓道に対してはやたらと熱くなる。だから、こうして大声を出すのもいつものことだ…。
「そんな常識は有手さんくらいしか持ち合わせていないかと…」
「何か文句でもあるのか?」
「…何でもないです」
…本当に、有手さんは弓道を第一に考える人だよなぁ…。
「姉さん、先輩困ってるじゃないっすか…それぐらいにしておくっす」
「君は黙っていたまえ。さて、遠坂慎一。これからじっくりと話を…」
「あ、あのっ!」
お説教が始まりそうだと思った時、狐子がこちらに来て、有手さんに声をかけた。
「…なにかな? 愛紗君」
しゃがんで狐子と視線を合わせて尋ねる有手さん。こういう所はいい人なんだけど…。
「えっと…おにーちゃんが、なにかしたんですか?」
「なに、弓道に関する興味が薄いことに少しばかり苛立ちを覚えただけさ。すぐに済む」
あ、やっぱり怒ってる。
「すこしなら、がまんするのがおとなだとおもいますです。それに、おにーちゃんのこと、怒らないでほしいです…」
「む、そうか…まあ、愛紗君がそこまで言うのなら、今回は許すとしよう。愛紗君に感謝するんだな、遠坂慎一」
「は、はあ…」
とりあえず、狐子に視線を向ける。一瞬だけやれやれ、といった表情を見せるとうれしそうに笑顔を浮かべた。
「わかってもらえてよかったです!」
「私とて、無意味に怒りたいわけではないからね。まあ、弓道部に所属しておきながら妹とすら弓道の話をしないという事は許しがたいが…」
僕の方を見ながら言う有手さん。本当は怒りたいんだな…。
「ところで、愛紗君は弓に興味はあるのか? あると仮定して、洋弓? 和弓? 私のおすすめはやはり和弓だな。射法八節…弓を射るのにも礼を重んじる。やはり、それこそ大和魂というか、古来より続く日本人としての魂がだな…」
「姉さん、落ち着くっす。あると仮定してって時点で自分が話したいだけになってるっす」
「えっと…しゃほーはっせつは戦後に日本きゅーどーれんめーが決めたことで、ふるくから決まっているというわけでは…」
「む、詳しいな…私の話についてきてくれる相手はなかなかいない。希少な友人になってくれそうだな」
「…愛紗ちゃん、どうしてそんなことまで知ってるんすか?」
あきれ顔で僕に小さな声で言ってくる与一君。
「いろいろ本読んでるから…」
とりあえず、そう返しておく。さすがに千年以上生きていると知識も豊富なんだなぁ…。
「各員、自主練習に取り組んでくれたまえ。私は愛紗君としばし射法八節について語らいたい…愛紗君、君は礼射系と武射系、どちらがいいと思う?」
「れーしゃ系にはれーしゃ系の、ぶしゃ系にはぶしゃ系のうつくしさがあると思いますです。ぎれーてきなものが加えられたれーしゃ系のほうが好きですけど…」
「ふむ、なるほど。だが、武術としてみた時は武射系のほうがやはり無駄がないというか…まあ、名前から考えても当然のことなのだが」
「みんな、これ絶対長くなる。それぞれで練習始めよう」
とりあえずそれだけをみんなに伝えた。さあ、これからの為にもしっかり練習しておこう。まずは着替えからだな。
‡ ‡
…一足開き。胴造り。取懸けと手の内を整える弓構え。ここでやっているのは礼射系だから、構えは正面の構え。正面打ち起しののち、引分け。会は冷静に、頬付けと口割りの事を忘れずに。そして、中離れ…! よし、的の中心に当たった。それを確認したうえで残心。
「先輩、さすがっす。観衆の前でも緊張せずに放てるだけの実力があるっすね」
それを見ていたらしい与一君が僕にそう話しかける。与一君自身は残心を終え、二射目を始めようとしているところのようだ。
「いや…与一君には及ばないよ。動く的相手だと僕じゃあ全然だめだろうし」
「動く的って…先輩、やぶさめでもやる気っすか?」
そう言って少し笑うと、真剣な表情になり二射目の開きに入る与一君。そこからの射法八節は僕がするものより自然な流れで。放たれた矢は一射目で放った矢にかすって的に突き刺さった。的中制、得点制ならば間違いなく僕より上だろう。いや、採点制でも敵わないか。
「おっと、惜しい。アーチェリーで言う所のロビンフッドはやっぱりきついっすね」
「普通ならかすらせることすらできないけどね…さすがに与一って名前だけあるよ」
「姉さんは狙ってかすらせるくらいなら安定してるそうっすよ。やっぱり、人間と女神の違いはあるっす」
「…どちらにせよ神業だよ。プロでもロビンフッドは狙ってできないっていうよ?」
「はは。まあ、名前時点で弓やらせること確定っすからね。それに、これくらいはできないと、那須与一とアルテミスに失礼っす」
「狩猟の女神さまならともかく、那須与一でもロビンフッドは無理じゃないかな…?」
ちなみに、ロビンフッドの時に狙う的…要するに、一射目で放った矢は、直径およそ六ミリくらいだったはず。かすらせるだけでもどれだけの練習が必要になるかはその小ささから推して知るべし。
「で、さっきの動く的の話っすけど…どうかしたんっすか?」
「ああ、ちょっとね…もしも実戦に使うんだったら武射だの礼射だの言ってられないのかなー、ってふと思ってさ。で、実戦となると相手は当然動いているでしょ? だから、大変だろうなーって思って」
「実戦弓道と聞いて…呼んだかい?」
突如割って入る有手先輩。弓道の話の香りにつられて飛んできたな…。
「呼んでないっす…愛紗ちゃんとの射法八節談義はもう済んだんっすか?」
「ああ。実に有意義な時間だった…与一、君にもよく話をしているのだから彼女くらい語れるようになってほしいものだな」
気のせいか、肌のつやがいつもよりも良い有手さん。
「あー、まあ、そうっすね…」
「で、実戦での弓道だが、本来なら止まっている相手…動いていても、わずかにしか動いていない相手めがけて放つものなんだ。だから、合戦もので見るような、一斉に駆けてくる足軽に対する遠射は大勢で放ち、そのうちのどれかが当たればいい、といった下手な鉄砲理論なんだ。相手の数が多いからという理由ではない、実に合理的な理由なんだな。そういったところにも弓道の美しさが」
「あ、もういいです。本当にありがとうございました」
「まだ私の話は途中なんだがな…」
そうか…動く標的相手にも百発百中っていうのは無理な話なのか。
「まあ、動く相手に当てようと思ったら今している練習ではとてもじゃないが不可能だという事は覚えておくといい。風の流れを読み、相手の動きを読み、射線を考え…無数の要素を完璧に読み切った時、初めて動く標的に矢をあてることができる。すべてを読み、一点に当てるなんて、それこそ神域の腕前だ。私では、到底及ばないほどのね」
「有手さんでも無理なんですか?」
「ん? まあ、全く無理というわけではないよ。一応、それなりにやろうと思ったらそれなりにできる。百発百中といかないのが、神域とそうでない者との違いだね」
「一般人にしてみれば、当たる時点ですごいっすけどね。達人級の腕を持っている姉さんだからこそできる発言っす」
「まあ、動く的に当てたいというのなら、手伝いくらいならするよ。最初のうちは左右に振り子のように動くだけでも練習になるだろう。パターンの動きについていけるようになったら、本格的な動く的に挑戦だ」
「なんでそんなものを用意できるんですか、有手さん…」
本格的に動く的って…後ろから機械か何かで動かしているのだろうか。そうでないと、不規則な動きなんて難しいだろうし…。
「機械式の物を自作した。ないなら作ればいいじゃないか」
「さらっとすごいこと言いますね…」
「まあ、大体は君のところの速水凛香にやってもらったんだがね。彼女の機械知識はすさまじいよ。私がしたのははんだ付けくらいのものだ」
「ああ、なんか納得しました」
先輩だったらしょうがないね。昔からいろいろ発表会に出るようなもの作っていたらしいもんね。仕方ないね。
「まあ、私が神域の腕前を持っていたら須藤三成教授が放っておかないだろうさ。すさまじいまでの一芸を持っていることが考世学部にスカウトされる条件だ、と言われていることを知っているかい?」
「へぇ、そんな説まで出たんですか…」
「ああ。まあ、君の存在がそれを否定していると言われてもいるがね」
「さらっとひどいこと言いますね…まあ、その通りですけども」
僕がみんなほどの何かを持っているかと聞かれたらなぁ…無個性なモブキャラという意味では一芸を持っているかもしれないけど。
「…む、いかん。もうこんな時間か。愛紗君があまりにも博識だったから、思っていた以上の時間、話し込んでいてしまったようだな…」
壁にかけられている時計を見てつぶやく有手さん。普段だったらもう終わっている時間だ。
「皆、今日のところは解散だ。お疲れ様」
有手さんはそう言って更衣室に入っていく。
「おつかれー。有手さん、今日はずっと愛紗ちゃんと話してたな…」
「だな。つーっか、射法八節について語れる小学生って…どんだけー」
他の人たちもグループでまとまって更衣室へ入っていく。
「俺たちも着替えるっすか?」
「そりゃ、弓道着のままで帰るわけにはいかないからね。愛紗、ちょっと待っていてね」
「はいです」
与一君と更衣室に入る。
「にしても、遠坂うらやましすぎ」
「だな。あんなかわいい女の子、妹にできるとか…十年ぐらいしたら衝動おさえきれなくなりそうだわ」
「いや、俺は今だからこそ逆に…」
ああ?
「今話していた三人は表でて。殴り倒すから」
「せ、先輩、たぶん冗談だと…」
「うん、分かってるよ? でも人の妹に手を出すような話をしている連中、許せないんだ。与一君だって、有手さんに卑猥な妄想を向けられたら怒るでしょう?」
「いや、貰い手いなさそうな属性なので、責任取ってくれるなら…」
「…こいつらにその責任を取る覚悟があって話しているとは思えないんだよね」
青筋が立っているのではないかと思うほどにイラつくのも久しぶりだ。さて、鉄拳制裁されたいのはどこのどいつだ?
「やーいこのシスコンやろうー!」
「お前かああ!」
「先輩落ち着くっすー!」
後ろから僕を羽交い絞めにする与一君。なんでだ、なんで止めるんだ! ここで止めなきゃ、今止めなきゃいけないんだ! でないと手を出そうとして狐子に返り討ちにあって僕にされるよりひどい目に合うから!
「離せ! 離すんだ与一君!」
「離さないっす! 大丈夫っすよ、あくまで冗談っすよ! 話せば分かるっす!」
「その通り! 離せば分かる! さあ、離そうか!」
「あれ!? なんか、俺と先輩とで漢字変換が異なる気がするっすよ!? 先輩!? せんぱーい!?」
そんなやり取りをしていると、外から三人分の呻き、あるいは叫び声と、何かが地面に勢いよく倒れるような音が三つ聞こえた。
「…だから、離してと言ったのに」
「…先輩が心配してたの、妹さんじゃなくてあの三人の方だったんすね…」
まあ、狐子なら大丈夫だろうからね。万が一があるような腕じゃないし。
「さーて、着替えよー…あー、疲れた…」
「心配していた割には冷たいっすね…」
「心配? え? 誰が何を?」
「…何でもないっす」
その後は黙々と着替えをしていった。先に着替えを終えて外に出ていく人たちの“うおっ!?”という叫び声が外の惨状を想像させた。
「さて、行こうか。与一君」
少し経って、僕も着替えを終える。与一君は着替えに慣れているから僕が少し待たせるという形になる。
「…外、大変なことになってないっすよね?」
「たぶん手加減はしてくれたでしょ。愛紗、強いもん」
「…なんか、先輩の周りって戦闘民族多いっすね。先輩も含めて」
「あはは、何のことやら」
礼尾と双葉のことは認めるけど、それ以外に戦闘民族なんているかなぁ?
「うわっ!?」
扉を開けた与一君が叫ぶ。まだ惨状は広がっているのか…。
「む、ずいぶん騒いでいたようだな、二人とも。女子更衣室にまで聞こえたぞ」
その中に平然とたたずむ狐子と有手さん。その姿は惨状とは存在する軸が違っていて、惨状が見えていないのではないかと思わせた。
「あ、あの…愛紗ちゃん。これはいったい何があったんすか…?」
「えっと、その…みょーにちかづいてきたので、おしおきを…」
「打撲痕から見るに、鼻とみぞおちは確定。残り一人は…金的、かな。いや、誰の付けた打撲痕かとは言わないが」
言われてみれば、一人血を流しているな。その手元には血文字で“遠坂女”と書いてある。それが女の方の遠坂を指しているのか、遠坂妹と書こうとして途中で力尽きたのかはわからない。
「さ、帰るぞ、与一。こんな馬鹿どもは放っておけ」
「え、いや、介抱くらいは、いや、え」
「帰ろうか、愛紗。今日の晩御飯は何だろうね」
「和食もいいですけど、カレーライスもすきです!」
「その、あの、あれ、ん? 俺か? 俺の方がおかしいんすか!?」
そういう与一君は、有手さんと共に帰るべきか惨状を何とかすべきか考えてか、僕たちと惨状の間を行ったり来たりしていた。
「先輩! 先輩くらい手伝ってくださいよ! とりあえず保健室に運ぶくらい!」
「ごめんね、喉かわいちゃって。里奈さんのたててくれたお茶飲んでからでいいかな?」
「割とどうでもいい理由!? いや、お茶ならそこの自販機で買えますよ!? お金出すのがいやならおごりますよ!?」
「いやぁ…ちょっと、里奈さんのお茶じゃないとだめだね。ペットボトルのお茶と目の前でたててくれる抹茶じゃあ、味も、こめられているものも違うでしょ?」
「いや、そうかもしれませんけど…! ストップ! ジャストモーメントプリィーズゥー!!」




