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陸幕 少しばかり長い”日常” 上

 チッ、チッ、チッ…カチリ。ジ…バン!

「…眠り、浅かったかな…」

 目覚まし時計が鳴り始めるのとほぼ同時に止めてそう呟き、目を開ける。

「早いのぅ。かわいい妹らしく起こそうかと思うたが、その必要はなかったようじゃの」

 何かを読みながらそういう狐子。ただ、一つ問題がある。

「…おはよう。ところで、近くない?」

 その問題とは、僕の入っているふとんの中に狐子も入って、距離もやけに近いことだ。

「よいではないか。今は冬じゃぞ? ぬしはわしに布団の外で凍えておれとでも言うのか?」

「いや、そういう意味ではないんだけど…え、いや、近いよね?」

 僕の視界は狐子のきれいな髪(後頭部)でほぼ埋め尽くされている。とにかくそれだけ近い。あと、甘い香りがする。狐子の香り、いい香りすぎる…いや、断じて変な意味でなく。

「雄ならば雌が近くにいることに喜びを感じるものではないか?」

「うん、妹的な意味でかわいい女の子が近くにいてくれることは素直にうれしい。でも、いくらなんでも近いよね?」

「そうはいうがな、ぬしよ」

 そう言いながらもぞもぞとその場で寝返りをうってこちらを向く狐子。その距離は鼻と鼻が触れ合いそうなほど。

「ぬしも言っておったとおり、この寝台は一人用じゃ。これくらいせねば落ちてしまうのじゃ」

う、なんだ? こちらを見られたとたんに、なぜか狐子の事を異性と感じてしまう。最初から女の子だと感じてはいるけど、こんなふうに、胸が高鳴るというか…そういう感覚にはなったことが無いぞ。長いまつげ。あどけない、繊細で、端麗な顔。そして、何よりこの甘い香り…その一つ一つが、とんでもなくいとおしく思えてくる。許されるものならば、このままその桜色の唇に己の唇を触れさせてしまいたくなるような――。

「ぬしよ、聞いておるのか? 突然顔を真っ赤にして…」

 いたずら気な笑み。緩められる目と口。それがあまりにもかわいらしくて…いや、美しすぎて、己の衝動をぶつけてしまいたくなる。どれ一つとっても非の付けどころのない、まさに神域の美しさ…!

「こ、狐子…!」

「ん? なんじゃ?」

 疑問を疑問のままに小首を傾げる狐子。その純白の肌からは、愛らしさだけでなく、妖艶さを感じるような気がして…己の腕の中で桜色に上気させたい。そんな衝動が、欲望が理性を突き破ろうとする…!

「ん…? もしや!?」

 耐え切れず、その細い腰に手を回そうとした時、狐子は跳ね起き、ベッドを慌てた様子でおりて僕から距離を取る。

 それと同時に、僕の中の衝動がしぼんでいくのを感じる…って、僕はいったい何をしようとしていたんだ!? 内面はともかく、外見はあんなに幼い狐子相手に…! さ、最低だ…。

「ぬしよ…今、わしに対して何というか…せ、性的な衝動を感じておらなんだか?」

 ズバリ考えを当てられ、動揺する。

「い、いや、決してそんなことは…!」

 僕も慌てて起き上がり、ベッドの上に正座する。

「別に怒ったりせぬ…と、言うより、そう言った物を感じていたとしたらわしのせいじゃ。それゆえ、恥じることも、隠すこともない。むしろ、わしの力に関することじゃから、教えてほしい」

 は、恥じることはないって言われても…狐子の事を見てむらむらしていた、なんて本人相手に言えないよ!

 でも、わしの力に関すること、ってことは、ひょっとして神様の力のせいで僕があんなふうに感じていた可能性もある? 教えてほしいって言っているくらいだし、言った方がいいのかな…?

「頼む…もしも感じていたとしたら恥ずかしいじゃろうが、そこはお互いさまという事で聞かせてくれ」

 どこか恥ずかしげな表情でそういう狐子。そ、そっか。そういう目で見られたんだから、誰より恥ずかしいのは狐子だよね。

「…ごめん。狐子が近くにいる時、そう感じてた…」

「やはり、か…」

 やれやれと言った様子で頭をかく狐子。

「…実は、世には魅了術という物が存在している。わしの場合、ある程度力があるときは一般人との交渉などを有利に進めるために自動的に使うように設定しているのじゃ。で、問題なのがその魅了術の性質でな…」

 そこまで話すと狐子はため息をついた。

「先ほどの距離まで一般人と近寄る機会はないと思っていた故、その魅了術に設定したのじゃが、その…くちづけをするような距離まで近づくと、相手を性的に魅了する効果があるのじゃ。な、なにも妙な目的でその魅了術にしたのではないぞ? ただ、一番強力な効果を持つ魅了術だった故にじゃな…」

「つまり、さっき僕が妙な気分になったのはその術のせいだってこと?」

「うむ。しかし、妙じゃな…自動で術が発生する程に力が回復するには今しばらくかかると思っていたのじゃが…あ、それとわしの顔を見さえしなければこの魅了術は効果を発揮せん。故に、これからは安心してくれ…布団の中に入ることはあっても、ぬしの方は見ぬことにする」

 え、布団には入るの?

「と、とりあえず、朝食じゃ! ぬしは今日から寺子屋に行くつもりじゃろう? 早くせねば、遅刻してしまうぞ!」

 僕のそんな視線を感じてか、話題を変える狐子。いや、僕だって長く続けたい話題じゃないけど…。

「そう、だね…うん、まずは朝ご飯だね。でも、着替えないと…」

「そ、そうじゃった。すっかり忘れておった…」

 そう言って昨日持って帰ってきたカバンに向かう狐子。

「さ、ぬしも着替えるがよい…お互い、着替え姿は見ぬというのは、言うまでもないな?」

 後付のように後半を言う狐子。

「え、同じ部屋で着替える…の?」

「それは…まあ、いくら兄妹とは言え、異性と同衾する程警戒心のない娘が、着替えだけは別の部屋で、と言い出したら、ご両親に怪しまれるやもしれぬじゃろう?」

「ああ…まあ、そうかもしれないね」

「それゆえ! 嫌々! 同じ部屋で着替えるのじゃからな!」

「そんな強調しなくても、妙な勘違いはしないから。安心して」

 …落ち着け。落ち着くんだ僕の心臓。違うだろう? さっき異性と認識したのは魅了術のせいだろう? 外見は八歳だぞ? だから落ち着くんだ。早鐘のように鼓動をうつんじゃない…!

「まあ、分かっているのならよい…さっさと着替えるぞ。遅刻したくないなら、呆けておるでない」

 そう言ってカバンから着替えを取り出し始める狐子。僕もタンスから着替えを出して着替えよう…。

「…は、始めるぞ」

「う、うん」

 互いに背を向け、そう言葉を交わす。

 シュルリ…パサリ。パサリ…。

 その少し後に、衣擦れと、衣服が床に落とされるらしき音が聞こえだす。ぼ、僕も着替えないと…。

 若干急いで着替える。パジャマを全部脱いで、ズボンをはき、長そでのシャツを着る。この上には里奈さんが作ってくれたコートを着るから、これくらいで問題ない。

 さて…いくら女の子の着替えが長いと言っても、もう衣擦れらしき音も聞こえないし、振り向いて大丈夫だろう。

「さ、狐子。下におりよ――」

 振り向いた先には上半身裸、下はパンツだけの狐子がこちらを首だけ回して見ているという光景が広がっていた。

 目と目があう。瞬間、死んだと気付く。ただ、その白い肌はやたらと色っぽく見えて。魅了術の効果がまだ残っているのかな?

「な、な、な…!」

 それにしても、どうして、もう着替え終わった? と一言を言う事を思いつかなかったのだろう。

 ああ、狐子が顔を真っ赤にして右こぶしを振り上げている。左手でふくらみのない胸を隠しているなぁ。それを認識した僕は、胸の前に十字を作る。

「父さん、母さん、先立つ不孝をお許しください…Amen」

「何を見ておるかこの助平がぁぁぁっ!」

 そのままの姿勢で飛び上がった狐子に、全力の右を顔面に叩き込まれる。それは、今まで受けた一撃で最も重く、最も強い一撃だった。

 ――子供らしさを演出するために、パンツも子供らしい縞のをはいているんだなぁ。

 遠のく意識の中、そんなことを思い浮かべていた。


‡   ‡


「――よ。ぬしよ。起きよ」

「ん…んぅ…?」

 真っ暗な意識の中、誰かの声がすることに気が付く。

「うぅ…あ、狐子…? あれ? どうして僕、洋服で、それも床で寝てるの…?」

「さてのぅ…それは、寝る前のぬしに聞いてくれ。おかげでずいぶん休めたが…」

「あ、そうなんだ…それは良かった。ところで、狐子の顔がちょっと赤い気がするんだけど、何かあった?」

「……いや? 何も? 気のせいじゃろう」

 沈黙の理由が気になるけど、聞いたら恐ろしい目にあいそうな気がする。それが分かったうえで狐子にそれを問う勇気はなかった。

「さ、ぬしよ。下に行こう。朝食に遅れれば寺子屋にも遅れるぞ」

「あ、うん。そうだね。急がなきゃ…」

 何かを忘れている。そんな気はするけれど、あまり気にしない方がいい気がした。思い出したら命にかかわりそうな気すらするから。

 さてと、今日の朝ご飯は何だろう。一日のエネルギー源なんだから、しっかり食べておきたいところだね。

 そんなことを考えながら荷物を持ち、狐子と一緒に部屋を出る。うーん…なぜか顔と頭が微妙に痛む。体調でも悪いのだろうか…いや、それだと顔が痛い理由が…?

 悩みつつも荷物は玄関に置いておく。これで、あとは出かけるときに持って行くだけだ。

「おはよー」

「おはようございますです!」

「おはよう、慎一、愛紗。二人ともよく眠れたかい?」

「うん、よく眠れたよ」

 洋服で、床で眠っていた理由は謎だけど、途中で起きた記憶が無いという事は良く寝ていたのだろう。

「それは良かった。愛紗はどうだったんだい?」

「えっと…その…」

 なぜか恥ずかしそうにもじもじとし始める狐子。何か捏造するつもりかな?

「おにーちゃんに、ぎゅってしてもらったら…お胸がどきどきして…なかなか眠れませんでした…」

 やっぱり捏造された。そもそも寝てる場所が違うのに、僕がどうやって狐子を抱きしめるというんだ…。

「そうかそうか。慎一は罪な男だなぁ」

 でも、それを知らない父さんに僕の想いが届くはずもない。さて、ここからどう流れを変えるかなぁ…とりあえず、母さんが来る前に終わらせないと長くなりそうだ。

「それで、慎一の方は愛紗のそんな思いは露知らずぐっすり眠っていたと。いやぁ…我が子ながら、悪い男に育ったものだ」

「変な言い方しないでよ…ところで、今日の朝ご飯は何だって?」

「雑穀入りご飯と豆腐の味噌汁に焼き魚。愛紗の抱き心地はどんな感じだったかな?」

「やっぱり子供だからかな。ちょっと体温が高くて、温かかった。それにしても、純和風だね。好きだからいいけどさ」

「まあ、それが分かっているから母さんも和食にしたのだろうね。栄養バランスもいいし、カロリーを取りすぎることもない。和食は世界に誇るべき文化だよ。それと、立場上愛紗の思いに応えてあげることは難しいだろうけど、あまり無下にしないようにしてあげるんだよ」

「かわいい妹の事だからね。僕だって悲しませるようなことはしたくない。まあ、そのうち僕から離れていくこともあるだろうさ」

 よし、これで終わりかな? それにしても、すらすら嘘が出てくる自分が信じられない。あまり嘘をついたことはないはずなんだけどな…。

「みんな~、ご飯よ~。しんちゃんも禁断の関係とか、燃えるのかしら~?」

 あ、聞かれてた。長くなりそうだなぁ…。

「うん、いい香りだね。どこから聞いていたの?」

「しんちゃんの、おはよーのあたりからかしら? 顆粒出汁じゃなくて、鰹節からだしを取ったのよ~。香りがいいのはそのおかげかしら~」

「要するに最初から聞いていたんだね…」

「地獄耳だから~。それで? 愛紗ちゃんが大きくなったら、しんちゃんはどうするつもりなのかしら~?」

 配膳を進めながらそう話も進める母さん。

「だから、そのころには僕から離れてるって…」

「仮にの話よ~。愛紗ちゃんだって、少なくとも今は慎一お兄ちゃんの事大好きだものね~?」

 うわ、狐子にまで話を向けた。これは話が伸びるぞ…間違いなく。

「はいです! おっきくなったって、このきもちは変わりません! ぜったい、おにーちゃんのお嫁さんになるんです!」

「だそうよ~? これは、わざと嫌われるようなことをしない限り、義妹ルート一直線ね~。ちなみに~、私がみたところ、他には~…幼馴染ルートなんかもありかしら~?」

「ルートとか…ゲームじゃないんだから…」

 まったく、母さんは…ところで、幼馴染とは里奈さんの事だろうか。それとも双葉の事だろうか。小夏さんも言っていたし、やっぱり里奈さん…? いやいや。不釣り合いにもほどがあるだろう。

「言っておくけれど、わたしの観察眼は割と確かな方よ~? そうでなきゃ、衛二さんほどいい人と結婚なんてできないんだからぁ~」

「幸衛に観察眼があってよかったよ。そうでなければ、僕は幸衛のようにいい相手と結婚なんてできなかっただろうからね」

 あ、のろけスイッチが入った。ところで父さん、母さん。表は八歳の女の子の前でいちゃつくのはどうかと思うんだけど。そりゃ裏は長い年月を経た狐なわけだけど…。

「衛二さんと初めて会った時が懐かしいわ~。最初のころは、こんな関係になるなんて、思いもしなかったもの~」

「まったくだねぇ。初めて交わした会話からして、想像できないよ」

「えーじさんとゆきえさんの初めてのであい…どんなふうだったんですか?」

 そう聞く狐子。そういえば、僕も父さんたちの出会いは聞いたことが無かったっけ。まあ、約二十年を経てなおいちゃつくくらいだから、さぞかし印象深い出会いだったのだろう。そんなに興味はないけれど。

「そうね~。あれは街中で偶然出会って~…」

 偶然の出会いか…運命的だね。でも割とどうでもいい。

「私が、どこに目ぇつけとんじゃワレェ! 的な事を言ったのがきっかけだった気がするわ~」

 …!? 前言撤回。ちょっとだけ興味がわいてきた。

 いや…普通その言葉から結婚には至らないよね? なに? 肉体言語で愛を語り合ったの?それとも母さんの誇張?

「そうそう。あの頃は僕も幸衛も喧嘩っ早かった…そのまま口げんかになって、それじゃあおさまりがつかなかったから、空き地にでも行くか…他人の迷惑にならないように、って感じになったんだっけ?」

 あ、母さんの誇張ではない様子。

「それで、そのまま殴り合いのケンカになってね~。まあ、私が勝ったのだけれど、最後まで顔に手を出さなかった衛二さんの事が気になるようになって~」

「僕の方も、自分を負かした相手の事が気になったんだよ」

 …なんか、凄い出会いをしたんだな…いや、確かに印象深いけど。

「その後は、やっぱり殴り合いになったりもしたけど、ある日共通の敵ができたの。それで、一時休戦だ~、ってなって。それで一緒に戦ったら、不思議と息がぴったりだったのよ~」

「たぶん、長いことケンカをしていたから互いの手の内を知っていたんだろうね。相手がどう動くのかもなんとなくわかって。それからかな? 互いの事を認め合ったのは」

「そうね~。ふふ、いろんなことがあったわよね~」

 配膳を終えた母さんはそう言いながら父さんに抱き付く。そのままキスでもするんじゃないかという勢いだ。

「じじつはしょーせつよりきなり…何があるかわからないものですね」

「そうよ~? だから、二人も私達みたいに幸せになってね~?」

「はいです!」

「まあ、幸せにはなりたいけどさ…」

 とりあえず苦笑を返しておく。

「それより、まずは朝ご飯。冷めちゃうよ?」

「それもそうだね。ほら、幸衛。僕だってくっついていたいけれど、お互い仕事もあるんだし」

「あ~ん、名残惜しいわ~」

「寂しい分は今晩じっくりと…ね?」

「衛二さんったら、子供たちの前よ~?」

 あ、子供の前だっていう自覚はあったんだ。それだったら最初からいちゃつかないでほしいんだけど。二人きりの時にどうぞご自由に愛を語らってください。

「それじゃあ、いただきます」

 母さんが席についたのを見てから、父さんがそういう。

「「「いただきます」」」

 僕たちも挨拶をして食事を始める。うん、やっぱりお米はいいね。焼き魚も塩がすこし強めに振られていて、ご飯が進む。味噌汁も…うん、ちゃんと鰹節からだしを取っているだけあって、味がいい。顆粒出汁とは一味違うね。

 ただ、あえて不満をあげるならば、味噌が白味噌という事か。僕は赤だしが好きなんだけどなぁ。白味噌は僕的には甘いから、正直好きじゃない。白味噌派の人には悪いけど、本当にこの甘味が苦手で…やっぱり、味噌汁と言えば塩味かなぁ。

 それにしても、神様と並んでの朝食…それも化物に襲われた翌日だというのに、こんな平和な思考をできる僕はおかしいのだろうか。

「このおみそ汁、とってもおいしいです! わたしが白みそが好きだっていったこと、おぼえていてくれたんですか?」

 あ、狐子は白味噌が好きなんだ…って、また平和な思考に戻るところだった。いや、悪いことではないのだろうし狐子はそれを望んでいるんだろうけど、あまりにも平和に浸りすぎるのも問題がある気が…。

「しんちゃんは赤だしが好きなのだけど、やっぱり愛紗ちゃんの好きなものの方がいいかな~、って思って~」

「おにーちゃんは赤が好きなのですか…味のちがいは、けっこんのしょーがいになりますね…」

「あら~。言われてみればそうね~。そうねぇ…やっぱり、しんちゃんが合わせた方がいいと思うわ~。年下女房でも、奥さんの尻にひかれておいた方が家庭円満になるのよ~」

「母さん、義妹と結婚することを前提で話してないかな?」

「あら~、いいじゃない。こんなにかわいくて性格もいい子と結婚できるなんて、礼尾君あたりが聞いたらうらやましがられそうだわ~。法律や周りがうるさくしたとしても、こっそり、内縁関係になっておけば問題ないでしょうし~」

「ばれなければ大丈夫じゃないかな?」

 この二人は…。

「おにーちゃん…わたし、まわりの目に負けないつよい子ですよ?」

 訂正。この三人は…狐子はまんざらでもない顔をしないでほしい。演技と分かっていても、外見が八歳でもなぜかそういう目で見てしまいそうになるから…。

「しんちゃんったら、まんざらでもない様子ねぇ」

 母さんの観察眼凄い。そんなに表情に出ていた?

「まあ、なんやかんやで大事な妹にここまで思われているのはうれしいものだからね」

「大事、恋人的な意味で」

「家族的な意味で」

 本当に、母さんは何が言いたいんだ…。

「ところで、早く食べないと遅刻じゃないかしら~?」

「そうだった…! もう変なこと言わないでね、母さん! 父さんも!」

「慎一と愛紗が男女の仲になるまであと何年かな」

「MK5。マジでキスする五秒前。つまりあと五秒くらいじゃないかしら~?」

「二人とも黙ってて。息するのと食事をすること以外でしばらく口を開かないで」

「「はーい」」

 その後はテレビから流れるニュースを聞き流しながら食事を進める。僕の怒りが伝わったらしく、父さんも母さんも黙っていてくれた。狐子は…時折こちらを見ている。何か責めるような感じで。え? なに? 僕何かした? それとも、狐子なりの何かの指示?

 聞きたいけど、父さんたちの前で聞くわけにもいかない。家を出てから駅に着くまでの間に少し聞いてみようかな。

「ごちそうさまでした。さて、それじゃあ僕は学校に――」

「…おにーちゃん、学校に行ってしまうですか…?」

 立ち上がろうとした僕の方を見て、寂しげにそういう狐子。ああ、そういえば父さんたちには僕と狐子が共に行動するっていうことは言ってなかったっけ…どんな理由にするんだろう。

「…えーじさんと、ゆきえさんはおしごとなんですよね?」

「そうだね。僕たちは仕事に行かないといけない」

「…そうしたら、わたしはこのおうちにひとりぼっちです」

 ああ、そういう理由で行くのか。話を合わせよう。

「わたし、ひとりはこわいです…おにーちゃんと、一緒にいたいです…」

「それじゃあ…一緒に学校に来る? 教授たちがうるさいかもしれないけど、大丈夫。事情を説明すればみんな分かってくれるから」

「…! はい! 一緒に行きます!」

 とても嬉しそうな笑顔を浮かべる狐子。演技と分かっていても、ここまで嬉しそうにされると、僕の方まで嬉しくなるな。

「こうしてしんちゃんは、愛紗ちゃんの好感度を順調にあげていくのであった。そして、数年後。そこには膨らんだお腹を笑顔でなでる愛紗ちゃんの姿が~」

「…口を開かないでって言ったよね?」

「あら、怖い~怖い~。食べすぎには気を付けましょうね、って話なのに…」

「…紫織、行ってくるよ」

「あらあら~。私の言葉はスルーかしら~?」

 いちいちツッコミを入れるのにもつかれたので、思い切って無視してみる。

「くすん。衛二さん、しんちゃんが遅めの反抗期に…」

「よしよし。かわいそうに…そうだな、慎一の性格を考えて、無視できないことを言ってみるというのはどうだろう?」

 何か企んでいるようだけど、スルーだ、スルー。これ以上付き合っていられない。僕は学校に行く!

「無視できないこと~? 例えば~…?」

「うーん…そうだ。おーい、慎一。ちゃんと反応しないと…」

 呼びかけられているけれど、スルー安定だろう。スルー、スルー、スルー!

「愛紗の前で幸衛と大人のキスをするよ?」

「やめてぇ!?」

 表向きは八歳の子に見せるには早すぎるから! 裏向きは絶対後で狐子にネタにされるから!!

「ほら、反応した」

「さすが衛二さんね~。それじゃあ、さっそく実行に…」

「だからやめて!? 愛紗には刺激が強すぎるから!」

「……おにーちゃん、わたしをおとなの女にしてください!」

 ほらさっそくネタにしてきた! 狐子は頬を赤らめて目を閉じないで! 父さんと母さんは本当にキスをしようとしないで!

「あらあら~。それじゃあ、とことんお手本を見せてあげないとね~。衛二さん、ちょっぴり恥ずかしいけれど、ここはとびっきり濃厚なのを…」

「仕方ないなぁ…こんな朝から…特別だよ?」

「恥ずかしいならやめて! 愛紗もファーストは将来できる大事な人のためにとっておいて! あと出かける準備をしないとおいてっちゃうよ!?」

 あああもうツッコミどころしかない!

「そうでした…すぐもどってきますね!」

「うん、玄関で待ってるよ。ここだと二人の邪魔だし」

「慎一。将来のためにこういうものを見ておくのも大切だと」

「玄関で待ってるよ」

「しんちゃん、ある意味では保険の実技の実演なんてそうそう見れるものじゃないから」

「玄 関 で 待 っ て る よ」

「「「………」」」

 笑顔で圧力を発するのって、結構難しいね。

「それじゃあ、行ってきます」

「あ、うん。行ってらっしゃい…」

「なかなかの圧力ね…行ってらっしゃい。あ、その前にこれ。お弁当ね。愛紗ちゃんのは用意していないけど…」

 弁当を受け取り、狐子と一緒にリビングを後にする。やれやれ…父さんたちはどうしようもないな…。

 上に行く狐子を見送り、玄関でしばし待つ。たぶん、昨日持って帰ってきたものを取りに行ったんだろうけど…何を持って行くつもりなんだろう。

「おまたせしましたです!」

 二階から駆けおりてくる狐子。見た限りでは変化があるようには見えない。

「それじゃあ、行こうか。行ってきまーす」

「まーす! えへへ…」

 荷物を持ち、狐子と共に家の外に出る。

「…はぁ。ぬしをからかうのも悪くはないが、少し兄を慕いすぎている設定になったやもしれぬな…演じていて、少し恥ずかしい部分もある」

 周りに人がいないことを確認し、素に戻る狐子。その様子を見ながら鍵をかける。

「それなら、今からでも多少離れてもいいんじゃないかな? 僕の方も、演技だって分かっていても照れくさい部分が多いし…」

「照れくさい、か…」

「うん、照れくさい。演技でも好意を向けられるのはうれしいけど、さすがにさっきのはないよ…私を大人の女にしてくださいっていうのは…聞く人が聞いたら変な方向に取りそうだし」

 聞く人が誰かって? 例えば、礼尾とか礼尾とか礼尾とか。そんなことを思いながらズボンのポケットに鍵をしまって歩んでいく。

「そうか。ならばこのままで行こう」

「うん、その方がいいと…え? いや…え?」

「このままで行く。そういったのじゃ」

「…いやいやいや! おかしいでしょ!? 狐子だって恥ずかしくて、僕も照れくさい。お互い、多少距離を取ったほうがいいっていうのは分かるよね!?」

 僕のその抗議に、狐子は軽く笑った。

「確かに、恥ずかしい部分はある。じゃがな…ぬしよ。わしが何か忘れておらぬか?」

「何、って…千年以上生きている、狐の神様…?」

「左様。わしは天狐を超え、空狐になりつつある存在じゃ。じゃがな…妖狐の時代にしていた、ちょっとしたいたずら…その楽しさはどうにも忘れられぬ」

「…それで?」

「つまり、じゃ…ぬしに対するちょっとしたいたずらとして、ぬしにべったりな妹を演じるのも悪くはないなと」

「恥ずかしさすらも楽しんでいく方針なの!?」

「うむ!」

 すごい元気に頷かれた!? 理知的な笑みを浮かべてはいるけれど、言ってることは割と子供っぽいよね!?

「あ、恥ずかしいで思い出した。朝ご飯食べてる最中…僕が父さんたちに少し口を開かないでって言ったあたりから、なんか僕の方をちらちらと見てなかった? それも、何かを責めるような目つきで。気のせいなら、それでいいんだけど…」

 狐子の価値観がいまいちよくわからないけど、たぶん怒られるようなことはしていないはず。なのに、どうしてあんなふうに見られたんだろう…。

「…胸に手を当ててみよ。心当たりがあるじゃろう?」

 う、突然声のトーンが変わった。何かよっぽどまずいことをしてしまったようだ…でも、本当に心当たりなんてないし…。

「うーん…特に思いつかないな…」

「…本当か?」

「うん」

「本当に、本当か?」

「本当だよ」

「天地神明に誓えるか?」

「どうしてそこまで言うのかわからないけど…心当たりがないのは本当だよ」

「そうか…」

 僕の言葉に、狐子はなぜかほっとした様子を見せた。んん? 謝ってほしいことを忘れられているんだから、普通怒るところだよね?

 まあ、いいか。やぶ蛇になりかねないし、深くは聞かないでおこう。それよりも、気になることがある。

「ところで、わざわざ上に何を取りに行ったの?」

「ああ、それはな…これじゃ」

 そういうと、狐子は不意に胸元に手を突っ込んだ。ちらりと胸元の肌が見え、慌てて目をそらす。

「昔、小夏にもらって以来愛用しておる木刀じゃ。いろいろと霊的な強化がされておるゆえ、対霊体戦にも使える上に下手な真剣よりよく切れる。そして何より手になじむ…ぬしよ、聞いておるか?」

「えっ!? あ、うん! 聞いてるよ!」

「本当か? 妙に顔を赤くして、目をそらして…とてもそうは思えぬがのう」

「本当、本当。真剣より切れる木刀なんて、恐ろしいなー…あ、あはは…」

「怪しい…ぬしがそのような反応をすること…はっ、も、もしや…取り出す時に、見たのか?」

 あ、ばれた。

「…ごめん。でも、わざとじゃないんだ。その、言い訳にしか聞こえないだろうけど、狐子の方を見てたら急に胸元に手を入れたから…その…偶然、っていうか、たまたま、っていうか…」

 必死に弁解する。でも、まあ、叩かれるくらいの事は覚悟しておこう…。

「………」

「だから、その、つまり、故意では無くて…だね? あの…えっと…とにかく、ごめんなさい。何でもするから、斬首とかは勘弁してください…」

 後半は思わず敬語になる。だ、だって、下手な真剣よりよく切れるらしい木刀を握りしめて、真っ赤な顔をして震えているんだよ? 切り付けられるんじゃないかと思うと体が震える。

「……こ」

「こ…?」

 だけど、そこまでするほど理性を失ってはいないらしく、真っ赤な顔をしながらも言葉を口に出す狐子。こ…?

「この…助平が」

 消え入りそうな声でそう言うと、狐子は僕から顔をそむけてしまった。

 …あ、あれ? おかしいな…? 僕、さっきまでよりドキドキしてないか?

「その…今回はわしも不注意だったゆえ許すが…次は…無いと思え…助平」

 恥ずかしそうに放たれる言葉。それに、なぜかドキドキしてしまう。な、なんで? 狐子の反応のせいか…? うう、これならいっそ叩かれる方が良かったかもしれない…!

「とりあえず、これは人目につく前にしまう…今度は見るでないぞ、助平…」

 そう言って胸元に手をやる狐子。木刀をしまおうとしていることは分かるから、慌てて目をそらす。というか、そんなに胸元を見られたくないなら背中の方にしまえばいいのに…。

 そう思った刹那、顔が熱くなるのを感じる。あと、緑と白という単語も浮かぶ。どうしてこうなるのかなんてわからない。でも、そのドキドキの中には生命の危機を感じるという意味でのドキドキも少なからず含まれている気がした。

 何? なんで? なんでこんなに顔が熱く? あと、緑と白って何!?

 自分の感じていることなのに、理解ができない。狐子の背中に、緑と白…いったい何の関連性が…。

「しまい終わった。もうこっちを向いてよいぞ」

 冷静さを取り戻した様子の狐子の声。落ち着け、落ち着け。僕も冷静になるんだ。クールになれ。礼尾に借りた本の登場人物はこういう思考をした途端に暴走しだすけど!

「ぬし、どうかしたのか?」

 心臓が跳ね上がる思い。お、おお、おちけつ…じゃなくて落ち着け。

「ん、いや…にゃんでもにゃいよ」

 噛んだ。盛大に噛み倒した。

「…たまに猫の真似したくなる時があるんだよね」

「そ、そうか…」

 …引かれてはいるようだけど、ごまかすことには成功したようだ。

「とりあえず、そろそろ駅だね。里奈さんたち、待たせてなければいいんだけど…」

「里奈…? ぬしの友人か?」

「うん。あと、もう一人双葉ってのがいて…まあ、電車の中ででも紹介するよ」

「そうか…名前から予想するに、二人ともおなごじゃな。両手に花とは、おとなしそうな顔の割にやるではないか」

「うーん…里奈さんは純潔とか、まさに白百合の如き清楚さって感じだけど、双葉はどうかなぁ…」

 そもそも、花かな…? 双葉の性格的に、花に例えても”どうせなら食えるものの方がいいぜ”とか言いそうだし…。

「そう言ってやるな。おなごは皆、時に可憐な、時に力強い花でありたい物じゃからな」

「狐子もそうなの?」

「まあ、そうじゃな。花言葉で言うならば、チューリップ…在り方としては桜のようにありたい物じゃ。桜の花言葉もなかなか惹かれるがの」

 花言葉か…たしか、チューリップが“博愛”で桜が“優れた美人”だとか、“精神美”。百合と同様に“純潔”って意味もあったな。たしかに、いい意味だ。

 そうだ、からかわれてばかりいるのも悔しいし、ここらへんで一発花言葉にかけて仕返しをしてみよう。

「桜の在り方は真似しないでほしいな。僕は桃のような感情を狐子に向けているんだから」

「桃…? たしか、花言葉は恋の奴隷、あなたのとり…こ…!?」

 マンガだったら効果音と共に頭から湯気を吹きだしそうな勢いで赤くなる狐子。なるほど。僕をからかっているときの狐子はこんな気分なのか…たしかに楽しい。あと、小夏さんが狐子をかわいいと思う感情が理解できる。いや、あんな域に達することは到底できないけれど。

「あと、気立てが良いなんて言葉もあるね。この言葉、狐子にピッタリじゃない?」

「あ、ああ…そう言えば、そんな意味もあったのぅ…」

 取り繕うように言う狐子。僕の仕返しはうまくいったようだ。

「な、なんじゃその顔は! 調子に乗るようであれば、水仙を送るぞ!?」

「うぬぼれ、我欲、自己愛って意味だね。そうやって焦る狐子とデンファレになりたいなぁ」

「…っ!? ス、スイートピー…!」

「デリケートな青春の喜び、かぁ…うん、確かに、こういう感情にはぴったりな花言葉だね」

「そっちでないわ! そのような事ばかり言うぬしとは別離してしまいたいという意味じゃ!」

 まずい。こらえていた笑いが噴き出しそうだ。

「…ぬし、小夏に似てきたのぅ」

「ぷっ…! あはは! ごめんごめん。それにしても狐子、からかうのは得意なのに、からかわれるのはてんでダメなんだね…くくっ」

「放っておけ! ぬしとて、わしにからかわれておる時は今のわしと似たような状況になるではないか!」

 おっと、そんな話をしている間に駅の手前だ。そう思った直後、手に温かく、柔らかい感触が走る。

「いきなり手なんかつないで、どうかしたの?」

「お兄ちゃん大好きな妹としてはこれくらいしておくべきだと思うてのぅ…決して変な意味ではないから、勘違いするでないぞ。しかし、もっと動揺するかと思うたが…チッ」

 まだ赤い顔でそういう狐子は、とても愛らしく見えた。

 あと、正直に言うと動揺してます。里奈さんたちに見られるとまずいから必死にこらえてるだけです。

「あ! 慎一さー…え…!?」

 遠くからでも分かる。こちらに手を振っていた里奈さんが動きを止めたのが。

 そんな里奈さんの様子を気にしてか、双葉もこちらを見る。そして、得心したという感じの表情になる。

「二人とも、おはよう。いい天気だね」

「あ、はい。おはようございま…って! そんなことより、ど、どうして女の子と手をつないで…っ!?」

「なんでって…妹だから?」

「あぁ、なるほど…ってなるわけないでしょう!?」

「まあ、落ち着けって里奈。なんか理由があんだろ?」

「まあね。実は…」

 かくかくしかじか。到着した電車の中に移動しながら狐子と手をつないだ理由を話す。

「と、いうわけなんだ」

「なるほどなー。納得納得」

「そういう事情なら最初から話してください…もう、びっくりしたじゃないですか」

 いや、説明する前に里奈さんが話し始めたんだけど…まあいいや。

「ごめんごめん。まあ、仲良くしてあげてね」

 僕がそういうと狐子はぺこりと頭を下げた。ちなみに、座り順としては向かって右から狐子、僕、里奈さん、双葉。

「おう、任せとけ。よろしくな、愛紗。あたしは千歳双葉。ま、慎一とはダチってとこだな」

「私は里奈。紫藤里奈です。慎一さんとは…友達、です」

 …なんか里奈さんが不満げに自己紹介をしたような気がするけど…まあ、気のせいだよね?

「よろしくです。とくに、りなさんとは…いろいろありそうなので」

「いろいろ…? どういう事でしょう?」

「あなたにはアマリリスもポピーもあげません。アネモネがおにあいです。わたしのライラックをとめさせません」

 えっと…またいろいろ花の名前が出てきたけど、花言葉はどういう意味だっけ…。

「花言葉、ですか……ずいぶん早咲きのアガパンサスですね。いえ、セントポーリアと言うべきでしょうか。まあ、どちらにせよあなたにはラズベリーを送りましょう」

 …なんだろう、この険悪なムード。挟まれてるのがものすごくつらいんだけど。あと花言葉で会話をしないでほしい。有名な物しか知らない僕には内容理解できないから…っ! 花言葉って同じ花でもいろいろあるし…!

「お前ら、落ち着けよ…つーか、花なんてカーネーションだけで充分だろ?」

「「カーネーション!?」」

 なぜか派手なリアクションを見せる二人。カーネーションか。色によっていろいろ意味あったような気が…黄色の“軽蔑”は印象に残っているけど…あとなんだっけ。

「…双葉ちゃん。ちなみに、何色でしょう?」

「うぇ…? え、えーと…かわいいのは、やっぱピンクじゃね?」

「…キンセンカを双葉ちゃんに送りましょう」

「わたしは青のカーネーションの方がある意味いいと思います」

「い、言っとくけど、花言葉とかは知らずに言ってっからな? お前らみたく深い意味で言ってねーからな?」

 双葉が恐怖している…里奈さん、いったいどんな顔をしているんだ…。

「二人とも落ち着きなよ…意味わからないけど、ケンカしているみたいだし…」

「…慎一さんのアジサイ」

「そこだけは同意します」

 アジサイ…“あなたは冷たい”…? いっぱい意味あったような気がするんだけど…“自慢家”とか、“無情”とか、“浮気”とか…でも、これだけは言える。わけがわからない。

 その後は特に険悪なやり取りはなかったけれど、良好な会話もなかった。挟まれているのがとてもつらかった。サザンクロス…“願いを叶えて”。この二人を仲良くさせて…。

 電車を降りると同時に、狐子に手をつかまれる。

「フゥッ!?」

「えへへ…わたし、とってもポインセチアです。でも、へんですね…どこからかシクラメンのかほりがするんです。どこからかは分かりませんけど」

 狐子、その言い方は実年齢ばれかねないよ。

「慎一さん、シクラメンにはもともと香りはなかったそうですね。でも、シクラメンのかほりの大ヒットによって香りがつけられたとか」

「へ、へえ。そうなんだ…」

 そういう里奈さんの目線はじっと僕の空いている方の手へと向けられている。

「…ブツブツ…」

 ん? 里奈さん…何か言っている?

「……クロッカス…」

 “あなたを待っています”、“焦燥”…僕にどうしろと。

「そ、それにしても今日は寒いね~…里奈さん、手は冷えていない?」

 とりあえず、僕の手を見ているという事は、こう言う事で…いいのかな? この間の双葉みたいに捻り上げられたりしないよな? 若干の恐怖を感じながらも里奈さんの手にそっと触れる。

「えっ…!?」

 その手はかなり冷えていて、長時間外にいたのだろうという事を感じさせた。ひょっとして、待ち合わせの時間のだいぶ前から駅で待っていたのかな?

「里奈さん。ちょっとくらい遅れてもいいから、もうちょっと自分に優しくしよう? あと、愛紗にも」

「て、てててててってってってて…し、慎一さ…手…!」

 あ、だめだ。これたぶん聞こえてない…。

「離したほうがいいかな? 少しでも温めたいんだけど…」

「だ…大丈夫です…」

「…里奈さん? それどっちの意味にもとれるよ?」

「も、もう少し…このままで…」

 目がすさまじい速さで泳いでいるけど、とりあえず言うとおりにしておこう。温めてあげたいのも本当だし。

「いや~、初々しいカップルって感じで実にけっこうだな。でもよ…一つ忘れてね?」

 双葉がそんなことを言う。忘れて…? はっ!?

「慎一さ…!」

「オラァ! クラァ! 何やっとんじゃこの痴漢がぁ!」

「人聞きが悪いっ!?」

 とっさに里奈さんの手に触れていた手を離し、振り返ると同時に礼尾の一撃を防ぐ。あ、危なかった…!

「……礼尾さん」

 しかし、その直後、隣から礼尾以上に危険そうな声が聞こえる。り、里奈さん…?

「百日草」

「…り、里奈? 落ち着け? 目が正気じゃね――」

「百日草」

 百日草…花言葉は…ああ…なるほど。

「慎一さま、お助けください。里奈の正気が息してねーんだ」

 泣きそうな顔でこちらを見る礼尾。うん、悪友の言う事だし、助けてあげたいとは思う。でも、ごめんね。この状態の里奈さんの前に立ちふさがる勇気は僕にはない。

「…百日草!」

「逃げなきゃ駄目だ逃げなきゃ駄目だ逃げなきゃ駄目だ逃げなきゃ駄目だー!」

 そう叫んで全力で八大の方に駆けだす礼尾。里奈さんもそれに続く。その速さはすさまじさすら感じるものだった。

「…なあ、慎一」

「…なに? 双葉」

「…百日草の花言葉って、なんだっけ?」

「…“純白”。それと…“亡き友をしのぶ”」

 そんな話をしながら、僕たちはゆっくりと八大へ向かうのだった。

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