第64話 『睡魔』
「…………」
しばらく歩いていると、ふいに拓羅が後ろを向いた。
「どしたの?」
「……なんか……聞こえた……」
「は?」
「お前……聞こえなかったか?」
「全然。なんにも」
「おかしいな……。確かに聞こえたぞ?なんか悲鳴みたいなうめき声みたいな…………」
訝しげな顔をする拓羅を見て、楓も耳を澄ます。拓羅の言う、悲鳴のようなうめき声のような、そんな物なんて全く聞こえてこなかった。
「なぁ、もしかして称狼の声だったり…」
そこまで言った時、今度はハッキリと二人の耳に悲鳴が届いた。男の声だ。
同時に同じ方を向く。
「ビンゴ……かも?」
楓が苦笑しながら言った。
「くそっ……!おい楓、あっちだ!」
拓羅は悲鳴の聞こえてきた方を指差した。
頷いて走ろうとした時、楓の視界でのみ地面が揺れた。足がフラつく。頭の中もずっと回転しているような感覚だ。
頭を押さえながら壁にもたれかかった。
「……っ」
彼女の異変に気付いた拓羅が少し先のところから走って戻ってきた。
「楓?どうした!?大丈夫か!?」
「……や、なんか……眠……」
「眠い」と言う言葉を聞いて、拓羅の表情が変わった。
「お前もか…………」
「何が……?」
拓羅にも、今楓に襲いかかっている睡魔の辛さがよく分かっていた。ソラの上とファルの所で起きたあのめまいがそうだ。気を抜けばすぐにでも眠ってしまう。
「……俺も……」
そこまで言って拓羅は言葉を飲み込んだ。ここで拓羅までもが「めまいがする」などと言ってしまっては、楓のことだ。何がなんでも行くと言い出すだろう。
楓は、今は唇を噛んで辛うじて意識を保っているが、しばらくそのままで居ると、今度は手足が痺れてきた。
座っていても目の前の回転が収まることは無い。
「二人一緒に、なんておかしいよな……」
「だから何が」
「いやいや。なんでもねぇ」
いつもなら追求して、言うまでしつこく聞いてくるが、今はそんな気力すら無い。
睡魔は楓に容赦なく攻撃し、痺れも酷くなってきているようだった。指先を少し動かすだけでも全身に衝撃が走る。
頭を押さえていた手も地面にベッタリと張り付き、動かそうとしても動かせない。
しかし、拓羅も平然を装っている状態で精一杯だった。彼も今、酷い睡魔に襲われているのだ。ファルの時起きためまいより、更に酷くなっているようだった。
目の前の楓の声すらボンヤリ聞こえるくらいだ。そのくせ、一言一言が頭に響く。
いつもの彼らしい言葉を思いつくだけで労力をかなり使っている。
「……もしかして、薬でも飲まされたか?……なぁんて。楓にんな事しようとする命知らずがドコに居るってんだよなぁ!?」
「…………居るよ……」
殆ど吐息と化している楓の言葉に、ゲラゲラ笑っていた拓羅の表情が一瞬にして固くなった。
「命知らず居たのかよ!?」
「直接布当てたとかそーゆーんじゃなくてさ……」
「……なんだ?」
「ファミレスんトコで…………ラングが来たじゃん……」
拓羅は今まで思いもしなかった事を一生懸命思い出した。忘れ去られて頭の隅っこでいじけていた記憶を呼び出す。記憶は嬉しそうに走ってきた。おかげで一分も掛からずに思い出す事が出来た。
そう言えば、薬でも入れるとしたらあの時しか考えられない。あれが三人での最後の休息だ。
まさかのらりくらりしてるなんて思わない、と豪語していた楓の目の前にラングが現れてしまったあの時だ。
完璧に思い出し、拓羅は手を叩いた。
「あぁ!あそこか!!そう言えば相席とか言って…」
拓羅が思い出した時には、もう楓は夢の中だった。
この眠り方から推理するに、どれだけ強く揺すっても、頭を床に打ち付けても、殴ってボコボコにしても、起きることは無いだろう。
「……仕方ねぇよな……」
ため息をこぼす。いつまでも二人してここに居るわけにはいかない。
拓羅は、前回しそびれた仕返しと言う事で楓の頭を小突いた。
無論、今の楓はそんなもので起きるはずが無かった。
スッと立ち上がると、拓羅は傷の痛みを堪えて走り出した。
拓羅が走っていってからしばらくすると、真っ白な廊下を何者かが歩いてきた。まるでこのタイミングを待っていたかのようだ。
壁にもたれて眠いっている楓を見て、迷う事無く軽々と抱き上げる。
いわゆる「お姫様抱っこ」で来た道を戻っていった。
全速力で走っている拓羅は最初は速かったものの、そのスピードは三分と持たなかった。三分間自己ベストで走り続け、敢え無くダウンした。
「…………くそ……頭痛ぇ……」
走ったせいか、頭がガンガンする。頭の中だけまだ上下に揺れている気さえする。
だが休んでなどいられない。ぼやける目を擦りながら、トボトボ歩き出した。
「ったく……!俺足遅ぇな……」
歩きながら自分の足にケチを付けている。歩いている時間すら無いのに、疲れ果てて歩かざるを得ない自分の足と、痛んでやまない頭が大層憎かった。
(最初からスピード出すんじゃなかったぜ……)
拓羅は心の底から悔やんだ。自分は持久派なのだと言う事を改めて思い知らされる事となった。だが今はそんな事を思っている暇すら無い。一刻も早く称狼を助け出さないと殺されてしまうのだ。
獲物を捕まえてそのまま生かすほど、ラングは甘く無い。
「早く行かねぇと……!くそー……こんな時に楓は暢気だよなぁホントに……!!」
そんな事を言っても、楓はクシャミすら出来ないほどに熟睡していた。それはやはり自然に出来る眠り方では無い。
ぐっすりと寝ている彼女に、男の足が近づいたのが分かった。
「どこだー…称狼……」
楓の状況を知るはずも無く、拓羅は称狼を捜す事で頭がいっぱいになっていた。
角を曲がる。もう自分がどうやってここまで来たかも分からない。
この見渡す限り真っ白な建物内に、しかも方向音痴なのだから無理もないだろう。
(ヤベ……なんか目の前グルグル回ってる気ぃすんだけど…………)
壁に頼りながら歩く。一人で歩こうとすればすぐにでも倒れそうだ。睡魔に追い討ちを掛けるように、気持ち悪さも襲ってきた。
吐き気を堪えてしばらく進むと、何やら物音が聞こえてきた。横の部屋からのようだ。普通の大きさのドアを二枚横に並べた大きさの、横開きのドアだ。
拓羅は、少しだけ開けて中の様子を見てみた。ぼやけている目でも辛うじて分かる。
白衣のような服を着た、髪の短い男が立っている。白衣には汚れ一つ付いていない。
その向こうには檻のような物があった。
(……なんなんだ…………?)
檻を見つめた。中には、どうやら人が入っているようだ。時々白衣の男が檻を蹴って脅している。
檻の中の人間の声が聞こえた。男らしい。声や話の内容からして、命乞いしているようだった。
(奴隷とか……そういうのかな……)
拓羅はそのまま見続けた。白衣の男も檻の中の男も動かない。檻から出すのか、と拓羅が思った時、白衣の男はその真っ白な服から真っ黒な銃を取り出した。
「……!?」
拓羅の口が開いた。銃は真っ直ぐ檻の中の男を向いている。
(単なる脅し……?だよな……?まさかホントに撃つはずないよな……)
しかし、彼のカンは見事にはずれた。ゆっくりと引き金が引かれ、音が部屋に響いた。
檻の鉄棒部分に少し血痕が残る。
「なっ…………!?」
思わず声が出てしまった。ヤバイ、と思ったがもう遅い。白衣の男は徐に拓羅の方を向くと、近づいてきた。別に驚いた様子ではなく、うんともすんとも言わない。
まるで拓羅が見ている事を知っていたかのようだ。ゆっくりと手を伸ばす。手はドアを開けて拓羅の首を掴んだ。




