流星群の降った日に、好きだった幼馴染と再会した
その日、寂れたこの町に流星群が降った。
降った、というのは比喩ではない。文字通り、幾つもの星々が地上に降り注いだのだ。
深夜3時、冴えきった瞳で確かに見たその光景は、きっとこの先忘れることは無いだろう。
「願いごとでもしとくんだったな」
ポツリと呟いて、再び天上を仰ぐ。
そこには、願いが届きそうな壮観から一転、いつものように青白くて、なんの面白みもない空が視界を埋めていた。
「アイツともう一度会えますように……なんて」
今更そんなことを願ったって叶いやしないんだ。
わかっているさ。
言ってみただけ。
言うだけなら、タダだろう?
脳内会話もそこそこに、バルコニーを後にした。
*
日常至上主義という言葉がある。
ないなら、僕が今作った。
非日常を望む僕、萩原伊織が敵対視している“日常至上主義“とは、学校生活における何気ない日々を神聖視することである。
例えば、教室内を飛び交う中身のない会話だの、授業中に文通するだの、毎日変わらない部活の練習だの。変わり映えのないそれらのどこに崇高な要素があるのか見当もつかないが、ともかくそういった層はそれらを高尚なものと考える。
今だって耳を澄まさずとも、こんな朝っぱらから騒ぎ立てる日常至上主義者の声が聞こえてくる。僕は彼らの声を意識から外そうと、窓際の席で空を眺めていた。
空を眺めるのは嫌いじゃない。
今やデフォルトと化しているこの動作も、きっかけはアイツがそこに居るような気がしたからだ。ことがあろうがなかろうが、なにかと視線が空へと向いてしまう。
見るたびに景色が変わるのも、飽きない要因のひとつだった。そうして空を眺める時間が増えていくにつれ、悪くないなと思うようになった。
こと今日においては空模様なんてそっちのけで、先の流星群に思いを馳せていた。
なんたって、降ってきたんだ、星が。しかも無数に。
大量の星が塵となって消えることなく、地上に降った。そんな現象、未だかつて存在したのだろうか?
こんな非日常は滅多に訪れない。それどころかこの先、この現象を超えるインパクトを得られないかもしれない。それほどの一大事を目の当たりにして、誰が興奮せずに居られようというものだ。
たとえ日常至上主義者でも、話題に上げざるを得ないはずだ。まあ、ひとつの話題として消化されるには惜しい内容だけれど。
独り占めするのも悪いほどの「非日常」だったしなと弾む思いをひた隠しながら、さりげなく聞き耳を立ててみた。
ところが、意外にも流星群の話は誰一人としてしていなかった。暑さで陸上部の練習が中止になった、駅前に新しいカフェが出来た、1限の世界史ダルいよな……等々。
流星群なんて言葉とは無縁の話題ばかり。
きっと流星群の話は一通り話終わったから別のことを話しているんだろうなと勝手に決めつけ、ケータイでニュース速報を見る。あれだけの流星群なんだ、きっと大々的に報じられているだろうなと思いながら記事を探した。
「……まさかな」
無かった。
流星群に関するニュースなど、ひとつも。
冷や汗とも違う、嫌な汗が滲んだ。
そんなはずはない。だって、確かにこの目で見た。深夜3時、バルコニーでその光景を目の当たりにしたんだ。
なぜ? どうして?
疑問符で脳内が埋め尽くされる。
いったい、何が起こっているんだ?
「お前ら、席に着けー!」
僕の困惑を一蹴するように、担任の木山が教室で大きな声を張り上げた。
体育会系の教師ということもあり、図体がデカければ声もデカい。ガヤガヤとしていた教室は一気に静まり返った。
「朗報だ。転入生を紹介する」
唐突な発表に教室は再び喧騒に包まれた。無理もない、夏休みを目前に控えたこんな時期に転入生なんて非日常が極まっている。
消えた流星群と、季節外れの転入生。今日はもしかしたら「そういう日」なのかもしれないな、と早鐘を打つ心臓をなんとか抑えた。
「静かに! 山田、入ってこい」
山田。
山田?
……いや、まさか。
山田という名字はありふれたものだ。季節外れの転校生の名前がたまたまアイツと一緒だってことは全然あり得る話。
何たってアイツはもう、居ないんだ。そんなこと一番分かっているさ。
分かっているはずなのに、視線が教室の入り口に釘付けになる。
おかしいな、教室は今もうるさいはずなのに声のひとつも聞こえやしない。代わりに、ドクンドクンと脈打つ音がいやに響いていた。
やがて、この高校指定の制服に身を包んだ女子生徒の姿が見えた。スラっと背が高く、真夏だというのに長袖にハイソックスという皮膚を見せない異様な徹底ぶり。
「……瞳」
見間違うはずもない。この3年間ずっと、思い浮かべていた顔だ。少しばかり見た目が変わっているが、間違いなく瞳だ……。
そんなことあり得るわけがないのに、今朝方の流星群を見たせいか不思議と現実なんだと思えた。帰ってきたんだ、瞳が。
瞳は相変わらず端正な顔立ちをしていて、教室はヒートアップする一方だった。木山が声を張り上げてもなお、しばらくは冷めやらなかった。
「はじめまして、山田瞳です。僅かな間ですが、よろしくお願いします」
単調な自己紹介。軽いお辞儀。
それだけで、クラス中が歓声を上げて熱気に包まれた。僕は歓声こそ上げなかったものの多分、クラスの誰よりも目をかっぴらいていた。
誰も寄せ付けない高嶺の花の雰囲気と、誰からも視線を集める美貌を併せ持つ山田瞳という存在から目を離すことなどできるわけがなかった。
「……っ!」
顔を上げた瞳と目があった。僕が凝視していたせいでそりゃもう、ばっちりと。
すぐに目を逸らされるかと思ったが、意外にも瞳はにこっと微笑んで、
ひ、さ、し、ぶ、り。
口パクでそう伝えてきた。読唇出来るわけじゃないが、絶対にそう言ったと思った。
「なんだ、萩原と知り合いなのか?」
やり取りを目敏く見つけた木山が、クラス中に響く声で言った。転入に際して不安な生徒を慮る担任としての一言は、僕が注目を集めるには効果覿面だった。
転校生に向けられていた視線が、僕のところに一挙に集まる。僕の答えを聞かんと、教室がしんと静まり返った。
ここで日和ってノーと答えれば、どうなるのだろうか。僕のクラスでの立ち位置は保たれる。しかし、瞳との関係は最悪の場合ここで終わる。
3年間、彼女のことを忘れたことは一度たりともなかった。それだけの思いの丈をここで棒に振っていいわけがない。
唇が乾いている。
イエスと言うだけのことなのに、思うように口が動かなかった。
「……まあ」
瞳を前に嘘をつけるわけもなかったが、結局は曖昧な返事をしてしまった。彼女が今どういう表情をしているのか、僕に見る勇気はなかった。
「そうかそうか。じゃあ山田は、萩原の後ろにでも座ってくれ。すまんが、机は今持ってくる。HRは以上だ」
ざわついた教室を貫通する声で、木山はそう締め括る。
先が思いやられると項垂れている暇もなく、いつの間にか隣に来ていた瞳と僕をクラスメイト達が取り囲んでいた。
こんな状況下であれば、取るべき行動は一つしかない。
僕は矢継ぎ早に投げられる質問を全て無視しながら、瞳の手を引いて教室を後にした。
*
「大胆だね、伊織くん」
向かったのは屋上。
1限開始のチャイムはとうに鳴り終わった。
3年ぶりに呼ばれた「伊織くん」に心地よさを覚えつつ、やはりこの転校生は山田瞳で間違いないと確信した。
彼女以外に、僕をそう呼ぶ人はいない。
「ああ、授業をサボるのは初めてだ」
こういう非日常は歓迎というスタンスだったが、当事者になってみるといいことばかりではないなと思う。
まあ、こういう苦労こそが非日常の良さなのかも知れないが。
「……手を繋ぐのは初めてじゃないの?」
「あっ」
しまった。
慌てて掴んでいた手を離した。僕の掴んでいたところがほんのりと赤くなっている。
無遠慮な行動への申し訳なさと、確かに触れ合っていたことへの気恥ずかしさが同時に押し寄せてきてくらくらとした。
瞳の顔を盗み見ると、どこか名残惜しそうにしていた。
「初めてだよ、手を繋いだのも」
「そっか……って、そんなことはどうでもいいんだ。こうして話すのは久しぶりだね」
「ちょうど、3年ぶりだな。なんというか、瞳は大人びた気がする」
「まあ、いろいろあったしね。それに中学生から高校生なんて一番大人に近づく時期だよ」
瞳はいろいろあったなんて曖昧な言葉で済ませたつもりかもしれないけれど、僕にとってはその一言だけで到底飲み込めそうな空白期間ではない。
確実に生きていると自分に言い聞かせていたものの、心のどこかではもう瞳はこの世界から居なくなったんじゃないかと思っていた。
「それでいうと、伊織くんはあんまり変わってないね」
「そうかな」
そうかもしれない。
ちょっとばかり身長は伸びたし、部活を辞めたせいで少し太ったけど、たしかにあの時──3年前に瞳が居なくなった時から僕の世界は時を止めていた。
「うん。元気ならいいんだけどね」
「それはこっちのセリフだ。瞳は元気にしてたのか? というかこの3年間で何をしていたんだよ」
流れに身を任せて、聞いてしまった。
それは、瞳が意図的に避けていた話題だったはずだ。でも僕にとっては、聞かなければいけない話題でもあった。
「いろいろだよ、いろいろ」
瞳はその端正な顔を少し歪めて、青々と広がる空を見上げた。きっと、この3年間の出来事をなぞっているんだろう。
話したくないのか、あるいは話しちゃいけないのか。僕に判断はつかなかったけれど、想像もつかないようなことが瞳の身に起こっているということは理解できた。
それからたっぷりと時間をかけて3年分の記憶をなぞった瞳は、何かを思い出したようにポンと手を叩いた。
「あ、そうだ。今朝の流星群、見た?」
流星群!
やっぱり、僕が見たのは幻じゃなかったんだ。
「ああ、見たよ。綺麗だった。一生忘れることはないくらいにな」
「……一生、か。そんなに綺麗なら私も見てみたかったな」
「見なかったのか?」
「うん、見れなかったんだ」
見れなかったとわざわざ言い直したのは気になるが、まあ時間も時間だったし仕方ないか。
「あれだけ大規模な流星群だったのに、誰も覚えてなくてな。ニュースにも載ってないから、幻なんじゃないかと思ってたところなんだ」
「幻……たしかに、そうかもね」
瞳は煮え切らない返事をする。
さっきからずっとこんな調子だ。
「なあ、瞳は何か知ってるのか?」
瞳は少し逡巡した素振りを見せ、それから意を決したように真剣な眼差しを僕に向けてきた。
「伊織くんが知りたいことは全部知ってるよ。もちろん、知りたくないこともね」
僕は流星群のことについて聞いたつもりだった。あるいは瞳もわかっていて、そう答えたのかもしれない。
先の逡巡は、きっと僕に打ち明けることへの決意のための時間だったのだ。
「聞いたら答えてくれるのか?」
「答えられる範囲なら」
とはいえ、いきなりそんなことを言われても困るのが人間という生き物で。
この日を待ち望んでいたのに、再開した時のシュミレーションも何度もしてきたのに、何を聞いていいやらさっぱり分からなかった。
「えっと、瞳って身長何センチだっけ?」
「身長? 169センチだけど」
ミスった。
明らかに怪訝そうな顔をしている。
どうせここ3年で何をしていたか聞いたところで答えられないと言われそうだから……などと思ってしまったばかりに、脈絡もへったくれもない質問をしてしまった。
気の利いた事も言えず、あたふたとしていると見かねた瞳がコホンと息をひとつ吐いた。
「流星群のこととかさ、聞きたくない?」
「ああ、そうだな。聞きたい」
3年前に比べて少し伸びていた身長も割と大事だったりしたけれど、それよりもよっぽど。
星が文字通り落ちてきたことも、誰も流星群のことを口にしていないのも、何で瞳だけがそれを知っているのかも。聞きたいことずくめだ。
僕が捲し立てるように質問を重ねると、瞳はひとつひとつ絡んだ紐を解くように答えてくれた。
曰く、落ちてきたのは星じゃなくて人を乗せた宇宙船だと。
曰く、目撃者の記憶を改竄して、忘れさせているからだと。
曰く、瞳はその宇宙船のパイロットだからだと。
「……つかぬことを聞きたいんだが、俺が今見ているのは現実なのか?」
「現実だよ、間違いなく。君は中学の同級生だった山田瞳と喋っているし、私は同じく中学の同級生だった萩原伊織と喋っている」
このシチュエーションは僕が3年もの間、待ち望んでいたことだった。だというのに、素直に喜べない自分がいた。
もしかして、瞳はただ僕に会いに来たんじゃなくて、流星群の目撃者の記憶を改竄しに来たんじゃないのか?
「てか、宇宙船の話とかって僕は聞いても良かったのか?」
「うーん、本当は良くないんだけど。どっちみち、あとで処理するから」
処理という無慈悲な言葉が僕の心を貫いた。
わざわざ転校までしてきて、また肩を並べて学校生活を送れるんじゃないかと勝手に舞い上がっていた。
もう彼女は、僕の知っている存在ではないのかもしれない。3年という時間は、人が変わるには十分すぎる時間だということを痛感した。
「そのあとでってやつは、いつまでなんだ?」
「伊織くんが寝るまでだよ。それまでは、私もここにいる」
「寝るまで?」
「ほら、記憶って寝てる間に整理されるって言うでしょ。だから私たちは、対象が寝ている間に記憶を抜き取るんだ」
寝なければ、瞳とずっとそばに居てくれる。
もちろん、ずっとは無理だ。せいぜい2日が関の山。既に半日は起きっぱなしなので、残すところ1日半くらいか。
「本当は伊織くんの記憶を弄るなんてこと、したくないんだけどね」
言葉の真意は聞かなかった。
いや、聞けなかったと言うべきか。
返事によっては、僕に会いに来たのかそうじゃないのかはっきりとわかってしまうからだ。
「ま、そんなことは置いといてさ。今度は私が質問してもいい?」
「もちろん」
それから僕たちは時間も忘れて話をした。
お互いに質問しあって、3年間であったことを話して、たわいもない会話をした。
この時ばかりは、日常至上主義者の気持ちもわかるような気がした。中身のない会話も、たまには良いかもしれない。
*
結局のところ、学校は昼前に早退した。
「高校の授業、ちょっと受けてみたかったなぁ」
と、瞳は落胆していたが、クラスメイトが屋上にまで押し寄せてきたので学外まで逃走せざるを得なかったのだ。
そんなわけで、今はこうして2人で俺の家へと向かっている。
「……変わらないよ、高校も中学も。やってる内容が違うだけ」
「だとしてもね。高校で授業を受けるなんてこと今じゃないと出来ないだろうし」
「そういうものか」
僕にはあまりピンとこない話だったけれど、それは地続きの日常を送っているからで、瞳にとってはそうではないのかもしれない。
こうして家まで帰るのも、隣に瞳がいれば、非日常と化す。瞳にとって中学が高校に変わるというのは、それに近いものなんだろう。
「あ、コンビニ寄ってもいいか?」
「良いよ。お昼ご飯食べ損ねちゃったしね」
あんな状況下で昼ご飯を食べれるはずもなく。逃走に余計なカロリーを使ったせいで、腹の虫が鳴き始めていた。
帰路の途中でコンビニに入り、焼きそばパンとコーヒーを買った。普段購買で買う組み合わせだが、今日に限ってコーヒーは無糖のブラックにした。
瞳は何を買うのか決めかねているらしく、甘味コーナーを前にして呻吟していた。記憶の中の瞳は無類の甘いもの好きだったが、それは今も変わってないらしい。
「伊織くんはもう決まった?」
「ああ。瞳はまだ悩んでるのか?」
「ううん。見てただけだよ。その、私、お金持ってないし」
「そのくらい僕が……」
払うよ。
と、続くはずだった。けれど、言葉が紡がれることはなかった。目を伏せて首を横に振る瞳を、見てしまったから。
表情を見て、察してしまった。
きっと、食べちゃいけないんだ。理由とか理屈とかそういう確かなものがあるわけじゃないけど、瞳は好物のスイーツでさえ制限されている。
どれにしようか迷っていたんじゃなくて、好物を目の前にして食べられないことを嘆いていたんだ。
「……じゃあ、僕会計してくるから先に出といて」
「うん、わかった」
瞳は素直に僕のいう通りに、そそくさと立ち去った。
僕の推測が合っているのか、間違っているのか。彼女の口から答え合わせはされなかったけれど、もし合っているのだとしたら本人の口から言わせるのは酷なことだと思う。
「お会計、624円っす」
焼きそばパンとコーヒー。
それから、ショートケーキを一つ買って、コンビニを後にした。
「お待たせ。行こうか」
「うん」
店先で待ちぼうけていた瞳と合流し、再び帰路につく。
瞳は確かに僕の隣を歩いていて、手を伸ばせば触れ合える距離に居るはずなのに、見えない壁があるような、ものすごい遠くに居るような気がする。
家までの数分、会話が弾むことはなかった。
*
「それ、美味しい?」
まじまじと見られながらする食事は、思っていたよりも心地が悪いものだった。
テーブルを挟んで向かい合っているせいで、真正面からの視線攻撃が注がれている。自分の部屋だというのに、全くもって落ち着かなかった。
「まあ、不味くはない」
コンビニでのこともあり、瞳を前にして食事をすることに抵抗あったが、結局は瞳の「食べろ」という無言の重圧と己の食欲に根負けして今に至る。
炭水化物がどうこうと呟いている瞳をよそに、焼きそばパンをたいらげる。パンの塩味とソースの濃い味で喉が渇いているが、コーヒーには手が伸ばせないでいた。
「あれ、伊織くんってブラック飲めたっけ?」
「最近ちょっとハマっててな」
嘘だった。
ほとんど飲んだことはないし、断然甘い方が好みである。わざわざブラックにしたのは、苦い方が眠気覚ましに効果があると思ったからだ。
見栄を張った手前、平然を装ってコーヒーに手を伸ばした。喉の渇きを潤そうと、ひとくち口に含む。
(……にっっが!)
言葉にこそならなかったが、苦味が許容量を超越していた。あまりの苦さに吐き出しそうになったのをなんとか堪え、味わわないように飲み込む。
砂糖がないだけでこうも変わるものか。とてもじゃないが、一本丸々飲み干すなんて真似はできない。
「……ふふっ。眠気は覚めたかな?」
瞳は俺が苦味に悶絶するのを見て、微笑んだ。
再会してから瞳の綻んだ顔を初めて見た気がする。
「ああ、バッチリだ」
不本意ではあるが、それだけでわざわざ飲めないブラックを買った意味が生まれようというものだ。
とはいえ気恥ずかしさは、やはりついて回るもの。これ以上、ブラックで飲み続けるのは無理だと判断し、潔く諦めて砂糖を入れることにした。
「やっぱり砂糖入れた方がいいや。ちょっと取ってくる」
「あ、私持ってるよ」
そう言って、懐からスティックタイプの砂糖を取り出す瞳。
「……持ち歩いてるのか、それ?」
いくら甘味好きとはいえ、砂糖を持ち歩くことなんてあるのだろうか。
「まあね。これは支給物だから、私も摂取していいし」
「摂取、って」
コンビニでの言動と、常備している砂糖。厳格な栄養管理をされているというよりは、口にすることそのものを管理されているのだろうか。
瞳にショートケーキを渡すのも、やっぱり辞めといた方がいいのかもしれない。瞳は優しいから受け取ってくれそうだが、それを食べることはないんだろう。
「はい、砂糖」
「ありがとう」
貰った砂糖をコーヒーに入れ、軽く振り混ぜる。未だに渇いている喉を潤すべく、一気に流し込んだ。
いつも飲んでいるものよりは甘くないけれど、多少はマシだった。
「なんかさ、ごめんね。久しぶりに会えたのに、一緒にご飯も食べれないで」
「気にすることじゃないさ。大変なんだろ、いろいろと」
詳しい事情はわからない。
瞳もあまり話したくはないようだし、これ以上身辺のことを聞いても遠くに行ってしまったように感じるだけ。
それに全部聞いたところで、僕は記憶を消される。もう間も無く、ひとたび眠りにつけば忘れてしまうんだ。
そうか。忘れてしまうなら、迷っている場合じゃないな。独善的なことだとはわかっているけれど、何もしないよりは断然いいはずだ。
「あのさ、これ。砂糖貰ったお礼に」
お礼としては大袈裟な気もするが、流れに身を任せて瞳にケーキを差し出した。
「これって、ショートケーキ?」
「さっきコンビニで見てたからさ。食べれないかもしれないけど、受け取ってくれないか?」
さっきの微笑みとは違って、今度は困ったように小さく笑った。
コンビニのレジ袋は透明だったし、きっとバレバレのサプライズだったに違いない。訳あって食べれない好物を渡されて、困らないわけがなかった。
予測するまでもなく、結果は分かりきっている。分かりきっているからこそ、瞳の顔なんて直視出来るわけがなかった。
「ありがとう。嬉しいよ、とっても」
やはり気を遣ってくれているんだろう。そりゃ、そうだよなと1人で納得していた。
受け取っても食べることは無いと思っていたから、パッケージを開ける音が聞こえた時には耳を疑った。
「あ、でもフォークないね」
見れば、瞳はショートケーキに付いたフィルムを剥がしていた手を止めてしまった。
レジ袋の中には、それらしきものは入っていない。この時ばかりは、レジ員の気の利かなさを恨んだ。
「取ってくるよ」
瞳がケーキを断る大義名分を得てしまったわけだが、諦めきれない僕は台所へ取りに行く。
まさに立ち上がろうとしたところで、瞳は「大丈夫だよ」と僕の行動を制止した。
そうしてケーキについていたフィルムを一気に剥がし、その三角柱の角っこを食んだ。
「……甘い」
小さな小さな一口を噛み締めるように味わった瞳は、そう呟いた。
驚きと、心配と、歓喜とが入り混じった気持ちが心の中で渦巻いている。
食べることは無いと思っていた。
食べちゃいけなかったのではないか。
食べてくれて嬉しい。
「食べて良かったのか……?」
いの一番に言葉になったのは心配だった。
「うーん、ダメだけど。せっかく伊織くんが買ってきてくれたから」
歓喜。
このうえなく、嬉しかった。
たかが一口、されど一口。瞳がケーキを口にしたということには、大きな意味があった。
「ごめんな、瞳。そして、ありがとう」
「どうしたの、急に改まって」
「独りよがりな行動だったからさ、迷惑かけたんじゃないかと思って」
理由の一つはそれだった。
もう一つは、瞳は俺に会いに来たんじゃなくて、記憶を消しに来たんじゃ無いかと勘繰っていたことへの謝罪だ。
「迷惑なわけない! 私がもっと自由だったら、普通の人生を送れたら、こんなことしなくていいのに……」
感情的になる瞳の目尻に浮かんだ涙を、僕は捉えてしまった。
僕の前では余裕そうな素振りを見せていたが、彼女とて僕と同じ高校2年生。宇宙船だとかに乗って何をしているのかはわからないけれど、それが日常とかけ離れていることは明々白々だった。
「つまらない話題で盛り上がって、バカやって先生に叱られて、ハードな部活でくたびれて。誰かに……君に恋をして、付き合って、ふたり並んで仲良く下校して、今日も楽しかったねって笑い合いたかった。私だってただの一般人なのに、それが許されないんだ」
瞳は日常を渇望していた。
誰よりも、日常至上主義者だった。
でも、忌み嫌うことなど出来るはずもない。
僕が日常にうんざりして非日常を追い求めるのと何ら変わらなかったからだ。瞳にとっては、僕の思い描く非日常が日常で、日常が非日常だった。それだけのこと。
きっと、周りにいる日常至上主義者も本質は僕と一緒で、ないものねだりにすぎないんだろう。
「僕は……僕には瞳がどんな重荷を背負っているのかわからないけれど、この3年間ずっと瞳のことを考えて過ごしてきた。毎日空ばっかり眺めて、高校生らしいことは全然してこなかった。だからさ、だからっていうのも変かもしれないけど、また僕に会いに来てよ」
瞳はきょとんとしている。
あるいは、僕の熱気に気圧されているようにも見えた。口をぽかんと開けた顔は間抜け面だったけど、涙を浮かべているよりもよっぽど良い。
「そして高校生っぽいことをして、日常を満喫してさ。僕はきっと寝たら忘れちゃうんだろうけど、瞳はそれを覚えてられるんだろう? 全部終わったらさ、瞳が僕の隣に戻ってこれたらさ、その話をしてくれよ」
勢い任せだった。
瞳がまた来れるとも限らないし、終わりなんてないかもしれないけれど、僕が言えるのはそれくらいしかなかった。
「……かなわないなぁ」
叶わないのか、敵わないのか。
どっちか判断することはできなかったが、瞳の柔和な笑みを見てきっと後者なのだろうと思った。もちろん、希望的観測かもしれないけど。
「私は、ずっと覚えてる。今日食べたショートケーキの味だって、いつまでも覚えてるから。だから、約束」
瞳はテーブルに身を乗り出し、小指を突き出してくる。
「私と会ったことは忘れても、私のことは忘れないでね?」
「ああ、必ず。誓うよ」
僕は迷うことなく小指を交わした。
「ねぇ、ちょっとお願いがあるんだけど。大きな声でいうのは恥ずかしいから耳貸してくれない?」
「まあ、構わないけど」
「一回しか言わないからよーく聞いてね」
部屋には2人きりだし誰かに聞かれる心配もないのにと訝しみながらも、言われた通りに右耳を傾けた。
「好きだよ」
その四文字はエコーがかかったみたいに何重にも重なって聞こえた。
耳が熱くなるのが自分でもわかる。
「僕も、瞳のこと……」
好きだ。
と、言おうとして、突然頭がくらくらとし始めた。恥ずかしくて頭に血が上ったとか、そういう類じゃない。
意思に反して、意識を落とそうとされているような感じだ。
「す……」
ダメだ。
寝ちゃいけないのに。今日のことを忘れてしまうのに。
抗えない。
「ごめんね、伊織くん」
視界に映る瞳がぐにゃりと歪んでいる。
眠い。眠い。眠い。
意識が遠のいていく。
「全部終わったら、続き聞かせてね」
瞳、好きだ。
*
目を覚ますと、深夜の3時を回っていた。
長いこと寝ていたのか、体がぐったりと重い。それに頭もぼーっとして、まるで丸一日寝ていたみたいな気分だ。
無理やり体を起こす。机の上にはブラックコーヒーとシュガースティックが置かれていた。
「なんでこんな物が……?」
コーヒーはブラックなんて飲まないし、間違えて買ったのを砂糖で誤魔化したんだろうか。わからないけど、記憶が曖昧だ。何かを忘れているような気もする。
起き抜けの頭では解決しそうになかったので、気晴らしに外の空気を吸おうとバルコニーに出た。初夏のこの時間帯は涼しくて過ごしやすい。
「おお、流星群」
バルコニーに出てやることといえば、空を眺めることだった。空は快晴で、ひっきりなしに流れ星が夜空を駆けていった。
流星群を見るなんてそうそうないことだし、せっかくなら、お願いごとでもしておこうと思う。
少し僕らしくないけれど、今思い浮かんだ願い事を率直に言葉にすることにした。
「アイツと……瞳とふたりで、なんの変哲もない日常を送れますように」
気がついたら1日が終わっていた、なんてこと誰しもが経験するでしょう。私はそういう日を可愛い幼馴染によって記憶を消されてしまったんだと思うようにしています。
え、可愛い幼馴染がいるのかって?
愚問ですね。もちろんいません。




