婚約解消を願う悪評の侯爵令嬢は婚約者の名前が言えない。
王国の首都の中心街にタウンハウスを構える侯爵家の応接室では若い一組の婚約者同士が何やら言い争いをしていた。
「あ、貴方とは、もうこれ以上婚約してはいられないのです………。どうか解消してください……。もう私のことはお忘れ下さい。」
「嫌だ!理由も分からずに婚約を解消なんて出来るものか!お願いだから解消なんて嘘だと言ってくれ!」
「嘘じゃありませんわ…私はもう決めたのです。だって……だって………、オ…ウォ……ゥ゙オ………ごめんなさい!」
「エ、エリス!?ま、待ってくれ!!!」
エリスと呼ばれた令嬢は別れを叫ぶと、淑女の礼もせずにバタバタとその場を離れ去っていく。
呼び止める声が聞こえても、振り返らずに走った。
そうでもしなければ涙が溢れ落ちるところを婚約者に見られてしまうから。
夢中で走り、侯爵家専用の居間に駆け込んで彼女はワッと泣き出した。
「……おやまあ…これはどう言うことかしら?」
誰もいないと思っていた居間で、懐かしい声が聞こえてエリスはバッと驚きの顔を上げた。
「カ、カトリーヌお姉様!?ど…どうしてここに?」
「聞きたいのはこちらの方よエリス。あなた達の仲が最近おかしいと嫁いだ私のところまで噂が来たものだから慌ててやって来たのよ。」
たおやかに笑うカトリーヌだがその目はまったく笑っていない。
「来る途中にいろいろと噂を聞いたわ…貴女が一方的に婚約解消を突きつけてるとか、嫁ぎ先を馬鹿にしているとか……だけど私は噂でなくちゃんと貴女から話を聞きたいの。」
話し方は優しくとも、そこには人を従わせるような有無を言わせぬ迫力がある。
「決して悪いようにはしないから、話してご覧なさいエリス。」
エリスの姉カトリーヌはエリスよりも10歳ほど歳上で、幼くして母を亡くしたエリスにとっては母親にも等しい存在だった。
かつては王国の至宝と呼ばれ、その美貌、知識、教養、特に語学に秀でていた事から隣国の公爵に見初められて嫁ぐまで、王国の社交界のトップに君臨していた。
そんな姉はエリスにとって憧れの女性でもある。
だからエリスは姉に隠し事が出来ない。
カトリーヌの前では何もかも結局見透かされてしまう事を知っているエリスは、ガクリと膝をついて、蚊の鳴くようなか細い声で、婚約者解消を言い渡した理由を白状した。
「こ、婚約者のお名前を………間違えていたの…。」
(?)
「3年前に婚約してからずっと……ずっと間違えて呼んでいたの…。」
(??)
「し、知らなかったの……。」
(???)
「ずっと間違っていたなんて知らなかったの。」
(????)
「絶対にこんな婚約者では、認めてもらえないのよ!」
(?????)
わっと泣き出したエリスにカトリーヌは意味が分からなくて小首を傾げた。
「それはどう言う意味かしら?エリスの婚約者のお名前は南部辺境伯子息のオリバス様で間違いないはずしょう?」
「だ、だけど違ったのよ………。」
「違う?でもオリバス様とは私も何度かお会いしたことがあるし、お名前を呼んだこともあるけれど、違うなんてご本人から言われたことないけれども?」
カトリーヌはエリスの婚約者であるオリバスと会った時を思い出す。
彼自身、自分の事をオリバスだと言って名乗っていたと思う。
「釣り書にだって、お名前の欄には確かに南部辺境伯子息オリバス・アクセンタと書かれていたと記憶していてよ?」
婚約申込の際に添付されていた釣り書はカトリーヌがチェックした。
大事な妹の縁談相手だからと、それはそれは厳しくチェックしたから間違いなどない。
「で、でも………ナマリー男爵令嬢のカオン様が……。」
エリスは言い淀むと、ギュッとスカートの裾を掴んで辛そうに言い出した。
「………どうして南部にお嫁にいらっしゃるのに、婚約者の名前すら南部の発音で言えないのかしらって………。」
(!!!!!!!)
カトリーヌはそれでやっとエリスの言いたかった事を理解した。
エリスが嫁ぐ予定のオリバスの実家である南部辺境領はその名の通り王国の最南端に位置する領地だ。
そこには南部訛と呼ばれるお国言葉があり、一般的に王国で使われている言葉とは違う場合がある。
特に発音は文字によっては全然違う。
例えば『い』は『ゐ』、『え』は『ゑ』など、聞き慣れない発音が沢山あるのだ。
つまり『オリバス』という名前も南部訛で発音するならば別の呼び方になると言うことなのだ。
それでエリスは、そのナマリー男爵令嬢のカオンとやらにそれを指摘されて、ずっと婚約者の名前を間違えていたと言ったのだろう。
そして生真面目なエリスは婚約者の名前を間違え続けていた事を思い詰めて、婚約を解消すると言い出したわけだ。
(あらあら…なるほどね………。)
カトリーヌは頭の中で貴族名鑑のページをめくった。
ナマリー男爵家は確か南部辺境伯家の寄り子にあたる家だ。
そしてナマリー男爵家の令嬢カオンは今年デビュタントの為に、寄り親である南部辺境伯家を頼り、首都にある南部辺境伯家のタウンハウスに滞在していると聞く。
恐らくその男爵令嬢カオンは、南部辺境伯のタウンハウスでエリスに接触を図って、南部訛が喋れないことをディスり、エリスが南部辺境伯家に相応しくないと思い込ませたのだろう。
(たかが男爵令嬢ごときが、侯爵令嬢である私の可愛いエリスに舐めた真似をしてくれる………。)
カトリーヌは静かな怒りの炎を燃やした。
だがそれとは別に
「なンやらぬしは、そんげぇなごどぐらぁでヒヨリなさるんかぁ?しっぽ巻いで逃げなさんのかやあ?」
突然完璧な南部訛で話し出したカトリーヌにエリスはギョッとして目を剥いた。
「に、逃げるなんて酷いですわお姉様!私だって本当は婚約解消なんてしたくないのです!でも……でも…私には南部訛は難しすぎて…あの方のお名前すら正確に発音出来なくて……。そんな私では南部辺境伯に相応しくは……。」
「ぬしがどんだげ努力なさったんかぁ知らんけんど、出来ねなら出来るまでやればエエやら?それども、ぬしの婚約者さへの思いンはそんなモンかぇ?そんで婚約者さが他のおなごの物ばなってもよろしいと?例えばナマリー男爵令嬢とかさの?」
カトリーヌに言われて、エリスはハッとして息を呑んだ。
エリスが婚約解消したならば、婚約者であるオリバスは当然他の令嬢と結婚する事になるだろう。
そして急に婚約者がいなくなってしまうオリバスが次に婚約するとしたら、フリーの令嬢の中から探すことになる。
しかし高位貴族の令嬢達は基本的には、年頃になれば婚約者が決まっているのが普通だ。
となると子爵家や男爵家でフリーの令嬢の中から南部の辺境伯領まで輿入れしてくれる令嬢を探すことになるだろう。
南部出身の家の者ならば良いだろうが、首都の暮らしに慣れた令嬢達の中で南部の辺境領まで行きたいと思う令嬢は少ないだろう。
そうなると自ずと選択肢は狭まり、恐らく最有力候補となるのは………。
そこまで考えが行き着いて、エリスは真っ青になった。
呆然としたまま、瞳からポロポロと涙を流し出す。
「ねえ……エリス……。」
カトリーヌが優しい声で話しかけ、ハンカチで涙に濡れたエリスの頬を優しく拭った。
「望むなら婚約解消する事は簡単に出来るわ。元々あなた達の婚約は家としては何の利益もないものだったもの。むしろ最初、南部辺境伯家から結婚の打診が来た時、お父様は可愛い貴女を遠い南部へやる事を嫌がって反対したわ。…………だけど。」
3年前を思い出してカトリーヌはフフッと笑った。
「初めて貴女はお父様に逆らった………。」
青褪めていたエリスの頬が赤みを帯び始める。
「引っ込み思案で大人しかった貴女が、まるで別人の様に、オリバス様がどれだけ素敵で優しいか熱弁し始めて、彼との結婚を熱望したわ。」
その時の事を鮮明に思い出したのかエリスの顔は真っ赤になった。
「ふふふ、お父様のあの驚いた顔!今思い出しても笑ってしまうわ。貴女の剣幕にすっかり涙目になってらしたでしょう?
でも……だからこそお父様も私も貴女が南部辺境伯子息と婚約する事を了承した……。」
そこまで言うとカトリーヌはそれまでの笑顔をスッと引っ込めて、表情を真剣なものに改めエリスを見据えた。
決して目を逸らす事は許さない!そんな気迫のこもった瞳だった。
「弊害があるなら乗り越えなさいエリス!!あの時の貴女の気合いは何処に言ったのです!?たかが南部訛が話せないだけで諦めるというの!?」
ハッとした表情になるエリス。
ぐしぐしと目をこすると力強い眼差しでカトリーヌに向き直る。
そこにはもう弱々しく涙を流していたエリスはいなかった。
南部辺境伯家のタウンハウスの客室では、ナマリー男爵令嬢カオンがド派手なドレスに裾を通しながらニヤニヤと実家から連れてきたメイドとお喋りしていた
「本当にビックリするくらい上手くいきましたねカオンお嬢様。」
「まあね、あたしの手にかかれば、あんな箱入りのお嬢様の心を挫く事なんて簡単よ!あの女、すっかり南部はみんな南部訛で話すなんて嘘信じ込んじゃって 落ち込んで自信をなくしてたから、婚約解消するのも時間の問題じゃない?」
くふふと笑うナマリー男爵令嬢カオンには南部訛など微塵も見られない。
実は今や南部でも南部訛で話す人間はほとんどいなくなっていた。
いたとしても、かなり年配のごく一部が使っているくらいだった。
そう、カオンはエリスに嘘を吹き込んでいた。
(王都に来ている時は皆様こちらに合わせて標準語で話しますけれど……南部に戻れば南部訛で話しますよの?全く話せないなんて……お嫁にいらして大丈夫なのですかエリス様?)
(言い辛いのですが……エリス様とお話されるときは標準語で話さないといけないから疲れるって、本当は南部訛で話す方が気が楽なのにってオリバス様仰ってましたわよ。もしかしたら首都でお育ちのエリス様とご婚約したこと後悔されているのかも知れませんわねぇ。)
(オリバス様も本当はエリス様に正しい発音でご自分のお名前を呼んで欲しいでしょうに……エリス様が正しい発音で喋れないせいでお可哀想に……。)
などなど………
カオンはエリスに会う度に親切顔で、心配の種を植え付けては、事あるごとにエリスの不安を煽った。
すっかり信じ込み、南部出身の貴族の前で、どう話したらいいのかとアタフタと慌てていたエリスの姿は心底楽しかった。
特にオリバスの名前については、オリバスの名前を先代の南部辺境伯(かなりご高齢)が名付けた事により、本当に本来は南部訛での発音呼びが正式だったのが幸いだった。
それを知った時のショックを受けた顔ときたら、吹き出すのを堪えるのに苦労したくらいだ。
その結果、すっかり自信を無くしたエリスは、『婚約者の名前も知らなかったなんて婚約者失格だわ。』と婚約解消を願うようになった。
残念ながらオリバスが婚約解消を拒否しているので、未だ婚約解消までには至ってはいないものの、それも時間の問題だとカオンは考えている。
すでに婚約解消の噂は大きく広がり、エリスの悪評が流れ始めていたからだ。
もちろんそれらはカオンが広めたもの。
(エリス様は何の落ち度もないオリバス様を一方的に嫌って婚約解消を迫っているらしい。)
(南部出身の田舎貴族とは喋るのも嫌だと馬鹿にしているようだ。)
(婚約者であるオリバス様の名前すら最近知ったというくらい婚約者に興味がないらしい。)
などなど………
カオンは様々なパーティーやお茶会に出向く度に、エリスの言動を歪曲させた悪口を言って回ってきた。
そのおかげでエリスの評判は南部貴族達を中心にぐんぐんと下がっていき、『エリス嬢は将来の南部辺境伯夫人に相応しくないのでは?』と囁かれるまでになってきていた。
いくらオリバスが拒否しようとも、これ以上悪い噂が広がれば貴族の面子に傷がつくことを恐れて、オリバスの父である南部辺境伯が強制的にでも婚約解消をさせるだろう。
そうなれば落ち込むオリバスを慰めて自分が後釜に座るだけ……。
全て思い通りだとカオンは顔をニヤリと歪ませる。
「見てなさい。直ぐにあんな女蹴落として、私が南部辺境伯夫人になってやるわ。次のパーティーが勝負よ!次のパーティーで徹底的に叩きのめしてやる!!」
アハハハと大笑いしてカオンは次のパーティーへと思いを馳せた。
カオンの言う次のパーティーとは、南部辺境伯が年に一度開く、南部貴族と中央貴族達との絆を繋ぐ役割を果たす非常に重要なパーティーの事だ。
南部辺境伯の関係者はもちろんのこと、南部出身のほぼ全ての貴族や、中央で重要なポストにつく中央貴族達が一堂に会する。
そして今年話題にのぼるのは、間違いなく南部辺境伯の嫡男オリバスとその婚約者であるエリスの噂について。
政略結婚でないとはいえ、次期南部辺境伯となるオリバスと中央の高位貴族の令嬢であるエリスとの婚約はある意味、南部と中央貴族とを結ぶ絆であり、象徴のように捉えられて注目されていたからだ。
それ故、誰もが近頃流れる不穏な噂を気にせざるを得ない。
エリスが出席すれば、真相を確かめようとする者たちの視線は山のように集中することだろう。
気の弱い所のあるエリスにとって、それは恐怖だった。
しかし出席しないという選択肢はエリスにはない。
どれほど好奇な目に晒されたとしても、出なければ悪い噂を助長することになるからだ。
パーティー当日、会場の入り口では緊張した様子のエリスと、エリスを励ますカトリーヌの姿があった。
「昔から貴女は気が弱いところがあって緊張しやすい気質だけど、落ち着いてやれば絶対に失敗なんてしないわ。自信を持って臨んでらっしゃい!」
カトリーヌに励まされ、エリスはコクリと頷く。
出席者の多くがもう既に会場入りして、噂のエリスの登場はまだかと待っている状態だった。
会場に一歩足を踏み入れれば、予想通り会場の視線が一気にエリスに突き刺さり、思わずゴクリと喉を鳴らす。
エリスに向けられる眼差しは、お世辞にも好意的なものとは言いがたかった。
南部貴族達を中心にエリスの悪評はすっかり浸透していたからだ。
またエリスが一人で入場したこともざわめきを大きくさせた。
覚悟していたとはいえ、やはり不仲なのかという目線に俯いてしまいそうになる。
今日エリスはオリバスのエスコートを断っていた。
実はパーティーの前、オリバスには婚約解消を申し出た事への謝罪と共に、解消を申し出た理由を手紙にしたためて送っていた。
カオンが嘘をついた証拠も悪評を広めた確証もないので、もしかしたら信じてもらえないかもしれないと、エリスは少し心配していたのだが、オリバスは直ぐにエリスの言葉を信じ、カオンに憤ってくれた。
そして直ぐにエリスの為に動こうとしてくれたのだが、エリスはそれを断って、見守っていてほしいと頼んだ。
オリバスがエリスを庇ってくれても証拠がない状態では、エリスが嘘を言っていると思われてしまうかもしれないし、下手をするとオリバスまで悪く言われてしまうかもしれないからだ。
ではせめて次のパーティーでエスコートだけでもと言われたが、エリスはこれも断った。
オリバスと共に会場に入り、オリバスと一緒に挨拶をして回れば、二人が不仲だという噂はある程度収まるだろう。
しかしそれだけでは、エリスの悪評は払拭されない。
噂を打ち払い、悪評を覆し、エリスこそが将来の南部辺境伯夫人に相応しいと思って貰う為には、エリスという人間を認めて貰わなければならない。
その為には、オリバスの陰に隠れるのではなく、一人でも堂々と振る舞える姿を見せなければならない。
(それに自分で蒔いた種だもの。自分で刈り取らないと……。)
カオンの悪巧みがあったとはいえ、元々は自分の南部への勉強不足と自信のなさが招いた結果だ。
もっと南部について知っていれば、南部訛がもうほとんど使われていないという嘘にも気づけたし、もっと心を強く持っていたならば、それが真実かどうかオリバスに確認する事が出来ていたはずだと、エリスは自身の心の弱さを恥じていた。
だからエリスは、姉に喝を入れられ、オリバスへの想いをもう一度思い出して、オリバスの隣りに立つ権利を自分の力で手に入れてみせると心に誓った。
それ故、姉のカトリーヌにも、手を出さないで見守ってくれるように頼んでいる。
(それにこれしきの事……一人で御せないようでは将来の南部辺境伯夫人としてやっていけないわ!)
エリスは覚悟を決めると、昂然と顔を上げて突き刺さる視線の海の中へと進んで行った。
会場の中央には南部貴族達に囲まれた南部辺境伯夫妻達、そしてオリバスとカオンの姿があった。
カオンは無邪気なフリをしながらオリバスへしなだれかかるようにして上機嫌に話しかけていた。
オリバスはといえば、そんなカオンをやんわりと押し留めながらも、エリスの要望を聞き入れてくれたようで、嫌悪感などおくびにもださずに今までと変わらぬ寄り子の家の令嬢へ向ける穏やかな態度を取っていた。
久しぶりに見る二人の姿に、エリスの緊張は一気に高まったが、表に出すことなく背筋を伸ばした。
全員がエリスの一挙手一投足に注視しているのを感じて、内心では身が竦みそうだったが前へと歩みを進める。
そんなエリスの心の内を察し、オリバスは思わずエリスの元へ駆け寄ろうとした。
しかしそれを察したのか、カオンが先にオリバスの行動を邪魔するように飛び出した。
そしてエリスの前に立ったかと思えば、会場中に響き渡るような大きな声で叫んだ。
「面会すら拒否して、オリバス様をず〜っと避けていたエリス様じゃありませんか〜!!
てっきり今日も嫌がっていらっしゃっらないと思っておりましたのに、どうしていらっしゃったんですかぁ!?
今日のパーティーって南部出身の方が多いのに大丈夫なんですかぁ!?
南部が苦手なエリス様にはお辛いんじゃないかって心配ですわぁ!!!」
かなり不躾ではあるものの、心配してますというカオンの言葉の内容に、会場中が耳をそばだてた。
そして誰もが、エリスがどう返答するのか、どう行動するのか、噂の真偽を確かめようと、じっと注視する。
カオンは表向は心配そうな表情を保ちながら、内心舌を出す。
エリスがパーティーに来たら会場中に噂や悪評が真実だったと思い込ませてやろうと決めていた。
いつもみたいに不安を煽ってやれば、エリスは尻尾を巻いて帰るだろう。
そしたら『やっぱり南部がお嫌いなのかしら〜?』と招待客達に吹き込んでやろうと思っていた。
そうすれば悪い印象を植え付けられた南部出身の招待客達は『エリスは南部辺境伯夫人に相応しくない。』という声をあげるだろう。
そうなれば婚約解消は決定的なものになるはずた。
『飛んで火に入る夏の虫』とはこのことね!とカオンはせせら笑った。
オリバスがそんなカオンの様子に『やっぱり我慢出来ない。』と言うように前に出て来ようとした。
しかしエリスはそれを、そっと目で制す。
そしてゆったりとした動作で、上手くいくことを微塵も疑わないカオンに向き合うと、にっこりと微笑んで小首を傾げた。
「申し訳ございませんけれど………ナマリー男爵令嬢が何を仰っているのか分かりませんわ。南部が苦手などと一体なんの冗談でしょうか?
それよりも主催者の南部辺境伯様へご挨拶がまだですの。
ですから、そこを通していただいでも宜しいでしょうか?
あと主催者へご挨拶するのを妨害するのはマナー違反でしてよ?」
柔らかな口調ながらも、カオンの発言の内容には心底意味が分からないと告げた上で、高位令嬢らしく下位令嬢のマナーの悪さにやんわりと苦言を落とした。
そしてポカンとするカオンが何も話さないのを見ると、不躾な令嬢の態度に困ったとでも言うように眉尻を下げて、お義理のように小さく会釈してから、カオンの横を事も無げに通り抜けた。
(は…………?)
思っていたのとは、全く違う反応にカオンは固まった。
エリスは南部の人間ばかりだと聞けば、いつもなら萎縮して逃げ帰っていた。
今回も同じだろうと信じて疑っていなかっただけに理解が追いつかない。
『ぷっ……何あれ、カオン様ったらエリス様と仲が良いなんて言ってたのに、全然相手にされてないじゃない。なんか聞いていた噂と違わない?』
令嬢の誰かがクスリと笑ったのが耳に入り、カオンは怒りに顔を朱に染めた。
(あの女!あの女!あの女!どうしていつも見たいに震えないのよ!)
思い通りに動かなかったエリスに腹の虫が治まらないカオンは、もう一度揺さぶりをかけてやるわ!と一歩を踏み出す。
しかしエリスの向こうにある人物が見えたことで、その足を止めた。
(………そうだったわ。今日はあの方が来ているんだった。私が手を下さず放っておいても、どうせエリスは自滅するんだった。)
落ち着きを取り戻し、余裕の表情になったカオンは、ニヤリと笑うと傍観することを決めて、エリスの背中を見送った。
背中にカオンの視線を受けながら、エリスは内心ホッと息をつく。
(ちゃんとやれたかしら………。)
根も葉もない噂や悪評に対して最初にすること。
それは、噂や悪評が消えるまで黙って待つことでも、違うと大仰に否定して回る事でもない。
『知らない』と伝える事だとカトリーヌは言った。
黙っているのは肯定するのと同じ事。しかし違うと真っ向から否定しても噂は大抵収まらない。
嘘だと断じるだけの証拠があればいいが、むしろ強く否定する事で、逆効果になる場合すらある。
だが『何のこと?』と噂の相手に言われたらどうだろうか?
少なくとも噂が真実かどうか判断しかねていた相手は、噂の信憑性に疑問を持つだろう。
今回の件について、カオンが嘘をついたこと、悪評を広めていたことへの証拠をエリスは持っていない。
しかし逆に言えば、広まった噂の出元もカオンの証言しかない。
カオンの証言だけが悪評の元なのだ。
ならばカオンの証言は本当に正しいのかと周りに疑念を抱かす事が出来れば勝機はある。
少なくとも悪評を覆す事への足がかりになる。
そして足がかりさえ出来ればその先は簡単だ。
噂と真逆の事をすればいい。
オリバスとの仲が不仲だと言うなら仲睦まじい姿を。
南部が嫌いだと言うなら南部が好きな姿を。
エリスを直接見て判断してもらうのが一番手っ取り早い。
百聞は一見に如かずだ。
何を聞こうと、結局人は自分の目で直接見たものを信じる。
そして見て貰うのならば、南部貴族達の多くが集まる今日のパーティーはうってつけだった。
エリスの悪評は主にカオンにより面識のない南部貴族達を中心に広がっている。
それは面識がないからこそ、カオンの証言が取り上げられているに過ぎない。
ならばエリスを知ってもらえばいい。
目の前でエリスが噂のような人物ではない事を見せつけてやれば、悪評など簡単に覆せるはずだ。
そしてここで悪評を覆す事が出来たならば、一気に悪い噂など払拭する事が出来るだろう。
このパーティーは一発逆転出来る勝負の場だった。
エリスはぐっと下腹に力を入れて、覚悟を決める。
ここから先は、エリスがエリス自身をどう見せられるかにかかっている。
いまだ注目を浴びる中、エリスは楚々とした足取りで南部辺境伯夫妻とオリバスの前に歩むと、誰よりも優雅に、誰よりも美しい、会場中が見惚れるようなカーテシーをした。
夫妻とオリバスに向ける表情は会えて嬉しくて堪らないと伝える、弾けるような眩しい笑顔。
対する南部辺境伯夫妻が、そんなエリスの様子に満足気に頷き、オリバスもまたエリスに会えた嬉しさたっぷりに微笑み返せば、どう見ても両者の間に悪感情など見て取れない。
会場中の誰もが『おやっ?』と反応を見せ始める。
オリバスがエリスを見つめる眼差しは、愛情を隠そうとすらしていないし、エリスのオリバスへの眼差しも恋する乙女そのものだ。
甘い甘〜い二人の雰囲気は二人が恋仲であることを物語っている。
少なくとも不仲であるとか、婚約解消間近だとは到底思えない。
しかしまだ、エリスにむけた疑惑の視線が会場から消えることはない。
なぜなら
南部辺境伯の後ろに立つ人物が、じろりとエリスに厳しい目線を落としていたからだ。
彼こそは先程カオンが手を引いて傍観することを決めると思い至らせた人物。
先代の南部辺境伯であり、オリバスの名前を付けたオリバスの祖父だった。
南部を愛し、南部の全てを知り、南部と共にある長い人生を歩んできた先代南部辺境伯は、南部の人間にとって、南部の体現者であり南部の魂そのものともいえる存在である。
彼の南部への影響力は現南部辺境伯であるオリバスの父よりもいまだ大きい。
かなりのご高齢で、普段は南部辺境領にある彼の屋敷からほとんど出ることはない先代が、首都で開かれる今回のパーティーへ参加を決めたのは、オリバスとエリスの噂の真偽を確かめるためだと言われていた。
そんな彼が厳しい眼差しを向けている以上、少なくとも南部貴族達はエリスを認める訳にはいかなかった。
矍鑠とした威厳のある姿は、相手に畏怖を感じさせる。
後ろ暗い事がある者ならば、それだけで震え上がりそうな鋭い眼差し。
何もしていない者ですら、その目で射抜かれれば震えだしてしまいそうだ。
しかしエリスは先代を真っ直ぐに見つめ返した。
じっと値踏みするようにエリスを見つめる先代に、会場中が固唾を呑んで見守った。
何とも言えない緊張が漂う会場。
しかしエリスが口を開いた瞬間、緊張の糸はぷつりと切れることになる。
ニコリと微笑んだエリスが、先代に南部訛で話しかけたからだ。
「やっ〜とごさ、お会い出来て嬉しいなあやぁ。お初にお目もじゐたします。侯爵家が次女エリスでござあますだぁ。
宜しゅうたのんますぅ!」
満面の笑顔から繰り出されたコテッコテの南部訛に会場中が呆気にとられる。
南部辺境伯夫妻とオリバスを初め、中央貴族のみならず南部貴族達もポカンとしてエリスを見つめた。
カオンも驚きに大きく目を見開く。
厳格で知られる先代ですらも、鳩が豆鉄砲を食らったかのように目を真ん丸にして驚いていた。
エリスはその様子に満足したように頷くと、先代に向けて花が綻ぶような笑顔を向けた。
「如何でしたでしょうか私の南部訛は?
南部に嫁ぐにあたり南部訛を話したくて、姉についてずっと勉強していたのです。
中々上達せず、いままで喋ろうとしても失敗ばかりでしたが……上手く出来ておりまますてしょうか?」
そう言って片目を閉じてウィンクする。
バチンとウィンクするのは、南部では親愛の証を表す挨拶だった。
クリノリンのスカートの下で、エリスはガクガクと足を震わせながらも、表情には露とも出さず、笑顔でパチパチと茶目っ気たっぷりにウィンクを続けで見せた。
一世一代の大勝負。
驚きに目を見開いていた先代は、ブッと吹き出す。
それから体を揺らして会場が震えるような大きな声で大笑いを始めた。
「夢にも思わなんだのぅ!首都で南部訛で話しばかけられって、孫嫁からこげな可愛ゆす挨拶さぁもらゑっとば!カーカッカッカッ!!!!」
眼尻を下げて心底愉快と笑う先代からは、もはや先程までの険は微塵も見えない。
「エリス!君ずっと南部訛の勉強をしてくれていたのかい?
そんなにも南部に馴染もうと頑張ってくれていたなんて知らなかったよ!!
南部生まれの俺だって南部訛なんて上手く喋れないのに、君は凄いよ!
次期南部辺境伯として俺ももっと勉強しないと。俺にも教えてくれるかい?」
感動したオリバスがエリスの手をギュッと包みこんだ。
ポッと頬を染めたエリスも嬉しそうに手を握り返す。
「喜んで!でも私もお姉様に教わったばかりで、まだまだ未熟ですのよ!南部の風習だってまだまだなのです!だから私にも色々と教えて下さいますか?共に学んで行きたいです!」
お互いの瞳にお互いを映し、愛おしげに見つめ合いながら、南部の為に頑張ろうと誓い合う二人は正しく未来の南部辺境伯夫妻を彷彿とさせた。
手を固く繋ぎ合っていたことに気づいて、頬を染め合う初々しい二人に、会場中が微笑ましい眼差しを向ける。
先代はその様子に満足気に頷くと、会場の招待客に向けて声を張り上げた。
「来場の皆様方!南部辺境伯家はどうやら三国一の嫁っ子さ得るごとさ出来たようですわや!この若え二人の未来をば、どうぞ末永う祝福してぐだされ!!!」
そう言って盃を掲げれば、割れんばかりの拍手が起こった。
先代の言葉を受けて、会場がワッ盛り上がる。
もはやエリスの噂や悪評を信じる者は一人としていない。
目の前で婚約者同士の仲の良さ、南部の為に南部訛まで勉強していた姿を見せられ、先代にまで認められたのだから当然だ。
あちこちから祝福の声が上がる中、たった一人カオンだけがこの展開についていけずに呆然と佇んでいた。
ほんの数分前までは確かにカオンの思惑どおりだった筈なのに…………。
そんなカオンに近づく美女が一人。
成り行きを見守っていたカトリーヌだ。
「理解出来ないって顔をしてるわね。うふふ。」
呆けていたカオンは、急に美女に話しかけられてビクリと肩を震わせた。
「ルンルンとパーティーやお茶会に出かけては、一生懸命悪い噂を流して来たんだから当然よねぇ?」
楽しげに軽やかに、まるで子守唄を歌うような優しい口調。
「連絡を受けて慌てて帰って来た時は、姉として何事かと気を揉んだのよ?
根も葉もない噂に傷ついてる妹をみた時は、どうしてくれようかと思ったわ…。」
しかし口調とは裏腹に、その瞳は冷え切っていて優しさなど微塵も感じられない。
恐ろしいこの美女がエリスの姉だと分かり、何をするつもりなのかとカオンは身構えた。
ところがカトリーヌはフワリと微笑む。
「牢屋にでも入れてやろうかと思っていけど………結果的には貴女のお陰で二人の絆が強まったから、私は見逃してあげるわね!」
うふふと笑い、カオンを見つめてから別の場所へと流される視線。
「私が手を下さなくても、十分報いは受ける事になるでしょうから……。ねぇ?」
カオンが訝しげにカトリーヌの目線の先を辿れば、今まで嘘を吹き込まれたり、知らずに悪評をばら撒く手伝いをさせられていた令嬢達の姿がそこにある。
怒りの形相で近づいて来る令嬢達。
ギョッとしたカオンが思わずカトリーヌの後ろに隠れるように回ろうとしたが、
彼女達がやって来ると、カトリーヌはその場を踊るように譲り、軽やかに入れ替わった。
話が違うと詰め寄られ、顔面蒼白のカオンを視界の端に捉え、因果応報ねえと笑いながら。
これからは『嘘つき令嬢』の悪評を、カオンが背負うことになる。
それも絶対に覆す事の出来ない悪評となることだろう。
南部辺境伯家に睨まれない為にも、騙されていた令嬢達は次々とカオンの悪巧みの証言や証拠を出し始めるからだ。
証拠のない噂や悪評でも追い詰められるのだから、証拠のある悪評ならば、どんな事になるのかカオンは身を持って知ることになるはずだ。
それに今回の件で、カオンは南部辺境伯家の後ろ盾を無くし、南部辺境伯とエリスの実家である侯爵家から睨まれることになる。
高位貴族に疎まれ、虚言癖のある男爵家の令嬢の末路など、語る必要もないだろう。
もはやカトリーヌの興味の外だ。
オリバスとエリスの事で盛り上がる会場に、カトリーヌが入場すれば、気づいた来客達の内、特に中央貴族達が沸き立った。
社交界において、王国の至宝と呼ばれたカトリーヌの影響力はまだまだ健在で、かつてはカトリーヌに睨まれれば、社交界で生きられないとまで言われていた存在だからだ。
もう何年も前に隣国に嫁いだ為、若い令嬢達や遠い南部貴族達の間では知らない者もいたようだが、それでも噂くらいは聞いた事があるのだろう。
実際に中央の重鎮たちが恭しくカトリーヌを持て囃すさまを見れば、知らぬ南部貴族達もカトリーヌを歓待しだす。
そしてエリスがカトリーヌの妹だと認識すると、さすがカトリーヌ様の妹君だと、数分前まで白い目を向けていた連中が嘘のように褒め称えだした。
概ね社交界とは何処もそういう所だ。
賛辞に優雅に微笑みながら、これで純粋培養し過ぎた妹も、少しは社交界というものを学んだだろうかと、オリバスと共に挨拶周りに精を出す妹に目を向ける。
カトリーヌは歳の離れたエリスを亡き母に代わりずっと育てて見守って来た。
母代わりとして時に優しく、時に厳しく育て、知識も教養もマナーも、どこに出しても恥ずかしくない令嬢になるように育てる事が出来たと自負していたが、気が弱く騙されやすい性格のエリスが社交界の荒波を渡っていけるのかがずっと心配だった。
優しい妹は人の悪意に鈍感で、直ぐに鵜呑みにしてしまう。
それはエリスの良い所でもあるが、貴族の令嬢としては欠点でもあった。
それでも首都にいる間は、カトリーヌが守ることが出来た。
嫁いだ後も、出来るだけエリスに近い場所に居を構えて見守ることか出来た。
カトリーヌの影響力が強い中央であれば、何よりカトリーヌの妹ということで手を出してくる者も少なかったから心配ではあっても、それほど心配する必要はなかった。
しかしエリスが結婚相手にと望んだ相手は次期南部辺境伯だった。
身分はともかく南部は遠い。遠すぎる。
何かあっても直ぐに駆けつけられるような距離ではない。
それに南部は南部の文化があり、中央ほど魔窟の社交界ではないにしても、中央とはまた違う社交界が存在していた。
だからカトリーヌはエリスの悪い噂が流ていると耳にした時、それも男爵令嬢ごときにやり込められているのだと知った時に決めた。
エリスが本当に南部でやっていけるかどうか試すことを。
もちろんエリスの恋を応援はしたいと思ってはいたが、この程度で潰れてしまうようならとても南部に嫁に出すわけには行かない。
だからカトリーヌは悪評が広まるのをあえて放置することにした。
カオンが流した噂など、カトリーヌにしたら直ぐにどうとてでも出来てしまうものだし、海千山千の中央の社交界を生きてきたカトリーヌにとっては、試練と呼ぶには易しいものだが、お試しには丁度いい試練だった。
もちろん最終的には叩きのめすつもりでいたが、エリスが立ち向かえるか見定めるのに都合が良かった。
そしてそれはオリバスに対しても同じ事。
エリスの悪評を鵜呑みにしたり引くような男であったなら、万が一にでもカオンに心変わりするような事があれば、何としてでもこの縁談をぶち壊すつもりでいた。
エリスを託すのに相応しい男かどうかの見極めも兼ねて、二人を試すのに丁度いいと今回の悪評を利用したのだ。
結果としては、二人とも見事に乗り切り、拙いながらも成長した。
まだまだサポートが必要な事も多だろうが、それでも二人はしっかりとやって行けるだろう片鱗を見せた。
これならばエリスを手放しても大丈夫かもしれないと、カトリーヌは微笑んだ。
「ゐやはや、うまぐ行ったのう。わっしも来た甲斐があっだとゐうもんだなや。実に僥倖!こんれでぬしも肩の荷ば下ろしてヹリスば南部にさ送りだせそかいや?」
いつの間に側に来たのか、すっかり好々爺の顔になった先代がシャンパンの入ったグラスを差し出してカトリーヌにウィンクした。
グラスを受け取ったカトリーヌも親愛の情を込めてウィンクを返す。
「うふふ、こっれも全ては先生のお陰だすなや。遠いところお出まし頂でぇて貰うて感謝の言葉もごぜえません。わだしも今ちょうどヹリスば嫁っ子さ出せるど思って、感慨にふけっでだどころだぁなやあ。」
南部訛で談笑する二人は実は旧知の間柄。
カトリーヌが南部訛をしゃべれるのは、何を隠そう南部訛に興味を持った若かりし頃のカタリーナが先代南部辺境伯に教えを乞うたからだ。
気の合う二人は、師弟であり、歳や住む場合は違えど長年手紙のやりとりで友情を育むペンパルでもあり、エリスとオリバスの仲を共に見守る同志でもあった。
先代にとっては、歳の離れた友人であり弟子であるカトリーヌの妹のエリスがオリバスの嫁として嫁いで来てくれる事は慶事そのもの。
だから今回先代がパーティーに出席したのは、エリスの悪評を確かめる為ではと噂されていたが、実際は確かめる為でも何でもない。
カトリーヌに頼まれて、この茶番にひと役買う為だった。
厳しい外見とは裏腹に、本当はお茶目な性格の先代は、カトリーヌの頼みに、可愛い孫嫁と生徒の為ならばと二つ返事で乗ってくれた。
厳しい表情で出迎えたのも、エリスの悪評を払拭する為に敢えて演じてくれていたに過ぎない。
もちろんエリス達が頑張れなければ、全てが裏目に出てしまった可能性もあったが、それも織り込み済みで協力してくれた。
そして結果的には万々歳だ。
先代の心を掴んだエリスの評判は悪評から好評へと劇的にV字回復する事が出来たし、中央に太いパイプを持つカトリーヌの妹だと言うことも周知させることも出来た。
これでエリスを攻撃する愚か者は消えた筈だ。
少なくとも先代が生きている間は手を出す者など現れないだろう。
南部で先代の後ろ盾ほど確かなものはない。
「………………ヹリスの事。宜しぐお願ゐ致します。」
巣立つ我が子を思う気持ちでカトリーヌは深々と頭を下げた。
喜びと寂しさとが入り混じる。
つい涙腺が緩んで、ポタリと床に涙を落としたカトリーヌを見て、先代は目を細めるとカトリーヌの頭をグシャグシャと撫でた。
一方エリスは、そんな二人の親心を他所に、もう一つの試練に立ち向かっていた。
ここ一ヶ月、カオンが流した、『南部嫌い』や『南部を馬鹿にしている』という噂を覆す為に、姉カトリーヌの地獄のシゴキに耐えて、南部訛を特訓して来た。
そして見事『南部訛をマスターするほど南部が好き』アピールが功を奏し、悪評を覆すことに成功したが、エリスにとってはそれよりも更に重要な試練があった。
エリスが追い詰められるほど自信を無くした一番の原因となった問題。
そうオリバスの正式な発音が南部訛だった件についてだ!
カオンには色々な事を言われたが、『婚約者なのに、ちゃんと正しい発音で呼んで貰えないなんて可哀想……。』という言葉が今もエリスの胸に一番深く突き刺さっていた。
カオンの言ったことではあるが、その件に関しては、エリスもその通りだと思わずにはいられない。
そして何よりエリス自身が彼の名前を正確に呼びたいと切望していた。
だからエリスは決めていた。
絶対に正確な発音でオリバスの名前を呼んで、振り回してしまったことへのお詫びと愛を伝えてみせると。
仲の良さアピールの為、二人揃ってほぼ全ての招待客への挨拶を済ませば、波乱のパーティーは落ち着きを取り戻し、まったりとした雰囲気へと変わっていった。
そろそろ会場を離れても大丈夫なタイミングだろうと考えて、エリスはオリバスをテラスへと誘った。
心地よい夜風に吹かれながら、緊張した面持ちでオリバスを見つめれば、エリスの緊張につられたのかオリバスも緊張した表情へと変わる。
気持ちを落ち着かせて、何度も何度も練習してきた発音を頭の中で繰り返し唱えて腹を決める。
今こそ、これまで数ヶ月に渡り一方的に婚約解消を突きつけて来た謝罪と、エリスの悪評など気にせず信じてくれた事へのお礼、そしてオリバスへの愛を伝えるのだ。
じっと見つめ合い、
意を決してエリスはオリバスの名前を呼んだ。
しかし残念ながらエリスは最後まで伝える事は出来なかった。
なぜなら
「………ヲ……ヺリヴァス様……愛……「んっ!ん~~〜!!!!」」
南部発音で名前を呼んだ瞬間、感激したヺリヴァスに口を塞がれてしまったからだ。
最後まで話すことが出来なかったエリスだったが、ヺリヴァスとの口づけにより深い愛を確かめ合うことは出来た。
そして濃厚なキスシーンを垣間見ていたお喋り雀達により、会場は再び盛り上がり、次期南部辺境伯夫妻は『アツアツ』という新たな噂が流れ、その噂が消えることは終生なかったのだった。
おしまい
先日掲載しました『しがない解呪屋……』と同じく『いろは坂』にて思いついたもう一つのお話。
何処らへんが?と思われた方は主人公達の「 」の台詞をご確認下さい。
個人的にあいうえお縛りがとても楽しかったのですが、とても難しくもありました。
こちらは
やいゆえよ
わゐうゑを
バージョンで作って見ました。
後半は台詞部分の間が飛んでいるので分かりづらいと思いますが、ご容赦下さい。




