7話 心臓いただきます!!
静寂。――いや、静かすぎる。
三人の足音すら、空気に吸い込まれるように消えていく。
「……本当に神殿ですよね? 墓地より無音なんですけど」
「雰囲気に恐怖する神の代弁者というのも、珍しいですね」
「やめてください、それ地味にダメージ大きいやつです」
ソフィエルがくすくすと笑う。
あれから二十分程歩いただろうか。ふいにソフィエルが歩を止めた。
「ここです。《《これ》》が読めますか?」
ランタンに照らされた壁には古びた碑文が刻まれていた。
それは文字ではなく、記号の羅列――のはずだった。
けれど、僕には“読めた”。
いや、“読めてしまった”。
(……え?)
視界がじわりと歪む。
記号が、仄かに光ったように見えた。
「ウーア君?」
アルヴィーの声が、遠くに聞こえる。
「……ごめんなさい、ちょっと気分が……」
その瞬間だった。
壁の記号の一つが、ふっと光った。
そして――
――ずぶり、と。脳裏の奥に、鋭い痛み。
「……っ、ぐ……!」
視界が揺れ、思わず床に手をつく。
頭の奥に、何かが流れ込んでくる。
知らない風景。
燃える塔。赤い空。血のような雨。
その中心で、何かを抱えて泣いている“誰か”。
(……誰だ……)
「ウーア君! しっかりしろ!」
アルヴィーの声が届く前に、
どこか、もっと遠い声が僕を呼んだ。
「――――――ようこそ、“×を×××者”。待っていましたよ」
……ソフィエル? いや、違う。
もっと古く、冷たく、遥か“上”の存在の声。
(……あなたは……、誰なんですか?)
神殿の奥に、眩い光が満ちていく。
意識が宙に浮き、現実感が薄れていく。
見たこともない神々が争い、心臓を奪い合う。
その中に――僕の姿が、あった。ような気がした。
「……これ、夢? 記憶? それとも、誰かの……?」
揺らぐ意識の中、再び声が囁いた。
「答えは、やがてあなた自身で辿り着くでしょう。ですけれど、そのためには――完全な“器”が必要」
「器……?」
「“力”を求めるなら、“神の心臓”を食らって。神の核を、その身に取り込むんです。
そうすれば、忘れられた記憶と力が、徐々に呼び覚まされる」
(……出たな、“心臓を食べろ”案件。信仰って、ワイルドすぎるでしょ……)
でも、胸の奥が明確に――鼓動していた。
(心臓を……食べれば、“何か”を思い出せる……?僕の力って…?)
「思い出して。あなたが何者であったのか。
あなたが、何を失ったのか。そして――なぜ“殺された”のか」
「っ……!」
その言葉に、息を呑む。
(そうだ。僕は――“殺された”。でも……なぜ?)
(なぜ、今こうして生きている?)
「この世界は、神によって歪められている。その歪みを正すには、“正しい力”が必要だ。その力こそ――神を殺し、神を喰らう者の手にある」
「……なら」
薄れゆく意識の中、僕は決意する。
(神も、邪魔者も――まとめて喰ってやりますよ)
ーーー
目を開けると、天井の石材がぼんやりと視界に浮かび、その奥から、誰かの顔がこちらを覗き込んでいた。
「ウーア様! 気がつきましたか?」
柔らかな声。ソフィエルだ。
そのすぐ背後で、アルヴィーが剣に手を掛けて立っている。研ぎ澄まされた剣先が、微かに震えていた。
「……どこか痛みますか?」
ソフィエルが、そっと額に手を当ててくる。体温が伝わってくるのに、なぜか冷たく感じた。
「……胃袋が空っぽなこと以外は、問題なし、ですよ」
口元は笑ってみせたけれど、頭の奥にはまだ焼きついている。
――あの“声”。あの“光”。
(あれは……現実だった。突きつけられたんだ――“真実”を)
「……アルヴィーさん」
「…どうした?」
「ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「もちろん。なんだ?」
「……“神”って、見たことありますか?」
静寂が落ちた。部屋全体の空気が、凍りついたように沈む。
アルヴィーは、視線を床に落とし、ゆっくりと、重たい口調で言った。
「見たことはない。……だが、“神になろうとした人間たち”が、かつて、存在した」
「神になろうとした……?」
「ああ。彼らは神を求め、“心臓”を喰らい、その代償として、狂った。記憶を失い、理性を喪い、自我が崩壊した。もはや人とは呼べぬものになった」
剣を握るアルヴィーの指が、ぎり、と音を立てる。
「私は、そこから一つの答えに辿り着いた。人間は神にはなれない、と。しかし、聖書に書かれているような“本当の神”など、この世界には存在しない。ただ、“神の代弁者”だけは、確かにいる、と」
「……代弁者……」
「その話、続きは私から」
遮るように、ソフィエルが口を開いた。
立ち上がる動作すら、どこか舞踏のように滑らかだった。
彼女の唇が、いたずらっぽく歪む。
「アポステルは、単なる“神の代弁者”なんかじゃないんです。――私たちは、“神そのもの”に成れるのですよ」
「……え?」
「でも、奇妙でしょう?
神の代弁者は、何百年も前から存在しているのに、私が持つこの記録の奇跡は…まるで誰かが意図的にそれを遮断したかのように、過去の記録が突然切れてしまっている。私たちが何故、突如奇跡に目覚めるのか、何故選ばれたのか、その答えを知る者は一人もいない…」
彼女の視線が、僕の胸――脈動する赤い紋章に吸い寄せられる。
「私たちの力は完全じゃない。とても不安定で、そして…時に壊れる。だけど、完全な状態になれば、過去の記録も知れる筈なんです。だから……」
「ウーア君、下がれッ!」
アルヴィーの怒声が空間を裂いた。だが、それより早く。
「だから、あなたの心臓を――いただきますね」
ソフィエルの手が、僕の胸に伸びていた。
(……は……!?)
視界が大きく揺れた。
彼女の手から、脳内に、淡い光とともに“記録”が流れ込んでくる。
――焼け落ちる街並み。
――血の涙を流す神父。
――何十、何百もの心臓が並ぶ祭壇。
(…っ!なんだよ…これ!)
脳が引き裂かれるように痛む。吐き気、めまい、恐怖。すべてが洪水のように押し寄せる。
「やめろっ!」
アルヴィーの叫びと共に、剣が空を裂く。
だが――
「遅いです」
ソフィエルは舞うように跳躍し、宙で一回転。その着地と同時に、石畳が砕ける音が響いた。
「その剣筋、“記録”で知っていますから」
「記録に頼ってすべてを知った気になるなッ!」
アルヴィーが一歩踏み込み、二の太刀を放つ。重量と速さを兼ねた一撃――だが、ソフィエルは笑いながらかわす。
「未熟な神の代弁者を守るには……あなたは、少し役不足かも」
彼女はアルヴィーの懐に潜り込み、短剣を胸へ突き刺さそうと構える。
「アルヴィー!!」
こんな時に限って、足が動かない。
…いや、違う?
(世界が…止まってる?)
ソフィエルの髪が空中で凍りついたように動かず、埃さえ宙に留まっている。
音も、風も、沈黙すら凍りついている。
(……もしかして、これが僕の、奇跡?)
手のひらが震える。赤い紋章が、心臓の鼓動と同じリズムで脈打っていた。
(今しかない……!)
僕は一気に彼女の側へ走り込む。簡単には殺されない位置。
アルヴィーを、奪われるわけにはいかない。
そして、時が――動き出した。
「ッ!? なんで……!」
一瞬、ソフィエルの瞳が見開かれ、混乱が滲む。
その隙を逃さず、アルヴィーの剣が空気を裂き、彼女の肩をかすめた。
「っ……く……ふふ、やりますね……二人とも」
ソフィエルが後退し、左肩を押さえる。紅い血が彼女の白衣を染める。
「……僕は、神童って呼ばれてたんですよね」
「えっ…!?」
「……時を、止めました」
僕の声は震えていた。なんで止まったのかなんて、意味がわからない。でも……ここでは、ハッタリも上等だ。
「……それが、あなたの“奇跡”?これは……記録にない」
ソフィエルの笑みが、少しだけひきつる。
「使いこなされる前に、壊しておくべきですね!」
彼女の両手が開かれ、空気にノイズが走る。
背後で揺らめく“奇跡”は、まるで星が崩れ落ちるような狂気を孕んでいた。周囲の空間が軋む。空気が焼け、床石がひび割れを起こしていく。
(――くる!)
「そうはさせない!」
アルヴィーの叫びと同時に、彼の剣が青白い軌跡を描いた。足元を踏み砕くように踏み込み、正面からソフィエルへと斬りかかる。
だが――ソフィエルは微笑んだまま、右手を掲げる。
「記録再生、開始」
アルヴィーの一撃が、空を裂くように放たれる――だが、ソフィエルはそこにいなかった。すでに後方に跳躍し、次の一手を展開している。
(まるで……未来が見えているみたいだ)
「ウーア君、あれをもう一度できるか!?」
アルヴィーの声が再び響く。
「分かりません!勝手に止まっただけなので!」
「…っ!君がしたんじゃなかったのか!?」
「それも、分かりません!でも何とかしましょう!心臓食べられるのだけは御免です!」
彼女の戦い方は――“記録”だ。戦闘の歴史、攻撃の傾向、動きの癖すら、すべて記録されたものを参照して先回りしてくる。
真正面からの対峙では、勝てない。
「やはり、嘘でしたか…。いや、そうでないと、私のしたことが……」
ソフィエルは何やら考え込んだ様子。だが、今がチャンス。
「アルヴィーさん!この案はどうですか」
「なんだ!」
「ソフィエルさんは記録で攻撃を先読みしてる…なら、僕が意図的に動きを乱せば――」
「動きを乱す?具体的には?」
アルヴィーが鋭く問う。
「例えば……僕が逃げるのを止めて、反転してみせます。その瞬間の動きが記録の未来軌跡と違えば、“記録”が混乱するはずだ」
ウーアの声は震えていたが、覚悟は固い。
「なるほど……読まれた未来を裏切るわけだな」
アルヴィーが頷く。
ウーアは足を踏み出し、全力で逃げるように見せかける――しかし、その刹那、動きをピタリと止め、鋭くソフィエルの元に踵を返す。
ソフィエルの瞳が一瞬、揺らいだ。
「な、何…?」
“記録”の流れが乱れ、空気がざわつく。
その隙を逃さず、アルヴィーが一気に間合いを詰め、剣を振るう。
だがソフィエルは慌てず構えを変え、攻撃を防ぐ。だが、その目は明らかに動揺していた。
「まだ、僕は力を扱いきれてない。だけど、ここで諦めるわけにはいかない!」
ソフィエルの冷笑が消え、代わりに焦燥が混じった表情に変わる。
「くっ……早く…心臓を…!」
次の瞬間、ソフィエルの両手から新たな“記録”の奔流が解き放たれ、場の空気が震える。
「来なさい…!“真実を示せ”!」
ソフィエルの掌に、無数の記録が浮かび上がる。あらゆる戦い、あらゆる敗北、そしてあらゆる死。
視界に、幾千の死が閃いた。
誰かが焼かれ、誰かが裂かれ、誰かが祈りながら絶命していく。
僕の心臓が、破裂しそうに鼓動する。
(……止めろ…止めなきゃ)
息をするのも苦しい。
限界に達した何かが、胸の奥から溢れ出す。熱い光が、脈動とともに皮膚の内側を走る。
それは、祈りでも、呪文でもなかった。
ただ強く――ただ純粋に、「止まれ」と願った、その瞬間。
名も知らぬままに、その言葉が喉を突いて出た。
「――時を遮断する!!」
叫びが迸った瞬間、胸の紋章が激しく輝いた。世界が、再び静止する。
いや、違う。
“記録”だけが、止まった。
ソフィエルの掌に浮かんでいた幻像が、次々にヒビを入れて崩れていく。
「なっ……なんですって……!」
ソフィエルが顔を上げる。初めて、彼女の瞳に“理解できない”という色が浮かんだ。
「記録そのものの……遮断?」
「……そうだよ」
声が震えていた。でも、それ以上に、僕の足はしっかりと地を踏みしめていた。
「これが……僕の“奇跡”だ」
刹那。
「ナイスだ、ウーア君!」
アルヴィーが動いた。
一瞬で詰め寄り、剣を振り抜く。今の彼女には“記録”の未来予測が通じない――
「っ……ぁ……」
鋼の刃がソフィエルの腹部を穿った。
時間が止まったようだった。
血が、白衣に咲いた赤い花のように広がる。
ソフィエルの身体が崩れ落ちる。優雅な舞のように、ゆっくりと。
まるで彼女自身が崩れた記録のひとつになるかのように――