4話 前言撤回!神殺す!!
その夜、ウーアは一睡もできなかった。
静まり返った寝室で、彼はただ、ザインから貰った懐中時計を見つめていた。
(いつの間に、壊れちゃたんだろう)
銀の蓋に刻まれた紋章はすり減り、針はもう未来を指さない。
それでも――目を離せなかった。
「……こんなもん、何が良かったんだろうね……」
静かな独白は、夜の帳に溶けていった。
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同じ頃。誰もいない聖堂で、ザインは祈っていた。
それは神に捧げるにはあまりに切実で――
祈りの先にいるのは、天上の神ではなく、
もっと近くて、手が届かなくなった“誰か”だった。
「……頼む。あの子に、未来を――」
それは懺悔ではなく、願いだった。
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翌朝。王都からの使者が教会へ到着した。
金と白の法衣を纏う高位神父たち。光る甲冑の兵士たち。
荘厳な行列は、大礼拝堂の奥へと進んでいく。
聖歌が響き渡り、神聖な儀式が始まる。
何十人もの神父と兵士、金の聖杯、整えられた祭壇。
その中心に――僕は立っていた。
「……というわけで先生!僕、“神の代弁者”に選ばれましたよ!めでたしめでたし…」
無理やり笑みを浮かべるが、熱も実感も湧かなかった。あんなに、待ち焦がれていた筈なのに。
「…明日には王都に行きます。正式に“奇跡の力”を授かるらしくて。……先生、ちょっとの間、お別れですね」
窓の外から、夕暮れの橙色が差し込む。
僕は目を伏せたまま言葉を続けるのが、やっとだった。
「そうか。……寂しくなったら、泣くんだよ」
「……泣きませんっ」
そう応えた時、ザインの瞳に差した影に、僕は気づけなかった。
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「わあ……!」
王都の大聖堂に足を踏み入れたとき、僕は大げさに驚いた。
天を突くような高い天井。光を砕いて虹に変えるステンドグラス。祈りを包む香の煙。
(なんだが、作り物みたい…)
――憧れた場所にいるというのに、どこか他人事だった。
(行くの…やだな)
本当は、一歩も動きたくなくて、吐き気がこみ上げてくる。
けれど、壇上に立ったその瞬間――
張りぼての夢が剥がれ、冷たい現実が顔を出した。
壇の奥にいたのは人間だった。
服は裂け、鮮血に染まっている。
まるで、血に汚れ、無惨にされた、神様。それは——
———鎖に縛られ、膝をついたザインだった。
「……せ、先生……!? な、なんだ、これ……!」
あまりに異様すぎて、現実として受け止めるには、あまりに酷すぎた。
そのとき、誰かがそっと僕の肩に触れた。
「これは“奇跡の再現儀式”だ」
フワリとした独特香りが、鼻をさす。
(この、匂いは——)
「…アー…ディー、司教」
喉が渇いて、名前を呼ぶだけで精一杯だった。
いつもと変わらぬ穏やかな表情。だが、その瞳だけは、深い底なしの冷気を湛えていた。
「この儀式によって、真なる神の代弁者が完成する」
視界の隅で、壇上のザインが微かに身じろぐ。鎖の鳴る音が、鈍く響いた。
(先生はまだ…生きてる)
「何の……儀式っていいました?冗談ですよね? ……司教様ってユーモアの授業、受けてないんですか?」
僕の皮肉は、香煙の中に虚しく溶けていく。
誰も笑わなかった。いや、誰も感情を持っていないかのようだった。
「私から話そう」
聞き覚えのある声に、びくりと肩が震える。
振り返ると、静かに歩み出てきたのは、
(——お養父様)
「一体…どうなって」
「…ザインは神に最も近い“肉体”を持つ者だ。君のそばにいさせたのも――すべては、この日のため」
「……嘘だ……先生は……そんなの、知らなかったは…ず…」
問いの続きを言おうとして、喉がつっかえた。
お養父様の目に、僕が知っている、優しさが、ない。
「……ウーア。彼の心臓を、食べなさい」
「…………え?」
「それが真の“神の代弁者”の儀式。神々すべての力をその身に宿すには、“器”を取り込まねばならない」
「は……いやいやいや。ちょっと待って。
心臓って、臓器の? 食べるって、比喩じゃなくて……?」
「比喩ではない。実体を、魂ごと、受け継ぐのだ」
「バカ言えよ……そんなことしたら、先生は……二度と生まれ変われないんだよ!? 完全に……消えるんだ……!!」
「神の道を知る者にとって、転生など必要ない」
「っ……!」
僕の前で、神父たちがザインを押さえ、祭司がナイフを構えた。銀に光る刃が、香煙の揺らめきの中で鈍く煌めく。
ザインは、声を上げなかった。
ただ静かに、僕を見ていた。
血に濡れた顔で、乱れた前髪の隙間から。
その眼差しは、不思議なくらい澄んでいて、怒りも、怯えも、ない。
あるのは、ただ一つの——覚悟。
「やめろ……やめてよ……やめてくれええええええええッ!!」
叫んでも、誰も止まらない。
ザインが、血まみれの顔をこちらへ向けて――微笑んだ。
「ウーア……君は、生きるんだ。神などいなくとも――君自身の力で……」
その瞬間、ナイフが振り下ろされ、世界が裂けた。
ただ――僕に手渡された、温かい塊。
まだ脈を打つ、“生きた心臓”。
「……っ……うっ……おえっ……!」
僕はしゃがみ込み、吐いた。
世界のあらゆる理不尽が、胃の底から逆流してくるようだった。
「これが“神の器”だ。さあ、ウーア。口を開けなさい」
神父たちが僕を押さえつける。
「や、やめろ……やだ……やだっ……!」
――でも、抗えなかった。
唇に触れた瞬間、全身を焼く激痛。
時間も音も空気も、止まってくれなかった。
(ふざけんな……何が“神の器”だ)
(僕は、そんなもんのために生まれてきたんじゃない)
(…“神”なんて、クソくらえだ)
あれから、どれくらい経ったのだろう。
時間の流れさえ、もう思い出せない。
ここに閉じ込められて、何日? 何年? 何十年……?
カレンダーも、日差しもない世界じゃ、数えるのもバカらしい。
(……なんで、僕には奇跡が使えないんだ)
最初はみんな、優しかった。
「きっと明日には奇跡が発現するよ」なんて、笑って。
でも、僕が“失敗作”だと分かったとたん、手のひらは華麗に反転。
気がつけば、知らない教会の地下牢。
子ども一人、ぽつんと、神様のゴミ箱へ投げ捨てられていた。
「奇跡を使え!」
「神の代弁者だろう!」
「力を授けたのだ。無駄にするのか!」
殴声とともに、腹に鈍い衝撃。
肺の空気が一気に抜け、声も出なかった。
次の瞬間、頬に平手が飛ぶ。鉄の指輪が皮膚を裂いた。
口の端から血が滲むのを、僕は舌でそっと拭う。
(ああ、今日も、か。……僕に聞かれてもね? 説明書も貰えなかったんだけど)
肩を蹴られ、床に転がる。背中を打った石の感触が冷たい。
体のどこかが折れた気がしたけれど、泣く気にもなれなかった。
僕は牢の中で、ひたすら耐える。痛い。苦しい。
それでも、声は出さなかった。出せば、もっとひどくなると知っていたから。
(神さま……沈黙って、そんなに美徳なんですかね)
ザインの声が、遠く頭の奥で微かに揺れた。
――「信じるかどうかは、君が選ぶことだよ」
(……僕が、“選ぶ”?)
ふと、壁の向こうから声がした。
「まだ解放してはだめなのですか? 子どもですよ!」
「“子ども”だからこそ、失敗は許されない。奇跡が使えなければ、意味がない」
――遠くから聞こえる、ぼやけた声。
だが、言葉の棘だけは、はっきりと刺さった。
「しかし!誰がやったのか…痣が増えている。骨も、折れているかもしれない……! 教皇様は何をお考えなのです!? こんな牢に閉じ込めて、体罰まで……これはもう、拷問です!」
「教皇様のお考えは分からん。だが、神の代弁者の失敗作など、どうなろうと知ったことか。我らの使命は“神の声を聞く者”を育て上げること。それ以外の感情は不要だ」
無機質な足音が、石の床に淡々と響き、やがて遠ざかっていく。
静寂の中、不意に聞こえたのは、かすれた、弱々しい声だった。
「ウーア君……すまない……今の私では、君を守れない……」
その声をかき消すように、教会の鐘が高く、重く鳴り響いた。
ゴォン……ゴォン……
その音は、まるで終焉を知らせるかのように響く。
「火事だ! 教会が燃えているぞ!!」
神像が崩れ、叫び声と怒声が交錯し、牢にも混乱が届く。
「異教徒どもが侵入したらしい! 鐘を鳴らせ! 聖遺物を運び出せ!!」
扉が開き、誰かの腕が僕を無理やり引きずり出した。
「ウーア! 今こそだ、使ってみろ。お前は神の代弁者なのだろう?」
「そうだ、祈れ! 炎を鎮めよ! 街を救え!」
がたがたと震える腕を押さえつけられ、燃える祭壇の前に突き飛ばされる。
「……っ……やだ……やめろ……もう……!」
痛い。熱い。息ができない。
(“神の代弁者”って、こういう意味だったっけ?)
神像が崩れ、神父たちの祈りは叫びに変わる。
でも、奇跡なんて起きなかった。
「ぐっ。ザイン……ザイン……」
呻くようにその名を呼んだ。
赤に染まった視界の中、崩れかけた聖堂の奥から、誰かが歩いてくる。
黒い法衣。金の刺繍。
でもその姿は、炎よりも冷たく、闇よりも遠かった。
「……アーディ……司教……?」
かすれた声が漏れた。
なのに、彼の瞳は氷のように澄んで、何の感情も浮かべていなかった。
「……司教、か。ウーア。奇跡が使えないことに、驚いているのだろう」
彼はゆっくりと近づきながら言った。
「君は、ただの神の代弁者ではない。ザインは、それを知っていたはずだ」
「……え……?」
「君がザインの心臓を継いだとき、確かに神性は芽生えた。
だが、誤算だったのは、君という“器”が未完成のままだという事だ。
神の力を振るうには――もはや人間であってはならない。
“神そのもの”でなければ、意味がない。」
(……は?)
「ウーア。君の心臓こそが、神の核だ」
アーディはそう言って、ゆっくりと微笑んだ。ただの形だけの、仮面のような微笑。
その手には、鈍く光る儀式用の刃物が握られていた。
「や、め……やめて……ザインが……! ザインが僕に……命を……!」
アーディの足音が近づいてくる。
コツ、コツ――、一歩、また一歩。まるで逃げ道を塞ぐように、ゆっくりと、確実に。
体が震える。足がすくんで、声すら出ない。
彼の吐息が肌を撫でる距離まで来ていた。
「その命を、私は継ぐのだ」
——ぐちゃっ。
鈍い音がした。
鋭い鉄が、胸を裂いた。皮膚が裂け、肉が割け、熱いものが噴き出す。
「う、ぁ……あ、が……」
空気が肺に届かない。視界が、霞み、滲んでいく。
呻くことすらできず、ただ、足元の床が遠くなる。
重力が消えたように、身体がふわりと浮いて――いや、落ちていた。
血が噴き出し、世界が遠ざかっていく。
「これでようやく、私は……“神”になるのだ」
狂った信仰、歪んだ慈愛。神を喰らう、男の顔。
……僕、まだ……先生と……話したかったのに。
――「ウーア……君は、生きろ」――
……先生。ザイン先生。
こんな世界のために、あなたは死んだんですか?
――「君は……自分で選ぶんだ」
……選ぶ、ね。
じゃあ、僕は、選ぶよ。もう、もう僕は……
………神なんて、いらない。
静かに、目の前が闇に沈んでいく。
その日、僕は――確かに、死んだ。
これは、神が少年を見捨てた日。
けれど――
本当は、少年が神を見捨てた日だった。