20話 無駄な事なんてない、全てが未来の礎なんですよ
「こっちよ!……この階段を、下りていくの」
案内する女の名は、レア。
年のころは二十前後。彼女は地下の闇に慣れた足取りで先を行く。
「で、なんで貴方が“黒髪のデニス”に会えるんだ?」
アルヴィーが眉をひそめて訊いた。
「昔、命を助けられたの。その代わりに……“記憶”をひとつ差し出した」
「記憶?」
「うん。“自分を憎んでいた理由”を忘れさせてもらったの。不思議でしょ。今はただ、助けられたことしか覚えてない」
僕は、しんみりとした眼差しで彼女を見つめた。
「誰かの痛みを……“忘れさせる”力……」
「それが優しいとは限らないけどね」
レアはふっと笑って、ふり返る。
「──ねえ、あんたが“もう一人のウーア”なんでしょ?」
「はい。でも、僕じゃありません。“通り魔ウーア”と呼ばれてる人は──」
「知ってる。“鏡合わせの子供”。デニス様が、そう呼んでいたわ」
「……!」
イーリスが、小さく息を呑む。
「──この奥。“思い出の墓”がある。デニス様は、今そこで待ってる」
レアが指差す先は──石造りの、ひっそりとした小祠。その周囲には、名もなき墓標がいくつも並んでいた。
だが、それぞれに名前ではなく──まるで詩のような言葉が刻まれている。
「ここに眠るは、“おかえり”を待っていた声」
「忘れられた“左手のぬくもり”」
「“誰かを殺した罪悪感”」
「……これ、全部……」
「“記憶”の墓標よ」
レアが、静かに答えた。
「ここに来た人は、自分の記憶の一部を“置いて”いく。なにかを得るために、その代わりとして」
「ずいぶん変わった商売だな……」
アルヴィーが、ぼそっと呟いた。
そのとき──。
ゴンッ!
祠の裏手で、突然地面が跳ねるような音が響いた。
「──ふん! わらわを呼びし者よ、出てくるがよいのじゃっ!」
廃材の山をドカッと蹴飛ばし、現れたのは──小さな女の子だった。
ふわふわの黒髪に、真っ青な瞳。黒のフリルてんこ盛りのドレス。妙にゴージャスなステッキを手に、どや顔で立っている。
「お、お子さま……?」
イーリスが思わず声を漏らした。
「誰が子どもじゃ!! わらわこそ、“黒髪のデニス”じゃ! 心の記憶を視る者じゃ!
さあ敬え、ひれ伏せ、ぺたんと座るのじゃ~!」
「ぺ、ぺたんて……」
だがなぜか、僕は言われた通りにぺたりと座った。
つられてイーリスもぺたん。
残ったアルヴィーだけが腕組みで鋭く睨みつけている。
「……久しいな、元アポステル様」
「ひ、ひぃぃ!? な、ななななぜ貴様がここにおる!?
わらわはもうアポステルじゃないのじゃ! 無駄じゃぞ、連れ戻されはせぬぞっ!」
「連れ戻すつもりはない。力を借りに来た」
「……なにぃ! 貴様が! わらわに!?」
デニスはくるくる回ってジャンプする。
「おぬしら、“通り魔ウーア”の情報が欲しいのじゃな?
ふっふっふ。あの者の記憶、わらわ、一度だけ覗いたことがあるのじゃ!」
「ほ、ほんとうに……!? 」
思わず前のめりになる僕。
「そうじゃ! あやつはわらわと共に、神に仕えておった!」
「えっ、それって……通り魔ウーアもアポステルだったってこと──?」
「いや、あやつは違う。
アポステルに憧れた、ただの影法師じゃ」
デニスはくるりと顔を寄せてきて、ひそひそ声でささやく。
「……でもの。あやつの心には深くて暗い傷があったのじゃ。
ひとりの名を、何度も何度も──まるで呪いのように繰り返しておった……」
「……」
僕は押し黙る。
だが次の瞬間!
「──まあそれはさておき! 情報が欲しければ対価を払うのじゃっ!」
「対価って……まさか、記憶……?」
「そのとおり! しかもなっ……」
デニス、ステッキをびしぃ!と構えて叫ぶ。
「わらわが欲しいのは、“恥ずかしい記憶”じゃ~~っ!!」
「なんで!?」
「恥ずかしさを晒してこそ、真実は近づくのじゃ! わらわ、今いいこと言ったのじゃ!」
デニスは満足そうにうんうんと頷く。
「はいウーア、お主からいくのじゃ。幼少期の黒歴史、オープン・ザ・ブレイン!!」
「えええええええ!!??」
デニスのステッキがピタリとウーアを指す。
「……ええと……恥ずかしい、記憶……」
僕は指先を唇に添えて、静かに思案する。その顔は真剣そのもの。まるで神の黙示録を解読するかのような神妙さ。
──沈黙。
──さらに沈黙。
「……すみません、どうやら……」
「どうやら?」
「一つもありませんでした!」
「一つも……って……おい、真面目に探したのか?」
アルヴィーが思わず割って入る。
「はい。ありとあらゆる過去の記録を、論理的かつ網羅的に再確認しました。
幼少期、教会で神学問答に勝利した日、七歳で三つの予言を的中させた日、九歳で裁判官を論破した日……
いずれも“恥ずかしい”という感情とは無縁でした」
「自慢話の棚卸しじゃないかっ!!」
デニスが存在しない机を叩いた。
「いや、でも一度だけ──」
「おお!?恥ずかしみ!?恥ずかしみ来るのか!?」
「……馬から落ちたことがあります」
「ほう……それは期待でき──」
「落ちた姿勢が美しかったので、近くの羊飼いの老婆に“空を舞う天使みたい”って言われました!」
「だめじゃああああああああああああああ!!!」
ガシャーン!デニスが墓石に突っ込んでいった。
僕はキラキラと瞳を輝かせたまま、首をかしげる。
「……あれ?僕、何かやっちゃいました?」
「やっちゃってるわ! わらわの精神が粉砕されたわ!!」
「なんという強靭な自尊心……」
イーリスがぽつりと呟く。
「むしろ清々しいな」
アルヴィーもつい笑ってしまう。
デニスは僕の目の前に立ち、赤い瞳をキラリと光らせる。
「どうしても恥ずかしい記憶がないというのなら──わらわが見つけ出してくれるのじゃ!」
「えっ、まさか──」
「そうじゃ! 額と額を……こう! ぴとっ!」
「うわっ、近っ!?」
デニスはちんまりした身体で背伸びしながら、僕の額に自分の額をピタリと合わせた。
「いざ、記憶解放……!」
ぐるぐると空間が歪み、僕の脳内が映像となってデニスに流れ込む。
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【映像1:ウーア(7歳)、手紙で号泣事件】
修道院の庭園。昼下がり。
少年がもじもじしながら手紙を差し出す。
『あ、あの……これ。よかったら……』
ウーア、手紙を受け取って開く。
中にはつたない字で「いつもありがとう」の文字。ヘタだけどかわいい絵も添えられている。
『……これは……!』
突然、ウーアが地面に崩れ落ち、手紙を抱きしめながらわんわん泣き始める。
『ああ……! 神よ……! この世界に、こんなにも尊い手紙が存在するとは……!』
通りすがりの神父たちがざわめき出す。
『この手紙はきっと、“奇跡の写本”として後世に残すべきです!!』
『ちょ、やめて! 黙って捨ててもいいから!!』
『いや! これは聖典だよ!? せめて祭壇に──』
『やめてってばあああああ!!』
「人の黒歴史を量産しとるーーーッ!!」
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【映像2:ウーア(8歳)、神殿で服を着ずに乱入】
煌びやかな神殿のホール。
神官たちが厳かな祈りを捧げる中──扉が音を立てて開き、ひとりの少年が姿を現す。
『誰だ!?』『服を……着ていない!?』
ウーア、上半身裸で堂々と壇上へ。
『皆さま、本日のテーマは──“服ではなく、徳をまとう”です』
背後から天使の合唱が響く。
『着飾ることで隠される心の弱さ。だからこそ、私は──裸でここに立つ!』
観客一同、騒然。老神官は涙を流す。
『こ、これが……徳の具現化……!』
『ハ……ハックショーン!!』
その時、ウーアのくしゃみで天井のほこりが舞い、ステンドグラスから差し込む光が、偶然、聖書の一節を照らす。
『……光が……!』『“来たれ、真理の風”って書いてある!!』
『これ……神の啓示では!?』
『違います! 今のは、ただのくしゃみです!!』
『ウーア、その鼻……聖職者向けかもしれん……』
『鼻はやめてくださいぃ!!』
「服着てないのに株が上がっとるぅ!? どういう世界線じゃーーー!!」
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【映像3:ウーア(9歳)、告白未遂事件】
夕暮れの修道院の庭園。
ウーアは一輪のバラを手に、少女の前へ歩み出る。
『……君の瞳は、神の言葉がまだ書かれていない聖書の余白みたいに、静かで、美しいんだ』
『えっ……?』
『僕と……一緒に、神学書を読みませんか?』
『そ、それって……もしかして……?』
『告白です! 神学的な!』
顔を真っ赤にして走り去る少女。
──その夜、修道院で話題騒然。
『ウーアが“神学”で告白したらしい』
『“啓典プロポーズ”は前代未聞』
『ついに宗派が分裂するのか?』
一方その頃、ベンチで落ち込むウーア。
『……詩をアレンジしたのがまずかったかな……』
となりに神学教師が座る。
『いや……むしろ、詩情があった。心が洗われたよ』
『やっぱりそうですよね! じゃあ次は──もっと長めの説教文で挑戦してみます!』
「プロポーズで“布教”するなぁぁぁ!!」
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デニスはよろめきながら額を離す。髪は逆立ち、顔色は蒼白。青い瞳もうつろだ。
「わ、わらわの常識が……粉々に……」
僕はまっすぐデニスを見つめ、優しく問いかける。
「役に立ちましたか?」
「魂が持ってかれそうになっただけじゃ……!」
イーリスは背を向けて震えて笑いを堪えている。
アルヴィーは無表情で言った。
「これは、……栄光の列伝か?」
僕は胸に手を当て、顔を誇らしげに上げて、堂々と頷いた。
「過去は、未来の礎です」
アルヴィーはしばらく無言で僕を見つめていたが、
やがて視線を少しだけ下に落とし、静かに口を開く。
「……ヴルストも覗きも、未来の礎か?」
問いに込められた皮肉に、僕は一瞬だけきょとんとした。
でもすぐに、全力の笑顔で答える。
「もちろん、そうに決まってるじゃないですか?」
アルヴィーは頭をかきながら、やや目を伏せる。
その目元には、わずかな疲労と諦念の色がにじんでいた。
「ウーア君……君はもう少し恥じらいを持ったほうがいいかもしれん……いや、ない事こそ君の美点なのか……」
ぼそっと呟かれた言葉に、僕は悪びれる様子もなく、にこにこと笑った。