15話 僕の名声を汚さないでください!
パンを分け合いながら、三人は街の奥にある小さな宿にたどり着いた。石造りの外壁に木の看板、入り口には鉢植えの花。こじんまりとしていながら、どこか懐かしさを感じる場所だった。
「ここ、よさそう。人の声もやさしい」
「うん。たぶん、ご飯も……美味しそうです!」
受付の女将に案内され、僕たちは二階の角部屋に通された。ベッドは二つ。が、当然のようにイーリスが宣言する。
「ウーアと一緒に寝るからいいよ!」
即答。僕は耳まで赤くなった。アルヴィーは「健全だな」と笑っていたが、たぶん全部わかっていて言っている。油断も隙もない。
「はぁ!? ウーアが通り魔!?」
夜。宿屋の食堂の片隅。アルディーが声を荒げた瞬間、木製の椅子がぎしりと音を立て、隣の席の男がチラリとこちらを見た。
「しっ……! だから、僕の名前を……呼ばないでください」
僕は顔を伏せ、慌ててアルディーの袖を引いた。
「……何それ、どうして、そんな……」
イーリスが震える声で呟いた。手にしたスープの器がわずかに揺れて、中の液体が縁からこぼれそうになっている。
「……神を裁く者がらみか。あるいは、王都の仕込みかもしれないな」
アルディーが低く唸るように言った。
僕はスプーンを握りしめ、俯いたまま首を振る。
「とにかく、今は騒ぎを起こさないこと。名前を出されるだけでも危険です。疑われたら、終わりです……」
誰かが聞いていたら、宿の人に気づかれたら——その先を考えたくもなかった。部屋の隅に置かれた灯火が、ゆらりと不安げに揺れた。
食事を終えると、アルヴィーは書棚から適当な本を抜き、椅子に座って読みふけっていた。イーリスはベッドの上で、買ったばかりの布をちくちく縫っている。僕は、窓辺に座った。
静かだ。騒がしい日中とはまるで別の場所のように、夜はどこかよそよそしい。
(……落ち着かない)
王都へ向かう道は、すでに見えている。でも、その先に何があるかは、僕にも分からない。
(王都は、僕を待ってるのか……罠として、待ち構えてるのか)
「ウーア、まだ考えてるでしょ」
イーリスの声に振り返ると、彼女が手にした小さな布袋を差し出してきた。
「何ですか、これ?」
「変装セットその2。……っていうのは冗談で、お守り袋だよ。ウーアの服の布、ちょっと切って使っちゃった。ごめん」
中にこめられていたのは、ごく薄い奇跡の気配。
「ありがとう」
「ううん。でもね、ウーア……」
イーリスの声が少しだけ低くなる。
「もし誰かに、“通り魔”とか言われても……わたしが居るから。絶対。だから、ひとりで決めないで。怖くなっても、黙って消えないで」
彼女はそう言って、まるで照れ隠しのようにベッドに飛び込んだ。
僕はしばらく、手元の布袋を見つめていた。奇跡のぬくもりは、ほのかに指先に残って、あたたかかった。
(──通り魔。目的は、おそらく僕を“陥れる”ため)
それが王都の人間なら、王都に入った時点で、もう終わっているかもしれない。
けれど。
(行くしかない。始まりの地へ)
その時、不意に空気が変わった。
窓の外、石畳の通りの奥で、一瞬だけ“風”が揺れた。いや、違う。誰かの“気配”だ。
(……見間違い? いや――)
足音を立てぬように、僕はそっと窓を開けた。
路地の向こう、薄闇の中。
人影がひとつ、こちらを見上げていた。
(僕を、知っている?)
男はフードを深くかぶっていた。
顔は見えない。けれど、気配だけは……やけに馴染みがあった。
次の瞬間、影は身を翻し、裏通りの闇へと消えた。
気配も、空気の濁りも、すべてを引き連れて。
その夜、夢の中で誰かが僕を呼んだ。
暗い。濃い霧の中に、一歩ごとに靴音だけが響く。
ここは夢の世界でも記憶の中でもない。もっと深いところ――誰かが、僕に触れようとしている。
見えたのは、一対の瞳。
鏡のように澄んでいるのに、何も映さない目だった。まるで、魂そのものを模したような。
――僕と、似ている。
「ウーア」
名前を呼ばれた気がして、はっと目を覚ます。
窓の外、遠くで鐘の音が鳴っている。時刻は、深夜を少し過ぎた頃だった。アルヴィーは椅子で本を開いたまま寝ており、イーリスは僕の隣で丸まって眠っている。どこかに行こうとして、僕は思いとどまった。
(“何か”が、僕を見てる。‥…僕の名を使って、人を傷つけてる)
僕の名。僕の噂。そのすべてを巧みに利用しながら、誰かが街で女ばかりを狙っている。
(止めなきゃ。もし……これが続いたら、誰も“本物の僕”を見ようとしなくなる)
イーリスが寝返りを打ち、僕の袖を無意識に掴んだ。
……そうだ。誰にも、何も、奪わせない。
僕はそっと立ち上がり、窓から外を見下ろした。夜の通り。灯りの消えた街角。その向こうで、“もう一人のウーア”がどこかを歩いているんだ。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。淡く、静かで、優しいはずの光。けれど、なぜか落ち着かない。
「……ん~……おはよう……」
イーリスの寝ぼけた声が、ベッドの上から聞こえた。髪が少し跳ねていて、まぶたをこすりながら、僕の方を見て笑う。
「……あれ、ウーア、もう起きてたの?」
「うん。少し前に」
「昨日、あんなに歩いたのに……すごいなあ」
イーリスが伸びをする。となりの椅子では、アルヴィーがまだ眠っていたが、その声に反応したように、目を細めて起き上がる。
「……朝か。なんだか騒がしいな」
アルヴィーがつぶやいた。耳を澄ますと、確かに外から声が聞こえる。
僕は立ち上がり、窓を開けた。
外では、何人かの衛兵が通りを行き来していた。町の人たちも集まって、ざわざわと噂話を交わしている。中には泣いている女性の姿もあった。
「……何があったんだろう」
イーリスも窓辺に寄ってきて、心配そうに顔をのぞかせる。アルヴィーは、窓際の光に顔をしかめながら、小さくため息をついた。
「事件、だな。どうやらまた“通り魔ウーア”が出たらしい」
「……え」
僕は何も言わなかった。ただ、胸の奥がじんと冷たくなったのを感じた。
(――また、僕の名前)
否応なく、意識の底がざわめく。昨夜、感じた“気配”が現実になった。
「……僕、少しだけ見てくる」
「ウーア?」
イーリスの声が追いかけてきたが、僕はそれには答えず、そっと扉を開けた。足音を忍ばせて階段を降りる。
朝食の準備には少し早い時間。宿の一階は、まだ静まり返っていた。
(もし、あれが“僕”のふりをしているだけなら……)
(いや、違う。僕は知ってる。あの目を、あの空気を…)
昨夜、この街のどこかで、誰にも気づかれずに血を流した“誰か”がいる。
その犯人は、僕に似ている“もう一人の僕”。
「待て」
背後から、低く落ち着いた声。
振り返ると、アルヴィーが壁にもたれて立っていた。すでに支度を整えたその姿は、目覚めたばかりの朝の空気にそぐわぬほど、冴えた気配を放っていた。
「アルヴィーさん……」
「情報収集にうってつけの場所に、心当たりがある」
その言葉に重なるように、軽やかな足音が階段を駆け降りてくる。
「わたしもいくよ!」
イーリスが寝癖を慌てて直しながら飛び出してきた。まだまぶたに眠気を残しながらも、しっかりと僕を見つめている。
「ありがとう、ございます」
そう言った僕の声は、朝の空気に溶けて、かすかに響いた。