11話 僕が幽霊の可能性も出てきましたね
宿の入口に差しかかったとき、牧師はふと足を止めた。
「……妙ですね。この宿、外からはずっと“空き家”のように見えていたのに」
「まあ、実質そんなもんですよ。観光客も減ってるし、今夜の宿泊客は僕らだけですし」
僕が肩をすくめて答えると、牧師は「なるほど」と穏やかに笑い、軋む音とともに扉を押し開けた。
中はしんと静まり返っていた。
時間が止まったような空間。埃も匂いもないのに、どこか──息が詰まる。
「……寒いね」
イーリスが小さくつぶやく。
「私、お父さん呼んでくるね。皆さんは、どうぞごゆっくり、です」
ぱたぱたと奥へ駆けていくイーリスを見送りながら、アルヴィーは無言で壁の古びた祈祷文を見つめていた。
そのとき、牧師がふとこちらを振り返る。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」
胸元から銀の小箱を取り出し、恭しく開いて見せながら、男は言った。
「ノルベルト・シュタウファー。“銀杭派”の巡察牧師です。忌まわしきものの痕跡を──杭で封ずるのが、我々の務めです」
「……銀杭派……」
アルヴィーが低く息を呑む。
「もっとも、ここに“悪魔”や“魔女”がいると決めつけて来たわけではありません。ですが、“神の残響”があるのなら話は別。丁寧に、穏やかに──傷つけずに、それを確認しに来ました」
その口調はあくまで穏やかだったが、空気はひやりと張り詰めた。
──そのとき、奥から階段を上がってくる重い足音が響く。
「──おや、牧師様でしたか」
現れたのは、イーリスの父だった。
「夜分に失礼いたします。少しお話を」
「いやいや、ありがたいこって……最近は変な音が続いてましてねぇ。お客もすっかり減っちまって……」
「音、ですか……なるほど。それは調査の必要がありますね」
「今日は神父様に牧師様まで……心強いったらありません。お部屋の準備をしますので、少しお待ちください」
そう言って、イーリスの父は背を向けた。
その隙に、アルヴィーが低い声で問う。
「……牧師様。何をなさるおつもりです?」
ノルベルトはふと肩をすくめ、軽い口調で答えた。
「ただ、しばらくこの宿を借りたいだけですよ。“外”にこれ以上“溢れ”が出ないように、ね」
「見張る、ということですか」
「ええ。祈りも杭も、使い方次第で毒にも薬にもなる。……とくにこの宿屋は、“入口”に近すぎる」
僕の心臓が、どくりと跳ねた。
まるで、胸の奥で“何か”が身じろぎしたような──そんな感覚。
「……ねぇ、ノルベルトさん」
そっと問いかける。
「あなたが封じようとしてるものって……本当に、悪いものなんですか?」
ノルベルトの目が一瞬だけ、わずかに陰る。だが次の瞬間には、またいつもの飄々とした笑みに戻っていた。
「……さあ。善悪を裁くのは我々ではありません。神だけが、それを定めるのです」
その言葉が落ちた瞬間、部屋のどこかで古時計が静かに時を刻んだ。
ひとつ、またひとつ。沈黙のまま、時間だけが流れていく。
やがて、イーリスが戻ってきた。
「もうすぐお部屋の準備が整います。……お茶、どうぞ──あっ」
彼女の足がぴたりと止まる。ノルベルトの手元の小箱から微かに立ち上る、“銀”の匂い。それに、気づいたのだろう。
「……それ、“杭”ですか?」
「ええ。礼拝の道具でもありますが、“迷える魂”には時に必要なものですから」
ノルベルトは柔らかく答え、椅子を引いて腰を下ろす。だが、その背筋は最後まで崩れなかった。
まるで、彼の背後に──“見張る何か”がいるかのように。
僕は部屋に戻ったあと、静かに窓の外を見つめていた。
曇ったガラス越しに、夜のレゾナ街が滲んでいる。
「……ねぇ、アルヴィーさん」
「……なんだ」
「銀杭派って……やっぱりヤバいんですか?」
背後で寝台に腰を下ろしていたアルヴィーが、小さくため息をつく。
「“ヤバい”って単語、いろんな意味で便利だけどな……だいたい、どれにも当てはまる。あいつらは」
「つまり、フルコンボってことですね」
「そうだな。理屈は通じん、祈祷で物理攻撃もしてくる。杭を抜くより話を聞けと、思う時もある」
「物騒ですね、信仰って」
「君が言うか」
僕は小さく肩をすくめて、また窓のほうへ目を戻す。
「……“神の残響”って、かつて人間に殺された神の一部、でしたよね」
「ああ」
「じゃあ、ノルベルトさんが言っていた“魂”って、それのことで……神ってことは……僕と同じ、アポステルだった……?」
アルヴィーは答えず、じっとこちらを見る。
「……ウーア。さっき、胸に手を当ててたな」
「え、あ、うん……」
「ノルベルトが“入り口に近い”って言った時、顔色が変わった。何か──感じたんだろう?」
僕は、少し考えてから、こくりと頷いた。
「……なんというか、懐かしい感じがして……。あの杭……“あっ、こいつ見覚えある!”みたいな。いや、ないはずなんですけど」
「君は……また意味深なことを……」
アルヴィーは額を押さえて、小さくうめいた。
「すみません。でも、怖くはなかったんです。むしろ……落ち着くというか……」
「落ち着くって……銀の杭にか……?」
「はい。なんか、“昔、自分に使われた気がするなー”って……なんでですかねぇ…」
「なんで君はそこまで気楽なんだ……」
アルヴィーは深くため息をつき、それから真剣な顔で僕を見た。
「……本気で言ってるのか。自分が、“封じられる側”かもしれないって」
(封じられる…側)
視線を落として、考え込む。無意識に膝の上で指をいじっていた。
「たぶん、そうなんです。幽霊みたいなもんですよ、今の僕。見た目はちゃんとしてるけど、中身はけっこうスカスカかも」
口にした自嘲の言葉が、喉の奥で少し震えた。
それでも笑おうとした顔は、どこか無理に引きつっていた。
「その自虐は笑えん」
「まぁ、アルヴィーさんが怖がってるなら、僕もちゃんと伝えておきたいなって……」
「……怖がってなんかない」
アルヴィーは吐き捨てるように答えた。
「えっ、じゃあめちゃくちゃ眉間にシワ寄ってるのは……?」
「これはな、あれだ。……この部屋が乾燥してるせいだ。目にしみる」
「言い訳が雑!!」
軽やかに突っ込むウーアの声が部屋に響くと、ようやくアルヴィーの頬がほんのり赤く染まった。
「……明日は街の中と、外にも行く」
机の上に置かれた地図の端を、彼の指が軽くなぞる。
「はい」
真面目な顔でうなずいたが、その目尻が緩んでいるのをアルヴィーは見逃さなかった。
「……なに笑ってる」
「いや、“目にしみる”はちょっと無理が……」
からかうつもりはなかったが、その素直すぎる反応が余計に笑いを抑えられなくなる。
「寝ろ。除霊するぞ」
「やっぱり物騒じゃないですか、信仰って!」
布団に身を投げながら返すと、アルヴィーはひとつ小さくため息をついた。だが、その表情には、わずかに口角が上がったような気配もある。
部屋の空気が、わずかに緩んだ。