10話 物好きで命知らずな僕と仲間たち
裏路地はあまりに静かで、かえって不自然だった。
虫の声も風の音もない。ただ、どこからともなく──
「……ああ……ああぁ……」
歌とも呻きともつかない低い声が、耳の奥に響いていた。
「まるで……街全体が、うなってるみたいだ」
僕が呟くと、アルヴィーが足を止める。
「……この音、建物に反響してる。つまり、“声の主”は動いてるな」
「動いてる!?散歩してるの!?」
「いや、これは──」
そのときだった。
──ぐにゃり。
足元の感触が一瞬、変わった。
石畳の下を“何か”が這ったような違和感。靴の底越しに、ぬめるような感触が脳髄まで這い上がってくる。
「っ……!」
振り返ると、石壁がまるで呼吸でもしているかのように、ふくらみ、そしてへこんだ。
「……これは、空間そのものが生きてるぞ!」
その時。
「やめて……!」
小さな声が響いた。
イーリスだった。両手で耳を塞ぎ、苦しそうにうずくまっている。
「だめ……来ちゃだめ……この街は……まだ、ちゃんと……」
彼女の足元の石畳が、ふっと淡く光を帯びた。
同時に、壁を這っていた黒い気配が、ぴたりと動きを止める。
「……今、イーリスが何か……?」
「いや。何も“してない”。けど……“起きた”な」
イーリスの周囲だけ、まるで空気が澄んでいるように感じた。
「……あれ、私……なにか……?」
「イーリス君、……この街に“好かれてる”な」
「えっ、えぇ……? なに、それ……」
「たとえるなら、他人にはツンツンな街が、貴方にだけデレてる感じだ」
「例えの意味が分からないんだけど……」
「ごめん、僕も分かんない」
「つまり……」
ごほん、と咳払いをしたアルヴィーが前を見たまま言った。
「空間の歪みが、イーリス君を中心に安定してる。……もしかすると貴方が“この街の神の代弁者”かもしれない」
「アポ……ステル……?」
イーリスは目を見開いた。
「でも……この街にはもう神の代弁者がいて、…今は——」
その時だった。
路地の奥。朽ちかけた水路の先から、何かが現れた。
ぐにゃりと歪んだ“影”。人の形をしているが、顔がない。ただ、無数の“目”がある。
その目は呼吸するように、空気を吸い込み、音を飲み込んでいった。
「……っ、影の捕縛者……!」
「やはり来たか」
目がこちらを向いた。
“何か”が、イーリスを見ている。
そして──動いた。
「来るぞ!」
アルヴィーが構えた、その瞬間。
「や……やだ……来ないで……!」
イーリスの叫びが、影を弾いた。
空間に波紋が広がり、影の体が崩れかける。
「やっぱり……貴方の“声”が効いてる。この街を守ってるのは、貴方の“意志”だ」
「で、でも……私、なにも分かってなくて……!」
「分からなくていい。今は、“守りたい”って気持ちが、一番強い武器になる」
崩れた影は再び立ち上がるが、その体の一部から──“光る蔓”が生えた。
すると、影の体が街の一部に還るように、静かに溶けていく。
その中から、何かが──こぼれ落ちた。
それは、黒い殻に包まれた、拳ほどの大きさの“かたまり”だった。
ひび割れた殻の内側から、うっすらと光が漏れている。
「……これは……?」
僕が手を伸ばしかけた瞬間、アルヴィーが腕を押さえた。
「待て。不用意に触るな」
「でも……あれ、何か“生きてる”ような……」
「生きてる、というより──“残ってる”。恐らく、“神の残響”の正体だろう」
「……これが神の……?なんで影の捕縛者から?」
アルヴィーは顔をしかめながらも、ゆっくりと前へ出る。
「…この“塊”は、かつて人間に殺された神の一部だ」
「……それって……」
「イーリス君、近づかないように。これは、貴方にも危ない」
「……あ……でも……」
イーリスがぽつりと呟く。
「……聞こえる。“ごめん”って……」
「……!」
「なんか……すごく、泣いてる声がして……ずっと、誰かに“ごめん”って……」
そのときだった。
かたまりの殻が──ぱきん、と音を立てて、割れた。
中から現れたのは、小さな花だった。
すると、イーリスの足元の石畳に光の蔓が生え、するするとその花をやさしく包みこんだ。
まるで、街そのものがそれを受け入れ、埋葬しようとしているかのように。
その瞬間、周囲に響いていたあの奇妙な低音の“うなり声”が、嘘のように止んだ。
風の音が戻る。空が明るくなったように思えた。
「……終わった、んでしょうか……?」
「“神の残響”は、な。だが──」
アルヴィーの声は、空気の奥で何かを感じ取るように、重かった。
「この街全体の“歪み”が、まだ消えていない……」
イーリスが、膝に手をつき、そっと立ち上がる。
「……やっぱり私……この街に、何か繋がってるのかな……」
「そうだな。今はまだ、はっきりしなくてもいい。……貴方の声が、この街を静かにした。それは、何より確かな証拠だ」
彼の言葉に、イーリスは少し戸惑いながら、それでもうなずいた。
「……あり、がとう」
その声は、かすかに震えていた。けれど確かに、自分の力を受け入れようとする意志が宿っていた。
「そろそろ戻ろう。今日は体を休めた方がいい」
アルヴィーの言葉に、僕とイーリスは素直にうなずいた。緊張の糸が少しだけ解けたようで、胸の奥にあった何かが、ふっと軽くなるのを感じた。
人気のない通りに出ると、夜風が頬をなでた。静かなレゾナ街の石畳に、三人の足音だけがこつ、こつ、と響く。
──それにしても、この街は……妙に静かすぎる。
「ねぇ、アルヴィーさん……この街、ほんとに観光地だったんですか?」
「以前はな。今この街に来るのは単たる物好きか、命知らずなだけだ」
「……僕たち、どっちに入りますか?」
「両方だ」
「……ですよねー」
そんなやりとりを交わしていると、前方の路地を曲がったところから、誰かが歩いてきた。
「すみません……道を、少し尋ねても?」
やわらかな声だった。
四十代半ばほどの男。神父のような黒衣に大きな黒カバンを持っている。
「宿を探していましてね。道に迷ってしまったんです」
「宿なら、この先です。一緒に向かいましょうか?」
僕がそう言うと、男は穏やかに笑ってみせた。
「それはありがたい。……ああ、失礼、そのお嬢さんは……」
男の視線が、イーリスに向かう。
「……え? わたし、ですか?」
「いえ……どこかで、お会いしたことがあるような気がして。……まるで、遠い昔に……」
「神父さん、それナンパですか?」
「いやいや…失礼しました。それと、私は“牧師”なのですよ。この辺りの地域ではまだ、“神父”と間違われるんですが」
「牧師……?」
僕が首を傾げると、アルヴィーが一歩前に出て口を開いた。
「牧師様が、こんな時間に?そのような大荷物で…一体、何の用です」
「いえ、ただ噂を聞いて……この街に“悪魔”や“魔女”が現れる、と。神父様は忙しいとのことで、代わりに私が様子を見に。
まぁ、神父様は頼りないから、という話もありますがなぁ…。…あっ、すみません、神父様の前でこんなことを」
男は肩をすくめて笑った。けれど、アルヴィーの視線は鋭くなっていた。
「チッ……」
──えっ!? アルヴィーさん、今……舌打ちした!?
無言のまま、アルヴィーは歩幅を調整し、僕たちの前に立つように位置を変える。そして、嫌悪感を隠すこともなく、牧師を案内する。
「こちらです。すぐ近くです」
「はは、助かります。それにしても、この街……静かで、幻想的ですね。まるで夢の中を歩いているような」
「……悪夢寄りですけどね」
「ふふ……辛口ですね、神父様は」
男は飄々と笑っていたが──
──その袖の奥で、誰にも見えない小さな“銀の杭”が、かすかに揺れていた。
まるで、なにかを封じ込めるように──風の音に紛れ、音もなく。