37.生きる喜び
それから俺はつぶ子と別れた事をケイとゼンに話したが、二人は三股しないなら降りると宣言していたにも関わらず最後に思い出作りにライブの日には参加すると言った。
そして俺はアイドルとしての芸名を乾拭キキではなく、本名の伽羅蕗稀樹で登録する旨をジョリーさんに伝える為に事務所の社長室でジョリーさんの面談した。
「POW、本名で芸能活動するなんて、どういう心境の変化Die?、乾拭キキの知名度はアイドルにも役立てると思ったけどNEN」
「演じるのはもう、終わりにしたいと思ったんです、乾拭キキは、この世界で生きて行く為に作り上げた偽りの仮面であって本当の俺じゃありませんから、だから乾拭キキはきっと、都合のいい嘘でファンの人達を騙す事になって、欺き続ける事になります、俺は、俺だけは、嘘をつかないアイドルでいたいって、そう思ったんです」
「なるほどNYA、正直でいたい、か、偶像を超えたアイドル、Hum……それも面白いかもNat、でもいいのかいキキボーイ、そしたら今よりファンの数は減るかもしれないし、正直なアイドルなんて誰も求めていないかもしれないYON」
「そうですね、きっと、ありのままの俺なんて、ファンが望む姿では無いでしょう、最後まで優しい嘘で、皆を騙し続ける方が優しいアイドルなのかもしれません、正直でいたいというのが、嘘を貫く覚悟を持てない弱さだとも分かっています、──────────でも、俺はアイドルの嘘から生まれた子供ですから、だから俺だけは嘘をつかないアイドルでいたいと思いました、この気持ちには嘘をつけませんから、だから、俺は、伽羅蕗稀樹が、アイドルをやりたいんです」
それが、〝望まれる子供〟である乾拭キキではなく、望まれない子供だった伽羅蕗稀樹がアイドルをやりたい理由だ、だからもしジョリーさんが反対したとしても、俺は別の事務所でやり遂げる覚悟があった。
「WOW、キキボーイ、もしかしてYou、MANKOでチェリーを卒業しちゃったKANA?、HANAZAWA?」
「・・・いえ、スキャンダルになるような行為はしませんし、未来永劫するつもりもありません」
「Ohn?、ならMeの勘違いだったかNYA、でも今のは本気で恋しちゃいそうないい目をしていたYO、Youの熱いパトスで貫かれちゃいそうだGINUS、キキボーイはきっと神話になれるGELION、例え世界がキキボーイを否定したとしてもMeだけはYouのファンで居続けるNEARTHAA」
こうして俺は乾拭キキの名前を捨てた。
役者には戻らないという不退転の覚悟で、俺は進み続ける覚悟を決めたのだ。
「ただいま、・・・って、誰もいないんだったな」
つぶ子は引越しすると言っていたが、俺の部屋にいくつかの荷物だけ運び込むだけで特に模様えはされてなかった。
つぶ子は小さいスーツケース1つを俺の部屋に運び込んで着替えなどの中身を箪笥の中に俺の衣服と並べて畳んで入れただけだったので、中身をスーツケースに戻してつぶ子の家に郵送すればそれでつぶ子の引越しは終わる。
そして母さんだが、正気に戻った母さんは家に帰って来なくなった。
天涯孤独で保護者がいなくてまともな職にもつけずなし崩し的に東京で水商売していたと聞いていたので、行き先には全く心当たりが無いし、お金だって俺が通帳管理しているので大して持っている筈もないのだが、しばらく沖縄旅行に行くとの書き置きがあったので、今の所は捜索願を出さずに放置している。
ジョリーさんから俺の給料の前借りをするなりつぶ子を頼るなりすれば、少しの間はなんとかなるだろう。
そして俺と母さんが元の親子に戻るには、もう少し時間が必要だ。
俺は母さんを恨んではいないし、大切に思う気持ちは変わってないけど、純粋だったあの頃と同じような眼差しを母さんに向けるのは、演技でもしんどい。
そしてそれは母さんも同じなのだ、だから沖縄旅行というのはきっと、俺と母さんの心の距離なのだと思って、俺はデビューまでは時間を置く事にした。
もしも俺がアイドルとして成功して本当に自慢の息子になれたならば、母さんもまた俺を愛してくれると思ったからだ。
母さんの心を取り戻すという物語はつぶ子に奪われてしまったが、それでも俺と母さんが元通りに修復する事は天才のつぶ子でも一筋縄ではいかない険しいものだろう。
この世では、俺にとっては、母さんだけが美しく、綺麗な存在だった。
だから俺を生んでくれて、育ててくれた母さんへの恩返しというこの世で最も美しい物語だけは絶対に譲れないし、俺はそれを絶対に成し遂げたいと思った。
「アイドルとして成功したら、満漢全席を食べに行こう、沖縄だけじゃなくて北海道にも旅行に行こう、母さんの大好きなブランド品も沢山買ってあげて、高いお酒を一緒に飲みながらホストクラブで遊ぼう、そしたらきっと、またあの頃みたいに戻れるよね」
俺は食事も採らずに布団を被って、夢だけを見続けていた。
愛に裏切られて、愛を信じられなくなっても、あの瞬間の愛だけは捨てられなかったからだ。
ああ、俺はきっと、昔の父親のビデオを見続けている母さんの姿に自分を重ねていたのだろう。
もう二度と取り戻せない幸せだからこそ、それが輝いて見えて仕方なかったのだろう。
ずっとずっと、あの瞬間だけを生きていられたら幸せだったし、あの時一緒に死んでいたら、今こんなに苦しい思いをせずに済んだのだろう。
でも俺は選んだんだ。
母さんと一緒に地獄を生きる道を。
そして、たった一人でこの先の地獄を突き進む道を。
痛い思いや辛い思い、悲しい思いを繰り返してでも、自分が信じる希望に手を伸ばす為に。
「俺が、決めた事だから、だからこの夢だけは譲れない」
大きな理想には押し潰されて溺死するのがオチだろう。
でも俺は、空っぽの俺は、何も持ってない俺は、押し潰されそうなくらい大きな夢ですら、縋らずにはいられなかった。
この時の俺は、世界というものを理解していなかった。
本棚の本が入れ替わるように。
舞台の役者が入れ替わるように。
永遠に続く物語など無いように。
新しい物語を始めるという事は、古い物語の終わりであるという事を。
俺の終わらせた物語、乾拭キキの死がどういう結果をもたらす事になるのかという事を。
──────────この日、茂木田つぶ子は自殺した。




