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恋が人を食う〜天使くんと恋愛頭脳戦する怪物の子〜  作者: くびつりのこびと
エピソードI 【フィクションの恋】
27/49

26.恋しいる契約

「ねぇ、キキくん」


「・・・ん、どうかした?」


 つぶ子を家まで送る途中の事、高級住宅街の道すがらにつぶ子はぽつりと呟いた。


「・・・もしも、キキくんの〝課題〟、私が肩代わりするって言ったら、キキくんの人生、私にくれるかな」


 それはつぶ子が俺に1億円くれると言ってるような話だ。

 だが俺の人生につけられた値段とは、それで(まかな)えるものでは無い。


「・・・どうだろうね、別にアイドルデビュー出来なくても今は花狂魔の一員だし、仮につぶちゃんが俺の借金肩代わりしてくれるっていうなら人生の半分くらいはあげてもいいけど、でも俺の人生のもう半分は母さんとジョリーさんのものだから、全部はあげられないかな」


 ちなみに俺の・・・母さんの借金は数十億であり、それらはジョリーさんに肩代わりして貰っている。

 母さんが死ねば相続放棄するし、父親が死ねば最低10億くらいは貰える見通しだが、両者が生き続ける限り俺は一生ジョリーさんの奴隷だ。


 でも俺は今の生活に、父親の跡を継いでトップアイドルを目指すというドラマに、なんの不満も感じていないから、一生奴隷の人生でも構わなかった。


 だからトップアイドルを目指す俺の中に、茂木田つぶ子という人間に対する執着なんて殆ど無いと言っていい。


 勿論つぶ子とはビジネスフレンドなので、そんな本音の思惑なんて言うわけ無いが、だがここまで言えば俺がつぶ子に対して全く執着が無い事くらいは伝わってしまうものだろう。


 どうせ半端な(えんぎ)は通用しないのだから、だからこの際ハッキリ言った方がお互いの為だ。


 つぶ子の王子様役(相方)王子様役(ライバル)王子様役(ヒーロー)の役割なんて、元から俺には荷が勝ち過ぎる大役、務まるわけが無いのだから。


 だからそれは白月ユキに任せて、俺は俺の夢の道を進み、つぶ子とは同じ道を歩まないと、そう告げた訳である。


 6年の間、子役として共演してきたつぶ子とここで決別する事になるんだと俺はここで気付いたが、だがきっと、つぶ子が海外に行っていなくなるからこそ花狂魔は新団員のオーディションをした、だからその節目に俺がつぶ子の障害になる訳にはいかない。


 俺は世界中の誰よりも茂木田つぶ子という人間を理解している、誰よりもそのすごさを理解している、だからこそ、俺自身がつぶ子の足枷になるような選択など、運命に逆らうような、天に唾を吐くような愚行であると、誰よりも理解していたのである。


 だから俺はつぶ子の誘い、千載一遇にして一世一代の幸運が舞い込むようなチャンスに対しても、心奪われる事無く淡々とスルーしたのであった。




 ──────────ああ。


 別れ話をするにしては、悲しいくらい夜空は綺麗だった。

 都心の街の灯の中でも、夜空の星々は負けじとその輝きで人の道を照らす。

 もしこの空の美しさを共有できるのならば、この星空だけを眺めて生きられるような世界ならば、きっと世界平和なんて簡単に実現するものだろう。

 だから俺は、星空を眺め、くっきりと見える月の美しさを目に焼き付けながら、つぶ子に背を向けて呟いた。


「この辺でいいよね、・・・じゃあ、さよなら、今まで楽しかったし、つぶちゃんと共演してきた事は俺の人生にとって1番の財産で幸運だった、・・・でも、俺の〝これから〟は〝アイドル〟だから、〝女優〟のつぶちゃんとはもう一緒にいられないから、だから、さよなら、・・・応援してるよ、これからもずっと」


 この選択がベストだと、俺は迷いなくそう思いつつも、僅かな葛藤・・・いや、名残惜しさに胸を締め付けられながら、そっと歩き出す。


 つぶ子が今何を思っているかは分からないが、だが、つぶ子が俺に向ける好意の全ては(えんぎ)だ、だから幕引き(しんじつ)を告げたならば、これ以上は続きようの無い物語なのである。


 俺はつぶ子への未練を断ち切るように、振り返らないようにと意識を今日の夕飯に切り替えた。


 失恋した訳では無いけど、今日の気分的には豆板醤(とうばんじゃん)と唐辛子をたっぷり入れた麻婆豆腐がいいだろうか。


 火曜日は鍋の日なので、麻婆鍋もありかもしれない。

 なので豚肉と白菜で作る麻婆鍋、これを今日の献立にしようとスーパーまで足を運ぼうとすると──────────




「キキくん!!──────────」


「──────────え、つぶちゃん・・・?」




 背後からつぶ子に抱きつかれていた。

 その力は手放さないという意志を表すように力強く、そして背中からとはいえ、夜桜が舞うようにつぶ子の甘い香りが漂ってきて、俺はその官能の不意打ちに心臓が弾けた錯覚を覚える。

 そして俺が「なんで?」と聞き返す前に、つぶ子は俺に言ったのである。


「全部、全部あげるから、私のあげられるもの全部、持っているもの全部、時間も才能も物語も、全部キキくんにあげるから、だから、キキくん、一瞬だけでいい、一度だけでいい、嘘でもいいから、だから私に、恋するチャンスをくださいっ!!」


「──────────は?」


 恋するチャンス。


 それはつまり、つぶ子が俺に恋するという意味だろうか、それとも俺がつぶ子に恋するという意味だろうか。


 いや、それははっきりと理解している。


 茂木田つぶ子の〝(えんぎ)〟は、はっきりと俺に恋してると理解している。


 でもそれは、つぶ子にとっては日常的なものだ。


 俺には人の魂の色が見える。


 だからつぶ子が、役に応じて魂の色を変えて、その度に色んな人間と恋をして、魂を使い分ける真の役者であると、俺はそれを誰よりも理解している。


 そしてつぶ子が初めて出会った時に俺に向けた感情は、紛れもない無関心だった。


 つぶ子にとって興味のある人間とそうでない人間の境界線とは、演じられる者とそうでない者であるかという点だけだった、だから演じられない側である俺がつぶ子から目をかけられる道理は無い。


 だが俺はジョリーさんの権力によって花狂魔の座長おでんが監督を務める作品にゴリ押しされて、その関係でつぶ子とは恋人役になるような役も多く演じている。


 その過程で恋人役の距離感でつぶ子は俺に接するようになった訳だが、だが、それは100%確実につぶ子の本当の人格では無いし、つぶ子が俺に恋してるのは確実に役の話だ。


 だからこれは、つぶ子の役が演じているだけなのか、それとも俺に「好き」と言わせるゲームかドッキリでもしてるのかのどちらかだろうと、そんな風につぶ子の言葉を、告白を、俺は穿った目で見ていた訳だが。


 ──────────でも、どちらにせよ、終わらせるならば、つぶ子の〝物語〟を完結するならば、俺に出来る事は一つしかない、という話なのだろう。


「・・・じゃあ、一瞬だけ、一度だけ、嘘の恋をするけど、それで満足してくれるかな」


 俺はつぶ子と向き合った。

 顔色を伺うように奥ゆかしくこちらを見つめるつぶ子の瞳は、星の雫が滴るように濡れていて、完璧すぎるくらいに愛らしくて、反則的に美しかった。

 そしてその魂の色は、疑いようのなく、否定する余地のなく、一色に染まった恋の色をしており、つぶ子が今この瞬間に〝完璧な恋する乙女〟である事は紛れもない事実だった。

 この一瞬を切り取っただけで映画のクライマックスのワンシーンにしてしまえそうな程に、つぶ子から溢れるヒロインとしてのオーラは鮮烈に満ち溢れている。


 だから、ここで、このシチュエーションで、一目惚れしない、恋に落ちない人間はいない。


 ただの道路を舞台に、星の光を照明に、二人の距離感を運命に、そんな風に感じさせるような圧倒的な演技力こそが、茂木田つぶ子という人間の本領発揮なのだから。


 だから俺は何しなくても、つぶ子に合わせるだけで〝特別な何者か〟になれたし、つぶ子に身を任せるだけで恋に落ちる事は出来る、という話だ。


 つぶ子の作り出した空気に身を委ねるように俺は一瞬でつぶ子の(とりこ)になって、恋に落ちた。


「キキ、くん、だいすき・・・」


 切なげにそう言ってつぶ子は目を閉じる。

 この間の続きをしろという事だろう。

 邪魔が入るような場所では無いし、仮に咎められたとしても、本当に〝役に没頭〟していればこの世界の二人以外の脇役(ノイズ)など気にならない事だ。

 今の俺にはつぶ子しか見えていない。

 俺は深呼吸をして、覚悟を決めてから、つぶ子の望むがままに、物語のクライマックスで起こるような、そんな行為へと身を委ねる。


 本当に綺麗な顔立ちだ。

 前世がお姫様とでも言うような天真爛漫にして品のある天性のオーラ。

 陶器のように白く透き通った肌、花弁のように鮮やかで果実のように艶やかに滑らかな唇。

 長いまつ毛も、整った鼻筋も、小鳥が(さえず)るような声も、そのどれもが神が(しつら)えた調度品のように完璧で、神聖にして侵すべからずな芸術品のようだった。

 そんなつぶ子の唇に触れる事に、触れてもいいと言われた事に、喜びを感じない訳が無かった。


 ──────────俺は本当は、つぶ子の事が好きだったのだ。


 恋を、していた。

 何考えてるか分からない天才(ばけもの)だし、人間としてのランクが離れ過ぎてて普段は畏れの方が大きいが。

 でも俺はつぶ子の演技に救われて、つぶ子という子役(にんげん)の姿にずっと刺激を受けて追いかけてきた。

 その憧れや感謝、特別感を抱いた気持ちは嘘では無いし、誰にも負けない確かな執着だった、故にそれを恋と呼ぶ事に違和感も無い。


 だから俺は、正しいキスの作法なんて知らなかったし。


 ここでつぶ子にキスをする事が正しいのかは分からなかったが。


 つぶ子になら、ファーストキスくらいくれてやってもいいと。


 つぶ子のそのどんな宝石よりも貴い唇に、心を込めて触れたのである。





 ──────────ッ






「・・・あれ?、今、触れた?、(かす)かに何か触れた気はするけど一瞬でよく分からなかったんだけど・・・」


「・・・ちゃんと触れたよ、()()()()()()()だけど、でも一瞬だけ、本気で恋して本気で愛したよ、これで、満足なんだよね」


「・・・そんな事ってあるのかな、本気で恋してたのに、恋してる相手にするキスがほんの一瞬だなんて、そんなの有り得るのかな、キキくん、もしかして私が本気じゃないと思ってからかってるの・・・?」


 つぶ子はキスをしたという実感が無いからだろう、裏切られたように悲しそうな顔で俺を見るが、対照的に俺は、ファーストキスの余韻、そしてアイドルとしてファンを裏切るような行為をしたという罪悪感、自分の中につぶ子に対しての自覚の無かったクソデカ感情が眠っていたという事実に震え、取り(つくろ)えないレベルで動揺していた。


 一瞬しか触れなかった理由は簡単だ、触れた瞬間に夢が覚めるように、押さえつけていた理性が跳ね返って来たからだ。


 俺にとって何よりも大切な母さんと一緒に描いた〝夢〟が俺をこの世界に引き留めたからだ。


 だから、俺の〝アイドル〟の〝夢〟は裏切れないし、裏切れないからこそ、引き返せないような、深みにハマるような本気の恋なんて出来る訳が無い。


 今の俺には、恋よりも何よりも大事な〝夢〟がある。


 だから一瞬の恋で上書き出来るほど、俺が今生きてる人生はお手軽な三流娯楽(パルプ・フィクション)では無かったという話である。


 俺は沸騰(ふっとう)しそうなくらいに紅潮する頬を隠すように背を向けて言った。


「これで満足してくれたかな、俺としては、本気でつぶちゃんに、恋してたつもりだけど」


「・・・そっか、本気だったんだね、じゃあキキくん、今でも私に、恋してくれてる?、私は今でも、キキくんに恋をしているよ」


 つぶ子は食い下がるようにそう言った。

 でも俺は約束を果たした後なのでにべもなく、遠慮無しに本音で返してやる。


「それは・・・、でも、つぶちゃんのは俺とは()()()()、つぶちゃんは俺に恋をしているけど、つぶちゃんが俺に恋をしている訳じゃない、茂木田つぶ子という役が乾拭キキに恋をしているのであって、筑前魅乃李が伽羅蕗稀樹に恋をしてる訳じゃないよね、茂木田つぶ子は女優で、乾拭キキはアイドルだ、だからこんな恋なんてただの嘘だ、嘘の恋なんてしても虚しいだけだよ、だから終わりにしよう」


 「俺はアイドルだ」という、決定的な決別の言葉だ。


 だからこれ以上をねだられても俺からは何もあげられないと、そう言ったのだが。


 だがつぶ子は、俺が茂木田つぶ子を全力で否定したからだろう、筑前魅乃李の魂の色で、普段とは対照的な冷徹で高圧的な低い声で、俺に言ったのである。


「そっか、キキくんはずっと、()()()()()んだね、私が、演じるだけの存在だって、みんなに愛想浮かべるのも全部嘘だって、ずっとずっと、気づいていながら私に合わせてくれてたんだ、えへへ、そうだったんだ」


 茂木田つぶ子の魂の色を虹色と定義するならば、筑前魅乃李の魂の色は全てを飲み込むような混沌の色だ。

 虹であるが故に混沌とし、混沌であるが故に虹となる、そんな完全なる人格破綻者の魂をしているのが茂木田つぶ子という人間の本質なのだと、俺は初めて会った時から見抜いていた。

 オンリーワンでナンバーワンな、とびきりスペシャルな虹と混沌の魂、それが茂木田つぶ子の本質。

 故につぶ子の本性が飛び抜けたサイコパスだとしても驚きは無かったが、だが初めて本性を(あら)わにしたつぶ子の魂の色はあまりにもおぞましくて、強烈な未知との邂逅(かいこう)に自然と体が硬直する。


 こいつはヤベー奴、何するか分からない、みたいな存在を人は本能的に恐れてしまうものであるが故に、今の俺は逃げ出したくてたまらないが、それを飲み込んで、何故か上機嫌なつぶ子に真意を訊ねるように言った。


「つぶちゃんはずっと、人前ではそつのない姿を演じていたけど、でも〝階段事件〟の時に俺にはその片鱗(へんりん)を見せてくれたよね、今更じゃないの」


 子役時代、つぶ子は気に入らない共演者を階段から突き落としたり、撮影の最中に意図的に転ばせて衣装やカメラを破壊して降板させたりしている。

 それをご自慢の演技力で〝無かった事〟にするのがつぶ子の演技力だったし、そしてセクハラで有名な大御所芸人を階段から突き落とす姿を俺は目撃していた。

 故につぶ子がヤバい奴だというのは俺にとっては今更という話だ。


「でも誰も、私が演じてるなんて気づかない、私の嘘をみんながみんな信じ込んで、賞賛して、持て(はや)す、キキくんだけだよ、私の好きを嘘だと言った人間は、茂木田つぶ子は完璧な役者で、茂木田つぶ子は本気でキキくんに恋をしていたのに、それを嘘だと言える人間は、きっとこの世界でキキくんしかいない、だから私は──────────キキくんが好き」


 今度は筑前魅乃李の言葉でそう言って、一瞬で俺との距離を詰めて顔を近づける。


「嘘を否定できるキキくんとなら、嘘じゃない()()()()が出来る、この世の誰もが認める真実にして最高の恋が出来る、だから私はキキくんが好き、キキくんと恋をしたい、ねぇ、キキくん、お願いだよ、私と、本気で本当の恋を、一緒にしよ」


「・・・っ、それがお前の目的か、だが断る、別に恋なんて、適当にやってればいいんだ、本気の恋とか、一世一代の恋とか、そんなものに縛られて生きるのは物語(フィクション)の中だけでいい、現実の恋はもっと軽くて、簡単で、フラれても直ぐに立ち直れるものだけでいいんだよ、だから俺は本気の恋なんてやらないし、お前の求めるような恋人だってごめんだ、だって俺は〝アイドル〟なんだからな」


 重たい恋なんて絶対に嫌だった。

 人間は裏切るものだし、俺は愛を信じられる程正直な人間では無い。

 むしろ唯物論的に、不可知論的に、この世に実在しない愛など存在しないのと同じ虚構だと思ってるくらいには愛を信じられない。

 それが世界一愛していた母親から愛されなかった少年、伽羅蕗稀樹の持つ傷跡だ。

 その俺の目に映る闇はつぶ子にも伝わったのか、ならばとつぶ子は妥協案を提案した。


「・・・そっか、じゃあ契約にしよう、私が持ってる芸能界での人脈、それを使えば、キキくんの〝夢〟を叶えるのに役に立つよね、私の力だって役に立つし、それに別に私はキキくんに恋人になれと言ってる訳じゃない、ただ一度きりの恋をして欲しいだけだから、だから一度だけでいい、私にチャンスをくれるかな、それが終わったらきっともう二度と会わないだろうから、迷惑もかけないよ」


「・・・契約?」


 簡単な条件を先に提示する事で要求を通しやすくするというのはどっかで見た交渉術だったが、確かにつぶ子の人脈や影響力は魅力的であり、今のデビューすら危ぶまれている俺には必要なものだった。


「そう、「私が欲しいものをキキくんがあげる代わりにキキくんが欲しいものを私があげる契約」っていうのはどうかな、キキくんはトップアイドルになりたい、私はキキくんと恋をしたい、だからそれぞれが望むものを交換する事でお互いの目的を叶える契約、これなら別に、私はキキくんの夢を応援する見返りとしてキキくんと仲良くするだけだから、何も問題無いよね」


 契約結婚、的なものだろうか、愛を知らない人間不適合者同士が、愛を学習する為に互いを利用し合うような関係、それはまさしく契約という言葉が相応しい関係になるのだろう。


「交換条件か・・・、じゃあ仮に、「俺が1億くれ」って頼んだら、そっちは何を要求してくるんだ」


「1億かぁ・・・、お金はパパが全部管理してるからいくら持ってるか知らないけど、まぁそんなに大金でも無いと思うし、ハグしてもらう、とかかな?、取り敢えず今回に限っては契約結んでくれるって事が条件で、どう?」


 1億、それが実質無料で貰えるならば俺としては願ってもない話だが、だがつぶ子とのスキャンダルは俺のアイドル生命にとって爆弾になる。

 故に迷いもあるのだが、だがデビューする為には背にかえられない状況なので、実質無料に近い1億ならば手放す理由は無かった。

 つぶ子との間に築かれた関係が瓢箪(ひょうたん)から駒のような幸運だとしても、それを掴み取った運は紛れもない俺の実力だと言えるくらいでなければ、どの道芸能界でのし上がる事は出来ないだろうから。


「・・・後々契約破棄した時にペナルティで1億返せって言わないなら、あと、無茶な要求は拒否する権利は常にあると考えていいんだよね」


「うん、今までよりほんのちょっとだけ、私がキキくんと仲良くして、いつか私に一瞬でも先っちょだけでもいいから本気の恋をしてくれればいいだけだから、だからキキくんとこれからももっと、側に、いたいな」


 そう言って差し出されたつぶ子の右手を俺はじっと見つめる。


 つぶ子の足枷になる訳にはいかないと、つぶ子の本質を知るが故につぶ子を世界に羽ばたかせるべきだと、そう思っていた訳だが。


 だが現実的に考えてみれば、どれだけ演技の才能があったとしても、つぶ子みたいなヤバい奴を迂闊(うかつ)に国外に放出するべきでは無いのかもしれない。


 沸々と、〝階段事件〟で全治3ヶ月になったセクハラ芸人と、それを実行したつぶ子から漏れ出たドス黒い魂の色が想起される。


 つぶ子がオーディションを受けてきたらしいフランスなんて、芸術の先進国ではあるものの特に貴族主義や国粋主義という差別の根強い国だ、そんな国でアジア人のつぶ子が上手くやれるとも思わない。


 だからきっと、つぶ子の〝物語〟的にはこれはつぶ子が本当の恋を理解して、そして世界に羽ばたく為の実力を身につける為に神様が与えた試練の時間なのだろうと、そう思って。


 俺はつぶ子の手をそっと、添えるように優しく掴んだのであった。


「こっちからも条件を出すね、この恋は、絶対に秘密にしてもらう、いいかな」


「分かった、契約が続く限り気を付けるよ、じゃあキキくん、不束者ですが、どうかよろしくね」


 そう言うつぶ子の眼差しは、(あや)しくて、(あで)やかで、魔女のように神秘的な様相だったが、それ故に俺は、かつてないほどに強く心を掴まれたのであった。

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