第3章 第49話 いってらっしゃい
俺は、本当に忘れていたんだ。今の今まで、母さんと父さんの顔を。
もう仏壇に手を合わすこともしなくなっていた。だから具体的に。どんな表情で笑うのか、どんなことで怒るのか、どんな声で語りかけてくるのか。思い出せなくなっていた。
だが今、満ち溢れる。二人の顔を見た瞬間、思い出が。克明に記憶の底から湧き上がる。
子どもの頃、遊園地に行って無理矢理ジェットコースターに乗せられた時のこと。
小学生の頃、卯月とからあげを作って怒られた時のこと。
中学生の頃、もうとっくに観なくなっていた特撮の玩具をもらった時のこと。
高校生の頃、二人が突然クラスに来た時のこと。
なんで。今の今まで忘れていたんだろうなぁ。二人の、あの悲しそうな顔を。
……くそ。ロクな思い出がないじゃないか。やっぱ嫌いだ。本当に、嫌いだ。
「おかあさん……おとうさん……!」
俺は、この二人を、刺せない――!
「どうしたどうした、急に泣き出して」
「ママたちに会えてうれしかったんでしょ? 4か月ぶりだもんね」
3年ぶりだよ……ばかやろう……! もう、二度と会えないと思ってた……!
「また会えで……よがった……!」
この瞬間のために生きていたんじゃないかと思うほどに、俺は……俺は……!
「なにおにぃびしょ濡れじゃん!」
「とにかく中に入ろう? 話はそれからでいいよね」
「だめだだめだ! 風邪舐めたら死ぬぞ! まずは風呂だ!」
この二人に傷ついてほしくない。でも刺さなければ死んでしまう。
「リルぅ……!」
なに、言ってんだ俺は。なにリルに泣きつこうとしてるんだ。もうリルは隣にいない。俺がやらなきゃいけないんだ。もう、覚悟は決めたはずだろ。
「写真を……撮ろう……。時間ないんだろ……?」
全員が前を向く写真なら隙はいくらでも作れる。残り3分……いやもう2分くらいか。短時間ならこれが一番確実だろう。
「だから風呂が先だって……」
「まぁまぁお父さん。主水の頼みだよ? いつも自己主張が薄いって言ってるんだから、たまには聞いてあげないと」
「じゃあ卯月がタイマーセットするねっ」
卯月がスマホスタンドをセットする中、俺たち三人はリビングで横に並ぶ。
「なんでまだ残ってたんだよ……」
「そりゃあ主水に会うために決まってんだろ!」
「お父さんいっぱい話したいことあるって言ってたもんね」
「ああそうだった! 父さんたちな、昼間主水の学校の文化祭に行ったんだよ!」
「知ってる」
「えぇ!? お父さんどうしようばれてたって!」
「でも姿は見てない……。ただ、来てくれてたってのは知ってる」
「お父さん聞いた? 来てくれた、だって!」
「ははは! 主水は高校に入って変わったなぁ……。正直来るなって怒られるかと思ってたぞ」
「俺だっていつまでも子どもじゃないんだ。……両親に感謝くらい、するだろ。いくらでも」
「いいんだよ感謝なんて! 俺たちはそれ以上のものをもらったんだから!」
「ねぇ。お友だちと一緒にいる主水が見れたんだから。うれしくて声かけられなかった」
「ママ、泣いてたんだぞ! 主水にお友だちができた、って」
「お父さんだってうれしそうだったじゃない!」
「……やっぱり、友だちがいないとダメなのかな」
「別にそんなことはないぞ! 人の生き方なんてそれぞれだからな」
「でも俺は……友だちを裏切ったからここにいる」
「じゃあ明日謝らないとね」
「……謝れないとしたら?」
「心の中で悪いと思っとけ!」
「もう、お父さんったら」
「俺はそれでも……嫌われたくない。初めてできた、大切な人たちだから」
「それは難しいなぁ……。俺ですら嫌われてるんだ。息子とかにな!」
「そういうことばっか言うから嫌われるんでしょ?」
「でもあれだな。俺だけは嫌いにならないから安心しとけ。大事な息子だからな!」
「ママもだよ! ママも絶対嫌いにならないからねっ。だからお父さんはいいけど、ママのことは嫌いにならないでねっ!」
「タイマーセットできたよ!」
リル、やっとわかったよ。「よかったぁ」の意味が。
俺も最初それを考えたんだ。一番楽だから。
でもそれは無理だと思った。確証がなかったから。
「3!」
でも3年ぶりに話してみて、確信できた。俺ももう18歳だからな。いつまでも子どものように拗ねてはいられない。
俺は両親から愛されていないと思っていた。そう思い込むことで、メンタルを保ってきた。当時の俺は、二人を恨まないとやっていけなかった。
「2!」
だけど今。俺は迷うことなく、それができる。なぜなら、
「1!」
俺は両親から愛されていた。
2021年 3月21日(日) 16:58
気づけば俺は、家のリビングから自室へと移動していた。
服が濡れた不快感はない。全身を支配する疲労もない。当然、痛みだってない。
帰ってきたんだ、元の時間に。
ふと、机に飾ってある写真に目が行った。俺が置いた記憶はなかったからだ。
手に取ってみると、それはついさっき撮った写真だった。笑顔でピースを作る卯月、母さん、父さんと並んで。
俺は、包丁で自分の腹を突いていた。
未来に戻る寸前、俺は自殺未遂をすることにした。
二人が俺を愛していることに気づけたからこそできた作戦。
自分の息子が突然隣で自殺しようとしたんだ。少なくとも1、2週間は、俺から離れないでいてくれるだろう。
母さんたちが死ぬのは半月後。約2週間だ。その時間さえ稼げるのなら、母さんたちを刺さなくてもいい。
まぁ、思い通りに行っていればの話だが。
「安心してください。ご両親は生きています。全て主水さんの目論見通りですよ」
「リ、ル……!?」
突如姿を現したリル。それ自体はいい。最期にお別れがしたかったし、よかったのだが……。
「ああ、これですか。気にしないでください。私の問題です」
美しいブロンドの髪は乱れ、目は血走り、口元からは唾液の跡が残っている。
まるで、暦祭最終日の俺のような様相だ。
「私のことなんてどうでもいいんですよ。それより主水さん、わかってますね」
「……ああ、そうだな」
確かに、リルのことを気にしている場合ではない。
「大矢主水さん。あなたを殺します」
「ああ。頼む」
俺はこれから、二度と生き返れない死を迎えるのだから。




