第1章 第1話 妹学
2018年 3月30日(金) 13:31
「終わった……?」
もう死んでいるのにまた死ぬと思ってしまうほどの苦痛を受けてどれほど経ったか。気づけば俺は元の自室のベッドの上にいた。
直前まで握っていたであろうスマホが顔に落ちてきた。さっきまでの苦痛に比べればたいしたことのない痛みが額を襲う。でもそれなりに痛いな。こんなに痛かったか? こういうのはよくあるが、これほどでは……。
「まじか……!」
拾ったスマホを目にした瞬間、自然と驚愕の声が漏れる。今も弱い光を発しているこの機械が、俺が今使っているものよりも1つ前の機種だったからだ。
部屋を見渡してみると、古いのはスマホだけではないことに気づく。机の上の漫画、転がっているゲーム。全てが約3年前のものだ。
慌てて今はなきスマホのホームボタンを押し、現在時間を確認する。2018年3月31日。つまり、3年前。
「本当に、やり直せるんだ……!」
「だからそう言ったじゃないですか」
「うわぁっ!?」
耳元で声が聞こえたせいでベッドから転げ落ちてしまう。俺の死体があった場所に転がりベッドを見上げると、不服そうな顔をしたリルがベッドに腰かけていた。
「なんでびびるんですか? 二度目なんですけど」
「いやこういうのって空の上から見守ってるものかと……」
「ぼんよーっ! 凡庸ですよ、その発想! 観察するんだから近い方がいいじゃないですかっ!」
「まぁそうなんだけどさ……」
だからと言ってこう普通に話しかけられても困る。いやでもこっちの方がいいのか。色々アドバイスももらえるだろうし、綺麗な子が近くにいるだけでカーストは上がるし。
「ちなみにですけど助言はしませんよ」
俺の思考を読み取ったリルがベッドから降りて俺の周りをくるくると歩いていく。
「何度も言いますけど、私の目的は卒業論文の完成です。つまり失敗して死のうが構わないんですよ、結果さえ出れば。モルモットを生かすために奔放する研究者はいないでしょう? むしろインパクトを出すために死んでほしいとさえ思っています。もう派手派手に」
いつもと変わらない声音で冷徹にそう告げてくるリル。ふざけているような口調だが確かな本気の意志が滲んでおり、顔を上げることができない。
「それと私の姿や声はあなたにしか感じられません。これからは心の中で話すことをオススメしますよ」
つまり俺の浅はかな作戦は全て実現不可ということか。まぁ虫がよすぎるもんな。
「さぁ、ちゃっちゃか動きますよ! お友だちに彼女! 1週間で作らないといけないんですから! 自分から行動しないとダメですからねっ!」
と思ったらずいぶん協力的だった。さっきの話は何だったんだ。
「何も行動を起こさずに死なれても文字数を埋められませんからね。それにどうせなら私も人間界の青春を楽しまないと。正式に天使になったらこんなことできませんから」
社会人になる前の大学生みたいな発言だ。天使も大変そうだなぁ……。
「私のことはいいから急がないとっ」
「って言われても3月ってことはまだ高校生ですらないからな……やることないよ」
俺がこの時間にいられる1週間のタイムスケジュールを簡単に表すとこうだ。
3月30日・春休み
3月31日・春休み
4月1日・入学式
4月2日~6日・オリエンテーション
つまり今日明日に関してはできることが何もないのだ。
「凡庸通り越して愚鈍っ!」
そのはずなのに、なぜかリルは俺を罵倒してきた。
「わかってるんですかっ!? あなたの寿命は1週間しかないんですよっ!? それなのに何を呑気なことを言ってるんですかっ!」
「いやだからやることが……」
「あるでしょっ! 髪切るとか色々っ!」
「確かに結構伸びてるな……。じゃあ千円カットに……」
「愚劣っ! いいですかっ!? 人間の第一印象は結局のところ顔なんですっ! 髪を整えるだけで印象がよくなるのにどうしてやらないんですかっ!」
「いや俺が美容院とか行っても千円カットと変わらないだろうし……」
「はー出た出た! そう言って逃げ道作るやつっ! 陰キャ学入門でやりましたよっ! そういう人はたいてい美容院に行ったことがないそうですねっ!」
「いや何も言い返せないけど……ていうか陰キャ学入門ってなに?」
「言い訳を学ぶ学問ですっ!」
陰キャ=言い訳って……。いや真理な気もするな。
「とにかくっ! あなたはスタートラインに立たなければならないんですっ! 見た目が悪いから友だちができませんでしたじゃ論文にならないでしょっ!」
やけに協力的だなと思ったらそういうことか。でもまぁ、そうだな……。
「わかったよ、美容院に行く。せっかくやり直す機会を手にしたんだ。できることは全部やらないとな」
実際言い訳だらけなのが今の俺だ。こんな調子で過去が変えられるわけもない。変えるためには自分を変えなければならないのだ。でも問題が一つ。
「美容院ってどうやって行けばいいんだ……?」
生まれてこの方千円カットにしか行ったことがないから予約の仕方がわからない。電話……とかなんだろうけど、なんとなく美容院って女性限定ってイメージがある。断られるのも恥ずかしいしな……。
「多少の恥がなんですか。友だちがいない方がよっぽど恥ずかしいですよ?」
「あのさ、ずっと思ってたんだけど正論言うのやめてくんない? 死にたくなる」
「さすがに過去に戻ったのに自殺するのはおもしろすぎるのでやめてくださいね」
そう言われてもな。人間に正論は早すぎるのだ。人体は正論に耐えられるように作られていない。
「ていうか妹さんいますよね? 同じ美容院に行けばいいじゃないですか」
「いや妹と同じ美容院とかきつすぎるだろ……」
「そうですかね? 普通にアリだと思うのですが」
「俺はよくても卯月がなぁ……」
俺には一つ下に大矢卯月という妹がいる。小中高と同じ学校に通うことになるわけだが、これがとにかく仲が悪い。
仲が悪いというか、合わないのだ。俺は陰キャの中の陰キャだが、妹は真逆。常に友だちに囲まれ、いつだって流行の最先端にいる。クラスの中心で動くような人種だ。
これだけ人間としての性質が違っては合うはずがない。同じ家に住んでいても会話はほとんどないし、そもそも毛嫌いされている。そんな相手に紹介の打診なんてできるわけもない。それでも。
「ちょっといいか?」
ここで諦めるわけにはいかないのだ。俺は2階の自室から1階のリビングに下りると、ソファーに寝転んでファッション雑誌を読んでいる卯月に声をかけた。
「なに?」
雑誌から目を離さず、冷たい一言を浴びせてくる卯月。その髪は校則違反にならない程度に巻かれていて、ここと同じ領域に足を踏み入れることを躊躇させる威圧感を発している。いや妹相手にびびってどうする。
「美容院行きたいんだけどさ……いつもどこ使ってんの?」
「なに? おにぃ高校デビュー? きもいんですけど」
勇気を出して口にした発言に、辛辣すぎるほどに辛辣な言葉を返してくる卯月。そして雑誌をテーブルに放ると自室へと戻ってしまった。
「……さすがに辛いわ」
「ちゃんと言えたじゃないですか。でも大丈夫ですよ。妹のきもいは相槌と同義だって妹学応用で習いましたから」
「天使ってどんなこと勉強してんの?」
仕方がないのでリビングを軽く掃除していると、卯月が何かのポイントカードを持って帰ってきた。
「はい、これ」
「なんこれ?」
ポイントカードを渡されたのはいいが……店名の英語がおしゃれなロゴのせいでまともに読めない。
「私が通ってる美容院のポイントカード。電話したら3時からならいいって。元々ママの知り合いのお店だし、これ持ってけば大丈夫だから」
それだけ言うと卯月はさっさとソファーへと戻り、寝転がって雑誌を読み始めた。
「はは……ありがとう」
「帰りアイスね」
「はいはい」
高校3年間。いや、もっと前から。俺はまともに卯月と話したことはなかった。
だって嫌われていると思っていたから。どうせ無視されると思い込んでいた。
でも避けていたのは卯月じゃない。俺の方だったんだ。
簡単なことだったじゃないか。ただ普通に話せばよかったんだ。それだけで充分だったんだ。いや、今はそれよりも。
(妹学、俺にも教えてほしいんだけど)
「あはは、考えときまーす」