第0章 第2話 高校生活をやり直します
「……あれ?」
どういうことだ、急に痛みがなくなった。まさか生きているのか……?
「……いや」
死んでいる。そうわかったのは、俺の身体が目の前にあったからだ。
倒れながら、卒業アルバムに手を伸ばしている俺の身体。その顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっており、その奥では悔しそうに顔を歪ませている。
最期の最期で後悔してしまったんだ。こんなはずじゃなかったのに、と。
「ご愁傷様でーす」
自分の死体を見下ろす中、とてもその言葉に似つかわしくない明るい女性の声が耳元に届いた。
「うわぁっ!?」
突然の出来事に、跳ねるように逃げ出す俺。しかし死体に躓き、再び硬い床に転んでしまった。いや、躓いたのではない。俺の脚は確かに死体をすり抜けていたのだから。俗な言い方になるが、幽霊。になってしまったのだと考えるしかない。
「な、だ、だれ……!?」
床から立ち上がれない俺を見下ろす白いワンピースタイプのセーラー服を着た女性。年齢的には俺と同年代に見える。だがそれも合っているのかわからない。美しすぎるのだ。同じ人間とは思えない、絵画の中から持ってきたかのような作り物めいた美しさ。つまり、
「天使……?」
「惜しい。正確には天使見習い、です」
自分のことを天使と同等の存在だと認めた女性は、転がっている卒業アルバムを拾い上げると、ペラペラと捲っていく。
「やー、ひどいですねー。こんなに写真があるのに、写っているのは9、いや10ですかね。集合写真と通り過ぎてるやつだけで、笑顔の写真なんて一つもない。これが本場の陰キャ、ってやつですね。教科書まんますぎてびっくりです」
楽し気に笑いながら天使とは思えない発言をする少女。そして卒業アルバムを閉じると、胸に手を当ててこう語った。
「はじめまして、大矢主水さん。私は天使見習いのリルと申します。今日は卒業式という華々しいイベントの日に心臓発作で亡くなってしまったあなたのために、とあるチャンスを持ってきました」
「チャンス……?」
それって、もしかして。
「異世界転生……!?」
「凡庸っ!」
美しい顔には似合わない元気な様子で腕を交差させるリル。そして人差し指を立て、説教するかのように語り出した。
「異世界転生なんてもう使い古されてますよ。チート能力を与えたり現代知識で無双させたり……。数年前まではいいセンいってましたが、今さらそんなの凡庸凡庸。エリートである私がそんなテーマを選択するわけないじゃないですか」
「は、はぁ……」
エリート? テーマ? まるで学校の卒業論文を書くかのような口ぶりだ。
「そう! 私は天使学校を卒業するために論文を書かなければならないのですっ!」
嘘だろ……思考を読み取られた……!
「本当ですよ。天使は人間よりも上位の存在。人間如きが考えることなど余裕でわかっちゃうのです。『こいつ直接脳内に……!』もできるんですよー!」
なんかずいぶん変な言葉を知ってる天使だな……。
『これくらいネットスラング学入門の基礎知識ですよ』
頭で思ったことに言葉を介さず返されてしまった。なんだか変な気分だ。そう思っていると、鈴の音のような声を大きくした。
「簡単に言うとこうです。私は卒業論文のために、あなたを生き返らせてその様子を観察したい。でも異世界転生なんてありきたりなことはしたくない。ということで、普通にこの現代で生き返させることにしました」
現代で、生き返させる。それが言葉通りの意味だとしたら。
「生き返れるの……? 本当に……?」
「本来死者を天国へと送り届けるのが天使の務め。つまり下等生物の魂程度どうとでもできるということです。運がよかったですね、私に選んでもらえて」
そうか、生き返れるんだ。まだ人生を謳歌できるんだ。そうか。そうか……。
「そうか……」
「あれ? 浮かない顔ですね」
尻もちをついたままの俺の顔を覗き込んでくるリル。浮かない顔なのは普段からだが、今回はそれだけではない。
「いやなんていうか……生き返れるのはうれしいし死にたくはないんだけど……どこか死んでほっとした自分もいるというか……」
辛いことだらけの人生だった。何度も死のうと思ったが、死ぬ勇気がなくてただ生き永らえただけのゾンビが俺だ。今さら生き返れても、これからの人生が上手くいくとも思えない。だったらこのまま死んだ方が……。
「安心してください、ここからが本番です」
俺の思考を読み取ったリルが、しゃがんで卒業アルバムを見せてくる。
「チャンスと言いましたよね? 観察したいとも。ただ生き返らせるだけじゃ意味がないじゃないですか。やり直すんですよ、人生を」
「やり、直す……?」
リルは卒業アルバムのページをペラペラと捲っていく。俺の瞳に映るのは、3年間絶えず行われたイベントの数々。幸せそうに笑うクラスメイトの姿。そしてその輪に入れていない俺の様子。
「あなたが生き返るのは、この卒業アルバムに載っているあなたの写真の時間。
高1春・オリエンテーション
高1夏・体育祭
高1秋・文化祭
高1冬・聖夜祭
高2春・新入生歓迎会
高2夏・林間学校
高2秋・文化祭
高2冬・修学旅行
高3春・個人写真
高3春・クラス写真
以上10枚が撮られるまでの1週間のみです。その間に友だちを作るでも、彼女を作るでも何でもいい。主水さんが心臓発作で亡くなる夕方5時に誰かと一緒にいる未来を作り出してください。すぐに処置してもらえればあなたが死んだというこの今がなくなり、無事完全復活! ということです」
つまり高校生活を充実させれば、一人ぼっちで死んだ今を変えられるというわけか。
「そういうことです。ただこれは強制ではありません。1週間が終われば今日の夕方5時へと戻り、再び心臓発作に襲われます。誰かと一緒にいられればいいのですが、何も変わらなかった場合は再び文字通り死ぬほどの苦しみを味わい死んでしまう。過去を変えられる自信がないのなら、ここで諦めて天国に行くことをオススメします。さぁ、どうしますか?」
どうしますかと言われても。答えはもう決まっている。
「その提案、受けるよ」
ずっと思っていたんだ。もう一度やり直させてくれと。こんな結末になるとわかっていたならもっとがんばったのにと。
ありえない願望を叶えるチャンスが目の前にあるんだ。これを取らない手はない。
「そうですか、それはよかった。いい卒業論文が書けそうです」
リルは満足そうに頷くと、俺の死体の指先に卒業アルバムの一ページを添える。
入学式の翌日行われた、4泊5日のオリエンテーション。その最終日に撮ったクラス写真。
写真の中の俺は、楽しそうに肩を組むクラスメイトの中でひどく居心地の悪そうな顔だけを覗かせていた。
まずはこの写真の顔を笑顔に変えてやる。
「天使見習い・リル。通ります」
今までのふざけた声音とは真逆の透き通るようなその一言に、世界が静止する。
そして止まった世界が一転爆発したかのように騒ぎ出す。視界が揺れる。内臓が回る。脳が爆ぜる。これはあの時と同じだ。死んだ時と同じような、どうしようもない苦痛。気持ち悪くて仕方がない。
過去を変えられる。そんな夢のようなチャンスを手にしながら、この時の俺はこう思ってしまった。
こんなはずじゃなかったのに、と。