臆病者の歌手
巷で話題の歌手、”月路"。自身の名前を元にしたデビューシングルの『月の路』が爆発的にヒットし、一躍有名になった。
デビュー曲以外の曲もいくつか出してはいるが、『月の路』ほど売れる事はなく、"歌手月路”の名曲と言われるのは『月の路』のみ。その曲だけは未だに売り上げを伸ばし続けていた。
・・・・当たり前だ、とツキジは思う。あの曲は”彼女”が作ったものであり、”彼女”の声で歌ったものなのだから。それ以外の曲は”彼女”ではなく、ツキジが嫌々作り、自分の偽物の歌声で歌ったものなのだから、売れる筈がない。
自分の役目は、”彼女”の作った歌と歌声をみんなに届ける事。それだけが、自分の仕事。ツキジは常々そう考えていた。
今日はいよいよ初ライブ。”彼女”の声をとうとう生で届ける日がやってきた。本番まであと数十分もない。
・・・・けれどもツキジは今、暗く埃まみれの倉庫室に一人隠れて震えている。
倉庫室のドアの外からは何度も何度も必死にツキジの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
「ツキジ!!どこにいるの、ツキジ・・・・ツキジィ!!」
「向井さん、一階の更衣室のトイレにはいませんでした!」
「絶対またどこかで吐いてるのよ・・・2階のトイレも探して!それから念のためトイレ掃除用具入れの中も探すの!とにかく隅々まで探すのよ、間に合わなくなるわ!」
「はい!」
ばたばたと自分を探す騒がしい足音が耳に響いた。
その音を聞いた瞬間、罪悪感とプレッシャーでお腹をぎゅっと押された感覚になり、ツキジは再び吐き気を催し、倉庫室で隠れているのももう限界だと悟り、仕方なく横になっていた体を起こす。
吐くのは本日これで3回目だ。こんなんじゃもうコンサートなんて出来っこない。そもそも自分には歌手なんて向いていなかったのだ。メンタルは人一倍弱いし、すぐ泣くし、臆病だし、緊張すると、吐くし。・・・特に今日はこの吐き気と緊張からは逃れる事はできない気がした。
ーーーーもう嫌だ。もう無理だ。
例え腹をくくってステージに立って歌ったとしても、たくさんの観客の姿を見た瞬間に自分は気を失って倒れるか、そのまま吐いてしまう想像しかツキジにはできなかった。
時間が経つほど悪い想像は膨らむばかりでただただ、気分は悪くなる一方で、どんどん限界に近付く。迷惑がかかるのは理解しているがもういっそここから逃げてしまいたいとまでツキジは考えてしまう。
ーーーーそもそも自分は”本物”じゃないのだ。”本物”じゃない”偽物”の歌手がステージに立ったってお客さんをがっかりさせるだけに決まってる。
「・・・・もう逃げ、よう・・・うぷっ・・・だ、だめだ・・やっぱり戻らなきゃ・・・・いやでも、おぅぶっ・・・」
ぐるぐるぐるぐる。
ーーーー頭が熱い。思考が回る。目が回る。どうすべきか分からない。
朦朧とする意識の中、ツキジは吐き気を必死に抑えてそのまま自分を抱きしめるような格好で蹲る。
ーーーー少しの間だけでいい。ここから消えてしまいたい。
そう考えながら目を閉じた瞬間、倉庫室のドアが開く音がキイィ、と鳴り響き、ツキジの心臓がヒュッとどこかへ飛んでいきそうな勢いで飛び跳ねる。
ツキジは顔を上げる事が出来ずにそのままの蹲った格好でガタガタと震え出した。
ーーーーああ見つかった。もう、おしまいだ。逃げ場は無くなった。
「・・・・・」
コツコツとこちらに歩み寄ってくる誰かの足音がツキジの目の前まで来た瞬間、ピタリと止まる。
「・・・・・なにをしてるの?」
上から聞こえてきた声は想像以上に優しく、触れると消えてしまいそうなくらい柔らかかった。
ツキジのマネージャーである向井さんの声ではない。けれどツキジを探しに来たスタッフのうちの誰かだろう。
震えながら、見逃してほしいと願うかの様にツキジは声を絞り出す。
「・・・・現実、逃避」
「とう、ひ・・・・・ここから逃げたいの?」
「う、ん」
この人は誰なのだろう。落ち着いた声ではあるが、どことなく幼さを感じる声にツキジは違和感を抱きながらも、聞かれるがまま返事をしてしまう。
「・・・・・ふぅん。じゃあいっそここから消えちゃうのは、どう?」
「え」
"少しの間だけでいい、ここから消えてしまいたい"
先程そう思った事をまるで見透かされたのと思う様な発言に、驚いたツキジ思わず蹲っていた体を起こしてバッと上を見上げる。
綺麗な緑色の青い瞳と目があった。ツキジは見たことの無いその瞳の色に見惚れてしまい、パチパチと瞬きを何度もする。
目の前にいたのは、肩まであるふわふわとしたミルクティー色の綺麗な髪の毛をなびかせた洋画に出てくる様な彫りの深い美しい顔立ちをした12歳、13歳くらいの少年だった。彼はツキジを見つめて綺麗に微笑む。
「・・・・じゃあ、決まり。君はここから・・・いや、この世界から消えるんだ」
彼は静かにそう言うと、ツキジが何か言葉を発する前に腕を強く引っ張られ、無理やり立たされる。
この子供のどこにそんな力が?と思うよりも早く、少年はツキジの腕を強引に引いて倉庫室から出て、真っ直ぐどこかへとズンズンと歩いて行く。
倉庫室から出てしまった事に気づいた瞬間、自分がマネージャーの元へ連れて行かれるのだと誤解したツキジは悲鳴を上げる。
「!?いやだっ!手を離して!もしかして君、私のマネージャーの向井さんから言われてここに来たのか?私を連れ戻すように・・・!!」
ツキジは完全にパニック状態になり、とにかく騒ぎまくるが、少年は無表情のまま、ツキジの言葉に一切答えようとはしない。
ーーーー嫌だ嫌だ、もう少し。せめてもう少し時間を下さい。心の準備が全然できない。というかできる気がしない。・・・・また吐き気が戻って来た。
「・・・人がいっぱいいる。これだと、バレちゃうかもしれないなぁ」
辺りを見回してめんどくさそうに少年は溜息を吐くがツキジの耳には届かず、ツキジは喉元まできているゲロをひたすら口から出さない様に下へと下げる事で必死になっていた。
「・・・・ツキジさん!!どこですか!ツキジさん!!」
「!!!」
突然ツキジを探すスタッフの声がすぐ近くで聞こえたツキジは思わず声を上げそうになるが少年の手が素早くツキジの口元を覆い、物置の影へと引っ張ってくれたおかげで見つからずに済んだが、その行動をした彼にツキジは疑問を抱いた。
「ぅっぶ・・・あ、あの、何で隠れたの?今から私を向井さんの元に連れて行くつもりなんじゃないのか」
「・・・・なにそれ?今から君は消えるんだよ」
「え、でも、んん?」
ツキジを匿ってきてくれたところによるとこの少年は向井さんの差し金ではないらしい。けれどそれならば、一体この子は何なのだろう。何の目的があってツキジをどこに連れ出すつもりなのだろう。
混乱と吐き気のせいで頭が回らないツキジに、謎の少年はおかまいなしに「上へ繋がる階段、どこ?」と訪ねてくる。
「え、えっと、そこの角曲がって、すぐ・・・」
ツキジは回らない思考を一旦頭の片隅に置いたまま、素直に階段の場所を思わず答えてしまう。
・・・けれどその瞬間、
「ツキジ・・・さん?見つけましたよ!ツキジさん」
先程とは違う別のスタッフに見つかってしまいツキジは今度こそ「うわっ」と声を上げて少年にしがみつく。
ツキジの名を呼んでこちらに向かってくるスタッフを見て、少年は心底面倒臭そうな顔をして顔を歪める。そして「何だ、結局バレるのか」と舌打ちをした。
スタッフはツキジの横にいる少年の顔を見た瞬間、驚いた様に目を見開き、「その子は・・・」と言いかけるも、今はそんな場合ではないと思ったのか気にする素振りも見せつつも言葉を引っ込めた。
「ツキジさん、さあ戻りましょう。向井さんも俺達も困っています」
「い、嫌だ・・・待って、あ、あ、あと少しだけ・・外の空気を吸わせて・・・・」
「そんな事したらツキジさんそのままとんずらするでしょう」
スタッフの最もな言い分にツキジは冷や汗を垂れ流し、再び緊張とプレッシャーが舞い戻り、自分の貧弱なお腹をギュッと絞られたような感覚になる。
「う、ぐ・・・・」
もう、限界だ。そう悟ったツキジは逆流してきた胃の中の物を仕方なく迎える為に口元を抑えた。
一方少年は頭を乱暴にガリガリと掻くとツキジの腕から離した手をそのままスタッフの方に向けて苛ついた様に「ねぇ」と呟いた。
「時間無駄にしたくないんだ。そこ、どいて」
少年はパーにした手のひらを、そのままツイ、と右に小さく振った。
‥‥それと同時に、ツキジの肩を掴もうとしていたスタッフの左腕が曲がってはいけない方向にぐにゃりと曲がる。
絶叫が響いた。
その後、膝から崩れ落ちたスタッフはしばらく声にならないうめき声を出してのたうち回る。
ただ目の前の状況が理解できず、呆然としていたツキジはツン、と酸っぱい刺激臭を感じて我に返った。・・・手元を見ると自分の吐き出したらしい嘔吐物で汚れており、その汚れと臭いで再び吐き気が舞い戻る。
ーーーーあれ、私いつの間に吐いちゃったんだろう。
ツキジはぼんやりとそう思いながら、無意識に再び「ぅ”え”っ」と小さく声を漏らしてまた吐いてしまう。
ーーーー何これ。どっきり?
ツキジは頭を混乱させながら口元を手で覆い、鼻にくる激臭に目元を潤ませているとすぐ隣で狂った様な笑い声が聞こえてハッとする。
「綺麗に曲がったね」
左腕が折れてしまい、苦痛に顔を歪めるスタッフの姿を見て、壊れた笑い袋の様に延々と笑い続けるその姿は天使というよりも悪魔の様に見えた。
これは夢なのだろうか。と一瞬思うも、夢でなかったら目の前のスタッフの人はずっと苦しんだままになってしまうと考えたツキジは、なぜ急に腕が折れてしまったのかという疑問は一旦置いておき、すぐにスタッフに駆け寄ろうとするが、すぐさま少年に腕を掴まれる。
「どこにいくの?」
少年は急にスイッチが切れたかの様に笑い声をピタリと止め、血が通っていない様な冷たい声でそう言うと、先程よりも強い力でツキジの腕をギリギリと握りしめた。
「い、いだあっ・・・スス、スタッフさん、助けないと・・・救急車・・・・」
「なにそれ?これ以上僕を苛つかせるつもりなの?なんで思い通りにならいのかな」
ツキジの腕を掴む力の強さから、少年の苛つきが直に伝わってくるのを感じ、ツキジは恐怖を感じながらも呼吸を落ち着かせて言い返す。
「と、とりあえず、離して。スタッフさんを助けないと・・・それから君の話はいくらでも聞くから、お、お、お願いだよ・・」
ツキジはそう言うと同時に、頭の中ではどうかこれが夢かどっきりであってほしいとただただ必死に願うばかりだった。
ーーーーもういい加減どっきりのプラカード持って来てよ。マヌケな音流していいんだよ。それか夢ならさっさと覚めておくれよ。今の自分は布団の上で寝ているだけなんだろう?そうだろう?
けれど痛みのあまりとうとう涙を流しながらうごめくスタッフの姿も、目の前の少年の見た事の無い様な綺麗な色の瞳もあまりにもリアルで、夢やどっきりでない事を目の前の全てが証明している様でツキジは頭がおかしくなりそうだった。
「・・・・・」
冷たい眼でツキジを見つめていた少年が口を開いて何かを言いかけるが、突然ツキジの名を大声で呼ぶ声にかき消されてしまう。
「ツキジ!!やっと見つけた・・・!ってやっぱりまた吐いちゃったの!?」
「!」
聞き慣れた声にツキジは思わず「向井さん」と安堵の声を上げる。声の主はツキジのマネージャーである向井のものであった。・・・数分前までは、この声から逃れたくて仕方が無かったというのに今はこんなにも安心するなんて皮肉なものだ。
向井はツキジに駆け寄ろうとするも、左腕が折れて苦しんでいるスタッフの姿が目に入った瞬間、この状況が唯事では無い事を感じたらしく、ピタリと足を止めた。
「ツキジ、この人は・・・」
「む、向井さん、すぐに救急車を呼っ・・・」
ツキジが向井に向かって声を出すと、少年はすぐさまツキジの口元を覆い、耳元で「声を出したら、今度は彼女の腕を折るよ」と囁いた。
「!」
少年の声にツキジは涙目で頷くしかなかった。向井は説明を求めるかの様にツキジと少年を見ていたが、現在進行形で苦しむスタッフを放っておけず、仕方なくスマホを取り出して救急車を呼ぼうとする。
・・・その隙を見て、少年は再びツキジの腕を掴み、先程ツキジが教えた上へ繋がる階段がある方向へと走り出した。
「あ、ツキジ!!だめよ!戻って!!ツキジ!!!」
ツキジを呼び戻そうとする向井の悲痛な叫び声にツキジは全力で「向井さん!」と返事をしたかったが、ただ不安そうな顔で振り向く事しか出来ず、ツキジは唇を噛み締めた。