シンシアとヴラド
「つまり、ヨハン様が世界で七人しかいない、えらい地位につかれると言うことよ。とってもおめでたいことなの」
シンシアのわかりやすい説明に、ジュリアはにっこりと天使の微笑を見せる。
「ヨハン様、おめでとうございます」
「ふふふ、少し気が早いよジュリア。でも、もう内定はもらってるようなものだから、前祝くらいはしてもいいかな。明日はいよいよ、選帝侯の任命式だしね」
ジュリアへ微笑み返したヨハンに、シンシアが問う。
「明日は、直接王宮へ向かわれますの?」
「いや、先にヴラド公のところへ寄ってから行こうと思っている」
「もう、あちらへはご連絡を?」
「いや、まだだ」
「それなら……」
シンシアは、真剣な表情でヨハンを見た。
「明日は直接向かわれたほうがよろしいのでは? 僭越ではございますが」
「どうしてだい?」
「ヴラド公とヨハン様が懇意になさっていることは、皆様もう、よくご存知でしょう。けれど、それでも目の前で仲良く登場なされては、要らぬ刺激をしてしまうのではないかと思うのです」
「なるほど、それもそうだな。いや、さすがはシンシアだ。僕が選帝侯として正式に任命されたら、人間の副官は君を任命しようか」
「ふふふ。そのときは、もちろん喜んでお手伝いいたしますわ。もっとも、副官の仕事に、お洗濯や身の回りの世話、というのがあればですけれど」
シンシアの冗談へ快活に笑うと、ヨハンは晴れの舞台へ向かった。
ヨハンを乗せた車を見送った後、シンシアはいそいそと身支度を始める。
それを見てジュリアが不思議そうな顔をした。
「シンシアさま、どちらにゆかれますの?」
「ちょっと、ナディア様のところへ」
聞くなりジュリアは、ぷうと膨れる。
「私、あの方嫌い。なんで姉さまは仲良くするの?」
「大切な方だからよ」
「え~?」
「もう少ししたら、ジュリアにもわかるわ。それじゃあ、お留守番お願いね? セバスティアンの言うことを聞いて、しっかりこのお屋敷を切り盛りして頂戴。できるわね?」
一人前に仕事を与えられて、ジュリアは満足そうにうなずいた。
やがて小さなスクーターに乗って、シンシアはナディアのところへ向かう。
ナディアはすでに、任命式へ出かける準備を終えていた。
ヨハンの晴れ舞台に、本人よりも興奮しているようである。
「あら、シンシア。かわいらしいものに乗ってきたわね。後で、私も乗せてくれない?」
「まあ、ナディアさまったら。もう、すっかり準備は整っていらっしゃるようですね」
「もちろんよ。ヨハン様の晴れの舞台ですもの」
「じつは、もうひとつおめでたい話を持ってきました」
「なに?」
何気なくそう聞いたナディアは、次の瞬間、言葉を失った。
「任命式の後の晩餐会で、ヨハン様ったら、ナディア様に求婚なされるかもしれませんよ?」
「な……」
「今朝、チラッとそんなことを言ってらっしゃいましたから」
「シンシア……」
みるみると。
ナディアの瞳に、大粒の涙がたまってゆく。
「よかったですね、ナディア様」
「シンシア……ありがとう……シンシア……」
「ほらほら、せっかくのお化粧がはげてしまうじゃないですか。お荷物はお車に運んでおきますから、お化粧を直してらしてください」
「うん……ありがとう」
ナディアは、突然の喜びに目もくらむ思いなのだろう。よたよたとおぼつかない足取りで、化粧室へ消えた。
シンシアはナディアの荷物を抱えると、車の方に向かってゆく。
それからしばらくして、ナディアが化粧室から戻ってくると、シンシアは香りの高いお茶を用意していた。
「ハーブが入っていて落ち着きますから。おうちの方にお願いして、持ってきていただきましたの。熱いですから、ゆっくりお召し上がりくださいね」
「ありがとう……ああ、おいしい。ねえ、シンシア。私、なんだか夢でも見ているみたいよ。足元がふわふわして頼りないみたい。ああ……でも、なんて幸せなんでしょう」
「本当におめでとうございます。ちょっぴり悔しいですけれど、ヨハン様が幸せになられるのですし、ナディア様とも、今ではこうして仲良くしていただいてますし、私もうれしいですわ」
シンシアがにっこり笑ったので、ナディアはまたもや涙をこぼしそうになる。
「泣いちゃ、だめですよ。涙はもう少し後まで、取っておいてくださいね」
ナディアの手をとったシンシアは、ニコニコと微笑みながら、車へ向かった。
やがて車は、王宮に到着する。
人間のシンシアは、王宮の正門から先は通ることを許されない。
何度も礼を言うナディアに向かって微笑んで見せると、彼女の後姿を見送ってから、シンシアはそそくさと王宮の裏手に回った。そこには、黒塗りの大きな車が一台、目立たぬように停まっている。
シンシアが近づくと、かちりとロックの外れる音がした。
シンシアは黙ってそのまま、車の後部座席に乗り込んだ。
「やあ、シンシア。やっと会えたね。早く君を抱きしめたくて、気が狂いそうだったよ」
甘い言葉を漏らしたのは、今日ヨハンとともに、選帝侯の任命を受ける、ヴラド・ドラキュラその人であった。シンシアは優しく笑うと、ヴラドの胸の中に身を預ける。しばらく抱擁した後、ヴラドはシンシアの髪をなでながら聞いた。
「それで? ナディアはどうした?」
「ヨハン様が結婚を申し込むつもりだと言ったら、めまいを起こすほど喜んでましたわ。薬なんて飲ませなくても、充分取り乱してます」
それを聞いて、ヴラドは薄く笑う。
「気の毒なものだ。いや、そうでもないか。本来なら相手にもされていない上に、選帝侯になるとあってはますます不可能な男と、一時的とは言え、結婚できると思っているんだ」
「好きな人と結ばれるのは、幸せなことですわね」
「それがたとえ、幻想でしかなくてもな。では、シンシア。君は幸せか?」
ヴラドの言葉に、甘い微笑を見せて寄りかかると、シンシアは小さくうなずいた。
しかし、その表情は晴れない。
「どうした? 私のことが嫌いになったか?」
シンシアは、ぶんぶんと頭を振る。 それから、消え入りそうな声で言った。
「十年もすれば、私は老いてゆきます。でも、ヴラド様は今の精悍なお姿のまま、お若いままでいるのです。そうしたら、私はきっとお邪魔になるでしょう? もちろんそのときは、お邪魔にならぬように消えてしまうつもりですけれど 、そのときのことを思うと悲しくなるのです」
とシンシアのか細い声が言うのを聞いて、ヴラドは大げさに驚いて見せた。
「何を馬鹿な。そんな心配はいらない。私は、選帝侯になるんだぞ? 世界中のありとあらゆる技術で、君のその美しさをとどめさせるさ。実は、まだ実験段階だけれど、人間を貴族のように長生きさせる方法も、開発されているんだ」
「本当ですの?」
「ああ、本当だとも。だから君は、そんな心配をしないで、私のそばにいてくれればいい。これが終わったら、『主のいなくなった』君は彼の親友である私の元へ、何を疑われることもなく来ることができるんだからね」
「ああ、うれしい。ナディア様がね、言っていたことがあるんです」
「なんだい?」
「女は、恋に生きるものだって」
瞳を輝かせて、シンシアは微笑んだ。
ヴラドはやさしく髪をなでながら、うなずく。
やがて。
「それではヴラド様。そろそろ私はゆきます」
「ああ、気をつけて。見つかったら大事だから」
「大丈夫ですわ。お任せください」
にっこり笑って手を振ると、シンシアは車を出て、宮殿の裏へ歩いていった。
車に残ったヴラドは、ほうとため息をついて独り言ちる。
「これでシンシアがヨハンを殺し、その罪をナディアにかぶせる。ナディアは調べられ、体内と荷物の中から非合法の薬が見つかる。取り調べようにも、大量の薬を服用したナディアには、筋の通った話はできない」
貴族にも効果のある向精神薬は、帝国でもご法度である。
使用者や売買したものは、厳しい罰を受けることになる。
「ヨハンは切れ者だから、組んでもよかったんだがな。やはり若い選帝侯は、私一人で充分だ。将来、敵になる可能性のある芽は、摘める時に摘んでおくに越したことはない」
薄ら笑いを浮かべると、ヴラドは車を出させた。晴れやかな式に怪しげな車では人目を引いてしまうから、一度戻って乗り換えるのだ。
「それにしても馬鹿な女だ。私が人間の女など、本気で相手にすると思っているのだからな。まあしかし、あの女の言うことにも一理ある。女というのは、確かに恋に生きるものなのだろう。これだけ明白に利用されていても、気付かないのだから」
いつもの、唇の端を曲げる薄笑いを浮かべたヴラドを乗せて、車は路地裏へ消えた。