ナディアと宝剣ディミトリエ
晩餐会には、たくさんの大貴族が集まった。
大貴族とは、貴族の上に君臨する貴族である。一般貴族との身分の差は、同じ『貴族』の字を当てるのが虚しくなるほど、歴然としている。
『審判の日』以前で言うところの平民と貴族くらいの差があると言えば、理解しやすいだろうか。
そんな大貴族の、それもヨハンよりもはるかに年長の人々が、追従の笑みを浮かべて彼に群れ集まってくる。が、それも無理からぬことだろう。
なんと言っても当主のヨハン・フォン・カンテミールは、まだ110歳の若さですでに、大貴族の中でも一二を争う有力な、いわば大大貴族『カンテミール家』の頂点に立つ。
彼らの長なのだから。
ヨハンがカンテミールの長であるのは、しかし、血統によるものではない。
有力な大貴族の長であるということは、莫大な富を有し、さらにそれ以上の莫大な富が、延々と途切れることなく己の下に集まってくることを意味している。
当然、カンテミール家の中にも、長の座を狙うものは多い。
あるものは表立って、あるものは水面下で。
そんな陰謀の渦巻く、権力争いと言う嵐の中を、ヨハン・フォン・カンテミールは、鋭敏な頭脳と冷酷さ……シンシアたち家の者に見せる穏やかでやさしい姿からは想像もつかない冷酷さで、戦いぬき、勝利し続けたのである。
そして二年前、ヨハンはついに、108歳の若さで、カンテミール一族の頂点に君臨したのだった。
その激しく冷酷なやり方と飛びぬけた美貌から、若き当主は「カンテミールの狼」と呼ばれていた。
もっともこれは、カンテミールがタタール系であることも、関連がないとは言えない。 カンテミール家は、モルダヴィア出身の貴族で、チンギス・ハーンの血を引くとも言われるタタール貴族である。
狼と言う形容も、この遊牧民の血がさせるものなのだろう。
タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、本来、その名が用いられる時代と場所によって、指し示す民族は異なる。
が、彼らカンテミールの場合に限れば、北アジアのモンゴル高原から、東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動した、モンゴル系、テュルク系、ツングース系の民族を指すと考えていいだろう。
もっとも、どちらにしてもそれは、はるか数世紀前の話。
彼らがまだ、『現在の意味での貴族』ではなく、人間だったころの話だ。
「ヨハン様、お久しぶりです」
涼やかな声に振り返えったヨハンの前に、精緻な刺繍に飾られた純白のシルクのドレスに身を包んだ、美しい女性が立っていた。もっとも美しくはあるが、彼女のそれはしかし、朝露に輝く可憐な花の美しさではない。
しなやかでたくましい、野性味にあふれた、と言う類の美しさだ。
自信に満ちた、その動きの一つ一つは、彼女自身が自分の美しさを、その魅力が他人に与える影響や、その魅力の使い方をも含めて、充分に理解していることを物語っていた。 その傲慢さが、ヨハンには少々鼻につくのである。
彼は、この従姉妹の女性を、あまり好きになれないでいた。
「ナディアか。久しいな」
穏やかだが、抑揚の平坦なそっけないセリフで迎えられ、美貌の女性、ナディア・フォン・カンテミールは、一瞬、鼻白む。しかし、生来の気の強さが、そのまま彼が去ることを許さなかった。
きびすを返して去ろうとするヨハンに、追って言葉をかける。
「ヨハン様、お待ちください」
ヨハンは明らかに不機嫌な様子で振り向いた。
しかしナディアは、そんな彼の不機嫌を見取りつつ、わざと気づかない振りをして、完璧に計算された無邪気な笑顔を見せる。
「少しお話があるのですが、よろしいでしょうか?」
「すまないが、これから……」
「カンテミール家の、いえ、貴族社会の根幹に関わる、大事なお話なのです」
そう言われてしまえば、カンテミールの長としては、無下に取り合わぬわけにもゆかない。
ヨハンは、大きくため息をついて、肩をすくめた。
「……仕方ないな。わかった」
ナディアはにこりと、天使の笑顔で微笑んだ。
その笑顔の完璧さに、イライラしながらヨハンは問う。
「それで? いったいどういった話だ?」
「ここで話すわけにはゆきませんのよ。どこか、人目のないところで」
しばらく考えてから、ヨハンはうなずいて、きびすを返した。カツカツと歩くその後を、伏せた顔をほくそえませながら、ナディアが続く。
二人は、大広間の隣にある休憩室に入った。
休憩室とは言っても、その広さは広大で、端から端まで歩くのに数十秒を要するほどだ。 そこにしつらえられた、休憩用の長いすにどっかりと腰掛け、ヨハンは長い足を組む。普段なら人一倍礼儀正しい彼が、女性より先に座ったのは、ナディアに対する不快の表れだろう。
「で?」
もとより、不機嫌なくらいで、ひるむようなナディアではない。当主の短い問いに、敢然と顔を上げ、それでも微笑みは絶やさずに言った。
「中興祖アドリアン様の発見した、宝剣ディミトリエのことです」
アドリアン・フォン・カンテミールは、カンテミール家の中興の祖といわれる。
もともと、カンテミール公爵家は19世紀に後継者が絶え、断絶したと言われていた。
しかし、カンテミールの姓を持ち、それを研究し続けていた在野の研究家、アドリアン・カンテミールによって、20世紀以降も細々と生き残っていたことが証明された。
アドリアンは考古学者の友人や歴史学者の友人とともに、カンテミールの歴史をさかのぼり、ついにそれを証明する遺物を発掘した。
それが、有名な宝剣ディミトリエだ。
ところがその証拠は、なかなか受け入れてもらえなかった。 閉鎖的な、貴族社会の常である。
『審判の日』以降、人類の上に君臨する貴族たちは、これ以上『大貴族』が増えることを、好ましく思わなかったのである。
アドリアンは、それからの一生を、カンテミール家の復興にささげた。
彼の死後、その仕事は息子に受け継がれる。息子は、彼の血統が貴族であることを証明するために、世界を奔走し続けた。そしてついに、彼の努力は報われる。
カンテミール家は大貴族としての地位を認められた。
世界が大変貌を遂げた、『審判の日』から数えて1580年。
アドリアンが最初の主張をしてから、224年の月日が流れていた。
その後、大貴族を意味するフォンの名を与えられた、アドリアン・フォン・カンテミールは、カンテミール家の中興の祖と呼ばれ、崇め奉られた。
現在では、カンテミール家の守護神のような存在である。
カンテミール家はその後どんどんと力をつけ、いまや、大貴族の中でも、もっとも有力な家のうちのひとつに数えられるほどとなった。
そしてカンテミール家の存続を証明する証拠となった宝剣ディミトリエは、カンテミール家の家宝として、代々の当主によって厳重に保管されるようになった。
現在はもちろん、ヨハンの屋敷にある。
「宝剣ディミトリエが、どうしたというのだ」
さすがに興味を引かれて、ヨハンは身を乗り出した。
「盗み出そうと言う者たちが、います」
ナディアはその言葉を、まるでヨハンに与える効果を観察するように、はっきり発音した。
ヨハンはしかし大きく息を吐いて身体をソファに沈めると、元の不機嫌そうな顔に戻って薄く嘲笑を浮かべた。
「なんだ、そんなことか。くだらない。従姉妹殿ともあろう方が、そのような話で大騒ぎされるとは、らしくないな。隣の部屋にひしめいている貴族の中で、カンテミールの姓を持つほとんど全員が、それを常に考えているだろうよ」
ナディアは、わかっているとばかりに、うなずいた。
「ディミトリエを盗み出せば、当主様の責任を問い、今の地位から追い落とすのに最も早道ですものね。そして盗み出したディミトリエを、自分が見つけたと訴え出れば、次期当主の席がぐっと近づく。でもね、当主様。私が言っているのは、そんな連中のことじゃないんです」
「ほう」
つむっていた片目を開けて、胡散臭そうな表情のまま、ヨハンは従姉妹の言葉を待つ。
「今回ディミトリエを盗み出そうと狙っているのは、そんな生易しい相手ではないのです」
「だが、盗人はしょせん盗人だ。貴族ではないのだから、恐れることもあるまい。人間など何人こようとも、貴族に歯が立つものではないのだから。たとえば、女性のあなたにでさえ」
彼ら貴族が少々本気を出せば、肉体的に太刀打ちできる者は、人間の中にはいない。
ヨハンが言うように、可憐な女性でさえ人間に比べて十数倍の筋力と反射神経を持っている。
だからこそ、彼らは『貴族』なのだ。
「その連中の中には、たくさんの貴族が混じっているのです。信じられないでしょうけれど」
「なに?」
今度は明らかに、ヨハンの興味を引いたようだ。
そのことを見て取ると、満足そうに笑ったナディアは、得意気に説明を続けた。
「刹那に生きる平民ではなく、400年の生を持つ我々と同じ貴族であるにもかかわらず、人間に混じって、人間とともに生きる者がいるのですよ。奴隷や召使ではなく、友として」
人間を友と呼ぶ貴族を想像したのだろうか。ヨハンは不思議そうな顔をしたが、ナディアはそんなことには頓着しない。知らんフリを決め込んで、話を続ける。
「それもひとりやふたりではありません。明確な数はわかりかねますが、彼らはかなりの人数を集め、大掛かりな組織を作っているようなのです」
「組織……その者たちの目的はなんなのだ? 大掛かりな窃盗団なのか?」
「まさか。そんな程度の話であれば、わざわざ当主様のお時間を取らせたりしませんわ。もちろん彼らの目的は、単にディミトリエを盗み出すことにはありません」
「では、いったい何が目的なのだ?」
ナディアはわざとすぐには答えず充分な間を取って、彼女の言葉の衝撃が、最も効果的に相手に衝撃を与えるように、はっきりと大きな声で言った。
「彼らいわく、『平等な社会』が目的なのだそうです。『人間にも貴族と同じ権利を与えよう』というのが、真の目的なのだとか。そのためにディミトリエだけでなく、他の大大貴族のよりどころとなる家宝や、重要人物を狙っているのだ聞きました」
「ばかな」
呆れを通り越し、ヨハンは思わず笑ってしまった。
「貴族と大貴族の貧富の差の是正だとか、そう言う類の話とはワケが違う。平等だの、権利だのと言うのは、別の生物に対して持ち出す話ではない。そのうち、犬や猫にまで権利を与えろなどと言い出すのではないだろうな?」
「ですが、ヨハン様」
厳しい口調に、ヨハンは笑いを引っ込める。
「なんだ?」
「笑い事ではないのです。彼らは実際に力を持ち始めているのですよ。貴族一人あたりに、何十人もの人間が手下につき、彼の手足となって動きます。人間は寿命も短く、体力も脆弱ですが、それだけに考え方も刹那的です」
「それがどうした」
「刹那的なだけに、彼らは、我々よりも死を恐れません。いわば、働きアリのようなものです。貴族が頭となり、その手足となって働くには、むしろ適した生物だと言えるのです」
「彼らが死を恐れないというのは、うなずけないな」
「一人ひとりは、むしろ臆病でしょう。ですが、敵であるはずの貴族が味方となり、彼らの頭となったとき、彼らは個々の個体の能力を超えた、集団生物として機能します。まさに、アリのごとく」
「おろかな」
「その愚かさが、脅威なのです。愚かであるがゆえに、希望を与えてやればたやすく熱狂し、彼らを操ろうとする貴族の描いた架空のパラダイスに向かって、集団暴走し始めるのです」
ナディアの表情は真剣だった。
そして、その話を聞くヨハンの顔にも、今や彼女に対する嫌悪はない。
貴族社会の危機なのだから、それどころではないと言うところなのだろうか。
考え込んでしまったヨハンのそばで、ナディアは穏やかな笑みを浮かべたまま、じっと座っていた。
と。
こんこん。
扉をノックするものがある。
ヨハンが黙ったままなので、ナディアが代わりに答えた。
「おはいり」
ぎいと重い扉を開けて入ってきたのは、メイドのシンシアと、お盆に飲み物を載せた見習いメイド、ジュリアだった。
ヨハンが休憩室に入るのを見て、酒に弱い彼が悪酔いしたのだろうと、さわやかなミントで香りをつけた、冷たい水を持ってきたのだ。
「ヨハン様、お加減は大丈夫ですか?」
シンシアの問いに、しかし、ヨハンは気づかない。
ジュリアは無言のまま、お盆を持ってヨハンに近づく。
無垢なその顔には、心配そうな表情が刻まれている。
「ヨハン様……?」
ジュリアの心細げな声で、ようやく我に帰ったヨハンは、いつものように優しい笑顔を浮かべてミント水を受け取ると、ジュリアの柔らかな金髪を優しくなでて言った。
「ありがとう、ジュリア」
ジュリアは顔を真っ赤にすると、うれしそうに何度もうなずく。
その様子を微笑ましく見守っていたシンシアは、自分に向けられる鋭い視線に気づき、ナディアへ穏やかに会釈しながら上手に視線をはずした。 ナディアは明らかな敵意を浮かべて、シンシアに話しかける。
「私にも、いただけるかしら?」
「かしこまりました」
ナディアの冷たく凍った声にもまったく動揺を見せず、シンシアはガラスの水差しからミント水を、華奢なつくりのグラスに注ぐ。凝った意匠を施した銀製の盆に載せ、ナディアの前に差し出した。
ナディアは優雅なしぐさでそのグラスを受け取ると、そのまますぅと指の力を抜く。グラスが指を離れる寸前、指先で軽く引っ掛けると、指先をひらめかせた。
貴族の強力な筋力によって、グラスは水をたたえたまま、シンシアの胸元に飛んでゆく。
ミントの香を撒き散らしながら華奢なグラスはまっすぐ飛んで、シンシアの首飾りの銀に当たり、か細い悲鳴を上げて砕け散る。
そばで見ていたジュリアが、思わずひっと息を飲んだ。
それでも悲鳴を上げないのは、日ごろの訓練の賜物だ。
グラスをぶつけられたシンシアは、もちろん毛ほどもうろたえず、「失礼しました」とわびながら、手早くグラスの破片を片付ける。その平然とした姿に射るような視線を浴びせつつ、ナディアは唇の端だけを曲げた。
ヨハンは警戒した低い声を出す。
「ナディア、いったいどう言うつもりだ? 私付きのメイドに対する今の謂われない非礼は、私に対する反意を含んでいるとも取れるが? まさか、故意ではないなどという言い訳をする気ではあるまいな?」
「申し訳ありません」
ことさら丁寧に頭を下げてから、ナディアは反撃する。
「ですが、これもヨハン様のためを思ってのことと、お許しください。先ほども言いましたが、宝剣ディミトリエを狙う連中は、人間を使うのですよ」
ここで言葉を切ると、ナディアはシンシアをにらみつけながら言った。
「人間を、ね」
その意味するところに、ヨハンはあからさまな不快を表す。
「シンシアが、手先だとでも言う気か? 愚かな」
「なぜ、愚かなのです?」
「ありえん。シンシアは20年の間、私に仕えてくれているのだ。我々の20年とはワケが違うぞ? 我らに換算すれば、およそ60から80年にも相当するだろう長い間、彼女はまったく私心なく、私のために働いてくれているのだ」
「ですが……いえ、申し訳ありませんでした。浅慮をお許しください」
あっけなく引き下がったのは、しかし、ナディアの作戦であった。
ここで力押しにしても、当主に通用しないことは、彼女自身が一番良くわかっているのだ。
とりあえず、疑惑の種をまいたことで、目的は充分に達せられたと言えるだろう。
当主が長く席をはずしているので不審に思って探しにきた貴族が、扉をノックしたのを契機に、その場はそれで解散になった。
ヨハンは何事か考え込むときの癖で、長い前髪をかき上げながら、探しに来た貴族とともに、晩餐会場へ向かった。
ナディアはシンシアにもう一度鋭い視線を浴びせると、それきり、まるで彼女らなど存在しないかのように無関心な表情を作って、ヨハンの後を追う。
その表情からは、何も読み取ることはできない。