婚約を解消した時、あの人が秘密にしていたことを初めて知りました
馬が石畳を踏む音が規則正しく響いてくる。
私、カタリナは実家のヴィルホール子爵邸に帰る馬車の中にいた。
全寮制の王立学園に入学してから一度も帰っていなかった。
本来ならば久々の帰省で喜ぶか、家族と会えることを嬉しく思うべきなのかもしれない。
けれど今の気持ちは全く逆だった。
「お父様に何と報告したら良いのかしら」
その問いに答えが出せず、頭でぐるぐると回っている。
考えているうちに子爵邸が見えてきた。黒い柵で囲われた、真っ白な屋敷が遠目からでも視認できる。
その時だった。
一音、一音、丁寧に置いて行くような、滑らかなメロディーが、耳元で聞こえた気がした。
優しく、包み込むような旋律だった。
私は耳を澄ました。けれどその時既にメロディーは消えていて、車輪の回る音と、馬の足音しか聞こえなくなっていた。
※ ※ ※
物心がついた頃、既に母はいなかった。朝から夜まで仕事に明け暮れる父に愛想を尽かし、男を作って出て行ったらしい。
5年ほど前、その話を侍女長のマデラに聞いた時は「私だって出て行きたいのに、お母さまだけずるいわ!」と思ったことを覚えている。
我がヴィルホール子爵家は領地は少ないものの、資金不足に陥ることは無かった。父が始めたギルド経営がうまくいっているからだ。
父がお金をつぎ込む先は、私の教育だった。
幼いころから淑女教育を始め、様々なレッスン、勉強に明け暮れてきた。いや、明け暮れさせられたというべきなのだろう。
歩き方の訓練では血豆が出来る程だったし、眩暈がするほどダンスのレッスンが続いたこともある。
勉強の中には法律学や経営学、そして簿記など、おおよそ10歳そこそこの令嬢が学ぶようなものではないものも含まれていた。
故に教育には一日の多くの時間を費やさざるを得ず、同世代の子供たちと遊んだ記憶はあまり無い。私にとって灰色の時代だ。
仕事が忙しいのは理解しているつもりだった。けれど、私には厳しく過酷なレッスンを強制しておいて、自分は朝から夜まで外に出ている父を憎々しく思った。
私が辛い思いをしていても父は殆ど傍に居ない。誕生日プレゼントはくれるけれど、普段から接点が薄すぎて、何を貰ってもそんなに嬉しいとは思えなかった。
父と顔を合わせるのは朝食を取る時だけだ。言われることは決まっている。
「最近、調子はどうだ?」だ。
弱音を吐きたいときもあったけれど、ずっと私を放って仕事ばかりしている父に屈するみたいで嫌だったので
「特に変わりはございません」
と答えるようにしていた。
それだけの会話が、私が15歳になり、王立学園に入学するまで続いた。
けれど、その王立学園であんなことが起こるなんて……。
◆
入学する少し前、サマセット伯爵家の次男、ギャラハッド様との婚約が成立した。
サマセット家も我が子爵家と同じくギルドを経営していた。
父が経営しているのは鍛冶屋などを集めた職人ギルドだが、彼らが経営しているのは冒険者ギルド。
冒険者の武具修理を職人ギルドで請け負ったり、逆に、鍛冶屋が必要としている素材を冒険者に取ってきて貰ったりして、これまでも協力関係にあった。
そしてこの婚約を機に、本格的に業務を提携して、より多くの利益を得ようと考えていたのだ。
サマセット伯爵家はうちより資金面で豊富だし、ギャラハッド様は同い年だ。目鼻立ちの通った礼儀正しい人で、第一印象は悪くなかった。
私は一人っ子なので彼は婿入りという形になるけれど、それについても快く了承してくれていた。
しかし王立学園に入学してからすっかり彼は変わってしまった。
私とギャラハッド様は婚約者。一緒に居るのが普通だと思っていた。けれど私たちが一緒に昼食を取ることは稀だったし、いつも違う人と居たように思う。しかも彼が行動を共にしていたのは、あまり素行が良くない男子たちだった。
やがて彼は、一人の女生徒と仲良くなる。サロメという商家の娘だった。
昼食を取る時も、休み時間も、いつもギャラハッド様ははサロメ嬢と一緒に居た。
胸が痛んだ。「ただの友達」と彼は言い張っていたけれど、そうでないのは明白だった。
ある日、決定的な事が起こる。
二人がキスをしているところを目撃してしまったのだ。
私の中で我慢の糸が切れた。問い詰めて「この婚約を解消したい」と主張した。しかしギャラハッド様の返答は予想外だった。
「それは出来ない」
「どういうことですか?」
「これは親同士が決めた婚約だろう。僕たちだけでそれを無しにする力は無いよ」
「では、サロメ嬢とは別れて頂けるのですか」
「それも出来ない」
一瞬、彼が何を言っているのか分からなくなった。婚約を解消しないし、サロメ嬢とは別れないという。理解が追い付かないまま黙っていると、彼は勝ち誇ったように続けた。
「君は何か勘違いをしているようだけれど、両家の立場は全く違うだろう。我が伯爵家は多くの冒険者を抱えるギルドを経営している。対して君の方は小規模の職人ギルドに過ぎない。今だって、うちのギルドから仕事を回してもらって何とか仕事が回っている状態。分かるかい? そんなの僕の指先一つで、どうとでもできる」
明らかな脅しだった。つまり生かすも殺すも自分次第。そうされたくなかったら、言うことを聞けということらしい。
「心配しなくても、結婚してからサロメを子爵家邸内に入れるようなことはしないさ。まあ、外では好きにやらせてもらうけどね。どうせ君はギルド経営の仕事で忙しいのだから、僕が何をしていようが関係ないだろう?」
彼は私と結婚した後でも、サロメ嬢と別れるどころか、子爵家のギルド経営で入るお金で、悠々自適に暮らそうとしているのだ。
目の前が真っ暗になった。
私が女主人となり、一生懸命働いている中、その自分を尻目にイチャイチャしている二人の姿が目に浮かんだ。
けれど今の私に、彼らの提案をはねのける力も、気力も無かった。
今回実家に帰ったのはその報告をするためだ。父に事情を話したうえで「私は婚約を解消したいと思っているのですが、どうでしょうか」とお伺いを立てるのだ。
はっきり言う。
父に期待などしていない。
この婚約を決めたのは父。仕事が第一、最優先の人だ。相手が浮気をしていても、不誠実であっても、ギルド同士の結びつきの方が彼にとっては大事だろう。
そもそも立場としては圧倒的にサマセット伯爵家が上。解消など出来っこないと思った。
◆
久しぶりに会った父は少し痩せたようだった。
「よく帰って来たな」とか「会えてうれしい」とかいった言葉は彼の口から出てこない。
「お前が寄越した手紙でおおよその事態は把握しているがもう一度要件を話してくれ」
と早口に言ったのが一言目だ。
眼鏡を通しても鋭い目つきは分かる。父は白髪の混じった髪を後ろに流していて、それを撫でつけるようにしながら私の話を聞いていた。
聞き終わると
「分かった」
短く言い、屋敷を出て行ってしまった。久しぶりの親子の対面はそれっきりで終わった。
しかもその後10日間、彼は家に帰ってこなかったのである。
帰ってきたのは家を出て11日目の昼頃。
急に戻って来るなり、慌てて玄関に出迎えに向かった私に向かって、こう言った。
「ギャラハッド君を呼んでおいた。明日、ここに来る」
※ ※ ※
「本日はお招きいただきありがとうございます」
向かいに座ったギャラハッド様は、慇懃に頭を下げた。まさかまさかの状況である。
ここに至って、私は未だ父の思惑が分からないままだった。どうして、こんなことを?
不安だった。ギャラハッド様は弁も立つ。
もし婚約の解消をするために彼を呼んでいたとしても、寡黙な父が言いくるめられることもあり得る。
いや、婚約を推し進めたのは父。二人して私を説得する気なのかもしれない。
話し合いの中で、ギャラハッド様は胸やけのするような綺麗ごとを並べつつ、婚約を解消するつもりはないという主張を繰り返した。
その上で、あくまで丁寧に両家の力関係を引き合いに出し、こちらの要求を飲まねば困るのはそちらではないかと、暗に脅しをかけてきた。
「成程、君の主張は分かった。では次にこちらの主張をさせてもらう」
そう言って父は一度紅茶の入ったカップを傾けた。置いた時、彼の目が張りつめた弓の玄の如く鋭くなった。
「君は娘の婚約者に相応しくない。婚約を解消させてくれ」
予想外の返答だったのか、ギャラハッド様は目をぱちくりさせている。
「な、何を仰っておられるのですか、ヴィルホール子爵。そんなことをすれば両家の関係は……」
「うちも痛手を負うだろうな。だが娘の人生の前では無に等しい手傷だ」
私にも予想外の言葉だった。この時は庇ってもらえた喜びより、驚きの方が圧倒的に大きかった。
父は真っすぐギャラハッド様を見据えながら続ける。
「確かにこの婚約は俺と、君の父上で決めたものだ。婚約するに当たり、伯爵家のことも、冒険者ギルドのことも、そして君の素行もしっかり調べた。問題は見当たらなかった。当時は、ね」
父は一度、顔を手で拭う仕草を見せ、続ける。
「王立学園で悪い友達が出来たようだね。そして今、君は裏で別会社を作って、ならず者の冒険者を使って犯罪まがいの行為をしている」
ギャラハッド様の顔に、明らかな動揺が広がった。それは私も知らなかった情報。恐らく留守にしていた10日間で徹底的に調べ上げたのだろう。
「一度婚約を結んでしまえば、と考えたのだろう。だがそんなことをしている人間に、うちの娘をやることは出来ない」
「い、良いのですか。婚約を解消するというのなら、そっちのギルドは大損害を受けますよ。それに子爵、僕の稼業についてご存知ならば、断ったらどんな目に遭うか分かるでしょう」
ギャラハッド様の表情からは余裕が消え去り、不気味な笑顔に変わっている。
「その口ぶりだと、伯爵も、君の裏稼業を容認しているようだな」
父はため息をついた。そして再び鋭い視線を向ける。
「君は何か勘違いをしているようだ。うちのギルドはそっちの力を借りなくても、全く問題なくやっていけるのだ。まあ多少の損害は受けるが、我がギルドの顧客は貴族や騎士団も含まれる。職人たちの腕が良いからね。むしろ損害が大きいのは、うちで武器や武具を調達出来なくなる君たちの方ではないのか」
ギャラハッド様は言葉を詰まらせた。いつも饒舌な彼が、すっかり父の弁舌に太刀打ちできなくなっていた。
紅茶を一口飲み、父は再び口を開く。
「俺は怒りを感じている。自分自身にだ」
「自分に?」
「何故婚約前の段階で、君も、君の父上もろくでもない人間だと見抜けなかったのか、とね。そうすれば娘の貴重な時間を奪われずに済んだのだ」
ギャラハッド様は顔を真っ赤にして父を睨んだ。
「良いでしょう、婚約の解消については僕から父に進言しておきます。ですがあなたは我が伯爵家への宣戦布告を行った。必ずこの子爵家は大変なことになりますよ。きっと後悔するでしょう」
そう吐き捨てて彼は帰って行った。
※ ※ ※
ギャラハッド様が帰った後、父から「少し歩かないか」と言われ、一緒に庭を歩いていた。
白いユリが道の両端で、可憐に揺れている。
歩きながら、私は父に対して様々な思いを巡らせていた。
私の前ではいつも無口で、愛情なんて感じられなかった父。その彼が、あんなにも必死で私を庇ってくれるなんて、思いもしなかった。
「お父様、ありがとうございます」
「カタリナ、すまない」
私たちの言葉はほぼ同時に発せられた。言葉を続けたのは父の方だった。
「父さんがしっかりしていれば、お前に辛い思いをさせずに済んだのにな」
しみじみと言った。その言葉からは、私をいたわる心が伝わって来た。
正直なことを言う。私はこれまで父からは政略結婚の道具としてしか扱われていないのだと思い込んでいた。付加価値を高めるために、私の気持ちも顧みずレッスンや勉強を詰め込みまくっていたのだと。
確かにその側面はあったのかもしれない。けれど片面では、父はずっと、私のことを思ってくれていたのだ。
でなければギャラハッド様を、伯爵家との関係をないがしろにしてまで、あんな強い言葉で批難したりしない。
子爵の立場であの態度を取るのは、かなりの覚悟がなければ出来ない行為だ。
「……お父様のせいではありませんわ。これもちょっとした社会勉強だと思うことにします」
父に気を遣ったつもりだった。
ただ、返事は無かった。何かまずいことを言ってしまっただろうか。
私は横目で、隣を歩く父を観察する。
立ち止まっていた。
父が、そこに居ない。
後ろを振り返る。
「お父様!?」
私は大声で叫んでいた。
父が、地面にうつぶせに倒れていたからだ。
◆
あの後、私の声を聞きつけてきた兵士や執事によって父は自室に運ばれ、ベッドに寝かされた。
呼吸はある。だが意識が戻らない。
「お父様、お父様」
私は何度も、かすれた声で呼びかけた。反応は無い。
父のかかりつけ医だという医師が来るまで、そう時間は掛からなかった。
医師の対処は手慣れていたが、意識不明の患者に処置を行うにしては、何だか妙に落ち着いている。まるでこうなることが分かっていたかのようだ。
「先生、父の容態はどうでしょうか?」
我慢しきれずに私は聞いた。医師は意外そうに私を見返す。
「もしかして、まだ御父上から何も聞かされておりませんのか……この状況だ。お嬢様に教えて差し上げてもよろしいか?」
言いつつ、私の後ろに控えていた侍女長のマデラを見た。マデラはバツが悪そうに目を逸らし、ゆっくり頷く。
一通り処置を終え、解熱剤や鎮痛薬を処方すると、医師はゆっくり言った。
「あなたのお父様は影蝕病を患っておられます」
その単語を聞いた瞬間、身体から力が抜けていく感覚に陥った。
それは患者の体内で病巣が徐々に広がって行き、やがて死に至る病気。現代医学では進行を遅らせることしか出来ず、致死率100%の死病だった。
父はそんなこと一度も言わなかったどころか、素振りさえ見せなかった。
「彼が症状に気付いて、私の元に来たのは4年前。進行の遅いタイプだったのは不幸中の幸いでしたが、やはり少しづつ、病巣は広がっていたのです」
4年前といえば私とギャラハッド様の婚約が決まるよりも前。そういえばあの時、父は急いで私の縁談を進めようとしていた気がする。
あれは自らの余命を悟ってのことだったのだろうか。
「病気は進行しておりますが、今すぐ命に関わる可能性は少ないでしょう。先ずは落ち着いてください。時間は残されているのですから」
言い残し、医師は帰って行った。
医師が帰った後も、私は父の側を離れることが出来なかった。侍女たちと一緒に看病を続け
「お父様、お父様」と呼びかけ続けた。
せっかく仲直り出来そうだったのに。これからたくさん、仕事を教えてもらおうと思ったのに。それに、いっぱいいっぱい、今まで話せなかったことを話したいと思ったのに。
「お父様、起きて、お父様」
何度呼びかけても反応は無かった。私の言葉はただひとりごとのように空しく消えていく。
◆
一週間が経った。
父の意識は戻らないままだ。しかし事態は悪化していた。ヴィルホール家屋敷の周りに、急に多くのゴミが散乱し始めたのだ。
一日だけなら質の悪い悪戯で済んだ。けれど、何日経ってもそれは収まらなかった。意図的にうちを狙っているのは明らかだった。
見回りの兵士は居る。だが数が足りない。狙われているのが分かった以上、屋敷の中の警備を固めざるを得ない。
屋敷の中に必要な人数を確保すると、どうしても塀の外を巡回する者が少なくなる。
犯人は、兵士の居ないところで巧妙にゴミを撒いて行く。やり慣れていた。
他にも買い出しに出た使用人が何者かに尾行されたり、カバンを奪われたり、中には殴られた者も居た。
使用人たちはすっかり怖がってしまい、今では買い出しにも兵士が護衛に付く。
こういう時、父の他に、もう一人頼りになる者が居た。エドワードという子爵家に仕えていた騎士で、非常に腕の立つ兵だった。しかし腕が立ち過ぎたためか、数年前に王国騎士団に入団してしまったのである。
私はダメ元で彼に、自分たちが陥っている窮状について手紙を書いた。
速達で送ったけれど、返事は彼からではなく、騎士団の職員から届いた。内容は「エドワードはモンスター討伐で遠征に行っている。当分戻る予定が無い。一応、あなたの手紙は戦地に送るが、届く保証はない」とのことだった。
分かっていたはずなのに、やはり駄目だったという落胆が私に押し寄せた。
悪いことは続く。同様の被害がギルドでも起こっていたのだ。
ギルドで抱えている職人の何人かが急に「脱退したい」と申し出てきたという。理由を聞いても皆曖昧な答えを返すだけだった。
「明らかに何かに怯えているようでした。絶対に誰か、彼らを脅している者が居る」
父の腹心的存在である副ギルドマスターのハンスさんは言った。
他にも得意先にしている会社から、急に仕事の依頼を止めたいと言われたり、ギルドの建物の周りに子爵家と同じようにゴミを撒かれたりしたという。
トラブルの件数が少なければハンスさんでも対処出来たはずだが、あまりにもアクシデントが多発して、彼は場当たり的に対処することを強いられていた。
「こんな時、ギルドマスターが、ノーマン様が居てくれたら……」
悔しそうにハンスさんは呟いた。
ノーマンとは私の父の名だ。
私の方にも、日に日に様々な嫌がらせの報告が届く。
誰が主犯なのか、私には一人しかその人物が思い当たらなかった。
ギャラハッドだ。
腹いせのためなのか、それとも本気で子爵家を潰すつもりなのか。何れにせよ、始まった時期的に、彼が仕掛けているのは明らかだった。
嫌がらせは徐々に度を越していった。
最近では生き物の死体を庭に投げ込まれることもある。それなのに、決して犯人を捕まえられない。
不気味でもあり、不安でもあった。
治安維持機関である街の自警団には、嫌がらせの始まった当初から報告している。だが全く動いてくれる気配が無かった。ギャラハッドが根回ししているのかも知れない。
今、家宰さんが対処を手伝ってくれている。しかし彼も高齢で、いつまでも頼っているわけにはいかない。
ギルドの方でも受注される仕事は減り、一人、また一人と職人がギルドを辞めていく。
刻々と状況が悪化していく中。どうすれば良いのか、本当は私にも分かっていた。
最初から結論は出ている。
裁判で毅然として自分たちの正義を主張するのだ。
けれど私には全く勝てる自信が無かった。相手は伯爵家。それに彼がやったという確かな証拠は、今の所全く掴めていないのだ。
それにもし負けたら、と考えてしまう。
そうなると彼らに大義名分を与えることにならないだろうか。嫌がらせは激しくなるだろう。もう職人ギルドを続けることも出来ないかもしれない。
使用人たちも、こういったことが長引けば、うちを辞めて出て行ってしまうだろう。
頭ではとっくに分かっているけれど、恐怖と不安によって道をふさがれ、私の思考は堂々巡りしていた。
そんな自分が情けなかった。
何日も暗闇の中に居るようで、手元さえ、漆黒に塗りつぶされている気がした。
そして私の足は自然と父の寝ている部屋に向かっていた。
◆
薄暗い部屋に父が一人で横たわっていた。
あれから、何度か意識を取り戻すことはあったけれど、すぐにまた眠りに落ちてしまう。
私はベッドの脇に置いてある椅子に座った。
父は静かに寝息を立てている。こんな時、お父様なら直ぐに問題を解決出来たのだろうか。私に力も勇気もないせいで、今多くの人たちが苦しんでいる。
様々な重圧に眩暈がして私の視線は宙を彷徨った。
ふと、ベッド横の棚に、木箱が置かれていることに気付いた。
何だか気になって、手に取ってみる。
それは手のひらほどのサイズの立方体で、上部に小さなヒヨコの木像が、箱の後ろにはゼンマイが付いている。オルゴールのようだ。
父がこんな可愛らしいオルゴールを持っているなんて、少し意外な気がした。私は深く理由も考えず、オルゴールのゼンマイを回した。カリカリ、カリカリ、と、機械仕掛けが準備を始める音がする。
手を離した時だった。
一音、一音、丁寧において行くようなメロディーが、滑らかに響き始めた。
「えっ、これって……」
優しく、包み込むような旋律。そうだ、これは、実家に帰るとき、馬車の中で聞いた音だ。
いいや、もっと前。
もっともっと、物心付くよりもっと前。私はこの音を、確かに聞いた事がある。
そうだ、この音は――。
その瞬間、まるで強い風が全身に吹き付けたような感覚と共に、視界が入れ替わった。
私の目は薄暗い天井に向けられている。
ここは、私の部屋だ。そしてベッドに寝そべっている。
「カタリナ、そろそろ寝る時間だ」
優しい声が隣から聞こえた。
まだ白髪が目立たないし、眼鏡もかけていない、ガッチリしていた頃の父だった。
父はオルゴールのゼンマイを回し、手を放す。
あの耳辺りの良い、まろやかな音が、暗闇に沈んだ部屋を彩っていく。
ああ、思い出した。
このオルゴールは父が私を寝かしつけるために使っていたものだ。初めは父が直接子守歌を歌っていたのだけれど、あまりにも音痴過ぎて私が笑い出してしまったから、これに切り替えたんだ。
「お嬢様」
その言葉で、私は一気に引き戻された。振り返ると、侍女長のマデラが様子を伺うように立っている。
「そのオルゴール……」
マデラは私の手元を見ながら言った。
「これ、お父様が子守歌代わりに使ってくれていたものよね」
「覚えておいでだったのですか」
マデラは輝くような笑顔になった。
「私はノーマン様がこれを買って来た日のことをよく覚えております。それはもう、馬車に積みきれなくなるほど大量のオルゴールを持って帰ってこられたのですから」
「そ、そんなことがあったの?」
「ええ。それからは一つづつ、どれが一番お嬢様の寝つきが良い音なのかを試す日々。そして最後に残ったのが、そのヒヨコのオルゴールだったのです」
その頃から父は忙しかったはずだ。そんなに懸命に、私のためにお金も労力も使う一幕があったなんて。
「ノーマン様は何よりお嬢様のことを大切に思われておりましたから。どんなに忙しい日でも、必ず絵本を読み聞かせてあげて、それからオルゴールの音で寝かしつけられるのが楽しみだったようです。娘と二人だけの、本当にかけがえのない時間なのだと」
私は胸が熱くなるのを感じた。それは長年抱いてきた、冷酷な父の姿とは似ても似つかないものだった。
「ですがお嬢様が成長されて、一人で寝付けるようになった時にこのオルゴールはお譲りになったそうですが……、その数日後にお嬢様がノーマン様のお部屋に持ってきて、仰ったそうです
『これはお父さまが持っていて。お父さま、いつも疲れてるから、オルゴールを聞いたらお父さまも早く眠れるでしょう』
と。それからノーマン様は、ずっとオルゴールを大切にしておられました。お嬢様の優しさが、本当に嬉しかったのでしょう」
私はうつむいたまま、何も言えなくなった。
どうして、どうして今になって思い出したのだろう。後悔がズキズキと胸を締め付ける。
「それから、これはノーマン様から『俺が死ぬまで言うなよ』と言われていたことなのですが……私はやはり、ノーマン様が生きているうちに言うべきだと思うのです。それがお嬢様のためでもあると思います」
「何? 何のこと?」
私は顔を上げた。マデラはゆっくり、言った。
「実はこのヴィルホール家には先代当主様の時に負った、巨額の借金があったのです。先代当主様は借金を返す前に他界されたため、その莫大な金額を全てノーマン様が背負うことになりました」
そんなこと、私は父から一度も聞いていない。我が子爵家は確かに領地も少なく、他の貴族に比べて裕福は方ではない。
けれど私はこれまで何不自由なく暮らしてこれたし、上位の貴族令嬢が受けるような教育も施してもらった。
「じゃ、じゃあお父様がずっと働き詰めだったのって……借金を返すため、だったの?」
私の声は掠れていた。
マデラは頷く。
「ノーマン様は決してお嬢様に借金を残すまいと覚悟されておられましたから。そしてつい先日、借金を返済し終えたと聞かされました」
――覚悟。
その言葉は私の状況と相まって、ずしんと腹に落ちてくるような、そんな感覚だった。
父は腹を決めていた。
私、使用人たち、ギルドや領民、そして子爵家、ありとあらゆるものに対して責任を負っていた。何があっても借金を返すと覚悟していたのだ。
未経験の商売を始め、辛かったことも苦しかったこともあったはずだ。死病にだってかかった。
それでも彼の覚悟は、死病でさえ振りほどいてしまった。
――覚悟。
私の中で、何かが変わり始めていた。
「うっ……」
私とマデラは顔を見合わせた。父の声だった。
「お父様、お父様!」
「ノーマン様!」
私は床にしゃがみ込み、視線を父と合わせた。
その時、ゆっくり、ゆっくりと父の瞼が開いた。
「お父様、お父様、分かりますか? 私です。娘のカタリナです!」
必死に呼びかけた。
父の首が傾き、目が、ゆっくりと私の方に向けられる。
「カタリナ……」
僅かに、父の頬が上がった。
「カタリナ……。急に、どうした……。早くお眠りなさい」
「え?」
「ほら、もう寝ないと明日寝坊するぞ……」
「お嬢様、恐らくノーマン様は今、意識が朦朧としておられるのです」
後ろからマデラに耳打ちされる。
今も部屋にはオルゴールの音が響いている。どうやらその音がトリガーとなって、父の記憶もまた、私が幼かった頃、寝かしつけている場面に戻ってしまっているのかもしれない。
私は目を閉じた。今は、父の言う通りにしてあげた方が良いと、そう思ったからだ。
その私の頭に、そっと手が添えられる。
「カタリナ、ぐっすりお眠り。一人だけの、世界で一番可愛い父さんの娘」
父は言葉と共に私の頭をゆっくり撫でた。彼の記憶が昔に戻っているとすれば、恐らく毎日この言葉も、私が寝た後にかけてくれていた。父の本心なのだ。
「優しい、可憐な、父さんの一番大切な宝物。生まれて来てくれてありがとう。ここまで大きくなってくれありがとう。父さんはお前のためだったらどんなことでも出来る。お前が幸せになれるなら、この身を引き裂かれたって構わない」
父は私の髪をなで続ける。
「それなのに……」
急に父の声が沈んだ。
「いつも一人にしてしまって、本当にすまない。借金を返し終わるまでもう少し待ってくれ……絶対お前に、父さんと同じ苦しみを味わわせるわけには、いかないからな……」
かすれた声は沈んでいる。
涙が滂沱の如く溢れた。
これまで感じることのできなかった父の愛が、一挙して押し寄せてきたような、そんな感覚だった。私の心が、温かさで満たされていく。
我慢できなくなって私は父の手を取った。昔より、ずいぶん小さくなってしまったように感じる。
「お父様……こちらこそありがとうございます。私は、あなたのお陰でここまで育ってこれました」
父の目は不思議そうに私の顔を伺っている。
「実は今、トラブルが起きています。ギャラハッド様から様々な嫌がらせを受けていて、屋敷も子爵家も、大きな被害を受けています。このままだとギルドは解体され、私たちも路頭に迷うかも知れません」
恐らく今の父には伝わっていない。けれど、自分に言い聞かせるつもりで、息を大きく吸い込み、続ける。
「だから私は戦おうと思います。何とか証拠を集めて、裁判で、彼らの不当さを訴えます。絶対にこの子爵家を、守り抜いてみせます」
その時、父の手が強く、私の手を握り返した。
「カタリナよ」
父の目に、少しだけ倒れる前の凄みが戻ってきている。
「大丈夫だ」
その声が、強く響く。
「お前なら、出来る。今までやって来たことを思い出せ」
会話が通じている。記憶を取り戻したのだろうか。
徐々に、父の声に力が籠って行く。
「お前は子供の頃から……誰よりも努力してきた。打ち込んできたはずだ……。辛い時でも我慢して耐えてきた心がある……。知恵もある……。だから、そんな連中に少し嫌がらせを受けたくらいで、お前がやられるわけがない」
ああ、そういうことだったんだ。
私は顔を伏せた。
厳しい勉強も、レッスンも、ただの詰め込みではなかった。
自分が居なくても、一人前の貴族としてしっかりやっていけるように、その思いが、愛情が詰め込まれていたのだ。
法律を学んでいるから、どこに何の書類を提出すれば訴えを起こせるか、分かっている。
経営を学んでいるから、ハンスさんを助けてギルドを立て直すことも出来る。
父はいつだって、溢れんばかりの愛を持って、私を包んでくれていたのだ。
いつも傍にいて、優しくするだけが愛ではない。
私を一人前にすること。何があっても大丈夫なように備えること。
それが父の、お父様の愛の顕れだったのだ。
「ありがとうございます、お父様。心より、愛していますわ」
かみしめるように言った。
父は少しだけ微笑んで、また静かに眠りに落ちて行った。
父の額にそっとと口づけをして私は立ち上がった。
身体が軽い。
部屋に入る前とはまるで別人になったかのようだった。
愛をそっと胸にしまって、迸る力を全身にたぎらせて。
覚悟は、お父様から貰った。
私は涙を拭い、何かに背を押されるように歩き出す。
戦う。
戦って、父が命がけで守って来てくれた、この領地を、ギルドを、使用人たちを、そして誇りを、守り抜いてみせる。
私に出来ないことはない。
だって私は、ノーマン・ヴィルホールの娘なのだから。
◆
裁判には一年ほど時間を要した。
私が徹底的に争う姿勢を見せたことで分が悪いと思ったのか、ギャラハッドは直ぐに示談を申し込んできたけれど、絶対に応じなかった。
裁判では、王国騎士団から飛んで帰って来た、エドワードの掴んだ証拠が決め手となった。
彼は騎士団の精鋭を何人か連れて来て、警護や見張りに当たらせてくれた。
そして嫌がらせを続けていた冒険者たちを捕まえてぶちのめし、首謀者がギャラハッドであることを吐かせた。
結果、ギャラハッドは多額の賠償金を支払うこと、また、投獄されることが決まった。
サロメ嬢は最初無関係だと言い張っていたものの、どうやら積極的にギャラハッドを唆していたことが分かり、彼女も同じ運命をたどった。
彼らが何年投獄されているかは分からないが、出て来ても再び貴族として生きることは、もう出来ないだろう。
悪評は広まり、ギャラハッドの父であるパーシヴァル氏の経営するギルドからは、大量に冒険者が脱退しているという。
そして子爵家の職人ギルドについて。一度は嫌がらせで人が減ったけれど、少しづつ、辞めて行った職人たちも帰って来て、活気を取り戻しつつある。
私は結局あれから学園を辞め、積極的にギルドの経営に関わるようになった。副ギルドマスターのハンスさんが父に代わって仕事を教えてくれるし、少しづつ経営者として、前に進めている。
裁判のさ中、父の意識が戻った。
私は意思の疎通が取れるようになった父と色々なことを話し、共に笑った。とても穏やかな日々だった。
最後の日、父は眠るように旅立った。
ヒマワリの咲いた、盛夏の夕暮れ時だった。
それから数年の時が経った。
◆
「お母さま、それ、なぁに?」
3歳になる娘のフィーナが、眠そうな目でオルゴールを指さす。
「これはね、あなたのおじい様がくれた、オルゴールなの」
「ヒヨコさん、可愛いね」
フィーナは箱の上に付いたヒヨコの木像を撫でながら言った。
「ふふっ、そうね」
愛おしくて、その様子を見て目を細める。
「とても素敵な音がするのよ」
フィーナは目を輝かせた。
「ほんとう? ねえ、聞かせて、聞かせて」
「はいはい、少し待ってね」
せがまれながらゼンマイを回す。カリカリ、カリカリ、機械の仕掛けられる音。この音を聞くと、いつでも幼い頃、父と過ごした寝室に、記憶を運んでくれる。
暗い、静かな寝室に、淡い音色が溶け出した。
しとしと、ゆっくりと旋律を奏で続けていく。
「綺麗な音だね」
「そうね」
ああ。
あの時と同じ音。
同じ安らぎ。
温もり。
それが今、私の娘を癒し、安らぎで包んでくれる。
振り向けば、父がそこで、優しく微笑んでくれている気がする。
フィーナは少しづつ、眠そうに瞼を閉じていく。私は彼女の髪を優しく撫でた。
その寝顔を見ながら、この子を絶対に幸せにしてあげるんだ。私は決意する。
そう、父が私にしてくれたように。
薄暗い部屋に、オルゴールの旋律が、しとやかに響き続けていた。
おわり




