最終電車とミルクティー
終電を待つ薄暗いホームに、冷たい風が吹き抜ける。いつもより少しだけ早く仕事を終えた水希は、ベンチに腰かけ、温かいミルクティーの缶を両手で包み込んでいた。
時刻は23時42分。彼女の住む街への最終電車が到着するまで、あと数分だ。
「はぁ……」
ため息をつく。今日の残業は、些細なミスから始まった小さなトラブル対応だった。疲れがどっと押し寄せ、目の前の線路が妙にぼやけて見える。
その時、ベンチの端に、静かに誰かが座る気配がした。隣にいるのは、いつもこの時間に見かける男性だ。濃紺のスーツをきっちりと着こなしていて、いつも手に小さな文庫本を持っている。水希と同じように、彼もこの路線の終電に乗るのだろう。
彼は一度も水希の方を見ず、手元の本に視線を落としている。その横顔は、都会の喧騒とは無縁の、穏やかな図書館のようだ。
水希と彼の間に、言葉が交わされたことは一度もない。けれど、この終電のホームで顔を合わせるようになってから、もう一年近くになる。
水希にとって、この「名前も知らない隣人」は、夜のルーティンの一部になっていた。疲れていても、彼がそこにいると、少しだけ安心して、孤独が和らぐ気がしたのだ。
(彼は、どんな仕事をしてるんだろう。何を読んでるんだろう?)
いつものように、水希はそっと彼の文庫本に目をやった。カバーがかかっていて、タイトルはわからない。しかし、時折、彼がページを繰るわずかな音だけが、この冷たい沈黙を破る。
ふと、ミルクティーを一口飲んだ水希の指先が、缶のプルタブの縁に触れた。少し欠けていて、ざらざらしている。この缶も、もうすぐ飲み終わってしまう。
「あの……」
突然、水希の口から声が漏れた。自分でも驚いて、心臓が大きく跳ね上がる。
隣の彼は、読んでいた本からゆっくりと顔を上げた。その視線が水希に向けられるのは、初めてのことだった。
「すみません、急に」水希は慌てて謝った。「缶コーヒーを落としてしまって……。すみません、違います、ミルクティーです」
疲労と緊張で、何を言っているのか自分でもわからなくなる。ただ、このままこの沈黙を終わらせたくない、という衝動だけが水希を突き動かしていた。
彼は、一瞬だけ目を細めた後、小さな笑みを浮かべた。その表情は、水希が想像していたよりもずっと優しかった。
「大丈夫ですよ。何かお探しですか?」彼の声は、低く、落ち着いていた。
水希は、プルタブの欠けた部分を指さし、かろうじて言葉を絞り出す。
「この缶のプルタブ。少しだけ、縁が鋭くて。いつも、指先に引っかかるんです。でも、今日で飲み終わっちゃうから、もうこれに触れることはないんだなって思ったら、急に、何か言いたくなって……」
自分の話が、とんでもなく支離滅裂なことはわかっている。彼は怪訝に思うだろう。
しかし彼は、水希の言葉を最後まで静かに聞いていた。そして、文庫本をパタンと閉じた。
「そうですね」彼は、ベンチの背もたれにもたれかかり、夜空を見上げた。「私も、この駅に来るたびに、いつも同じ自販機の、同じ青いパッケージのガムを買うんです。特に理由はないんですけど、あれがないと、何か一日が終わらない気がして」
彼は、初めて自らのルーティンを明かしてくれた。
「明日からは、もうあのガムは買いません」彼は水希を見て、再び微笑んだ。
その時、遠くから電車の接近音が聞こえてきた。ホームの振動が大きくなる。
「どうして、買わないんですか?」水希は尋ねた。
「あなたに、欠けたプルタブの話をする人がいなくなるからです」
水希の胸に、彼の言葉がじんわりと染み渡る。
「私、明日から、残業をしないように頑張ります」水希は、ミルクティーの缶を握りしめた。「そしたら、一本早い電車に乗れるので」
彼は目を細め、静かに頷いた。
「では、私も一本早い電車に乗ることにしましょう。明日から、青いガムの代わりに、一本早い電車をルーティンにします」
電車がホームに滑り込んできた。二人の間に、一瞬の長い視線が交わされる。その視線の中には、一年間の沈黙と、今交わされたばかりのわずかな言葉が、全て詰まっていた。
「私の名前は、水希です」
「私は、優介です」
最終電車のドアが開く。水希は、まだ温かいミルクティーの缶を、そっとごみ箱に入れた。
明日、一本早い電車に乗れば、この缶に触れることは二度とない。
しかし、明日から始まる新しいルーティンは、冷たいホームの静けさではなく、優介という音を持つことになるだろう。
「また、明日」
優介は、水希が乗り込む前にそう囁いた。
水希はドアが閉まる直前に、小さく頷き、彼の「一本早い電車」のルーティンに加わることを心の中で誓った。
-完-




