きっかけ
「あれから、まだ危険はないか?」
「ええ。今のところは大丈夫よ」
俺と鈴音は昼食を共にしていた。
あれから数日が経ったが、今のところそれらしい危険は鈴音に訪れていないようだ。
「何度も言っているが、近いうちに起きるはずだ。くれぐれも気をつけてくれ」
「わかっているわ。これから授業だから、それじゃ」
彼女はそう言うと席を立ち、その場を離れていった。
鈴音視点
「すっかり遅くなっちゃったわね」
鈴音は一人、道を歩いていた。
あたりはすっかり日が落ち始めている。授業が長引いたため、今日は一人で帰ることになったのだ。
「それにしても、あの男の目的は何なのかしら」
私を仲間にしたいと言っていたが、なぜ私なのかがわからない。
これからゲートを攻略するなら、格闘技の経験者や、戦いに慣れた人のほうが適任だと思える。
「まだ何か隠している気がするのよね」
あの男は、きっと悪い人ではない。
でも、まだ完全には信用できない。一体、何を隠しているのかしら。
そんなことを考えていた、そのとき。
「……風?」
冷たい空気が、鈴音の頬をなでた。
突如感じた冷気に、思わず足を止める。
あたりは人通りが少なく、閑散としている。街灯がぽつぽつと道を照らし、鈴音の足音だけがやけに響いている気がした。
「っ!?」
鈴音はふと、後ろを振り返った。
胸の奥が、なぜかざわつく。まるで、何かに見られているような感覚。
「……気のせいか」
安堵したのか、ため息をついて前を向いた――
次の瞬間。
空間が歪んだ。
鈴音の横。
街灯の明かりも届かず、本来ならただの影であるはずの空間が、深く沈み込んでいく。
「な……に……これ……?」
それは光を吸い込み、まるで別の世界が広がっていると主張しているかのようだった。
耳鳴りがする。
鼓動が大きくなるのを、全身で感じる。
――これは、夢じゃない。
やがて空間は渦を巻きながら形を成し、紫色の閃光が走る。
「……ゲート……?」
自然とその言葉がこぼれ落ちた。
本能的に、後ずさる。
そのとき。
――ズルリ。
中で、何かが動いた気がした。
「はっ!?」
我に返り、鈴音は急いでゲートから離れる。
曲がり角まで走り、顔だけを覗かせた。
「グルルルル……」
やがて、ゲートからゆっくりとモンスターが姿を現した。
「あれは……狼?」
影を纏ったような魔物。
姿形はオオカミに近いが、その禍々しいオーラは、明らかにただの動物ではない。
「……彼の言う通りだった……」
言われた通りのことが起きてしまった。
経験したことのない恐怖が、全身を駆け巡る。
「早く、逃げないと……」
忠告のおかげで、かろうじて思考を繋ぎ止める。
逃げようと足に力を込めた、その瞬間――
「キャーーー!?」
「えっ!?」
悲鳴に、思わず振り返る。
そこには、自転車を投げ出し、尻餅をついた少女がいた。
「早く逃げて!」
声をかけると、少女は立ち上がろうとするが――
「な、なんで……」
完全に腰が抜けてしまったのか、うまく立てない。
魔物は少女を視界に捉え、明確な殺意を帯びた動きに変わった。
「た、助けて……」
涙を浮かべ、声にならない声を漏らす少女。
「ガァァッ!」
魔物が牙を剥き、少女に飛びかかる。
少女は恐怖に耐えきれず、目を閉じた。
「……え?」
次の瞬間、少女の視界に映ったのは――
自分を庇うように立つ、鈴音の背中だった。
「大丈夫?」
飛びかかる直前、鈴音は少女を抱え、横に飛んだ。
魔物の攻撃は宙を切り、二人とも無傷で済んだ。
「うん……あ、ありがとう……」
混乱しながらも、少女は礼を口にする。
「あなた、名前は?」
「えっ……こ、小夏……」
涙を溜めた目で、かろうじて答える。
「そう。小夏ちゃんは、ここにいて」
「大丈夫。私が守るから」
不安を和らげるよう、できる限りの笑顔を向ける。
「お、お姉ちゃん……危ないよ……」
怯えながらも、私を気遣う言葉。
その優しさが、決意を強くする。
「大丈夫……お姉ちゃん、強いのよ」
強がりだとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。
振り返り、魔物と対峙する。
「ここから先へは、行かせない」
本当は逃げたい。
私一人なら、とっくに逃げていただろう。
――でも、今は違う。
魔物は低く唸り、地面を削るように前脚を踏み出した。
影の中で、鋭い瞳が私を射抜く。
「……来る」
呼吸が浅くなる。
背後には少女がいる。逃げ場はない。
「グルァッ!」
一気に距離を詰めてくる魔物。
牙が、喉元を狙う。
「っ!」
反射的に横へ転がる。
風圧が頬を裂き、背後のアスファルトに深い爪痕が刻まれた。
だが――
「きゃっ……!」
完全には避けきれなかった。
肩に衝撃が走り、制服が裂け、焼けるような痛みが広がる。
「鈴音さん!」
背後から、小夏の叫び。
(まずい……このままじゃ……)
距離を取ろうとするが、恐怖と痛みで体が言うことをきかない。
魔物は勝利を確信したかのように口を大きく開き、跳躍した。
――その瞬間。
「もう大丈夫だ」
聞き覚えのある声。
「……え?」
次の瞬間、轟音。
魔物の横腹に衝撃が叩き込まれ、巨体が宙を舞い、街灯の根元へと叩きつけられた。
アスファルトが砕け、粉塵が舞う。
「グル……!?」
呻きながら起き上がろうとする魔物。
その前に、視界に入った一人の男。
「翔……!」
名前を呼ぶと、彼はちらりと振り返り、苦笑した。
「無事か!」
一瞬、視線が背後の少女へ向く。
「あの子を守ったのか。頑張ったな」
穏やかな笑み。
「あいつは……ウルフか」
魔物を見据え、呟く。
再び唸り声を上げ、翔へ突進するウルフ。
「来いよ」
二人を庇うように、一歩前へ。
「俺が相手だ」
先ほどとは比べ物にならない速さの突撃。
だが翔は、すべてを最小限の動きで躱していく。
「怪我人もいる。……もう終わらせよう」
ウルフが跳躍した瞬間、翔の姿が消えた。
――刹那。
「――遅い」
背後に回り込んだ翔の拳が、首元を正確に捉える。
「ギャアアアア!!」
断末魔が夜に響き、やがて静寂に包まれる。
翔は深く息を吐き、振り返る。
「遅くなって悪いな」
「いえ……一人になった私が悪いの。助けてくれて、ありがとう」
魔物に飛び出す直前、私は翔に電話を繋げていた。
着信に気づいた彼が、嫌な予感を覚えて駆けつけてくれたのだ。
「……あ、あの……助けてくれて、ありがとうございます……」
少女の言葉に、翔は優しく頷く。
「もう大丈夫だ。無事でよかった」
私は、確信した。
――彼は、何かを知っている。
そして、これは始まりに過ぎない。
「翔……あなたは一体、何者なの……?」
翔は少しだけ目を伏せ、静かに言った。
「俺は、ただの大学生だ」
真っ直ぐ、私を見る。
「ふふっ……そういうことにしておいてあげるわ」
思わず、笑ってしまった。
「今日のことで痛感したわ。私は弱い。でも――強くなりたい。大切な人を守れるように」
決意を宿した目で、彼を見つめる。
「お願い。私を、あなたの仲間にしてちょうだい」
夜の街に、再び風が吹いた。
それは――運命が動き出した合図のようだった。




