第7話 海の上の猫舌ハムスター
♪Everybody needs a little time away....
カーラジオのFM大阪からは、ピーター・セテラの甘い声が流れてきた。
車の後部をフルフラットにして『巣』を作り、毛布で包んだ舞子を積んでアパートの駐車場をスタートしたのは、まだ鴨川デルタも真っ暗な朝の5時だった。
今出川通を堀川まで出て、南へ下がる。九条通から東寺の前を通って1号線に入ると、ほどなく京都南の入口だ。
料金所から本線に合流する、高速のインター独特のきついループを回っていると、後ろで舞子が転がって「う~ん…」と低く唸るのが聞こえた。
でも、すぐにすうすうと寝息を立て始める。
ラジオでは、グロリア・エステファンが軽快なラテンサウンドで歌っている。
♪Come on, shake your body baby, do the conga....
リアウインドウの後ろ、東の空がうっすらと青みを帯びはじめたのが西に向かう前方からも分かったのは、天王山トンネルに差しかかる頃だった。
いつもならブレーキランプが列をなす渋滞の名所だが、この時間帯はまだ眠っているように静かだ。
トンネルを抜けた先、朝の気配を帯びはじめた山並みが、ぼんやりと浮かび上がっていた。
中国道への分岐を告げる緑の標識が、ヘッドライトに浮かび上がった。
吹田ジャンクションは驚くほど静かで、耳を澄ませばタイヤの路面をなぞる音だけが響いていた。
日中には渋滞で苛立つこの地点も、いまは夢の中の高速道路のようだ。
「んー…ここ、どこー??」
吹田の分岐を抜けたあたりで、舞子が寝ぼけた声を上げた。
さっきのループで転がされたとき、毛布の端を蹴っ飛ばしたままだ。
「内緒」と言うと、「うそーん」と言いながらまた丸くなる。
ラジオからは、ずっとご機嫌な曲が流れてくる。
フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、フィル・コリンズ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、J.D.サウザー。
いささかまとまりはないが、鼻歌まじりのドライブには、これくらいの雑さがちょうどいい。
眠気も覚める。
♪We're the world, we're the children.
We're the ones who make a better day, so let's start giving.
♪There's a choice we're making. We're saving our own lives...
ブルース・スプリングスティーンのダミ声に、ケニー・ロギンスの透き通る高音。
そこへスティーヴ・ペリーが艶やかに歌い出したあたりで、中国道を降り、播但連絡道路へと入っていった。
世界平和。素晴らしい。
姫路バイパスから、龍野で最近開通したばかりの山陽自動車道に上がる。
車もまばらな真新しい高速道路は、もうすっかり明るい。
ラジオに雑音が増えてきた。「ザ…」というノイズがスピーカーに広がる。「ああ、もう入らへんか」
そうつぶやいて、ダッシュボードのカーステレオに手を伸ばす。
「カチリ」という乾いた音とともに、カセットが切り替わり、エアチェックしたテープが再生を始めた。
ここまでありがとう、FM大阪。
テープは途中からで、TOTOの「Africa」がちょうどサビに入るところだった。
…それも、悪くないタイミングだった。
「んにゃ?ここどこ?」
兵庫県を抜け、岡山に入ったあたりで、後ろの舞子が起きてきた。
「備前あたり。岡山やで。」
「へ?岡山?なんで?病院は?」
「こんな時間に病院は開いてへんやろー」
「ん?いま何時?」
「6時半くらい」
「え?なんで?そういえば何で私車に乗ってるの?」
「とりあえず、そこのトードバッグに舞子の服入れといたから着替えたら?」
「はーい」
ぼんやりと返事が聞こえ、後ろでごそごそと着替える音がする。
少しして、ドルフィンパンツからデニムの短パンに、さてんのに~ちゃんから、いつの間にか僕から奪ったNICOLEのトレーナーに着替えた舞子が、クッションの海をかき分けながら助手席に移ってきた。
「え?なにこれ?どこいくの?」
昨夜からぐっすり寝て、今もずっと寝ていたからか、幾分元気になっている。
目を輝かせて初めての食べ物にかぶりつく、あのワクワクした顔になっていた。
「うどん。」
「うどん?」
「うん。うどん食べにいく。舞子、うどんなら食べられるやろ?」
「うん…うどんは大好きだし、ジンギスカンは残しちゃったけどうどんなら食べられると思う。」
舞子の目がさらに輝く。
「でも、なんで高速道路?だよね?走ってるの?岡山?なんで?なんで?なんで???」
舞子のテンションとは裏腹に、カーステではジョージ・マイケルが親友の軽はずみな一言で彼女を傷つけたことを後悔している。
一方で、助手席の舞子は「うどん?なんで?うどん??」と連呼している。
「どうせなら、本場のうどんを食べさせたいと思ってな」
「えー!?本場のうどん!?なにそれ?どこ!?」
「まだ内緒」
そう言って僕は、さらに西へと向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
山陽道の新開通区間はまだ舗装の継ぎ目も滑らかで、ガードレールも白く新しい。
春の日差しがフロントガラスにまっすぐ差し込んでくる。
「このへん、ほんまに先週つながったとこらしいわ。さっきのサービスエリアの案内板に書いてあった」
舞子は窓の外を食い入るように眺めている。まるで自分がこの道路の開通に立ち会ったかのようなテンションだ。
「助かるわ。このまま早島で降りて、下道で宇野港まで行くで。上手くいけば、午前中のフェリーに間に合う。午前中に香川に着けるわ」
「え!?フェリー!?って船だよね!?お船乗るの!?」
舞子のテンションがさらに上がる。
これならもう、インフルも逃げ出しそうだ。
「え、じゃあ船の上から海とか見える?うどんはいつ食べるの?」
「さっき香川って言った?!香川って四国だよね?!海渡るんだよね!?」
一度火がついた舞子のテンションは止まらない。
舞子は明らかに元気になっている。鼻歌まじりでバッグをあさり、ポテチを取り出し、一口食べて、「しょっぱいからやめとく」と言ってまたバッグに戻す。
早島ICで高速を降り、国道30号に入る。朝の光に照らされた町が、徐々に港町らしい顔つきに変わっていく。
ハンドルを握りながら、ちらりと助手席を見た。舞子は、まるで遠足に向かう小学生のように、足をぷらぷらさせている。
宇野港が近づくにつれて、舞子の鼻歌が少しずつ大きくなっていく。
「このペースやったら、間に合うな」
フェリー乗り場の案内標識を確認しながら、僕は小さくつぶやいた。
舞子は、それを聞いたのか聞かなかったのか、
「ねえ、フェリーって、乗るときってやっぱ“ヨーソロ〜!”って言うの?あたし言うからね??」
と真顔で聞いてきた。
うん。間違いなく午前中に香川に着ける。
舞子が「お船〜♪」とリズムに乗って背もたれを揺らす車内で、
僕は静かに、心の中でガッツポーズをしていた。
窓口でチケットを買い、指定された列に車を進めて並ぶ。
10分もしない内に、下が赤、上が白いフェリーが入ってくるのが見えた。
誘導に従って、ポッカリと口を開いた乗船口から車を乗り入れる。
「うわ~!車ごとお船乗れるの!?すごい!すごい!」
「どれくらいお船乗るの?」
「だいたい1時間くらいやったと思う」
「へ~。結構近いんだね、四国。初めての四国~!」
舞子は大はしゃぎだ。
車に輪止めがかけられると、僕と舞子は車を降りて上部甲板に向かった。
甲板に上がる階段がとても急で、僕は舞子の手を取った。
まだ少し熱いが、今朝抱き上げたときよりはかなり熱は下がっているように思う。
甲板に上がると、思いの外たくさん人がいた。
3月の海風はまだ冷たいが、ずっと運転してきた僕には心地よかった。
まだ少し熱っぽい舞子も、気持ちよさそうに風にあたっている。
「え!?あれなに?」
舞子がひときわ人の集まっている甲板の一角を指さした。
屋根のある一角に「さぬきうどん」の白い暖簾が揺れているのが見える。
「あれうどん屋さん!?『さぬきうどん』って、テレビで名前だけ聞いたことある!お船でお店のうどんなんか食べられるの?食べるの?ねえ食べるの?」
僕が答えるより早く、舞子はうどん屋さんの方に走っていってしまった。
列の後ろに並ぶ。
白衣を着た店員さんがうどんを出している窓の横に、白いメニュー札が見える
・かけうどん 250円
・きつねうどん 270円
・天ぷらうどん 350円
京都で食べるよりはかなり安いが、僕が記憶している讃岐うどんの値段よりは少し高い。
まあ、船の中だからそんなもんだろう。
自販機の飲み物だって少し高いんだし。
「私、きつねうどん!」
舞子がニコニコと僕を見上げている。
順番が回ってきて、きつねうどんを注文する。
店員さんは頷いて540円を受け取ると、横のバットから手早くうどん玉をデボ網に入れ、お湯でほぐして丼に盛り、金色に透き通る出汁を注ぎ、ネギと油揚げを乗せてくれた。
割り箸を取って甲板に戻る。
甲板のベンチは人でいっぱいで、かろうじて舞子が座れるスペースを見つけた。
舞子を座らせ、僕はその前で立って割り箸を割った。あちこちにも、立ったままでうどんをすすっている人が大勢いる。
「立ったまま食べるって、お行儀悪いねー」
と舞子が笑う。
「これがええねん」
そういって、僕がうどんを口に運ぶより早く、舞子の
「うま!」
というあの声が聞こえた。
「なにこれ美味しい!いつも家で作るうどんと全然違う!腰っていうの?すごい歯ごたえ」
「お出汁も、いつものヒガシマルのうどんスープの味じゃなくて、何だろう?お魚?の味がする」
そこまで言って、後はいつもの「猫舌ハムスターモード」に入ってしまった。
ふーふー、ずるずる、ふーふー、ずるずる、ごくり、ふーふー…
◇ ◇ ◇ ◇
「あー!美味しかった~!」
「うん。ごちそうさん!」
舞子はすっかり元気になったように見える。
「これが、私に食べさせたかった本場のうどん!?」
舞子の大きな目がキラキラとこちらを見つめている。
「いや、これも本場のさぬきうどんやけど、さすがに船の中やから、茹で置きの麺温めたやつやし、これも美味いけどな、まだまださぬきうどんはこんなもんやないで!」
「えー!私、こんな美味しいうどん初めてなんだけど、もっとすごいの出てくるの?香川!」
「まあ、楽しみにしときや。ていうか、体調どう?」
「うん。まだちょっとフラフラはするけど、かなり回復した!今のうどんで!」
良かった。
「あ、そう言えば」
「ん?」
「この船、今月で廃止になるんやって」
「え?なんで?」
「瀬戸大橋っていう、本州から四国に渡れる大きい橋が来月開通で、そしたらもう要らんようになるかららしい。」
「えー。そんなの、どっちも使ったらいいのに!お船楽しいし、うどん美味しいし。もったいないよー」
舞子が不服そうに言う。
僕もそう思う。
これはこれで残せばいいのに。
早ければいいってもんじゃない。
そうこうしている内に、陸が見えてきた。
高松港だ。アナウンスが流れる。
「さ、そろそろ車に戻ろうか」
「うん。…なくなっちゃうんだ。」
舞子はまだ不服そうだ。そりゃそうだ。でも仕方ない。
「それはそれとして、着くよ、四国」
そうして僕達は、舞子にとっては初めての四国の地に足を踏み入れた。