第4話 ぶぶ漬けパラドクス
「おい!やめろ!」
思わず大声を上げてしまった。別に怒鳴ったつもりはない。ただ、反射的に声帯が警報モードに突入してしまったのだ。
というのも、目の前で舞子が、なんの前触れもなくTシャツを脱ぎはじめたからだった。しかもこちらに背を向けるでもなく、真正面、いわば フルオープンスタンス だ。言葉にすると妙に英語っぽいが、要するに「ど真ん前」である。
「へ?」
舞子は、まるで冷蔵庫を開けて牛乳がなかったときのような、間の抜けた声を出した。
ぺったんこのお腹に、おへそが見えている。
「なにって、もう寝るから、着替えるだけだよ?」
当たり前じゃん?と言いたげなその口調。いやいやいや、と僕は内心で全力否定した。たしかにここは一間しかないの狭小アパートだ。舞子の住処は押し入れだが、夜になれば当然、同じ空間にいることになる。だとしてもだ。Tシャツを脱ぐ、その行為は、いかなる合理的説明をもってしても、目の前で堂々と実行されていい類のものではない。
「……せめて、脱ぐ前に何か言ってくれ。心の準備ができてない」
「あ、ごめんごめん。じゃあ、後ろ向いててー」
ようやく僕の狼狽を察したのか、舞子は軽く手を振りながら促してきた。
慌てて僕はくるりと反転。教室で黒板を向いて起立させられた生徒のような姿勢になり、目をぎゅっと閉じた。いや、見ないようにと言われたわけではないが、なぜか見えない世界に没入した方がいい気がしたのだ。背後では、もそもそ、ばさばさ、という衣擦れの音が聞こえる。明らかに、人間ひとりが服を脱ぎ、別の服を着るまでの一連のプロセスが、わずか数メートルの距離で進行している。
「もう着替えたよー」
その声に、恐る恐る振り返ると、そこには極めてゆるいキャラクターが僕を迎えていた。
「……さてんのに~ちゃん?」
舞子が着ていたのは、フロントに大きくその名がプリントされたTシャツだった。
前掛け姿で咥えタバコのにいちゃんが、ハクサイをキャベツと勘違いして満面の笑みを浮かべている。
下は、いわゆるドルフィンパンツ。中学のバレーボール部員が穿いていそうな丈の短いやつで、ここんとこ女子の夏フェス参加者や海の家の店員あたりに見かけるようになったやつだ。
「なんで怒られたのか、全然わかんないんだけど」
と舞子は、まるで僕が過剰反応しているかのようなトーンで言った。
「だってさー。一緒の部屋に住んでるんだから、着替えるくらいしょうがないじゃん。」
軽やかに、あまりに軽やかに、舞子は言った。僕はその一言で、一瞬だけ、スライムみたいに床に溶けそうになった。
「……うん、まあ。そういう意味では、信用されてるってことなんだろうけど」
「だってさー、なんか変なことしてきたり、チラ見しようとするような感じ、全然ないし」
その“全然”をあと一回言われたら、さすがにちょっと傷ついていたかもしれない。
僕は、舞子に向き直り、できるだけ真剣な表情で言った。
「たとえ僕がどう見えても、年頃の女の子が、男の前で無防備に下着姿になるのは、やっぱりよくないと思う。そういうのはちゃんとTPOっていうか、分別っていうか……そういう配慮が大事なんだよ」
「ふんふん。なるほどなるほど」
舞子は、こくこくと頷きながら返した。
「じゃあ、次からちゃんと押し入れの中で着替えるか、どうしても窮屈だったらハルくんに先に『後ろ向いて』って言うようにするね。実家では家族の前で着替えてたから、気にならなかったんだ」
と、舞子は笑いながらTシャツを引っ張った。
「うん。そうしてもらえると、助かる」
「はーい!わっかりましたー!」
言い終わったあと、彼女はまたTシャツの「に~ちゃん」を引っ張って、咥えタバコの吹き出し部分を誇らしげに見せてきた。
白菜とキャベツを間違えても、怒られない世界。たぶん、そこに舞子は住んでいるのだろう。
やれやれ。
◇ ◇ ◇ ◇
後期セメスターの残りの授業はあっさりと終わり、気がつけば2月になっていた。
舞子が突然僕の生活に現れてから、もう1ヶ月あまり。彼女は変わらず、押し入れの中の“巣”に棲み続けていた。
16歳の女の子がいきなり一人暮らしの男子大学生の生活に入り込んできたのだから、当初はさすがに戸惑った。
でも、何日か一緒に過ごすうちに、舞子が思っていたよりもはるかにちゃんと“生活”のできる子だということが分かってきた。いきなり平気で着替えを始めること以外は。
舞子のバイト先は、わりと大きなホテルのレストラン。モーニングタイム専門の勤務で、昼賄いはなく、朝に余ったパンがもらえるらしい。
舞子は機嫌よくパンを抱えて帰ってくるし、バイトのある日はそのパンで朝食をすませる。
バイトがない日は、絵本みたいな料理本を片手に、台所で何かと格闘していた。
レシピ本は、表紙にウサギやパンダのイラストがついた小学生向けの“かんたん料理”。
「大人のは、何が書いてあるのかさっぱりわからん」と言っていた。
味噌汁はインスタントのお湯注ぐだけ、ほうれん草のおひたしは「ゆでて、ぎゅっとして、しょうゆと鰹節で完成」だが、しっかり作っていた。
玉子焼きだけはなぜか異様にうまく、砂糖醤油でじゅわっと甘辛く仕上がっており、口に入れるととろけるほどだった。
生活のあちこちには、彼女の気配が少しずつ増えていた。
トイレには、かわいいウサギ柄のマットと蓋カバー、ふんわりしたタオル、そして控えめにラベンダーの香りを放つ芳香剤。
玄関には赤い長靴と水玉模様の透明傘、持ち手のついたマイコ専用の買い物かご。
台所には空き瓶に生けられた名も知らぬ花。
そのうち部屋のあちこちに、ぬいぐるみ、編みかご、可愛い形の瓶などが、自然に増えていった。
ある日の夕方、僕は無性に酸っぱい酢豚が食べたくなった。
商店街の肉屋で豚バラのブロックを買い、備蓄してあった玉ねぎに加えて、ピーマンと人参を八百屋で仕入れる。
豚バラは大きめの一口大にゴロゴロと切って、塩コショウで下味をつけたら酒を振ってしばらく置き、水気を拭き取ってから片栗粉をまぶして180℃の油でカリッと揚げる。
野菜たちは、人参、玉ねぎ、ピーマンの順に油に投入し、火が通ったところで取り出して油を切る。
鍋に米酢と黒酢をベースに、砂糖、酒、醤油を合わせて火にかけ、ふつふつしてきたところで火を止めて水溶き片栗粉を加える。ケチャップは使わない。再び火を入れてとろみがついたら、そのまま豚肉と野菜を投入。しっかりと餡になじませたら、最後に塩コショウで味を整えて完成。
酢豚が完成した頃、「なんかいい匂い~」と言いながら、押入れで本を読んでいた舞子がのそのそと這い出してきた。
でも食卓に座った彼女は、酢豚を見て、なぜか微妙な反応だった。
まずはわかめスープをひとすすり。
そして次に酢豚。舞子は少し躊躇したあと、慎重にふーふーしてから、一口。──ピタッと動きが止まった。
「……う、う、うまっ!」
そのあと、まさかの無言タイム。
酢豚、ごはん、わかめスープ、酢豚、酢豚、酢豚、ごはん──という黄金ループが始まり、彼女はまるで人生で初めて酢豚を食べるかのような勢いで、それを平らげていった。
「ふ~~、やばい……酢豚って、こんな美味しいもんだったんだ……」
聞くと、給食で出された酢豚を食べて以来、酢豚は「大っ嫌いなメニュー」だったらしい。
でも、せっかく作ってくれたんだから食べなきゃ、と思って頑張って箸をつけたら、こんなに美味いものだったのかと感動に打ち震えた、と。
どおりで最初、微妙な反応だったわけだ。
「はい、食後のジャスミンティー。口の中の脂がさっぱりするで。」
「うわ?!ジャスミンティー!名前しか知らなかったやつだ!」
カップを両手で抱え、くんくん匂いをかぎ、そして小さく一口。
目を見開き、首をひねり、「なんかすごい高級なホテルのロビーみたいな味する!」と謎の感想を言った。
その後もしばらく“うま”の余韻に浸っていた舞子だったが、突然「あっ」と声を上げた。
「わたし、さっき、こたつを拭いてた時に、うっかり、ハルくんの大学のレポートみたいなやつに、濡れた布巾を置いちゃったの。ごめん。乾いたらシワになるかも。」
俺は全然気づいてもいなかった。
「大丈夫、まだ下書きで提出用じゃないから。」
「…あのさ、ハルくん」
「ん?」
「『ぶぶ漬けでもどうどす?』って、ハルくんも使う?」
「は?」
突拍子も無い言葉に、酢豚の後のジャスミンティーが喉に詰まりそうになった。
「昔マンガで読んだの。京都では『ぶぶ漬けでも』って言われたら『帰れ』っ意味だって。」
「レポートにシワ付けられたお返しに、ぶぶ漬け出したろかって思わないの?」
「いやいやいや、そんなわけあるか。舞子のヘマなんて、別に珍しくないし」
「ひどっ」
「褒めてるんだよ。あと、ぶぶ漬けって、そういう呪文じゃないから。出される前に帰るのが京都流なの」
「うわー、ほんとなんだ!漫画だけかと思ってた~。
でもさ、そういうぶぶ漬けって、ほんとにあるの?食べられるの?」
「普通のお茶漬けなら簡単に食べられると思うけど」
「えー!食べたいっ!」
「……え?」
「京都の本気のお茶漬け!永谷園じゃなくて!ちゃんとしたの!お店の!私、お茶漬けって、すっごい奥深い料理だと思うの!」
舞子は例のキラキラした目で僕を見つめる。
「ぶぶ漬けねえ……」
そこから、我々の“ぶぶ漬け探訪ミッション”が始まった。
翌週の日曜日。
舞子は朝から落ち着きがなかった。
ぴあ、Lマガジン、SAVVY、あまから手帖…トーストを齧りながら、買い集めた情報誌をめくる。メモ帳には「ぶぶ漬け」とひらがなででっかく殴り書き。
観光パンフレットの記事、さらにはマンガのコマの切り抜きまでを資料に並べ、まるで自由研究の発表準備のような熱量だった。
「で、どこ行くん?」
「うーん……やっぱり老舗の料亭とかのが本気って感じだよね?でも敷居高そうやし、ハルくんの財布に優しいとこにしよ?」
「うん、できればそうしてくれ」
「でもせっかくだし、漬物いっぱいあるとこがいいな~。あと、お茶漬け専門店とかあるらしいよ!ほら、これ見て!」
舞子が見せてきた切り抜きには、小鉢に綺麗に並んだ漬物、焼き鮭や明太子、山椒ちりめんに梅干し、そして土瓶から注がれる緑茶や出汁……。
完璧だった。写真だけで白米2杯はいけそうだった。
「よし、じゃあ今日は“本気のお茶漬け”ツアーやな」
「やったー!ぶぶ漬けラバーとしてはこれは外せない!」
と、妙な称号を自称しながら押入れに着替えに向かった舞子は、5分後、迷いなく例のTシャツを着ていた。
そう、「さてんのに~ちゃん」Tシャツである。
「舞子、それで行くん?」
僕は思わず言った。なるべく穏やかな口調を心がけたが、ツッコミがにじみ出ていた。
フード付きのジャケットの下から、あの咥えタバコのキャラが顔をのぞかせている。白菜とキャベツを取り違えたままの、あの顔で。
「いや、よくない。さすがにそのTシャツで祇園はやめておこう」
「え、なんで?」
「その顔が……なんというか、京都の景観条例にひっかかりそうなんだよ。悪目立ちしすぎる」
舞子はTシャツのプリントを見下ろし、眉をひそめた。
「うーん、そこまで派手かな?に~ちゃん、そんなにインパクトある?」
「あるよ。あるし、絶対、海外の人に写真撮られる。あとで『京都の奇祭』とか言われかねない」
舞子は、ふっと吹き出した。
「……わかった。じゃあ、に~ちゃんにはお留守番してもらうよ」
そう言って、彼女は素直に押し入れに戻り、着替え直しを始めた。
しばらくして出てきた舞子は、落ち着いた色のニットを着ていた。下はいつものデニムの短パン。
「お、いいじゃん。めちゃくちゃ普通だ」
「……褒めてる?」
「うん、ちゃんと褒めてる」
「えへへ、よかった」
舞子は小さく笑って、買い物カゴを手に取った。アパートの階段を軽やかに下りていく。
僕たちは自転車に乗ると、いつものように川端通りを南へ下っていった。
今日は四条通まで。
東に入って八坂さんの方に行くとすぐ祇園だ。
「ぶぶ漬けって言うてても、店に“ぶぶ漬け”って看板出してるとこなんか、そうそう無いと思うけどな」
「えーっ、でも、あるってば。たぶん。あるはずだし、あった方が話が早いし!」
「それ、全部“たぶん”と“希望”やん」
とにかく、祇園の裏手から先斗町、木屋町を抜けて、僕らはあちこちの小料理屋や定食屋を外から覗いて回った。
「うーん……“茶漬け”とか“お茶漬け膳”ってのは見るけど、“ぶぶ漬け”って無いなぁ」
その後も、錦市場の定食屋、お茶漬け専門を名乗る店、漬物の有名店などを巡ったが、舞子の納得する“ぶぶ漬け”には出会えなかった。
舞子はしょんぼりと口を尖らせていた。
僕も、探し回るのにはもう疲れてはいたが、こちらも意地になって何とか舞子に『京都のぶぶ漬け』を食べさせたかった。
諦めもつかず更にしばらく歩き回っていると、ふと通りかかった木造の町家風の食堂の軒先に、味のある筆文字で「出汁茶漬け」の文字を見つけた。
「ここ……ちょっと良さげじゃない?ランチで値段も手頃だし」
「うん、入ってみよか。ええ加減お腹も空いたし。」
カウンターの奥には白衣を着た女将さんと、無口そうな職人風の男性。
ランチ営業の終盤だったようで、客は僕らだけだった。
出されたのは、焼き鮭をメインに、稚鮎やモロコやうろリなど川魚の飴炊き、それに香の物が数種付いたごはんと、湯桶に入った透明な黄金色の出汁。
舞子は目を輝かせていた。
「えっ、これ、お茶じゃないの? 出汁? 出汁って飲んでいいの?」
慎重に出汁を注いだごはんを、ひと口。
その瞬間、舞子の眉がぴくりと上がり、口元がだらしなく緩んだ。
「なにこれ……うっま……お茶漬けじゃない……」
「だから出汁茶漬けやって、書いてたやろ」
「うわ~うわ~、この紫の漬物なに?なにこの黄色いの?このパリパリのやつ、山椒?違う?あ、ちりめん?うまっ……」
舞子はひと口ごとに驚き、感心し、いちいち僕の袖を引っ張って報告してきた。
まるで異国のごちそうに出会った旅人のように。
「器もかわいい……このスプーン、レンゲじゃなくて銀のやつだ……お茶漬けって、こんな高貴な食べ物だったっけ……?」
そう呟きながら、夢中で食べ続けていた。
◇ ◇ ◇ ◇
店を出ると、川端通りの空に、うっすらと雲が広がっていた。
僕たちは出町柳まで自転車を漕ぎ、アパートに戻った。
冬とはいえ、これだけ移動するとさすがに汗ばんでいる。
2人で夕暮れの道を歩いて、錢湯に出かけることにした。
「ロング・アンド・ワインディングロード」
汗を流してさっぱりした僕たちは、部屋に戻って今日の反省会を開催した。
「で、結局、“ぶぶ漬け”は出てこーへんかったなあ」
「そうだね……でもさ、すっごい美味しかった……。あの赤いのと黄色いのと、白いやつ……名前、全部覚えてないけど、なんかもうすごい……」
「でもな、“ぶぶ漬け”って言葉自体が、元々メニューとして出てくるもんちゃうのかもな」
「え? どうして?」
「いや、なんとなくやけど……ほんまの意味とか、誰かに訊いてみたいなあ……」
ふと、僕は、嵯峨に代々伝わる畳屋さんの親戚がいたことを思い出した。
子供の頃は、毎年送り火の時期になるとその家に泊まらせてもらって、夜になるといとこ達と一緒に渡月橋まで歩いていって、灯籠流しをみて、遠くに燃える大文字と、すぐ近くの鳥居形をみたものだ。
「ほらハルヒトくん、喋ってんとさっさと食べよし!」
晩御飯になると、おしゃべりな僕はよくおばちゃんに叱られた。
あのおばちゃんならなにか知ってるかも知れない。
僕は実家に電話をかけて、「嵯峨の畳屋のおっちゃん」の家の電話番号を教えてもらい、直ぐに電話をした。
「もしもし、ハルヒトです。お久しぶりです。実はですね…」
おばちゃんの返答は実に簡潔だった。
ものとしては単にシンプルなお茶漬け、ご飯にほうじ茶や煎茶、お店だと出汁なんかをかけたもので、梅干し、漬物、塩昆布、ちりめん山椒、琵琶湖の川魚の炊いたんなんかが添え物に付く。
ただ、“ぶぶ漬け”とわざわざいう時は、長居している客にそろそろ引き取ってもらうよう催促する、というシチュエーション込みになる。
でもそれも、テレビとか雑誌で面白おかしく言ってるだけで、大昔はしらんけど、今の京都の私らは、そんなん言うたことないえ?
とのことだった。
「ふ~ん…」
僕が説明すると、舞子はがっかりするでもなく、感心するでもなく、ただ無感情にそう唸った。
「じゃあさ、結局、ハルくんが私を追い出したくなったりしない限り、“ぶぶ漬け”は出てこないんだ」
分かってるのか分かってないのか知らないけど、続けて舞子はこういった。
「じゃあもう“ぶぶ漬け”じゃなくていいから、さっきのより美味しいお茶漬け作って食べさせてよ!」
「ええよー。ほなまずは、美味しい漬けもん買いに行こか!まだ日曜の夕方やから、もう一回祇園の方行ったら店空いてるやろ」
そう言って僕たちは、薄暗くなり始めた鴨川デルタを横目に見ながら、再び川端通りを自転車で走り出した。