第2話 ダンスの子
「マイコ。『ダンスの子』で、マイコ」
まったく意味が分からなかった。
いやそれ以前に、なぜ彼女がこの部屋にいるのかすら、僕には解せない。ついこの前まで、彼女は軽井沢の蕎麦屋でペンギンのように盆を運んでいたはずだ。
◇ ◇ ◇ ◇
昨夜、アパートの玄関脇に三角座りでうずくまっていた彼女を、僕は結局部屋に上げることにした。
若くてちっちゃくて、しかもショートパンツからにょっきりと伸びた白い脚を惜しげもなく晒している女の子を、夜の京都の路地に放り出すわけにはいかない。冷えた街の片隅で、鼻水を垂らして寝込まれても、さすがに寝覚めが悪すぎる。
部屋に入るなり、彼女は一通りぐるりと見回してから、僕にぺこりと頭を下げて「お世話になります」と言った。
お、思いのほか礼儀正しいじゃないか、と思いかけて――いや、前触れもなく男のアパートを訪ねてくるという行為は、礼儀以前にどうかしているのでは? という疑問が、遅れて頭の中に届いた。
「とりあえず、座りや。寒かったやろ?」
そう言ってこたつを勧めると、彼女は再びぺこりと頭を下げて、するするとその白い脚を突っ込んだ。そして、「はあぁ〜」と、歓喜ともため息ともつかない声を漏らした。
「……あったか〜い! 結構寒いんですね、冬の京都って」
そんな格好してたら当たり前だろ、と言いかけて、僕は代わりに尋ねた。
「マイコちゃん…だっけ? なんでここに、京都に…」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女が自信たっぷりに口にしたのが、冒頭のセリフだった。
「マイコ。『ダンスの子』でマイコ」
――ダンス? 何の話だ?
理解不能な符号が、頭の中をぐるぐると回る。芸者、舞妓、マイコ…いやそれは「舞妓」であって…マイコー?「ポゥ!」などと、思考が迷子になっていると、マイコがさらに続けた。
「琵琶湖に、近江舞子ってあるでしょ? なんか水が綺麗なとこ」
ああ、そっちか。近江舞子。それなら僕も知ってる。
京都市内から湖西線に乗ってすぐの場所。仲間と泳ぎに行ったこともあるし、叔父がマリーナに係留していたビーチカタマランに乗せてもらったこともある。去年の夏は、ウィンドサーフィンの練習にも通った。あそこには、僕のバイト先の24時間カフェチェーンが経営するヴィラもあって、友人が彼女と泊まったという話も聞いたことがある。
でも、それがどうマイコに関係あるんだ?
「うん。あるな。近江舞子。で?」
促すと、彼女はにこりと笑って言った。
「その字。舞う子で、舞子。ダンスの子です」
……なるほど。今ようやく、彼女の言いたかったことが、夜行列車のようにゆっくりと理解の駅に滑り込んできた。
「なるほど。で、その近江舞子の舞子ちゃんは、なんで僕のアパートの前にいたのかな?」
僕がそう尋ねると、彼女は「えー?」と目を丸くして、デニムの後ろポケットから、丁寧に折りたたまれた蕎麦屋の箸袋を取り出した。
「お兄さんが私に住所書いて渡してくれたんじゃないですか! ほらこれ!」
確かに、僕の筆跡で住所が書いてある。それは否定しない。
「それでね、あの日バイト終わってちゃんと見たら、『京都』って書いてて、私、前から京都ってすごい憧れてて、子供の頃、京都の祭りの写真を見て、一回行ってみたかったんです。何なら住んでみたかったんですよ。」
舞子は、ずっと前から京都に来る運命だったかのように、鼻歌まじりに語りはじめた。
「で、ああこれは神様のお導きだと思って、次の日にはオーナーに『辞めます』って言ったんです。そしたら『せめて次の週末までは』って言われて…それで、来るのが今日になっちゃったんですよ」
口調があまりにも軽くて、まるでスーパーで特売品のヨーグルトを買いに来たようなテンションだったが、彼女にとっては大まじめなのだろう。何より語尾に悪びれた感じがまったくない。お見事なまでの無自覚な突進力だった。
オーケー。分かった。なぜ京都に来たかは理解した。でも、この無防備で可愛い女の子は、京都に来て……で、どうするつもりだったんだ?
と、僕が内心で問いかけてながら、口に出したのは別の言葉だった。
「うん。分かった。で、どこに泊まるん? 京都に友達とか親戚とかいるん?」
「友達ってほどじゃないけど、知り合いがいます」
おお、よかった。少し安堵の息が漏れた。
「そう、その知り合いはどの辺に住んでるん?」
「え? 今、ここに…。えーっと、ナカタ・ハルトさん?」
「ハルヒトやから」
「ていうか、え? えー!? 俺?」
「はい。頼れる知り合い、ハルヒトさん」
そう言って舞子はニッコニコしながら、大きな目で僕の顔を覗き込んだ。黒目がちな瞳の奥に、何か企みのような光がキラリと閃いた気がして、僕は反射的に一歩引いた。
「えーっと…とりあえず、こんな夜中に知り合いもおらん、知らん街で、君みたいな可愛い女の子を放り出すわけにはいかんから、コタツで良かったら寝てくれてええよ」
「わ! ありがとうございます!」
「ただな、僕もほとんど見ず知らずに近い人間を全面的に信用して泊めるわけにはいかへん。朝起きたら君がいなくなってて、ポケットの財布とか消えてたら、さすがに辛い。せやから、念のためやけど、君がどこの誰で、何をして生きてる人なのか、ちょっと教えてくれへん?」
「はい。えーっとね…」
彼女の話を一通り聞いて、頭の中で整理し直してみた。
舞子は大阪の泉州地域の出身で、実家は今もそこにあるという。高校には入ったものの、なんだか思っていたのと違ったらしく、数ヶ月でさっぱりと辞めてしまった。だが、そこからが彼女らしかった。
「ちょっと休んでる間に、なんかじっとしてるのも違うなと思って」と、彼女は笑って言った。
それでまず、8月に大検を受けて、見事一発で合格。進学するつもりは特にないまま、情報誌をめくっていたら、名前だけは聞いたことがあった「軽井沢」で、蕎麦屋の住み込みアルバイト募集を見つけた。条件は「16歳以上」。
「あとちょっとで16だったから、それまでじっと我慢してたんです。早く誕生日来ないかなって思いながら」と、肩をすくめて言う。
そして11月、16歳の誕生日を迎えると同時に応募し、採用。
軽井沢に行きたいと話したとき、両親は「頑張って生きて行こうとしてるんやな」と、すんなり背中を押してくれたという。
親とは今でもちょくちょく電話しているそうで、行き先や状況さえ伝えていれば、「何かあったら言うんやでー」「そっちも体に気をつけてねー」が、いつもの締めくくり。心配よりも応援が勝ってるような、そんな関係らしい。
軽井沢の住み込みバイトは、ありがたいことに衣食住はついていたし、年末年始もがっつり働いて、思ったよりもしっかり貯金もできた。
次はどこに行こうかな、とぼんやりと考え始めていた。
そこに僕が現れた、ということらしい。
彼女の話しぶりは、ところどころ脱線しながらも妙に整っていた。嘘をついている様子は見えず、むしろ、その場その場でしっかり自分の選択をしてきたという風にも思えた。
そして、どう見ても制服がまだ似合いそうなその顔で、ちょっとだけ照れたように笑って、こう付け加えた。
「だからいま、流行の……フリーターってことですね。」
僕は少しだけ笑ってしまった。
「なるほど。よう分かった。そしたら、とりあえず今夜はここで寝てええよ。コタツしかないけどな。ただ、あんまり長居されたら僕の生活もあるし、また考えなあかんけど」
「はーい!」
その返事は妙に明るく、しかも一拍の迷いもなかった。
分かってるのか、分かってないのか。
いや、分かったうえで“乗ってる”だけかもしれない。
見ず知らずの女の子を家に泊めるなんて、普段の僕なら絶対しないのに、
なぜか彼女の無防備さと妙な説得力に、僕はするりと巻き取られていた。
とりあえず、ひとまずこの夜は、何事もなく過ぎていくと思っていた。
──が、その淡い希望は、翌日あっさりと裏切られることになる。
◇ ◇ ◇ ◇
朝。
京都の冬の朝は、少し遅れて始まる。太陽が雲のカーテン越しにようやく姿を見せる頃、アパートの室内は冷気を帯びた空気で満ちていた。
僕はいつものように、小さな流しのガスコンロで湯を沸かしながら、片手で食パンをトースターに突っ込んだ。寒い朝は胃袋よりも先に、湯気の立つ湯飲みに手を伸ばす。ポットに常備している番茶を注ぎ、ついでにインスタントの味噌汁も溶かして二人分。
「これ、よかったら。パン、バターついてるけど」
「わ、嬉しい!」
舞子はコタツからずるりと身体を出して、湯気の向こうでにこにこと受け取った。無邪気な顔で、バターを塗ったトーストをふうふうと冷ましながらかじる姿は、どう見ても旅の途中の小動物である。
「今日、どうするん?」
「んー、ちょっと見て回ってみようかな、京都」
「そか。俺は大学、今日は夕方までみっちり講義あるから…鍵、一応渡しとくわ。出る時閉めといて」
「了解?」
といいつつ、舞子は革のリュックを背負い、僕と一緒にアパートを出た。
「ほぼ初対面の女の子に鍵なんか預けて大丈夫だったかな…」
僕は、少し気になりつつも、いつもの鴨川デルタを右に見ながら、大学のある今出川方面へと自転車を走らせた。舞子がどこへ行くのかは聞かなかった。きっと彼女には、彼女なりの地図があるのだろう。地図というより、風まかせの風見鶏のような勘かもしれないが。
──ところが、である。
夕方、講義と図書館での作業を終えてアパートに戻った僕は、玄関を開けて固まった。
……何かがおかしい。
空気の密度が違う。匂いも微妙に変わっている。どこかに新しい何かが入り込んで、僕の“生活の密室”が僅かに膨らんでいた。
その理由は、すぐに分かった。
押し入れの襖が開いていた。
そして部屋には、かつてその中に収まっていたはずの僕の荷物が、まるで誰かの引っ越し先で一時的に避けられたように、雑然と外に放り出されていた。マンガ、ノート、季節外れの毛布。バンド仲間のデモテープ。押し入れに封印されていた僕の過去が、無造作に床に散らばっている。
「……なんじゃこりゃ」
押し入れの奥には、『巣』ができていた。
敷き詰められたのは、カラフルなクッション。それも、同じ色や形ではない。アニメの背景に出てきそうな、ユニークな柄のそれらは、本当に『巣』だった。明らかに“くつろぐ”ことを前提にデザインされた空間。天井からはクリップ式のライトが吊られ、隅にはミニテーブルと、その上にはご丁寧に文庫本とマグカップまで配置されていた。
というか、そのクリップライトは僕が間接照明を気取って部屋で使っていたものじゃないのか?
「……どうしたん、これ?」
「近所にイズミヤあったから」
『巣』から、舞子がごく自然に返事をした。もはやこの空間の主のような口ぶりだった。
「なんでもあるね、イズミヤ。クッションも、カーテンも、カーペットも、全部一式」
昨夜とは打って変わって、舞子の口調はすっかり砕け、どこか勝手知ったる様子で、僕の目をまっすぐ見た。
「あれ? なんか、キャラ変わった?」
「え、そう?」
「昨日より距離が近いというか……」
「二日目だし。パンもらったし、お味噌汁ももらったし、鍵も預かったし。距離縮めても怒られないかなって」
「……まあ、怒らないけど」
「でしょ? だから、呼び方も変えてみた」
「呼び方?」
「“ハルくん”って。ハルヒトくんだから“ハルくん”」
「え?」
「うん、もう決めた。名字で呼ぶとよそよそしいし、“ハルくん”って響きがしっくりきたから」
「勝手に決めるなよ」
「じゃあ嫌?」
「……いや、まあ、別に」
「よかった。じゃあ決定ね、ハルくん」
舞子は、押し入れの“巣”にひょいと身を戻しながら、まるで新しい住処に落ち着いた野良猫のように笑った。
その仕草を見ていたら、なぜだか“勝手に決めるなよ”の言葉すら、僕自身がウソに思えてきた。
4つも年下の、ほぼ初対面の女の子に“ハルくん”。
やれやれ。
「で、イズミヤはええけど……これ何?」
「私の部屋」
即答だった。微塵のためらいもなかった。
僕は一瞬、何かの手違いで“現実”という名の舞台に別の脚本が差し込まれたのかと思った。まるで、図書館で開いた本のページが、いつの間にか誰かの手で別の章に書き換えられていたような。
いやいやいや。
「居候する気なん?俺も大学生やから、そんな面倒見られへんで?」
「仕事も決めてきたよー。三条の京都ホテル。レストランで6時から11時のモーニングバイト。食費も家賃も、心配しないで」
舞子は、押し入れの天井の低さもものともせず、軽快にごろんと寝転がった。僕の世界が、軽々と侵食されていく音が聞こえた気がした。
もはや反論は、意味を持たない。
やれやれ。
こうして、僕と舞子の、奇妙で不穏で、ちょっとおかしな共同生活が始まった。
いや――始まってしまったのだった。