第5話 競技場
「おし、全員準備整ったって……よっ!」
うぐっ──!?
不意に、遠郷が僕の背中をバンッと叩いた。
「遠郷さん、ヤツの居場所は……どこですか? 声が反響してて、位置がつかめないんです」
「先に行ってるやつの話だとな──」
遠郷は、バットの先で宙を示しながら言った。
「この先の路地をまっすぐ行くと、フェンスがある。
そいつを登った先が“競技場”の跡だ。
いまは都合よく広い空き地になってて、そこでクソ犬がたむろしてやがる。
スタンドは潰れてるし、芝生も泥に変わっちまってるが、視界は悪くねぇ。
近接班はトラック脇の掘れた溝に潜んでて、遠距離班はスタンドの瓦礫から包囲かけてる」
そして、肩をポンと叩かれた。
「わかったか?……わかったなら、行ってこい!」
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第5話 競技場
──2024年 6月 27日 PM06:26:51──
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フェンスをよじ登り、地面へと飛び降りる。
着地した足元は、ひび割れたアスファルトと、泥がこびりついた粉塵にまみれていた。
一歩踏み出すたび、靴底がぬめりと沈み、どろりとした何かが足元に絡みついてくる。
──まただ、あの臭いだ。
腐った卵に、錆びた鉄と湿った獣臭を混ぜたような──嗅覚を蹂躙する濃密な悪臭。
肺の内側をざらついた手で撫でられるような不快感に、僕の胃がきしんだ。
息を吸うたびに、肺が毒で満たされていくような錯覚。
その瞬間、自分が死地に足を踏み入れたのだと、全身が理解した。
周囲を見渡す。
かつて競技場だったはずの空間には、もう歓声の名残すらない。
傾いたフェンス。折れかけた照明柱。
陸上トラックの赤い舗装は、砕けた破片となって地面に混ざり、
黒ずんだ焦げ跡が斑に広がっていた。
芝生のあったはずの中央フィールドは、泥とガレキに覆われ、
赤黒い染みと、不気味な水たまりが静かに広がっていた。
そして、“ヤツ”はそこにいた。
トラックの外れ、倒壊した簡易トイレの裏手。
闇に溶けかけた何かの影が、もぞりと蠢いていた。
グチャリ、グチャリ、チュブ……チャクチャク……
何か柔らかいものを──貪っている音だった。
肉が裂ける音。骨が噛み砕かれる音。
それらを無造作にミキサーへ放り込んだような、不協和音。
そして──
トイレの陰の闇が、ぬるりと動いた。
「ギェェエエエアアアアアッッッーーー!!!」
爆音。
咆哮ではなく、爆発に近い何かだった。
現れたそれは、軽自動車ほどもある巨体。
けれど、四足でも二足でもない。
どこにも均整というものがない。
赤黒い毛並み。
血を吸った墨汁のような色。
泥と脂とにまみれた毛が束になり、ねじれ、逆立っている。
乾いた血がひび割れ、まだ湿っている箇所すらある。
脚──
数は八? いや、背中にも顔にも生えている。
ぞろり、ぞろりと、意思を持った触手のように這い動き、地面を引っ掻くたび、
ジャリ……ギィ……と金属を擦るような音が耳を突いた。
その尻尾は、二股に裂けていた。
裂けた先端はそれぞれ別々の方向へ、独立して動く。
まるで、生きている。思考している。獲物を探している。
顔──
顔が“顔”であるべき場所は、もう潰れていた。
鼻が抉れ、暗い穴から赤黒い液が垂れ流れ、
大きく割れた口からはぬらぬらとした牙が覗き、
歯茎の中へと自分自身の牙が突き刺さっていた。
額に──ギョロリと目玉がある。
背中にも、もうひとつ。
額の目が、ぬるりと動く。
背中の目は、グリグリグリグリグリッ……!!
興奮した獣のようにあちこちを忙しなく見回していた。
静止。
一瞬の、凪。
……見つかった。
クルルルルルルルル……
喉の奥で、何かを溜めるような音。
息を呑む間もなく、それは身体を沈め──
ゴォォォオオオオオッッ!!
大気が割れた。音が爆ぜた。
裂けた舗装の下から、砕けた土とガレキが飛び散り、粉塵が舞う。
這いながら、跳ねながら、掻きながら。
暴力的な脚が地面を殴り、突進してくる。
四つん這いですらない、意味不明のバランスで一直線に──
──速いッ!!
目が追いつかない。
音がズレて聞こえる。
恐怖が脳幹を焼き、内臓が逆流しそうになった。
血の気が引き、視界が一瞬で細くなり、
世界が白と赤の線だけになっていく。
──まるで悪い夢でも見ているようだ。
なのに動けない
体は震えてる。震えてるのに、動かない。
心臓は壊れそうなほど暴れてるのに、脚は地面に縫いつけられていた。
避けたい、逃げたい、叫びたい。 だけど、喉も舌も、脚すらも──
動けっ……動け動け動け動け動け動けっ!!!
バウバウバウバウバウバウバウ!!
耳元で爆竹が破裂したような音が連続で響く。
ヤツの脚が、地面を──砕きながら──迫ってくる!!
ドスドスドスドスドスドスドスドスドスドスドスッ!!
一瞬で──ほんの一歩、ひと呼吸のうちに──死が目の前に迫った。
歯茎にめり込んだ鋭い刃が、喉を裂く寸前まで来ていた。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け──!!!
──時間がゆっくりと流れるような錯覚を覚えた。
遅々としているが確実に迫ってくる巨体、
血と肉、骨までが沸騰するような熱感、
頭蓋の内側から、ガンガンと叩かれるような焦燥、
速すぎるくらいに脈打つ心臓、
それら非現実的感覚が、僕から“意識”を奪おうとしていた。
──こういう時は、思い出せるもんだろ。
名前、顔、輪郭、影、温度、匂い──
僕は、何を失って、何を探しに来ているのかすら分からない。
……あれ、俺、何してたんだっけ。
そうだ……家、速く帰らねぇと……帰ったら課題やって…晩飯、今日はなんだっけな…
地響き、轟音、揺れる足元。
白く、暗くなっていく意識の隅で
──飛び散る血肉。にじんだ汗。獣の唸り。
そして、再び迫り来る、死。
それらは、もう一度、“僕”を現実へと引き戻す。
ああ、このままじゃ。このままじゃ──
「死んでたまるかァアアアアアアアアッ!!!」
足が動いた!
否、跳んだ!跳んだ!?
狂犬の頭を跳び箱のようにして背中を飛び越えようとしている。
恐怖を蹴って、地面を蹴って、ヤツの背中へ跳び上がっていた。
そして──
手に握りしめていた槍。死を悟っても尚手離さなかったその槍を、背中から生えた脚の隙間を割り裂き、背中の“目”を槍の刃が貫いた
狂犬が──より狂ったように咆哮する。
「ギョエエエアアアアアアアアアアアアッッ!?!?」
バランスを崩した化物が、砕けたトラック舗装と泥を抉りながら、横転した。
巨体が跳ね上がり、瓦礫を巻き込みながら暴れ狂う。
たまらず僕は槍を手放し、弾き飛ばされた。
視界がぐるりと回る。 地面だか壁だか分からないものが流れ、 重力に引っ張られて、泥の上へ──
ドサァッ……!
はぁ……!はぁ……!はぁ……!!
耳の奥で、まだヤツの咆哮が鳴ってる。身体が痛い。でも、死んでない……!
「おりこうさんだ逆本大地!お前ら撃てェッ!」
遠郷の怒号が飛ぶと同時に、 耳の奥にダダダダダダダダタッと火薬が規則正しく弾ける音が刺さった。
何かが、風を殴ったような──いや、風そのものが殴ってきたような圧が、地面を這って届く。
「届けやァオラァアアアアア!!」
爆音の中で、ひときわ響いた濁声。
その直後、ズガァアアアアン!!と何かが破裂した音。
見上げた先で、赤黒い巨体がぐらついていた。
化け物の体が、目に見えない何かに押し倒されるようにのけぞっている。
続けて──
ピシュンッ! カシャン! ピシュンッ!
金属をしならせたような音が何重にも重なり、視界の端を細い影が駆ける。
矢だ──ボウガンか?
そのどれかが、犬の首に突き刺さるのが見えた。
その次、
目の奥を焼くような、まばゆい閃光。──と同時に、泥が跳ね、地面が爆ぜた。
「ぎャアアアアアァァァッッ!!」
狂犬の絶叫。鳴き声というより、焼けた鉄が裂けるような音。
それでも攻撃は止まない。誰かの叫びが遠ざかる。誰かの武器が爆ぜる。誰かの弦がしなる。
その全てが、僕から死を遠ざけていた。
「今だッ!近接班、行くぞォオオオオッ!!!」
再び、遠郷の怒声。
「「「「うおおおおおおおおおおおお!」」」」
それに呼応して、無数の足が駆けてゆく。
無数の脚を追いかけてゆく。
砂埃と泥しぶきが舞い上がり、砕けたトラック舗装が踏み割られていく。
片膝をついて泥にまみれた視界の端に、鋼の先端がチラつき── そのまま、誰かが吠えるように突撃していった。
「ハッ──ケェエエエイッ!!」
音だけで、視界が揺れる。……でも、僕には、もう立ち上がる力がなかった───
ここまでの猛攻を受けてなお暴れ狂う犬。
その巨体が突如身を翻した。
弾丸の雨を振り払うように、肉塊の脚が地面を裂き、飛び跳ねる。
その鋭利な爪が、まっすぐに近接班に混じっていた、小柄な少女へ。
黒いレースのドレス。場違いにも見えるその姿は、けれど僕には見覚えがあった。
……ゴスロリの少女だ。
「嬢ちゃん、危ねぇっ!」
誰かが叫んだ。だがその声が届くよりも早く、歪な凶威が少女の喉元を抉らんとし──
バギィン!
──何かが、弾けた。
化物の様子がおかしい。
少女を狙ったはずの猛突は、まるで見えない壁でもあるかのように、中空で防がれていた──
ギィイイインッ!!!
ド…ッ!ドッン!
ガッ ギャオォオオォオ! ガッ
再び金属を噛み合わせたような摩擦音と共に、狂犬の爪と突進が牙が、弾き返される。
バランスを崩した獣が、ふたたび地を蹴る。
「名付けて、『ゴーストブロッキング』かしらぁ。」
「行きなさいな『ゴーストラリアット』!」
少女は顔色一つ変えずに、何やら技名を宣言しては、何もない空間へ命じ、踊るようにスカートを翻している。
ドッ……ズゥン!
狂犬の首が横薙ぎに跳ね上げられ、抵抗する間もなく地面に叩き伏せられた。
「俺がトドメ貰っちゃうぜ?せいっ…やッ!」
唐突に遠郷が飛び出し、金属バットを振りかぶった。犬の側頭部目掛けてカッキィィーンと清々しいまでのフルスイングだ。
けれど今までの攻防に比べるとあまりにも地味で効果が薄いように見えたが…
──ん?
遠郷さんが……揺らいで見える…?
目を擦って見たが変わらない。
彼だけがピンボケしたようにぼやけて見える。
思わず辺りを見回したが視覚的な異常はなく、遠郷の輪郭だけが二重になっているように見えた。
──いや違う、明らかに様子がおかしい。
揺らいでいた像が、次第にズレ始めた。
最初は残像かと思ったそれが、徐々に明確な“もう一人”へと変わっていく。
一人は犬の頭部を、もう一人は腹部を──
同じ武器を、それぞれ別の角度で、まるで独立した個体かのように振る舞いだした。
「くたばれぇ!」
「逝けェ!」
「「さっさと死ねェ!!」」
……
………
「「コピーしただけだとこんなもんか」」
ひと仕事終えたように金属バットを担ぎ、汗を拭いながら、
“二人の遠郷”がこちらへ歩いてくる。
片方が揺れ出す。
歩幅、腕の振り、姿勢がぴたりと重なり始め──
やがてその姿がぬるりと重なり合い、二重は一重へと戻った。
「「はぁー疲れ…」たわ。これくらいで勘弁してやるよ」
そのまま、何事もなかったように肩を回し、
「おっ、大地くん。おつかれさん!」
「遠郷さん……ゲホッ、ゲホッ……さ、さっきのは……?」
少し苦しかったが、疑問を飲み込めなかった。
さっきの、“あれ”。
残像のように分裂し、別々に動いた遠郷の姿──目の前にいるこの人が、正体のわからない力を振るった張本人だ。
「へへっ、アレか?アレはな──俺の“覚醒能力”ってヤツよ。分身だぜ」
覚醒能力…覚醒者…。
最近じゃネットの都市伝説で話題の的になっている。
人が空を飛ぶとか、透明人間だとか。
中には時間を止めるだなんて極端な噂まであるほどだ。
「分身……ですか……」
「その、覚醒者って……ほんとに、いるんですか……?」
「おいおい、“銀嶺”と一緒にいたんだろ?今さら何言ってんだ」
「それにさっき歩いてるときもアイツ能力使ってたろ」
一拍おいて遠郷は続けた
「だいたいその様子だと……」
「まさか大地くん、なんも見えてねぇのか?」
遠郷は不思議そうに僕のことを見ている。
見えないものは見えない。
第一、さっき狂犬を弾いた“壁”だって、ブラスターのなかから驚きの声が上がっていたくらいだ。見えないのが当然じゃないのか。
「どう…ゲホッ、ゲホッゲホッ!やったらゲホッ!見えるんですか」
「おいおい、大丈夫かよ? そんな疑問より、まずは先に休みな」
遠郷は僕を担ぎ上げ、救護班の元へ向かおうとする。
しかしここで、
「おいヤクザのアンタ!どうすんだ、このままだとジリ貧だぞ!」
怒声が飛んだのは、遠距離班のブラスターの一人だった。
「おう、どうしたァ? 火力は十分、一方的に殴れてんだろうが! このまま押し切れる!」
どこか楽観的な返答。 けれど──それが現実を見てない証左だった。
「違う、もう弾切れが出てる! 近接班も負傷者続出だ、このままじゃ逆に押し返されるぞッ!」
その声を聞いた途端、耳にあの喧騒が戻ってこないことに気付く。 ──ダダダダッと鳴り響いていた銃声も、目を焼くような閃光も。
……いつの間にか、ほとんどが止んでいた。
遠郷の肩に担がれたまま、周囲を見渡す。
動いている者は少ない。
遠距離班では、まだあの舌舐め大男だけが腕を振るい続けているようだったが──
近接班の姿も、いつの間にかまばらになっていた。
疲弊したブラスターたちは、建物の影や車体の陰に身を隠し、息を潜めている。
明らかに──戦況が膠着しかけていた。
そして──
……先輩?
見回す視界に、“いるはずの姿”が見つからない。
本来最前線にいるはずの、先輩の姿が、どこにも見えない。
---
「ア゛オ゛オ゛オ゛ー!」
「ガァ゛ァ゛アアアバヴ!バヴ!ガルルルギャァァァアアアアアア!」
ブラスターの投げた火炎瓶が炸裂し、火だるまになった化物はのたうち回りながら、壁やフェンスをなぎ倒して殺意を撒き散らしている。
おびただしい数の刃物に刻まれ、無数の弾丸に貫かれ、数多の打撃を受けて尚暴れ続けるその様は、生物の生存本能を超え、まるで"憎悪"そのものに突き動かされているかのようだった。
十本以上あった脚は既に数本を残すのみ。 爪は欠け、牙は折れ、背中の眼球は血飛沫にまみれてぐちゃぐちゃになっている。
「はぁ……はぁ……俺ももう弾切れだぞ……」
最初こそ余裕を浮かべていた大男すら、肩で息をしながら拳をあげる気力を失いかけている。
「あーもううざったいわ!『ゴーストロング・零』ッ!」
ゴスロリの少女も、苛立ちを隠さず狂犬へ怒声を上げる。
見えない力によって化物は再び首からかち上げられ、転倒する。
状況を見守りながら、増援を要請するように指示を飛ばす遠郷。 彼は僕を担いだまま、戦況を睨み続けていた。
「グルルルルルル……」
膠着状態の戦場。火薬と血と泥の臭いが混ざり、呼吸さえ重い。
犬は──燃えながらも、まだ立ち上がっていた。
「平一先輩!どこにいるんですか!サボってないで動いてください!」
サボっているであろう隠れている先輩に対し、僕は叱咤した。
声は震えていて、すがり付くように声を張り上げた。
「お前何が銀嶺だ!山みてぇに動かねぇってそういうことかよ!ふざけんな!クソガキより役に立たねぇじゃねェかッ!」
僕に釣られて、遠郷も叫んだ。──叫んでしまった。
僕らの“咆哮”に反応するように、化物がこちらを見た。
「ギィエェェェエエェェエエエェエエェエッッ!!!」
狂犬が、断末魔のような咆哮を上げる。
空気が震え、赤く立ち込めていた霧が、その声の波動に押されて引いていく。
視界が──開けた。
「ッ……大地、しっかり捕まってろよ!」
遠郷さんがそう言って、ポケットから発煙筒を取り出し、火をつけて掲げる。
「全員退却ッ!!ヤツはもう手負いだ!このまま放っときゃ勝手に死ぬ!これ以上やり合う意味はねぇ!」
その号令で、戦場の空気が変わった。
あちこちで呻いていたブラスターたちが、よろめきながらも立ち上がる。
まだ武器を持てるやつはそれを握り直し、引きずるように負傷者を抱えて撤退を始めた。
覚醒者の少女も、大男も、犬を睨みながら後退する。
遠郷さんも僕を担いだまま、走り出した──その瞬間だった。
ドダドドドダドドドドドドダドドドドダッ!!
速い。異常なほど、速い。
地を抉るような衝撃がすぐ背後から迫ってきて、振り返る間もなく殺気が背中を刺した。
──おかしい、さっきより速い……!
「クッソォォォオオッ!!」
遠郷さんが僕を前方へ突き飛ばす。
そして振りかぶった金属バットが、“二人分の力”を込めて化物の顔面へ直撃する──!
「──がぁっ!!」
だが、止まらない。
遠郷の身体は弾き飛ばされ、地面を跳ねて転がって、土煙の中へ消えていった。
「遠郷さんっ……!!」
安否を確かめる暇もなく、ヤツは勢いそのままひ僕へ突っ込んできた。
うまく動けない──怪我した足では到底逃げきれない。
「く……ッ!!」
咄嗟に腕を交差し、防御の構えをとる。
ただの反射的行動だった。
牙が、爪が、肉を裂くその瞬間を、目を瞑って待った。
──しかし、聞こえたのは…
「──はぁ、めんどくせぇな。モヤシの癖にしゃしゃり出っからこうなンだよ」
その声と同時に、眼前の化物は突然急停止した。
化け物の毛並みはざわりと逆立ち、目は見開かれ、口は開いたまま。
鬼気迫る迫力のまま、小刻みに震えピクピクしながら涎を垂らしている。
逃げようとしていたブラスターたちの足も止まり静観している。
異様な雰囲気のまま微動だにしない狂犬を見て、誰もが状況を飲み込めないでいた。
一歩、二歩…僕は少しずつ後退りし、キョロキョロと周囲を見渡した。
──何だアレ…
視界の端に、青白い一筋の光跡が走った。
……いや、一筋どころじゃない。
幾つもの光の粒が、眩い輝きを放ちながら、不規則に明滅し──化物を囲むように、空中を漂っている。
理解の及ばぬ光景を前に、ただ立ち尽くしていると──
化物の陰から、先輩がふらりと現れた。
揺れる白いパーカー。
色の抜けた白い長髪に、血の気のない白い肌。
目元には深い影。
だが色素の薄いその瞳は、光の粒に照されて淡く──そして鈍く、光を返していた。
彼の身体の周囲にも、青白く淡く発光する粒が漂っていた。
いや、“従えている”──そう形容したほうが、しっくりくる。
先輩は化物を睨みながら、オーケストラの指揮者のように、左手をゆっくりと宙に踊らせた。
それに呼応するように、光の粒は…しんしんと、あたりに降り積もる。
まるで雪のような──
冷徹な面持ち、白光する粒、堂々たるその振る舞いは、まるで峻烈な雪山のように見えた。
──これが……『銀嶺』……っ!
「ちっ、クセェな……おい、遠郷っつったか。コイツ、殺していいんだな?」
先輩はぶっきらぼうに問いかけた。
僕の代わりに突進をモロに食らった遠郷は、吹き飛ばされた先──
コンクリの壁に叩きつけられたまま、荒く息を吐いていたが、
泥に塗れた顔をわずかに持ち上げ、首を縦に振る。
先輩は、気だるげにひとつ息を吐く。
「んじゃ……」
再び、指揮者のように左手を踊らせ〆めるように垂直に振る──
その瞬間、化け物の頭部が、内側から“破裂”した。
音は殆ど聞こえず、小さかった。
ピシュッ──という、炭酸の栓を開けたような音。
遅れて、ぐしゃりと頭蓋が崩れ、脳髄と血が吹き上がる。
残った3本の脚で器用に姿勢を保っていた化け物は、ガクンと膝から崩れ落ち、そのまま力なく倒れ込み、さっきまでの荒れ狂うような息づかいすらも聞こえなくなった。
誰も声を出せなかった。
悲鳴も、驚愕も、称賛もなく──
吐く息も凍るような沈黙が、その場に降|り積もっていた。
---
隊列は──もはや“隊列”と呼べるような整ったものではなかった。
各々の歩幅、各々の疲労度で、ただ、帰路をなぞるようにゆっくりと進む。 並んで歩く者、肩を貸し合う者、壁に手をついて小休止する者──誰もが黙りこくり、口数は最小限。
撤退直前、僕は救護班のテントで応急処置を受けていた。 右腕の打撲、足首の捻挫。骨は無事で、肩を借りれば歩ける程度には回復した。
──助かった。けど、まぁ痛いものは痛い。
遠郷さんは肋骨に数本ヒビが入ってたらしく、担架で先に運ばれていったらしい。
──あの人、無事だといいけど。
重たい空気のなか、耳に入ってきたのは……ヒソヒソ声。
「……だからよぉ、最初から動いてくれてりゃ……」
「……あの銀嶺ってヤツ、強いのは分かったけどさ……」
──先輩が動くのがもっと早ければ、こんな犠牲も痛みもなかった──
そういう意見だった。
……正直、それには同意する。
僕も心のどこかで思ってた。なんであんなギリギリまで何もしてなかったんだって。
けど。
思い返すたびに、あの“球体”と、血の池と、声ひとつ出さずに消えた化物の最後が脳裏をかすめる。
──あれを見たあとでは、簡単に“悪口”で片づける気にはなれなかった。
ずいぶん長く歩いた気がしたころ、ようやく、前方にオレンジ色の明かりが見えてきた。
瓦礫の隙間を縫うように立つ、簡易照明の光──帰ってきた証だ。
その灯りの向こうに、三つの影が立っていた。
「「「おーい!」」」
岩瀬さんと、戸倉さんと──
あの大きな影……あれって、もしかして……
「店長……!」
僕は思わず声をあげて、ぎこちなく、けれど笑顔で手を振った。
足首はまだ痛い。でも、不思議と心は軽かった。
──帰ってこられたんだ。
---
─噂以上やったのぉ、銀嶺の平一……
──親父、でもあいつ俺らがピンチになるまで動きませんでしたよ。
─いんやぁ、あの兄ちゃんがおらんかったら、おまんら全滅しちょったきになァ。
──お言葉ですが親父、あんなヤツいなくたって
─遠郷、これに目ェ通したか?
──なんすかこれ……
─あの白い兄ちゃんがおらんかったら、やっぱり危なかったがぜよ。