第4話 渋淵街の外れ
「僕を、一番槍にしてくれませんか」
一瞬、空気が凍った。 止めようとしていた二人は呆気にとられ、周囲で準備に追われていたブラスターやヤクザたちも動きを止め、ざわついていた現場はピタリと静まり返った。
静寂を破ったのは──僕の目の前に仁王立ちするヤクザの男だった。
「ほぉ……えぇ面構えしちゅうやないか。ガキのわがままにしちゃあ、胆が据わっちゅうのぅ」
しゃがれた声に、どこか愉しげな色が混じっていた。 彼はそのまま振り返り、後方の一団に目を向ける。
「おい、遠郷はおるかえ?」
「っへいっ!和泉の親父、ここに!」
声を張り上げて応じたのは、黒スーツに花柄シャツを着崩した男──遠郷だった。 金髪を雑に後ろへ流したオールバックに、眉間に皺を寄せた鋭い目付き。まるで噛みつくような顔だが、どこか兄貴分のような温度がある。
「おまん、予備のマスクと、あそこのガラクタん中から、なんか使えそうなモン拾うて来ちゃりや。」
男が顎でしゃくった先には、スクラップとも見分けのつかないガラクタの山があった。
遠目にもわかる、錆びた鉄パイプ、油と泥にまみれた布切れ──
今から化物とやり合うには、あまりにも心許ない山札だった。
「はぁ、このガキに渡すんすか?……ったく、親父も物好きっすねぇ。人が悪いっつーか……え、マジで?ほんとに?この中から?」
ぶつぶつと文句を垂れながらも、遠郷は素直に山へと向かい、
ガチャガチャと音を立てながらガラクタをかき回し始める。
「……おっ」
手を止めた遠郷は、ニヤニヤと悪戯っ子のような笑みを浮かべながら戻ってきた。
その手に持っていたのは──
長めの鉄パイプ。包丁。ガムテープ。
彼は膝をつくと、無言で鉄パイプの先端に包丁をあてがい、テープをくるくると巻き始めた。
「ほいよお待ちどうさん、即席ウェポン・一番槍くんのお出ましだぜい」
差し出されたそれは──
どう見ても、子供の自由工作だった。
十本足だの、獣だの言われてる化物相手に、これではあまりにも心許ないように思えた。
……しかし、握ってみると意外と悪くない。
長さはちょうど良く、包丁の刃も比較的新しい。
しかも持ち手のグリップ部分には、滑り止めか何かだろうか、
余計にテープが巻かれていてやけに親切設計だった。
「おいガキ、あとこれな」
遠郷が箱から取り出してきたのは白い紙マスク。
「……これなんですか?」
受け取ったのは陳腐な紙マスクだった。厚手で紐を後頭部に回す医療用らしいしっかりした作りのマスクだが、ガスマスクとはとても言い難い。
「あん?文句あんのか?」
「もしかしてこれがガスマスクですか?」
「これ以外に何があんだよ」
諦めてマスクを着けて即席槍を握った。
あ、少し緩んだ靴紐を結びなおしてから彼らに着いていこう。
屈んで靴紐を弄ろうとしたその時
……ぐぇっ!?
背中を引かれ、僕は無理やり立たされた。
振り返るより早く、胸ぐらを掴まれていた。
「なに考えてんの、あんた……!」
背後から迫ったのは岩瀬さんだった。
声は怒鳴り声じゃなかった。でも、怖かった。
「行かせるわけないでしょ!こんな遊び半分みたいな空気で、命懸けに飛び込もうなんて……
他の人たちは、あんたが思ってるより、ずっと本気なのよ!」
拳が震えていた。
それが何に対する感情なのかは、分からなかった。
戸倉さんが割って入った。
「岩瀬ちゃん、ちょっと落ち着いて……やりすぎだよ」
岩瀬さんが振り返る。
だが、戸倉さんもまた──僕の顔を見て、ふと黙った。
「……」
静かだった。
なんだろう、僕の目が、何か言っていたのかもしれない。
戸倉さんは小さく息を吐いた。
「……いずれ、通る道だしな。本人にここまでやる気があるなら、無下にするのも可哀想だろ」
そう言った戸倉さんの目は、冗談でも憐れみでもなかった。
ただ、静かに僕を見つめていた。
「大地くん、いいかい。今から行くのは、さっきまでの観光ツアーとは違って命のやりとりをする場所だ」
その言葉に、ふと目線が後ろへと引き寄せられる。
視線の先、フルフェイスのガスマスクを被り、整備された装備を身につけたブラスターたちが静かに待機している。
その手には手入れされた武器、表情には張り詰めた緊張。
軽口ひとつ飛ばす者はいない。
彼らはもう、戦士の顔をしていた。
こんな紙マスクと即席槍の僕とは、何もかもが違って見えた。
「…そこに待ってるのは、君のような若者には酷な現実だ。誰も助けてくれないと思った方がいい。……それでも、行くのかい?」
戸倉さんの目は真剣だった。
僕は、ただ頷いた。
その時だった。
「──くっだらない」
岩瀬さんがぽつりと呟いた。
そして、僕の胸ぐらをぱっと手放す。
「……男って、ほんとバカよね」
怒っていた彼女の目に、どこか諦めと……心配の色があった。
僕は姿勢を整え、襟を正して言った。
「岩瀬さん、怒ってくれて……ありがとうございます。でも、すいません。行かせてください」
その言葉の直後だった。
和泉の親父が「おーい、準備はえぇか!」と地鳴りのように怒鳴り、現場の空気が一変した。
張り詰めていた糸が切れたように、各班が一斉に動き出す。
「遠郷、行け!」
「へいへい!」
真っ先に動いたのは遠郷だった。黒いスーツの背中を追うように、ブラスターたちも列をなし、瓦礫の合間へと滑り込んでいく。
各人の呼吸が整い、足音が響き、手にした武器が重く鳴る。
僕は最後に靴紐を結び終え、小さく息を吐く。
武器を手に取り、紙マスクを整えた。ぐらつく足を前に踏み出し、駆け出す。
背後から、声が届いた。
「「──生きて帰って来な!!」」
振り返ると、岩瀬さんと戸倉さんが並んで立っていた。
二人とも、笑っていた。
きっとあれは、強がりでも皮肉でもない、心からのエールだった。
僕は頷き、前を向いた。
これが僕の初陣だ。
誰も助けてはくれない。
でも──この足は、もう止まらない。
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第4話 渋淵街の外れ
──2024年 6月 27日 PM05:59:24──
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隊列はぞろぞろと歩き出していた。
その先頭を行くのは遠郷。両肩に金属バットを担ぎ、誰かと談笑している。その軽薄そうな姿に、しかし妙な頼もしさを感じるのはなぜだろう。
僕は小走りに後方の列へと合流した。
その瞬間だった。
「ギャアアァァァ――…ッ!!」
遠くで、金属を引き裂くような咆哮が響いた。
空気が震え、鼓膜がビリつく。肌の奥にまで、震えが届くような錯覚。
隊列が一瞬で緊張した。誰かが立ち止まり、別の誰かが唾を飲み込む。
沈黙のなかで、ガチャリと武器を握り直す音だけが妙に響く。 一方で、やたら饒舌になって隣人に話しかける者もいる。あれはきっと、恐怖を誤魔化すための喋りだ。
──やっぱり、皆、怖いんだ。
そう思った矢先──視界の端に異質な存在。
ニヤニヤと舌なめずりをしながら歩く大男。 そして、場違いなゴスロリ服を身に纏い、まるで遠足にでも来たかのような笑顔を浮かべた少女。
どちらも、異様なほどに落ち着いている。
場数か、異常か、あるいはその両方か。
でも、たしかに彼らの余裕は“自信”の表れだった。
先頭から少し下がったあたり──白い髪が目を引いた。 あれは、平一先輩。 スマホ片手に、あくびまでしている。
……あり得ない。 この緊張感のなかで眠気が勝る人間がいるとは。
僕は深呼吸をして、心を落ち着けようとした。目を閉じ、息を吸って──
その瞬間、鼻腔を灼くような刺激臭が襲ってきた。
腐った卵に、錆びた鉄と湿った獣の吐息を混ぜたような──そんな濃密な悪臭。
「……毒ガスか?」
誰かの呟き。次の瞬間、周囲から小さなファンの回転音が一斉に鳴り出す。
ガスマスクのフィルターが作動した音だ。
僕は慌てて口元を押さえた。だが、こんな紙マスクでは意味がない。
ダンジョンの危険性──その一端を“嗅がされた”僕は、思わず周囲を見回した。
同じような不織布マスク。
横を歩く男は眉をしかめ、咳を漏らしながら歩いている。
他を見やっても簡素なマスクばっかりだ。きちんとしたガスマスクをつけているやつのほうが少ない。
喉が焼けるように熱を持ち、肺が毒で満たされていくような息苦しさが襲ってくる。
──ヤバい…このままじゃ、たどり着く前に死ぬかもしれない。
頼れるのは、あの人しかいない。
僕は列を抜け、先頭へと駆けた。
不思議なことに、進むにつれて空気が少しずつ変わっていった。
さっきまでの刺激臭は和らいたが、今度は肌に纏わりつくような生温い空気が流れている。
苦しい刺激臭よりマシだが、これもこれで気味が悪い。
「先輩! 平一先輩!」
声をかけると、彼はイヤホンを外し、鬱陶しそうにこちらを見た。
「……あ? なんかあったか、モヤシ」
「先輩、なんでマスクしてないんですか!?」
「見てわかんねぇのか?」
「はい」
「……じゃあ、教えても意味ねぇな。テメェで考えろ」
ぽそりとそう言い、またイヤホンを差し直す。
まるで、何もかもが面倒だと言わんばかりに。
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次第に、隊列の中から聞こえていた咳き込む声が減っていった。
空気が澄んでいく。さっきまで胸を圧迫していたような苦しさも、いつの間にか和らいでいた。
──この清浄な空気が、隊列の後方まで届いたのだろうか?
そう思って、ふと後ろを振り返る。
だが、そこで目を奪われたのは、人影ではなかった。
薄暗い路地。コンクリ片の散らばった足元。原型を留めていない家屋の残骸。
そのすべてに、鋭利な刃物や鈍器で切り裂かれたような破壊の痕跡が残っていた。
しかも、それは新しかった。
割れた木片の断面はまだ明るく、ピンクがかっていて、
砕かれたコンクリには泥も埃も付着していない、白い内面が露出していた。
歩を進めるごとに、それらの痕跡が増えていく。
まるで、何かが今しがたこの場所を通り抜けていったかのような不吉な足跡。
「キョォォォォーーーッ!!」
耳を裂くような咆哮が、またも響いた。
──近い。さっきよりも明確に、確実に、近い。
もうすぐ“化物”のいる場所へ着く。
その瞬間、前方を歩いていたブラスターの一人が、ぴたりと足を止めた。
隊列がざわめき始める。隙間から覗くと、先頭の遠郷が腕を上げて合図を出していた。
「──えー、ここらで一旦ストップしろー。討伐対象に近づいた。ここをセーフエリアとして、救護班はここで待機!」
声がよく通る。口調は軽いが、内容は容赦がなかった。
「攻撃担当はこれから作戦を伝える!
まず遠距離班がこっそり近づいて、最大火力をぶっ放す!
そんで怯んだところを、近接班が一気に袋叩きしてぶっ殺す! 以上!」
簡潔な指示。いや、あまりにも単純だ。
──でも僕は、どうしたらいいんだ?
一瞬、困惑して立ち止まる。
そんな僕の耳に、再び遠郷の声が届いた。
「おい、ガキ! ダンジョンマートんとこのガキは居るかーッ!」
「はい!ここにいます!」
隊列をかき分け、先頭に飛び出す。
隊列先頭の先には赤い霧が漂っていた。視界を濁し、鼻の奥を焼くような匂いがした。
その霧の更に向こうで地鳴りのような音が響いている。
巨大な生き物が、地面を蹴って駆け回っているような、そんな轟音が。
「おっ、ちゃんと来てたか。改めて聞くぞ。……お前、名前は?」
「逆本大地です。ダンジョンには──崩落で行方不明になった家族を捜しに来ました」
「……家族、ねぇ。殊勝なこった」
遠郷は鼻で笑い、でもどこか興味深そうに俺を見た。
「せいぜい気張れよ、大地。今回お前の役目は──囮だ」
……囮、だって?
「そうだ。お前に気を取られたクソ犬を、俺らでぶっ殺すって寸法よ。
一番槍、ほんとの意味でやらせてやる。責任重大だぜ?」
恐怖が脊髄を迸る。
走り回る轟音、耳をつんざくような咆哮、巨大な破壊痕…それらの主を相手に囮だなんて命が幾つあっても足りない。
でも、
……でも、ここで名を上げられたら。
僕の声が、家族や友人に届いたら……
会えたら──きっと、思い出せる。 僕が誰で。あの日何があったのか。
「分かりました。やります」
「おぉ、聞き分けがいいじゃねぇか。もっとごねると思ったんだがな?」
遠郷はニヤリと笑い、隊列へ振り返った。
「おいお前ら聞いたかァ!」
「このイキったガキが囮やるってよォ! このガキを目印に、持ってる火力ぜんぶ叩き込め!!」
遠郷の声に、隊列から笑いと拍手が起きた。
冷やかす者、手を叩く者、武器を掲げて応える者──
僕はその中心で、ただ、槍を握りしめた。