第3話 北野商店
渋淵街の大通りの一角、僕たちの目的地はそこだった。 僕は、スマホを弄る平一先輩を無理やり引っ張りながら、岩瀬さんの後ろをついていく。
「ほら、ここ。ウチの大事な取引先のひとつ。」
岩瀬さんがそう言って見上げたのは、どこか懐かしい雰囲気の漂う店──北野商店だった。
木造二階建ての建物は、玄関にぶら下がった「営業中」の札は色あせ、「セールスお断り」の張り紙は端が破れかけている。 引き戸の隅には、「猛犬注意」のシールが貼られているが、それらしい気配はどこにもない。
一見すると、ただの古びた個人商店。 だが、よく見れば建物全体がわずかに歪み、外壁には亀裂が走っている。 瓦礫が散乱することもなく、意外と綺麗に残っているが、どことなく“渋谷大崩落”の痕跡が見てとれた。
「さ、入るよ。」
──ガラガラ……。
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第3話 北野商店
──2024年 6月 27日 PM04:10:01──
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木戸が軋む音とともに、一歩、店内へ踏み込む。
その瞬間、渋淵街の喧騒がすっと遠のいた。
土間に足を踏み入れる。
空気が変わる。
湿った木材の香り、煤けた梁の渋い匂い。
どこか懐かしいようで、知らないはずの昭和を感じさせる歴史の匂いが鼻をかすめた。
僕が立つ「店の間」は、まるで時代から取り残された異空間だった。
だが、そこに並ぶ品々は、ただのレトロな商店とはまるで違う。
店内の作りは、確かに昭和の駄菓子屋のような雰囲気がある。
しかし、駄菓子の代わりに並んでいるのは、危なっかしいモノばかりだった。
所狭しと置かれたポリタンク、金属製のラックの上に薬莢の詰まった箱。隅の棚には火薬と書かれた缶詰めや瓶、英語の書かれたラベルのよく分からないバッテリー、そして赤黒い木炭の束。
ぱっと見ただけでも、やや物騒な雰囲気が漂っている。
天井は高く、黒光りする柱が空間を支えている。
カウンターの奥には、古びたレジと使い込まれたそろばんが並んでいた。
昔ながらの計算方法のほうが、この街ではしっくりくるのかもしれない。
さらにその奥。
開け放たれた障子の向こうには、居住空間と思われるスペースが広がっていた。
その一角には火鉢が置かれ、遠目にも炭が赤く光を放っているのが見える。
しかし、そんな中でこの店の雰囲気を決定づけているものがあった。
レジ脇のカウンターに、ぽつんと置かれたガラス瓶。
中には、赤褐色の飴玉が詰まっている。
瓶の表には、手書きの札が貼られていて、
それが何とも駄菓子屋らしい。
── 「龍蜜アメ 3個 1500円」
たっか……
他の商品に比べればよっぽど可愛げがあるけど、値段は可愛くない。
こんな物騒な店の中で、妙に浮いてる気がするのは僕だけだろうか。
そんなことを考えていると、奥から落ち着いた声が響いた。
「いらっしゃい。」
振り向くと、火鉢のそばから、一人の男がこちらを見ていた。
北野二郎。
この店の主人であり、渋淵街の商人。
浅黒い肌に深く刻まれた皺。
短く刈り込まれた白髪が、年齢以上の貫禄を与えていた。
「岩瀬ちゃんか、今日は随分と遅かったな。」
岩瀬さんは肩をすくめ、軽く笑う。
「ちょっと道草食っちゃってね。」
「……例のトラブルか?」
「そうそう、なんかきな臭い感じだったわ。」
ジロウさんは「ふむ」と目を細め、納得したように頷いた。
「……そっちのは、新入りか?」
僕に向けられる、鋭い視線。
値踏みされている──そんな気配がした。
「えっと、はい!」
思わず背筋を伸ばして答える。
ジロウさんは、数秒だけ僕を見つめたあと、口角をわずかに上げた。
「……まぁ、荷物持ちなら問題ねぇか。」
軽く片手を挙げ、奥の間へと視線を向ける。
「で、今日は何を仕入れてく?」
「いつものやつを。」
岩瀬さんが即答する。
ジロウさんは「ん」と短く返事をし、ゆっくりと立ち上がった。
帳場の奥、木箱が積まれた貯蔵庫へと足を向ける。
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ジロウさんが帳場の奥へと消え、しばらくすると、木箱を抱えて戻ってきた。
「ほいよ、火薬と薬莢、赤木炭。こないだのやつと同じやつでいいな?」
土間の床にどさりと置かれたダンボールの中には、黄銅製の薬莢がぎっしりと詰められた箱、ラベルに「火薬」とだけ雑に書かれた缶詰、そして、赤黒い木炭が束ねられた袋。
「いつも悪いわね、助かる」
岩瀬さんは慣れた手つきで袋の中身を確認しながら、ジロウさんに代金を支払う。
その間、僕は手渡された箱をビビりながらまとめることになった。
うわ、これ火薬入ってるやつだよな……?
慎重に持ち上げる。 もし落としたら爆発するとかないよな?
ちらりと視線を向けると、平一先輩がカウンターの端で、飲みきった空き缶をつまらなそうに手の上で転がしている。
「おい、新入り」
「はいっ!」
不意にジロウさんに声をかけられ、跳ねるように返事をした。 だが、彼はただ顎で箱を指しただけだった。
「おっかなびっくりまとめるのはいいが、手元ばっか見てると転ぶぞ」
「……気をつけます」
やっぱり、こういうの扱い慣れてる人からしたら、僕の動きは滑稽なんだろうな。
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一通りの取引が終わり、岩瀬さんが領収書をポッケに、現金封筒はズボンの裾へしまい、軽く伸びをした。
「よし、これで終わりっと」
「大したもんねぇ店なのに、こうして長い付き合いになるのも不思議な話だ」
ジロウさんが渋い顔でそう呟くと、奥の間からクスクスと笑う声がした。
「そりゃまぁ、あなたがカタギ向けの商売してないからでしょうよ」
北野美智子。
二郎さんの奥さんが、奥の居間からゆったりと姿を現す。
ミチコさんは、そのままレジ脇の瓶に手を伸ばしながら、ふっと笑った。
「はい、これサービスよ。いつもありがとね」
手渡されたそれは、赤褐色の飴玉が詰まった小袋だった。
── 「龍蜜アメ 3個 1500円」。
岩瀬さんは袋を軽く揺らし、にんまりと笑う。
「やった、いつものやつだ」
「ほんと、好きねぇ」
女将さんは呆れたように笑いながら、カウンターに肘をつく。
「ボク知ってるかい、この飴ちゃんは舐め続けると強くなるって噂があってね」
「えっ」
思わず声が出た。
「どういうことすか?」
僕が聞き返すと、女将さんは肩をすくめて続けた。
「大穴の少しはずれたところにいる蜜鯨からしか採れない“幻のエキス”が入ってるって話から、昔誰かが言い出したのよ。これを舐め続けると、いつか強くなるってね」
「へぇ……」
そんな都市伝説みたいな話があるのか。
でも蜜鯨ってなんだろう?
「馬鹿言え」
そこに、ジロウさんが呆れたように言葉を挟んだ。
「んなもん、ただの噂だ。実際は滋養強壮にちょっといいだけの飴さ」
「まあまあ、夢がある話じゃないの」
女将さんは軽く笑う。
「でも、うちのは本当に龍蜜使ってるから、そこらのパチモンよりは効くわよ?」
「結局、ただの元気が出る飴じゃねぇか」
ジロウさんがため息混じりに言うと、岩瀬さんは飴をひとつ取り出し、口に放り込んだ。
「んー、やっぱ美味しい」
僕はそのやりとりを見ながら、そっと瓶の札を見た。
── 「龍蜜アメ 3個 1500円」
……やっぱ高ぇよな、これ
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「じゃあ、またな」
ジロウさんが軽く手を挙げ、女将さんも笑顔で見送る。
「またね。今度はもうちょっと、慣れた手つきでまとめられるようになりなさいな?」
「……頑張ります」
僕が微妙な顔をしながら答えると、岩瀬さんがくすっと笑った。
「ま、どうせまた来ることになるし、このお店の勝手くらい覚えときなさいよ?」
平一先輩は相変わらず無言で、空き缶を指で弾いて遊んでいた。
こっちの仕事にはまるで興味がなさそうだ。
「じゃ、行こっか」
そう言うと、岩瀬さんは北野夫妻に会釈をして戸を開けた。
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外に出ると、渋淵街のベタついた空気が再び肌を撫でる。 薄暗い路地に、遠くの喧騒が響いている。
「おっす、遅かったね。」
待っていたのは、片手に布袋を抱えた戸倉さんだった。
「大丈夫だった?」
「バッチリよ。そっちは?」
「まあボチボチよ。薬と芳香剤、それに繊維と鉱類と。」
買ったものを数えながら、戸倉さんは抱えた布袋をポンと叩いた。
仕入れ作業を終えた僕たちは、再び大通りを歩いている。
「次は?」
岩瀬さんの問いに、戸倉さんが布袋を軽く持ち上げる。
「ちょっと寄っておきたい場所があるんだ。渋淵街の外れ──浅層部に繋がる出口の方まで、軽く偵察がてら行っておこうか」
「まだあるんですね……」
「うん、慣れておくのは大事だからね。いざってとき、地形や導線を知らないと命取りになる」
僕は軽くため息をつきながら、もう一度周囲を見渡した。
賑やかな喧騒。
渋淵街のメインストリートは相変わらず雑多でごちゃごちゃしている。
酔っぱらいが路上で喧嘩し、路地裏では野良犬がゴミを漁っている。
店先ではアタッシュケースの交換が行われ、路地の隅には使用済みの注射器が散らばっている。
だけど、道を進むにつれて、街の雰囲気は次第に変わっていった。
ネオンが減り、屋台が消え、店の数もまばらになる。
いつの間にか、喧騒は薄れ、周囲には静寂が広がり始める。
裸電球すらも少なくなり、道端に座り込むホームレスの数が増えてきた。
建物はどれも老朽化し、崩れかけたものばかり。
ゴミが風に吹かれ、乾いた埃が舞う。
「ずいぶん寂れてきましたね……」
僕の呟きに、岩瀬さんが頷いた。
「このへんはもう街の端っこ。まともな商売してる店は、ほとんど残ってないわね」
戸倉さんが少し周囲に目を配りながら、ぼそっと言う。
「治安も最悪。下手に入り込むと、帰れなくなることもある」
鼓膜を打ち付けるような喧騒はどこか遠く、薄暗い路地に4人の足音だけが響いている。
ここは渋淵街の外れ。 ダンジョンに踏み入る一歩手前の、境界線だった。
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「そういえば、さっきの龍蜜アメの話なんですけど」
静けさが、逆に耳にうるさく感じた頃だった。
僕は、頭の中で引っかかっていた疑問をぽつりと口にした。
「ダンジョンの生き物で作ったモノなんて食べて……お腹壊したりしないんですか?」
蜜鯨──ダンジョンのはずれにいるらしい変異生物。
そのエキスが原料と聞いて以来、どうしても気になっていた。
「え、なに、ちょっと引いてる?」
岩瀬さんがくすっと笑う。
「……だってバケモノの体液ですよ?」
「まあ、原液はね。Ψ線っていう、ダンジョンのエネルギーの塊みたいなのが詰まってるから……うっかり飲んだら体に毒かも」
えっ……
「でも飴にするときに加工するの。煮沸して、冷やして──あら不思議。美味しい飴ちゃんの出来上がりってワケ」
「……サイファー線って、そんなので抜けるんですか?」
「えぇ……ごめん、知らない。
そもそもダンジョンの中じゃサイファー線なんて常に浴びてるし、ちょっとくらい増えたところで変わんないと思うよ?」
……知らないで食べてたのか、この人。
思わず戸倉さんの方を振り返ると、彼も静かに首を横に振った。
──よくわかっていない。こっちもか。
「はぁ、でもサイファー線って──
そのやり取りを聞いていた平一先輩が、フッと鼻で笑った。
「なんだ、モヤシ野郎はそんなのも知らねぇのかよ」
僕はムッとしながらも、それ以上は聞き返せなかった。
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戸倉さん曰く、目的地はもうすぐらしいが、前方には今までの静寂とは正反対な人だかりができていた。
戸倉さんと岩瀬さんは顔を見合わせ、「なんだろう」という風になっていたその時だった。
「おぉ……? こりゃまぁ、えらい懐かしい顔があるやいか」
低く、渋い声が響く。
僕たちが足を止めると、人だかりの中から一人の男がゆっくりと近づいてきた。
体格は厳つく、髪はオールバック、顎には無精髭。
スーツは着ているものの、ネクタイはゆるく、シャツのボタンも開いている。
それだけでなく、袖口から覗く刺青がやたらと目立つ。
背中に阿修羅でも憑いてそうな威厳たっぷりの中年男性だ。
「戸倉のダンナ、ほんまお久しぶりやないか」
にやりと笑いながら、男は近づいてきた。
戸倉さんは、面倒くさそうに腕を組む。
「……相変わらず、派手にやってるな」
「なんちゃぁせんぜよ。ちぃと厄介な獲物がおるだけじゃ」
「獲物?」
僕が思わず聞き返すと、男は目を細めてこちらを見た。
「おまんらも、運が悪いねぇ。ちょぉど首取りに行くところやきに」
「首……?」
「そうよ。足が十本もある、醜い化け犬のな」
僕は、一瞬頭が追いつかなかった。
「えっ、な、なんすかそれ……」
男は、ゆっくりと顎をしゃくる。 その先には、数人のブラスターが集まり、何かの準備をしていた。
「まぁ、そこのブラスター連中とワシらで、始末しに行くがよ」
「……つまり、今ここを通るのは危険ってことか?」
戸倉さんが淡々と尋ねると、男は肩をすくめた。
「ま、ちぃとばかしのう」
彼は、じろりと僕に視線を向ける。
「おまん、そんなへなちょこそうなツラで、こんなとこ来ちゅうがか?」
「えっ、あっ……」
僕は、言葉に詰まる。
「ここの若いのとブラスター連中が首狩りに行くってのに、ヒヨッコがチョロチョロしよったら邪魔になるきに」
癪だがその通りだ、言い返す言葉もない。
けれど、あの向こう側にはきっと……
事態を把握した戸倉さんは、渋い顔をしながら決断した。
「……引き返すか」
岩瀬さんも頷いた。
「仕方ない…ですね」
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一行が引き返そうとしたその時、平一先輩だけが足を止めた。
「……で、戦況は?」
男が、一瞬意外そうに目を細める。
「おや、白いあんちゃん、興味があるがか?」
先輩はスマホを取り出し、ちらりと時間を確認すると、 面倒くさそうにため息をついた。
「どうせまたすぐ潜ることになる。なら、今のうちに片付けとく」
戸倉さんが振り向く。
「……お前、装備もないだろ」
「やることは変わんねぇよ」
男は、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「ほう……なら、歓迎しようやないか」
そう言うと、背後のブラスターの一人が先輩にガスマスクを放り投げる。
彼は無造作にそれを受け取るが、すぐに投げ返しこう言った。
「オレには要らねぇよ。手ぶらでいい」
そう呟き、先輩は手元のスマホへ再び目を落とした。
「……へぇ、おもしゃいのぉ。“銀嶺の平一”がどれほどのモンか、ちっくと見せてもらおうかのぉ。」
男は、先輩の背中を見つつ、顎髭を撫でながらこう付け足す。
「戸倉のダンナ、この兄ちゃん預かるきにゃあ、死んでも責任はとれんけんど、ええがか?」
戸倉さんは、肩をすくめながら口元を歪める。
「さあな。そいつが死ぬとこ、まだ見たことねぇんでね。」
男は一瞬目を細めるが、すぐに口角を上げる。
「ほぉ、ほいたら、こりゃあ頼もしゅうていかんのぉ。」
先輩は、そのやりとりを聞いているのかいないのか、ただ無造作に親分の前を素通りし、列の中へと紛れていった。
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僕らは、黙ってその背中を見送ろうとした。
「……ま、平一くんなら死にはしないでしょ」
岩瀬さんが肩をすくめる。
「じゃ、帰ろっか。止めても無駄な人種なのよ」
岩瀬さんと戸倉さんは踵をかえして帰ろうとしていたが、僕は突き動かされるように口を開いてしまった。
「……俺も、行きます。行かせてください」
大人たちが揃って、目を見開いた。
「逆本くん、あのね、別に戦わなくたっていい時もあるんだから。今回はやめとこうか?」
戸倉さんは、優しい声で諭してくれる。
「アンタなに言ってるか分かってんの? もしかしてここまでのお散歩でダンジョン舐めたとか言わないよね? 言っとくけど──
岩瀬さんは、信じられないといった表情で声を荒げる。
ヤクザの男は、顎の髭を撫でながら何かを思案していた。
……!
………………!
二人の声が、だんだんと遠ざかっていくように感じた。 まるで分厚い壁の向こうから響くように──。
僕の意識は、ゆっくりと内側へ沈んでいく。
ぽっかりと空いた記憶の穴が、深淵の如く静かに口を開いていた。
覗き込もうと内に目を凝らすと、
暗い暗い記憶の奥へ溺れそうな感覚に襲われ、視界は真っ暗になった。
震える手は少し温かく、『白』の香りが鼻腔を突いた。
聴覚に意識を向けると、二人の説得する声よりも強く、はっきりと夢の声が聞こえてきた。
『──あの公園で、待ってるね。』
…………そうだ約束してたのを思い出した。
行かなきゃ。迎えに行かなきゃ。
「大地くん!ねぇ!聞いてるの!?」
岩瀬さんに肩を揺すられ、我に返る。
……考えすぎていた。でも、もう迷いはなかった。
僕は、男の方へ向き直った。
「──おじさん。僕を、一番槍にしてくれませんか」