最終話:放課後の図書館
梅雨入りが発表された日、朝から灰色の雲が空を覆っていた。
湿った風が校舎をすり抜ける中、夢華はいつもより早く登校していた。なんとなく、落ち着かなかった。最近、堀川くんと話す時間が減っている気がする。お互い忙しくなっただけ、そう自分に言い聞かせても、ふとした瞬間に浮かぶ彼の横顔が頭から離れなかった。
「おはよう、春野さん」
教室の後ろからかけられた声に、夢華は驚いて振り向いた。
「……堀川くん? 早いね」
「たまたま早く目が覚めたんで、少し歩こうと思って」
「……ふうん」
言葉は続かなかった。久しぶりに交わす会話なのに、どこかよそよそしい空気が流れていた。
彼は机にカバンを置くと、窓の外に視線を移した。外は静かに雨が降り始めていた。
「最近、あまり図書室に来ないですね」
ふいに言われて、夢華は少しだけ胸が詰まった。
「……うん。ちょっと、クラスの仕事が忙しくて」
「そっか。……別に、責めてるわけじゃないですよ」
そう言って彼は笑った。でも、その笑顔がどこかぎこちなく見えて、夢華はどうしても目をそらせなかった。
「私、堀川くんと話したかった。ずっと、話したかったけど……」
その言葉がようやく口をついて出たとき、自分の声が少し震えているのに気づいた。
堀川くんは驚いたように、目を見開いてこちらを見た。
「じゃあ……なんで話しかけなかったんですか?」
「なんでって……わかんない。けど、たぶん、さみしかったの。勝手に、自分だけが特別な位置にいられるって思ってたのに、関わりがなくなった途端赤の他人みたいになって」
言いながら、夢華は自分の弱さをさらしているような気がして、情けなさでいっぱいになった。けれど、堀川くんは黙ったまま、その場を離れようとはしなかった。
しばらく沈黙が落ちたあと、彼がぽつりとつぶやいた。
「春野さんは……僕のこと、どうしたいんですか?」
「え?」
「どう接してほしいのか、正直、わからなくなるときがあります。近づいたと思ったら、少し離れる。ずっと一緒にいるわけじゃないのに、少し話せないだけで、さみしそうにする」
その言葉に、夢華の胸が締めつけられた。
「……そうかも。でも、それっておかしいかな。だって、私は、ずっと……」
「……僕は、春野さんのそういうところが好きですよ」
一瞬、時間が止まったような気がした。
「……え?」
「いや、“好き”って、そういう意味じゃなくて……。いや、でも……そうかもしれない、って最近思うんです」
彼の言葉はたどたどしくて、どこか不器用で、けれど誠実だった。
「誰かの気持ちを受け止めるのって、まだ難しいけど…。でも、春野さんにだけは、ちゃんと向き合いたいって思ったんです」
夢華の目に、涙が浮かんでいた。
「……ずるいよ、そんな言い方」
「……すみません」
でも、その「ずるさ」が、夢華にはたまらなく愛しかった。
放課後、二人はいつものように図書室で並んで座った。
外はまだ雨が降り続いていたけれど、その静かな雨音が、二人の間にあったわだかまりを少しずつ洗い流していくようだった。
夢華はそっと、彼の隣にいることの意味を噛みしめた。
「堀川くん…私ね、ずっと堀川くんの事好きだったの。まだ分からなくってもいいから、付き合ってくれない?」
もう怖がっていたくない。きちんと言葉に出さないと素直な彼には届かないと分かっていた。真直ぐ目を見て言うと、堀川くんは顔を真っ赤にした。
「僕、昼に伝えたじゃないですか……」
「うん、でも私も伝えないとなって思って。…だめ、かな?」
少し上目遣いに聞くと、堀川くんは口元を緩めながら怒った表情で答えてくれる。
「ダメじゃないですよ…!」
あんなにも静けさが好きな彼が、大きな声を出したことに夢華は驚き、ポカンと固まってしまう。堀川くんはそんな夢華を見て、図書室にいることを思い出して口を手で覆った。
いつも冷静な彼とは思えないほどの慌てっぷりだ。
可愛い…。少し笑いが溢れてしまう。
こんなにも面白い、可愛い彼に夢華はまた恋をしてしまいそうだ。
「ありがとね」と笑いながら言う夢華に、堀川くんはバツが悪そうに頷いた。
図書館を出るとき、堀川くんは夢華の手を掴んで「毎日…図書館で待ってたんですからね」と呟いた。そっかぁ…いつからだろう。と、夢華は思わず顔がほころんでしまう。
帰路は反対方向、デートしながら帰るなんてできない。
夢華は校門を出ると堀川くんに向かって小さく手を振った。
「それじゃあ、また明日も放課後に」