第三話:近寄りがたい雨の香り
文化祭前日の放課後。クラスの飾りつけもほぼ終わり、夢華はいつもより遅く図書室に向かった。
「……あれ」
図書室の扉を開けた瞬間、聞こえてきたのは――誰かの声だった。
本棚の奥の明るい声。
「堀川くんって、やっぱり優しいね」
それは、クラスメイトの一人――藤森さんの声だった。明るくて、可愛くて、男女問わず人気のある子。
夢華は足を止めたまま、思わず聞き耳を立ててしまう。
「わたし、図書室好きだけど、ひとりで来るのは寂しくて……」
「ああ、そうですね。図書館、静かですし」
いつものように敬語。でも、その声はどこか柔らかかった。
「……堀川くん、明日、よかったら一緒に回らない? 文化祭」
しばらく沈黙があった。
夢華の胸が、どくどくと高鳴る。
(なんで。なんで私、こんなに動揺してるの)
答えが返ってきたのは、十秒くらい経ってからだった。
「……すみません。気を使ってくれてありがとうございます」
「え?」
「ありがたいんですけど、気を遣ってもらうのは、苦手で……申し訳ないです」
藤森さんは、少し戸惑ったように笑って、それでも「そっか」と返した。
夢華は、それ以上聞くのが苦しくなって、そっとその場を離れた。
(なんだろう……嬉しい、のに、苦しい)
彼が誰かの気持ちに気づかないことに、安堵した自分がいる。
でも、自分も同じように“気づかれていない”ことを突きつけられた気がして、少しだけ涙が滲んだ。
*
文化祭当日。
賑やかな声、模擬店の香り、華やかな装飾。学校中が非日常に染まっていた。
夢華はクラスの仕事をこなしながらも、心ここにあらずだった。
堀川くんは、準備も本番もちゃんと来ていて、必要なことはこなしていた。みんなの評価も少しずつ変わっていた。
「案外いい子だよね、堀川くん」
「お願いしたことは丁寧にやってくれるし…顔綺麗だし」
「藤森の誘い、丁寧に断ったらしいよ。でも言い方やわらかくて、ちょっとズルいよね」
そんな声が、耳に入ってくる。
(ズルい……か)
春香も、そう思ってしまった。でも同時に、そんな彼の“誠実さ”に触れるたびに、好きだという気持ちが止められなくなっていた。
夕方、出し物が終わり、教室に戻ると、堀川くんが窓の外をぼんやり眺めていた。
「お疲れさま、堀川くん」
彼は振り向いて、静かに言った。
「……文化祭、悪くなかったです」
「ふふ、そっか」
「春野さんのおかげですね」
その一言に、春香の胸が詰まった。
「ねえ、樹くん」
「ん?」
初めて、名字じゃなくて名前で呼んだ。それだけで、彼のまつげが少しだけ揺れた。
「ありがとう。今日、頑張ってくれて」
「……別に。春野さんの為ではないですけど…僕も楽しかったし」
「うん。わかってる。でも、嬉しかった」
そのとき、夕焼けが窓ガラスに反射して、彼の顔を少し赤く染めた。
夢華は、この距離が愛しくて、でもこのままだときっと切なくて、心のどこかで「もうすぐ限界かもしれない」と思っていた。
*
文化祭が終わり、日常が戻った。
クラスの空気も、少し落ち着いてきた。
「文化祭、楽しかったね!」
「うん、思ったよりやりきった感あるよね」
春香は友達と笑いながら話していたが、目の端で見える堀川くんの姿に、ふと気持ちが揺れるのを感じた。
彼は、いつも通り静かに過ごしている。クラスの輪に溶け込むことはあまりないけれど、でもその存在感はなんだか大きくて、目を離せない。
「春香、また図書室で堀川くんと一緒にいるの?」
友達がからかうように言ってきた。
「うん、まぁ。図書室、結構好きだから」
「でも、堀川くんといるとき、春香ってなんか、ちょっと違うよね」
「えっ?」
友達が目を細めて言った。
「なんていうか、ちょっと……おとなしいというか、優しくなってるっていうか。すごく素みたいで楽そう」
夢華は言葉に詰まった。まさか、そんなふうに見えているなんて。
(そうだよね、彼といるときは、つい……)
でも、堀川くんにはそんな風に思われていないことを、夢華は知っている。
彼は、ただ“楽だから”一緒にいるだけ。恋愛感情なんて、微塵もない。私も”楽だから”一緒にいる。恋愛感情を織り交ぜながら。
そのことを再確認して、胸が少し痛くなった。
*
午後、図書室で堀川くんと二人きりで本を読んでいた。
夢華は、思わず彼に話しかけてみる。
「ねぇ、堀川くん、最近、どう?」
「どうって?」
「なんか、元気ない感じするけど……」
堀川くんはちらりと夢華を見て、少しだけ首をかしげた。
「元気ないって、どういう意味ですか?」
「なんか……ちょっと、もやもやしてる感じ?」
「そうかな」
少しの沈黙が流れる。
でも、その沈黙がどこか心地よくて、夢華はどうしても聞きたい気がして、口を開いた。
「堀川くん、最近、クラスの子とよく話してるけど……藤森さんとも、よく話してたよね?」
その名前を出すと、堀川くんは軽く肩をすくめて答えた。
「藤森さん、親しいわけじゃないけど……話しかけてくれるので」
「そっか」
そのとき、夢華の心がひときわ大きく…少しだけ胸が痛んだ。
(やっぱり……藤森さんと、堀川くんは、仲いいんだ)
でも、それと同時に、心のどこかでホッとしている自分もいた。
「……あのさ」
堀川くんが、急に真剣な表情で言った。
「春野さんはさ、他の人のこと気にしすぎじゃない?」
その言葉に、夢華は思わず目を見開いた。
「え?」
「クラスのこと、藤森さんのこと、気にしてばかりで……あんまり、自分のことは気にしないんですね」
その一言に、胸が締めつけられた。
(私が気にしてるのは、ただ、堀川くんのことだけなのに)
何でもかんでも首を挟む奴…そう言われた気がして夢華は泣きたくなった。
「……あ、私は、そういうわけじゃなくて……」
うまく言葉が出ない。
そのとき、堀川くんが少しだけ顔を赤くして言った。
「別に、どうでもいいってわけじゃないけど……春野さんが気にするほど、僕は不安定ではないですよ」
その言葉が、春香の中で何かを刺激した。
「……うん、わかってる。そうだよね。堀川くんはしっかりしてるって、知ってるから」
その後、少しだけ静かな空気が流れた。
春香はその時、堀川くんの中にほんのわずかな変化を感じた気がした。
でも、きっとそれは気のせいだろうと思った。
*
その日の夜、夢華は一人、夜空を見上げていた。
(堀川くんのこと、好きだって、わかってる)
それでも、彼に言うことはできない。
彼の気持ちがわからないまま、告白したら、きっと無理だって思う。
でも、夢華は一つだけ確信していた。
「私は、ずっと彼と一緒にいたい」
その思いだけは、確かにここにあった。
そして、それはきっと――夢華の中で、どんどん大きくなっていくものだろう。
*
梅雨の季節が近づき、学校は何となく湿っぽく、そして少しだけ静けさを取り戻していた。
夢華はクラスの行事や友達とのやり取りに忙しく過ごしていたが、ふとした瞬間、堀川くんの存在が気になって仕方なかった。毎日のように一緒にいるわけではないけれど、少しずつ彼のことが大きくなっていた。
「堀川くん、いつも図書室に来てるね」
「ただの習慣ですよ」
彼が微笑んだ。その顔は、いつもどこか無邪気で、夢華引き寄せる。
「別に特に何をしてるわけでもないけどね。それに、春野さんも来てるじゃないですか」
夢華はその言葉を聞いて、胸が少し痛んだ。でも、その痛みを感じた瞬間、何となく堀川くんが「自分がいても嫌になってない」と思って安心した。私は堀川くんがいるから…という言葉は飲み込んだ。
(この距離感が心地いい)
その日は何となく、図書室での時間が長くなってしまった。
午後の授業が終わり、誰もいない図書室で夢華は本を手に取った。堀川くんが机に向かっているのを横目に見ながら。
「ねぇ、堀川くん」
春香が言うと、堀川くんは少し驚いたように顔を上げた。
「何です?」
「最近、なんか無理してるように見えるんだけど……大丈夫?」
その問いに、堀川くんは少し戸惑っていた。彼はいつも冷静で、無表情のように見えるけれど、夢華がこうやって気にかけてくれると、どこか表情豊かになる気がした。
「大丈夫ですよ。ただ……」
「ただ?」
彼は言い淀んだ。
「でも、気にすることじゃないですよ」
「気にしてるわけじゃないけど……」
その後、しばらく無言が続いた。夢華は堀川くんが何を思っているのか、少し気になった。
「堀川くん、私、最近思うんだけど」
夢華は、はっきりと言葉にした。
「何?」
「何かあったら、ちゃんと言ってね」
彼は不思議そうに首をかしげた。
「僕、本当に言いたいことないですけど」
「うーん、でも……堀川くん、たまにさ、周りのこと気にしないでしょ? それ、私には羨ましいけど、逆に少しだけ心配になるんだよね」
彼は少しだけ目を見開き、少しだけ真剣に考えている様子だった。
「心配?」
「うん。だって……みんなのこと、気にしなくていいって言っても、みんなは堀川くんに頼ってるから」
「頼ってる?」
「うん。だって、堀川くんって、なんか特別でしょ。ほかの人と違うって、みんな言うもん」
堀川くんは驚いたように目を見開いた。
「そんなことは…ないですよ」
「そう言うのはわかってるけど……でも、堀川くんって、知らないうちに、周りを引っ張ってるよ」
「……引っ張ってる?」
「うん。そんな風に気づいてないかもしれないけど、堀川くんがいると、なんだかみんな落ち着くんだよね」
その言葉に、堀川くんは一瞬黙ったままだった。
「そうですか…」
そのあと、堀川くんはふっと笑って言った。
「でも、それって多分春野さんのおかげですよ」
春香はその言葉に、少し驚いて目を見開いた。
「え?」
「だって、春野さんが頑張ってクラスの人と僕をつなげてくれましたし……。僕も春野さんといると落ち着くので」
その言葉に、胸がじわっと熱くなった。
でも、夢華は自分の感情を隠すように、そっと微笑んだ。
「そっか……ありがと」
そして、そのまま静かな時間が流れた。
(堀川くんも、私がそばにいると、安心するんだ)
それだけでも、夢華は幸せだった。
でも、彼の中で本当にどんな気持ちが芽生えているのか、夢華はまだわからなかった。