第二話:誰かの輪の中で
「ねぇ、堀川くん。明日、図書室じゃなくて、昼ごはん一緒に教室で食べない?」
放課後、貸出リストのチェックを終えた私がそう声をかけると、堀川くんはページを閉じたまま、少し考えるように黙った。
「……昼休みは、静かに過ごしたいです」
「そっか……やっぱり無理?」
私が肩を落としかけたそのとき。
「……別に、春野さんはうるさくないし、いいよ。ただ、教室かぁ…」
その一言に、思わず顔が上がった。
「えっ、ほんとに?」
「……あんまり、でかい声で言わないで」
「うん、わかった」
思わずにやけるのを必死で抑えながら頷く。ふと横を見ると、堀川くんが口元を少しだけほぐしていた。笑った……のかもしれない。
翌日の昼休み。
いつもは図書室にいる彼が、教室でお弁当を開いているだけで、数人の視線が集まっていた。でも、彼は特に気にしている様子もなく、黙々と箸を進めている。
「夢華、こっち来てー! あ、そっちの子、転校生だよね?」
クラスメイトの中野さんが、少し興味ありげに声をかけてきた。堀川くんの眉がピクリと動く。
私はそれに気づかないふりをして、笑顔で言った。
「うん、堀川樹くん。図書委員、一緒なの」
「へぇ~、静かそうだけど、優しそう」
「……」
特に反応しない堀川くんに中野さんが目を丸くすると、私はくすっと笑ってごまかした。
「そういうとこあるんだよ、堀川くん」
彼は箸を止めて、ちらりと私を見た。
「春野さんって…そういうところ昔と一緒ですね」
「ん、どこ?」
「距離の詰め方が、うまいっていうか……雑?」
「それ褒めてる?」
「もちろんです」
ときどき混じるそのフラットなタメ口が、ふとした瞬間に距離を一気に縮めてくる。
それがずるい。そんなの、気になってしまうに決まってる。
私は笑ってごまかしながらも、心の奥で何かが揺れるのを感じていた。
*
春の日々はゆっくりと進んでいく。
私は少しずつ、堀川くんが教室で浮かないように、話しかける人を増やしたり、彼のことを紹介したりした。でも、彼はときどきぽつりとこう言う。
「……別に、無理して繋げようとしなくていいですよ」
「無理じゃないよ。私は、そうしたいの」
「どうして?」
彼はまっすぐに聞いてくる。
私は、その問いにすぐには答えられなかった。
けれど、きっと――その理由は、彼のことが好きだからだ。
ただの再会じゃない。あのとき忘れられなかった記憶が、いま現実になって、私はもう目を逸らせないでいる。
*
その日、放課後の図書室は、外よりもずっと静かだった。
机の上に並んだ返却本を整理しながら、私はときどき、隣で本の背表紙をなぞる堀川くんの横顔を盗み見ていた。
細い指先、すっと通った鼻筋、うつむいたときのまつげの長さ――そんなところに目が行ってしまう自分に、最近ようやく気づいた。
(……あれ、もしかして私、)
その考えに触れたとたん、胸が少しだけ苦しくなった。
それでも何も言わずにいられるのは、きっと、彼のことを知っているから。
「恋愛とか、よく分からないし、興味ないです」
前に彼がぽつりと口にした言葉。あれは本気だった。誰にでも壁を作るわけじゃないけれど、心の奥は、ちゃんと鍵がかかっている。
「……春野さん」
不意に、彼が私を呼んだ。
「ん?」
「最近、クラスの人と僕をつなげてくれますよね」
「うん。みんな、いい子だよ」
「そう。……でも、無理してない?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「どうして、そう思うの?」
「春野さんいつも笑ってるけど……目の奥が疲れてる」
それを言われて、私は何も返せなくなった。
堀川くんの観察眼は鋭い。人と関わらないぶんだけ、細かいところをよく見ている。
「私ね、堀川くんには、ここにいてほしいの」
「……ここって、教室?」
「うん。みんなの輪の中。ひとりきりじゃなくて」
しばらく黙っていた堀川くんが、小さな声で言った。
「……そうですか。僕はどちらでも」
「ありがとう。……堀川くんのといると、なんかね楽なの」
それは、今の私にできる精一杯の気持ちだった。実際、言葉を選ぶ必要が無いから、正直とても楽だった。彼への好意はまた別のものなんだと、自分に言い聞かせてもいた。
彼は何も言わず、本棚に本を戻しながら、小さくつぶやいた。
「……僕も。神尾といるときは、楽です」
その言葉に、心が震えた。
でも、それは“楽しい”とは違う。“好き”とも違う。“特別”でさえない、ただの安心。
(それでも、嬉しい)
その日の帰り道、私は歩きながら考えていた。
彼にとって、私は「楽な相手」。たぶん、その程度。
けど私は――たぶん、恋をしている。
胸が苦しくて、でも温かい。伝えたくて、でも怖い。
この気持ちを言葉にするには、私はまだ、勇気が足りない。
だからきっと、まだ言わない。
言った瞬間、何かが壊れてしまいそうだから。
*
五月の終わり、文化祭の準備が始まった。
クラスでは喫茶店に決まり、係決めや出し物の企画で賑やかな日々が続いていた。
「春野さーん、ちょっとこっち手伝ってー!」
「はいはーい!」
夢華は、いつものように明るく笑って、クラスの輪の中にいた。でも、時々気づく。話しかけながらも、目線はどこかを探している。
――窓際。静かに本を読んでいる、堀川樹の姿。
「文化祭、楽しみじゃないの?」
放課後、いつもの図書室でそう尋ねても、彼はページをめくる手を止めなかった。
「……楽しそうとは思う。けど騒がしいのはあまり好きじゃないので」
「そっか。でも、クラスの出し物には……」
「出ますよ。きちんと仕事はするから」
その言い方に、どこか冷たさを感じて、私はちょっとだけ傷ついた。
「夢華は、文化祭好き?」
「うん。好き……かな。何かを一緒にやるって、特別な感じがして」
「そうなんだ…」
彼はそれだけ言って、また本に視線を戻した。
私たちの間に、小さな沈黙が落ちた。
(わかってる、わかってた。樹くんは、人と何かを“共有する”ことに、そこまで重きを置いてないって)
でも、それでも――夢華は彼と、同じ時間を感じたかった。
*
数日後、クラスで文化祭の準備をしていたときのことだった。
「堀川くんって、あんま来ないよね、準備」
「人手足りないんだから、もうちょっとちゃんとやってほしいよね~」
それは単なる軽口だった。でも、夢華には刺さった。
「……そういう言い方、やめようよ。彼なりにちゃんとやってるし」
「え? なんで夢華が怒るの?」
「別に怒ってない。ただ……」
そこに本人はいなかったけど、言葉の空気は、たしかに堀川くんを遠ざけていた。
その日、夢華は堀川くんに声をかけることをためらった。
でも、放課後、図書室に向かった。少しでも、彼の顔が見たかったのだ。
「……どうしたの、春野さん」
彼は、彼女の顔を見るなり言った。
「なんか……疲れてます?」
春香は首を横に振った。
「堀川くん、文化祭……出たくないなら、無理しなくていいよ」
「……なんですか、それ」
「なんか、クラスで言われてたの。別に、私は何も思ってないけど……」
「言われてたって、悪口?」
「いや、そういうんじゃなくて……ただ、心配で」
すると、堀川くんはいつになく真っ直ぐに夢華を見た。
「……僕は別に、嫌ってわけじゃないですよ。自分なりには楽しもうとしてるし、仕事もしているつもり。それに、春野さんが頑張ってるの見て、一緒にやれば楽しそうだなとも思ってます」
春香の心臓が、跳ねた。
彼は気づいていない。自分がいま、どれだけ特別なことを言っているか。
でも、それでいい。
私は、今のこの距離で、彼のそばにいたい。
恋を伝えなくても、傍にいたいって思うのは、たぶん初めてだった。