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第一話:始まりの春風

暖かな春の日、私は図書室でうたたねをしていた。風に揺れるカーテンの影が、陽の光をやわらかく遮っていた。ページを開いたままの文庫本の下で、私は浅い夢を見ていた。


夢に出てきたのは、五歳のときに出会った、ある女の子。大きな瞳でこちらをじっと見て、思ったことをそのまま言葉にする、そんな子だった。

「君は、泣いてたの、涙の痕が残ってる」

最初に言われた言葉がそれだったから、きっと私は彼女のことがずっと忘れられないのだと思う。

周りの子たちとはどこか違う空気をまとっていた。目立たないけれど、気がつくと視界のどこかにいる。誰かのあとをついて歩くことはなく、自分の足で、自分の速度で歩く子。


でもその子は、春が終わる前にいなくなった。家の事情で引っ越したらしいと後で聞いた。

それから十年以上が経った今も、なぜか彼女の名前だけははっきりと覚えている。


「……堀川樹(ほりかわいつき)


名前を口にした瞬間、目が覚めた。


遠くで昼休みの終了五分前を知らせるチャイムが鳴っていた。図書室の静けさは変わらない。ただ、夢と現実の境目が曖昧で、私はしばらくその名を頭の中で反芻していた。


授業の始まる直前、私は先生に声をかけられた。

「新しく転校してきた生徒がいるから、明日、図書委員の仕事を教えてあげて欲しいの。頼めるかしら?」

教師の言葉に、私は思わず聞き返した。

「転校生が、図書委員……?」

「ええ、希望者なの。堀川くん。今日から同じクラスになるわよ」

一瞬、頭が真っ白になった。


堀川……くん?


家に帰っても先生の言葉が頭に残っている。一つ気になるのは…先生の言葉。くん…くん、確かにそういった。先生は生徒を男女問わず“君”と呼ぶタイプではない。では、やはり違う人なのか。

まさか、と思いながらその日は昔の彼女の思い出振り返りながら眠りについた。



次の日、私は急いで教室へと向かった。クラスの扉を開けた瞬間、なんとなく教室の空気がいつもと違うことに気づいた。みんなの視線が一方向を向いている。

窓際の一番後ろの席。

その場所に、新しい生徒が座っていた。


細身で、肌が透けそうなほど白い。長めの髪が肩までかかっていて、まるで風に揺れる柳のように儚い雰囲気を纏っていた。どこか中性的な、いや、はっきり言えば「きれいな顔」をしていた。その横顔に見覚えがある気がして、私は立ち止まった。


「……あ」

彼がゆっくりこちらを見た。ぱちりとまばたきをして、少し首をかしげる。

「あの……もしかして、春野夢華(はるのゆめか)…さんですか?」

その名前を呼ぶ声に、私はなぜか、心臓が跳ねるのを感じた。


……ああ、やっぱり。


記憶の奥にしまわれていた面影が、春の光のなかで形を取り戻していく。あの夢の中にいた、まっすぐにものを言う子ども――いや、女の子だと思っていたその人が、いま目の前にいて、男の子だった。細い首に見える喉仏が、アンバランスにも感じられるほどに、彼はやはり中性的な見た目をしている。


「……久しぶり、堀川くん」


その日の放課後。私は、図書委員としての引き継ぎをするために、図書室へと向かった。西日が射し込む静かな空間には、すでに誰かの気配があった。


「……あ、春野さん」

カーテンの陰から、彼が本を抱えて現れた。制服のネクタイが少しゆがんでいるのも、髪の一部が寝ぐせのように跳ねているのも、どこか彼らしくて、私は思わず笑ってしまった。


「どうしました…?」

「ううん、堀川くん寝てたでしょう。崩れてるよ」


彼は指さされた制服を見下ろして照れくさそうに視線を逸らした。

慌てて直す彼を横目に、私はいそいそと図書委員の仕事についての説明資料を広げる。


ずっと忘れられなかったのは、きっと、あの頃の彼の声のせいかもしれない。率直過ぎる言葉が嫌悪感も感じさせずに柔らかく届いてくる。この丁寧で安心できる声。誰よりも正直で、まっすぐに見つめてくれたのは、確かに彼なのだ。


春の風が窓から吹き込み、彼の髪がそっと揺れた。

「春野さん、またよろしく」

ふわりと笑った彼の、あどけなさに圧倒された。何より敬語ではないその言葉に、私は何も言えなくなって、ただ小さくうなずいた。



図書室での引き継ぎは、ほとんどが形式的なものだった。返却日管理のノート、貸出カード、図書だよりのフォーマット。


私が説明をしている間、堀川くんは黙ってうなずきながら、必要なところに小さくメモを取っていた。その手つきは丁寧で、少しだけ緊張しているようにも見えた。

「ここまでは、大丈夫そう?」

「はい。春野さんの説明が分かりやすいので」

「そんな…。なんか堀川くん、口調がかたくなってない?」

「そうですか?…僕、基本的に敬語なんですよね」


さらっと、でも確実に距離を置くようなその口ぶりに、私は少しだけ息をのんだ。

彼は覚えている――たぶん、私とのことも、昔の記憶も。けれど、今の彼にとって、私は“初対面”に近い存在なのかもしれない。

「……そっか」

私は返事にならない言葉を返して、貸出リストのページを閉じた。


そのあと、少し沈黙が流れた。窓の外から、グラウンドでサッカー部が走る声が遠くに聞こえる。春の午後、空気はやわらかいのに、私たちの間にはうっすらと線が引かれているようだった。

「堀川くんって、本、好きなんだね」

私は話題を変えるように聞いた。

「……はい。静かな場所のほうが落ち着くので。読むのも、考えるのも」

「考える?」

「人と話すより、自分で考えていた方が……楽ですから」


ああ、やっぱり。彼は変わっていない。

人と群れることを好まないのは昔からだったけれど、今はもっと静かな世界の中に自分を置いている気がした。

「……でも、私とは話してくれるんだね」


そう言うと、彼は一瞬だけ視線を上げて、私の顔を見た。

「昔話したことあるし…春野さんが図書委員でよかったと思ってますよ。やっぱり初対面よりは楽」

それは、私にとって少しだけ特別だという意味に聞こえた。いや、聞こえてしまった。たぶん、勝手に。

けれどその言葉に、胸があたたかくなるのを止められなかった。

「じゃあ、これからも時々、話してくれる?」

「……たぶん、はい」

堀川くんは、ほんの少しだけ笑った。

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