プロローグ
「ハルコちゃん、ワタシ今朝学校行く途中、リヒテンシュタイン人見たじょ」
十月も終わりに近づいたある日の朝。
神戸市内の山あいに佇む、県立楠ノ影高校一年一組の鈴江鈴恵は、登校してくるなり同じクラスの幼友達、安福遥子に嬉しそうに話しかけた。
「リヒテンシュタインの人ってどうして分かったの?」
遥子は不思議そうに質問する。
「ヨーロッパ人の家族連れっぽいなと思ったけど、日本語で布引の滝への行き方尋ねられたけん、教えたついでにどこから来たんか訊いてみたんじょ。神戸に観光しに来たんじゃって」
「神戸って、本当にいろんな国から観光客や留学・ビジネス目的の人が来るよな。住んでる外国人も多いし」
すぐ近くにいた同じクラスの男子、葛山平祐も話に加わった。
「異国情緒あふれる国際都市だもんね」
遥子は微笑み顔で呟く。
「ほなけどどこにあるんか分からんようなマイナーな国の人が見れるなんて、国際都市神戸といえどもそうそうないけんラッキーな気分じょ」
鈴恵はにっこり笑顔でこう伝えて自分の席へ。一五〇センチに満たない背丈、丸っこいお顔、くりくりした瞳、広めのおでこ、ほんのり茶色なおかっぱ頭が、まだ小学五、六年生のようなあどけなさを感じさせるそんな彼女に、
「鈴恵ちゃん、マイナーなんて言ったらリヒテンシュタインの人達に失礼だよ」
遥子は軽く苦笑いしながら注意した。背丈は一六〇センチちょっと。面長ぱっちり垂れ目、細長八の字眉がチャームポイント。ほんのり栗色な髪を小さく巻いて、レモン色のシュシュで二つ結びにしている、おっとりのんびりとした雰囲気の子だ。
楠ノ影高校には、蛭田という名のけっこう変わったキャラの物理教師もいる。
禿げかけのすだれ頭、黒縁眼鏡、カイゼル髭がトレードマークで、季節問わずいつもアロハシャツを身に纏い、袴を着付け、足袋と下駄を履いている。
年齢は四〇代後半。背丈は一六五センチほどで、やや小太り。とりわけ珍しくもない体格だが、奇妙な組み合わせファッションが常な彼が受け持つクラスでテストを返却するさいは、あくどいことをしてくる。
この日の六時限目、一年一組の物理の授業で二学期中間テストの答案が返却されている最中のことである。
「二一点っ! おまえさん、これで四連続赤点やで。しっかりしーやー。明日の放課後、再試験っ!」
蛭田先生は鈴恵の点数を大声で伝えてから手渡したのだ。
「またみんなの前でワタシの点数ばらしたぁ。蛭田ぁー、恥ずかしいけんいい加減やめて欲しいじょっ!」
鈴恵は彼の行為に対し、ふくれっ面で抗議するも、
「赤点取った者の点数ばらすんは、わしの新人教師時代からの伝統やさかいそれは出来へんわー。神戸市民のくせして阿波弁話す、すずえすずえよ、怒った顔も郭公のようで可愛いで。ハハハッ」
蛭田先生は高笑いして、全く悪びれていない様子だった。
※
帰りのSHRも終わって解散後、
「蛭田、プライバシー侵害しやがって本当に腹立つじょ。顔を見るのも嫌じゃ」
教室をあとにした鈴恵はむすーっとした顔つきで、ぶつぶつ不満を呟きながら遥子と平祐といっしょに廊下を歩き進む。
「蛭田先生、授業は面白くて、格好もユニークなんだけど、傍若無人だよね」
遥子も彼に少しうんざりしているようだ。
「ワタシもそう思うじょ。等加速度運動の説明や言うて教室でラジコンカー暴走させたり、斜方投射をビジュアルで見せるとか言うて生徒の筆箱や鞄を放り投げたり。テストの解答例も面倒くさいからって配布してくれんけん、ワタシいっつも再試験対策に困るんよ」
「生徒からの質問にも全然答えてくれないよね」
「うん、うん。決まって返事は自分で考えや~、やけんね。あいつ、よく今まで教職クビにならず勤まっとるなと不思議に思うじょ」
「蛭田って、教師になって以来二〇年以上楠影から異動したことがないらしいな」
平祐は呟いた。
「蛭田先生、京大卒だから楠影で重宝されてるのかも」
遥子は微笑み顔で推測する。
「あいつ本当に京大卒なんかな? 最初の授業の時自慢しまくっとったけど、ワタシは信じられんじょ。蛭田の授業はうるさくて鬱陶しいけん、来年はよその高校へ飛ばされて欲しいわー」
ため息交じりで願望を述べた鈴恵に、
「鈴恵ちゃん、そんなこと言っちゃダメだよ。蛭田先生は確かに私も少し嫌いだけど、今でも宇宙人の存在を信じてて、日々望遠鏡とかで探し続けてるみたいだし、中年になっても夢見る子どもの心を持ち続ける素晴らしい先生じゃない」
遥子はにこにこしながらこう伝えてあげた。
「それって単なる精神年齢の低いおっさんなだけやと思うんじゃけど……」
「俺もそう思う。ガキ大将がそのままおっさんになったようなものだろ。部活中もたまに割り込んで来て小学生みたいなイタズラしてくるし」
鈴恵と平祐は軽く苦笑いしてしまった。
この三人はまもなく校舎から出ると、一緒に部活動拠点の中庭へと向かって行く。三人とも園芸部に所属しているのだ。
平祐は入学当初、部活に入るつもりは無かったのだが、遥子によって無理やり入らされた形となった。遥子にとって平祐は、鈴恵よりもさらに古い幼馴染。そのためか遥子は平祐が高校生活を無味乾燥に過ごしてしまうのではないかと心配していたのだ。
ただそれが、遥子が平祐を園芸部に強制入部させた最たる理由ではなかった。
遥子と鈴恵が高校入学式前から入部しようと決めていた園芸部は、四月当初部員数0で廃部の危機にあった。存続のためには部員を三人以上集めなければならず、平祐も入部させたことによって廃部を免れたわけである。園芸部員は今もこの三人だけだ。