ホワイトブロス作戦1
香川県高松市。朝10時28分。
繁華街の裏通りに、目立たぬ黒のセダンが静かに停車する。
運転席から出てきた男は、黒のスーツに身を包み、
整えすぎたネイビーストライプのネクタイを指先で軽くなぞった。
FLOWA──UISF所属、うどん専門諜報員。
今回の任務は単独。
対象は、財閥が高松市中心部に設立した高級うどん店──『白兄』。
この店は完全予約制。
顧客の身元すら不明瞭なVIP対応専門で、一般人の立ち入りは一切許されていない。
料理は“うどん”という名を冠しているものの、価格は一杯、時価。
出される器には金箔、トリュフ、キャビア。
うどんというより、もはや美術品に近い。
しかし、この店の真価は「出汁」ではない。
──通信だ。
UISFの情報解析班が得た内部データによると、
この店舗は“うどんの配膳”を装った暗号通信網の中継拠点として機能しているという。
FLOWAは歩きながら、左耳のインイヤー通信を一度タップする。
「JP-UDN-2025-α013、FLOWA。
対象施設前に到着、カバーストーリー開始。
本件、単独任務に移行します」
通信の応答はない。
それでいい。今回は、誰にもカバーされない“孤独な任務”だ。
店舗の前に立つ。
見上げた外観は、漆黒の壁に金箔の店名が無言で威圧を放っていた。
『白兄』──ホワイトブロス。
控えめな和装の女性スタッフが出てきて、
笑顔で名乗った。
「ご予約の……フクラマ先生でいらっしゃいますか?」
「ええ。高級うどん評論家の」
FLOWAは頷きながら、“フクラマ・アキオ”という偽名で応対を始める。
にこやかに、それでいて一切の隙を見せず、
目の端で出入口のセキュリティカメラ、上がり框の足圧センサー、
そして玄関横の奇妙な置物の下部に設置されたNFCリーダーを確認する。
すでに、“香り”が違っていた。
「それでは、どうぞ……。
本日は、“金箔トリュフかけ 讃岐うどん”でございます」
FLOWAは静かに笑った。
「ええ。楽しみにしていました──」
だが、評価するのは味ではない。
──このうどんが、どこまで“情報を運んでいるか”だ。
FLOWAは、箸先を止めた。
口に広がるのは、トリュフの香りと、金箔の口溶け……
そしてその奥、明らかに“自然の味ではない”微細な刺激。
(……この成分は)
喉を通る瞬間、わずかに脳が“浮く”ような感覚。
多幸感ではない──それに限りなく近い、神経伝達促進物質。
「……幸福感を“後押し”するように、計算された味構成。
味覚と脳内報酬系の間をそっと撫でる、奇妙に優しい刺激……」
美味い。
だがこれは単なる贅沢ではない。
“また食べたくなる”ように作られている──それも、理屈で。
FLOWAは器の下に添えられた漆塗りの長角盆に視線を落とす。
(……この盆、見覚えがある。旧型のメモリプレート収納式……)
材質はただの木製ではない。
内部にセラミック被膜を施した情報コアが埋め込まれており、
特定の端末で、無線データの書き込みと読込が可能になっている。
──そして今、その端末は厨房にある。
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FLOWAは、うどんを食べる手を自然な動作で止めると、
左手をそっと膝の上に置いた。
左手の小指には、まるで乾麺をぐるりと巻いたような細い指輪。
UISF製短距離通信デバイス『Udon-Ring Ver.1.5』──
意匠はうどん。だが中身は、5秒間の限定接触通信が可能な極小回路。
指輪が盆の角にかすかに触れる──ほんの一瞬。
「……ッ」
微かに、熱を帯びた感触が小指の付け根に伝わる。
通信完了のサイン。
短距離接触を通じて、盆に仕込まれたセラミックチップから圧縮データの抜き取りに成功した。
最初の一口以降、手をつけなかった。
FLOWAは立ち上がると、
テーブルを拭こうと近づいてきた配膳係の女性に、
ほんの一言だけ、声をかけた。
「……ありがとう。美味しかったよ」
表情は変えず、声に抑揚もない。
あまりにも唐突なその言葉に、
女性は一瞬、呆けたような顔で動きを止めた。
FLOWAはすでに踵を返し、足音も立てずに退店していた。
高松駅前の地下駐車場。
車に戻ったFLOWAは、ハンドルを握る前に一呼吸。
「……尾行、無し。監視カメラは……死角域へ進入」
ナビゲーションの仮想画面に数秒だけ暗号コードを表示し、
地下駐車場の“極秘立体収納システム”を起動させる。
車は無人のエリアへ静かに走り出し、
駅前地下施設の最奥──“人目に触れない角の駐車スペース”へと収まる。
ガコン……ガコン……
収納用の昇降ユニットが作動し、
FLOWAの乗ったセダンは、静かにエレベーター式の機構へと引き込まれていく。
無音の闇。
車体ごと、都市の地下へと沈んでいくその様は、
まるで任務の痕跡ごと地中に埋めるような動きだった。
誰しも一度は考えたことがあるはずなんです。
普段何気なく使ってる施設の裏側には、訳のわからんロマン設備が詰まってるんじゃないかって。
非常口の先に謎のエレベーターがあったり、駅の壁が回転して秘密通路になったり。
電車の窓の外に忍者が走ってても「あ〜はいはい」くらいの気持ちで受け入れられる脳内フィルタ、
あれ、たぶん標準装備ですよね。(早口)